[旧談話室]もよろしこ! |
■--「I am...」について >>>Robin -- 2002/01/06-23:05..No.[999] |
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「I am...」の曲を何度と無く聴いてみて、浜崎さんが何を伝え たいのかが、ようやく自分なりに理解できたので、その考えをジャ ケットの流れに沿って書きます。 まず、「鳩」は「探しつづけていたもの」で、「荒野(砂漠)」 は「精神状態」、そして「葉っぱ(つる)」は「自分の足枷 (縛り付けるもの)」、「太陽」は「時の流れ」だと思います。 1曲目には、浜崎さんがいません。 これは、彼女自身も客観的にその状況を捉えているのかなと思い ました。(浜崎さんは歌い手であり聞き手の一人でもあると) 2曲目以降 答えがそこにあるのに気づかないで探し続けている。 時には、人や自分を傷つけて。 それでも見つからずに諦めかけた時、 答えを見つけたんだけど、遠いところに行ってしまって、自分はそれを追うことができずにいた。 その答えに気づきはじめ、 絶望を感じた。 それでもまだ、答えがそこにあることに気づかないフリをして。 ようやくその現実を受け入れることができ、自分の足枷からも解放された。 というような感じではないかと理解しました。 とある雑誌で、「I am...」の「...」の部分は、アルバムを聞 いた人それぞれにつけてもらいたいと語っていたそうですが、 私には、まだその答えが見つかっていません。 みなさんなら何とつけますか? |
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>>> ミント -- 2002/01/07-17:13..No.[1010] | |||
I am...の歌詞で、「私は此処に 此処に 此処にいるの」と言っているのに、 あゆがそのページに写ってないのは、「私を見つけて…」というメッセージだと思いました。 鳩は、あゆを救ってくれるもの。 だから、あゆが写ってないページで、鳩だけが写っているのは、 鳩があゆの事を探している?ような感じだと思いました。 | |||
>>> みっち -[URL] -- 2002/01/07-21:42..No.[1013] | |||
>ミント 年末のクリスマスで、あゆ(ガクトと一緒に出ていた番組)が「名探偵コナン」のコナンが好きだって言っていたけど、あれって今度のアルバム?例えば「あの鳩」とかと関係あるのかな?と思いました。 もし、アルバムで対象としているような人がいるんだったら、コナンみたい感じの人なんでしょうか? とは言ってもあれはフィクション、高校生が子供になっているという設定を考えるとやっぱり全然関係ないのかな<(・o・)>? | |||
>>> タイタン -[URL] -- 2002/01/09-01:07..No.[1023] | |||
ジャケットの流れを見て感じたことですが、 現在から過去に向かって流れているような感じがしました。 鳩があゆの希望(やりたい事)を表しているように思えます。 時間の流れが逆なので、後ろの表紙から見ていきますとあゆのロゴ 「A」があります。これはシングル「A」を出した時の絶望の状態です。 その次ぎページははまだ絶望の状態だが、希望(鳩)が見えてきた。 (これは2ndアルバムの頃) そこから3ページほどはまだ悩んでいる状況です。(taskinludeまで) (3部作 1幕、2幕の頃) そこから2ページほどは希望に向かって踏み出そうとしたが、 鳩が逃げていまった。(evoの頃か?) また落ち込んだ。 (endless sorrowの頃か?) そしてまた立ち直って新しいあゆを見つけた。(曲もUNITE!) 表紙は新生あゆでこれから希望に向かって進もうとしている。 (さしずめアダムとイブのイブをイメージか?) 写真を見て感じたことはこんなところです。 | |||
>>> 美音 -- 2002/01/09-19:37..No.[1024] | |||
答えを探して探し続けた。でも答えなんかなかった。でるハズもない答えをずっと探していた。私はこんなふうに解釈しています。 答えを探し続けてやっと見つかった。それとはまたちがうのかなぁって思います。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/10-18:15..No.[1037] | |||
>ミントさん ミントさんの書かれた文書を見て、もう一度考えてみました。 「鳩」=「救ってくれるもの」というより、浜崎さんが「鳩」に 何かを伝えようと、逆に救おうとしているのかなとも思いました。 「鳩」はなかなか分かってくれなかったり逃げ出したりで。 でも最終的には分かり合うことができたんだなと思ったりしました。 >タイタンさん シングル「A」を出した時に何故浜崎さんは絶望を感じたのでしょう? 私はその頃の話がよく分からないのでもしよければ、教えて頂けたら なと思います。 >美音さん 浜崎さんは、答えを見つけたんだけどその時には、もうそれが 答えじゃなくなっていたのかなと。 それを遠いところに行ってしまったと表現しているのかと思い ました。 それでも答えがどこかにあるんじゃないかと思う気持ちと、無い のかもしれないという気持ちの狭間で、最終的に浜崎さんなりの 結論が出たのかと思いました。 答え自体が見つかった訳ではないと私も思います。 | |||
>>> ズミ -- 2002/01/10-20:48..No.[1039] | |||
関係ないかもしれないけど、鳩って平和の象徴って良く言われてますよね? あゆはあゆなりの幸せ(平和)を探してるのかな〜と自分は思いました。 俺にはなんかむつかしくてこんな事しか感じ取れなかったです。。。 自分だったらI am...の...の部分は何もいれられません。 まだ、自分と言うものを模索中な感じなので。 はっきりとそこにあてはめて良い言葉も見当たらないし。 | |||
>>> タイタン -[URL] -- 2002/01/11-01:02..No.[1042] | |||
> Robin さん >シングル「A」を出した時に何故浜崎さんは絶望を感じたのでしょう? 1幕のビデオをお持ちでしたら、アンコールのMCであゆが語っている 事がそれだと思っています。 その他 恋人達の指輪というサイトで研究室という所からバック ナンバーの1に入ってもらい ■『appears』と浜崎あゆみの苦しみ(1) (2000.2.18 / 5.1改訂) というappearsの詞の解説で 10回目の電話でふたり・・・・ 辺りの解説を見てください。 こちら あと I am...の...の部分ですが、A Song for ××のXXと同じで ないでしょうか。発売日も同じ1月1日ですし。 各人の思いにより埋めてくださいということかな? | |||
>>> Robin -- 2002/01/14-15:32..No.[1104] | |||
>タイタンさん 第一幕のビデオを持っていないので、恋人達の指輪を見ました。 そこには、遠くに離れたと書かれていたのですが、まず何故遠くに 離れたのか?と遠くに離れたという意味がよく分かりませんでした。 >ズミさん >まだ、自分と言うものを模索中な感じなので。 浜崎さんが探している「答え」もそう言うことなのかもしれませんね。 旅している同士ってことも。 | |||
>>> タイタン -[URL] -- 2002/01/15-00:27..No.[1118] | |||
> Robin さん 同じ恋人達の指輪の ■ファンへのお別れのメッセージ (2000.3.12) の方が分かりやすかったかも知れませんでした。 ここからの抜粋 人々の「浜崎あゆみ」のイメージと実際の歌手としての自分の姿との間のギャップが広がっていって、そのギャップに彼女は苦しんでいた。その思いを『appears』に描いたのだ。 アルバムの中の1曲に「敗者でいたいんだ」というフレーズがあります。 あゆの97年までの人生は「敗者」であったものが「勝者」に変わって しまった。あゆの中では「敗者」が生きつづけていたのでそのギャップが 大きくなってしまったという事だと思っています。 (このギャップはTrustが売れたことから始まっています。) この他MCではSEASONSの歌詞にある 繰り返していく毎日に少し 物足りなさを感じながら に似たことも言っていました。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/15-02:06..No.[1120] | |||
>タイタンさん なるほど、要するにアイドル的なパブリックイメージが浸透して、 そのことで苦しんでいたということでしょうか。 「敗者でいたいんだ」というフレーズですが、私には勝ちこそが 全てではなくて、過程が重要なのだと語っているように思います。 例え負けたとしてもその過程の中には、きっと勝ち負けとは違った 別のモノが得られるはずだと。 それが「上手に勝つこと なんてできなくてもいい その時は僕と ウマイこと負けてみよう」 ってことなんじゃないかって思ってます。 他のスレッドで、どなたかが「敗者でいい」というのは「勝者に しか言えないこと」というようなことを語られているのを拝見し ました。 そのことについて批判するつもりはありませんが、やはり「勝者」 というのが浜崎さんのイメージなんだろうなと思いました。 つまり「勝者」と言うのは、浜崎さん自身がということではなくて、 ファンの人が浜崎さんを「勝者」としてイメージしているということ なのではないでしょうか。 だから、「こんなものが欲しい訳じゃないの」と歌っているのでは ないかと私は思いました。 | |||
>>> obscure -- 2002/01/15-14:50..No.[1121] | |||
「勝者」と「敗者」の二分法、「敗者でいたい」という選択は、昔から、ayuの歌の世界にあったと思います。 好きな曲のひとつですが、「monochrome」の中に、 なりたかったものなら/お姫さまなんかじゃない 欲しがってたものなら/ガラスの靴なんかじゃない というフレーズがあります。「LOVEppears」に収録された曲ですが、まさに新人歌手からアイドル歌手の頂点へとブレイク寸前の彼女の心の動きを表現したものだと思います。「お姫さま」がアイドル歌手としての成功なら、「no more words」の「勝者」とは日本一の売り上げを誇る最強のJ-POPシンガーとしての現在の成功した姿でしょう。もちろん彼女は二分法のどちらか一方しか選択できないといった単純な考えではないと思います。彼女はそうした二分法の狭間で悩む心を持ち続けている、ということではないでしょうか(昔の詞にはそうしたゆれ動く心を素直に表現したものが多かったですね)。 昨年、一昨年の彼女の活動は、明らかに「お姫さま」から「勝者」へと駆け抜けた軌跡以外の何ものでもありません。しかし、2年連続売り上げ200億円を超え、自他共に認める最強のJ-POPシンガー・ソングライターの地位を獲得したいまでも、「敗者でいたい」という選択肢を持ち続けること。ぼくらがayuの歌に心を引かれる理由のひとつではないでしょうか。それは、またayuの結婚・引退説が執拗にささやかれる震源地にもなっていると思います。 最後に「「I am...」について――。ぼくはこの曲は前作の冒頭に収録された「Duty」と同じ位置づけの曲と思っています。この曲は、「vogue」「Far away」「SESONS」の三部作でアイドル歌手からアーティストへと駆け上がった彼女の、聞き手への挑戦的メッセージですね。 君なら見つけてくれるだろう/君なら見つけてくれると/信じて賭けてみるよ というフレーズは、「I am...」の この瞳見つめて 私の名前を呼んでみてほしいの/この手握って 大丈夫だって頷いて欲しいの と正確に対応していると思います。どちらも、アイドル的癒しを求める聞き手への強烈な平手打ち一発といわけです。もちろん、私はお姫さま歌手なんかじゃないからね、心して聴いてくれないとずっと遠いところへいっちゃうよ、という挑発的メッセージを込めた「Duty」から、さらに先へ、まだ誰も足を踏み入れたことのない荒野を目指そうとするayuの心情をストレートに表現した「I am...」へ、そのメッセージの中身は大きく変わっています。ジャケットのモチーフは、そんな新しい荒野へ一歩を踏み出そうとしているayuの心象風景を具体化したものだと思うのですが……。 | |||
>>> ayubaka -- 2002/01/16-22:12..No.[1132] | |||
これまであゆの詞は、自分の目に映った世界を客観的に表現したものが多く、その視点に僕らは共感し、あゆの目に映った世界を通じてあゆのアイデンティティーを帰納的に確認できた。芸能界のケモノ道を走ってきて、頂点と思われる場所に辿り着いた今、そこが天国であろうがおぞましい場所であろうが、そこでいまあゆになにが見えているのか、ありのままを教えてほしい。大げさにいえば時代の体現者として見たことをみんなに報告する使命があゆにはありはしないか。今回のアルバムでその辺の所は、「こんなものが欲しい訳じゃないの」とか「敗者でいい」とか謎解きみたいなメッセージで目隠しされていて、結局「知らしむべからず」という印象を受けました。なぜあゆは堂々と辿り着いた場所の素晴らしさなり、滑稽さなりを語らないのだろう。あゆの口から資本主義的疎外の産物みたいな敗者礼賛論が飛び出してくるのがどうも解せません。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/17-02:27..No.[1135] | |||
「敗者でいたい」というのは、守るべきものさえ守れるのであれば、 何かを犠牲にしてもしょうがないという彼女の不器用な考えを敗者と 呼ぶのであれば、それは仕方がないと。その言葉を甘んじて受け入れ ると語っているんじゃないでしょうか? 「こんな私の生き(急ぐ)様は滑稽ですか?笑ってよ」と同じ意味と 思います。 では、勝者とは何を意味するのかというと、何も犠牲にすることなく 生きていくという器用な生き方(お姫さまのような、キレイなマル) ではないでしょうか? アルバム「Duty」では、人を信じることが一種の賭けみたいなモノ、 今一つ人を信じきれなかったんだと思います。 でも、「I am」ではそれが賭けでも何でも無く純粋に信じる(人を 頼る)ことができるようになるところまで、辿りついたんじゃない かと。 アルバムで比較するのであれば、そういう違い(彼女の人間的な 成長)が覗えると思います。 ちなみに「A Song for XX」では、たった一人で生きていくと。 「LOVEppears」では、人との関係なんてそんなものだと。 って、いう風に理解してます。 >そこが天国であろうがおぞましい場所であろうが、そこでいまあゆ >になにが見えているのか、ありのままを教えてほしい 語っているんじゃないですか?彼女なりの言葉で。 「繰り返していく毎日に少し物足りなさ(疑問)を感じながら」、 「どうか離してこんなとこに行きたい訳じゃないの」と。 この「行きたい」が「生きたい」に聞こえるのは私だけカナ? 話しが逸れましたが、彼女が交わしたいと思うとっておきの言葉が、 それとは到底思えないですし、そんなことよりも聞きたいこと(感じ たいこと)が私にはあります。 でもそれは使命でも何でも無く、浜崎さんのやりたいようにすれば 良いことなのではないでしょうか? 浜崎さんが浜崎さんである限り、それは自ずと見えてくると思いま す。 私は、アーティストに押しつけはしません。 言うまでもないことですが、どこかでのMCのことやプライベート のことなども含めて。 そんなことなんてドウデモイイって思ってしまいます。 生きとし生けるもの達は、ここではないどこかに旅をする同士なん だってこと。 それだけは、これからも考えて行きたいと思います。 ジャケットの「荒野」も「ここではないどこか」を表現しているん じゃないかと思います。 それは、「天国」でも「地獄」でもなく「荒野」なんじゃないかと。 | |||
>>> ayubaka -- 2002/01/17-19:19..No.[1141] | |||
>Robin さん なるほど、いろいろな見方があるもんですね。いろいろな指摘、とっても興味深いです。僕の場合は提示された作品なりパフォーマンスが自分の感性にがつんとヒットするかどうかがアーティストを支持するかどうかの唯一の基準なので、自分の言語感覚がまず判断の基準となります。あゆを支持するのもその作品なりパフォーマンスに共感するからで、あゆを信じられるからではありません。それに作品は産み落とされた瞬間から作者とは独立した存在となるものと考えていて、いろいろなアルバムや発言などを総合的に聞きくらべてやっと正しい解釈に辿り着けるという経典解釈みたいな作品は一般世間とシンクロできなくなる、弟子や信者にしかついていけなくなる恐れがあります。でもそうはいってもアーティストの全体像をまず受け入れて、個々の作品にしかるべき肉付けや謎解きを自分でやっていく、あゆを素材に自分のあゆワールドを構築していく、そんな楽しみ方もきっとあるんだろうなあと思います。これからもいろいろ教えてください。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/19-01:50..No.[1161] | |||
浜崎さんの詞を全てノンフィクションとして捉えている人が多いな と思うことがよくあります。 そうすることで歌詞の意味が分からなくなったりするのかなと思っ たりします。 浜崎さんの詞の世界は、フィクションとノンフィクションが入り混 じった、いわば小説のようなモノだと私は捉えているので、そこか ら学ぶことがあったり、考えさせられたりします。 私は、そこから歌詞を解釈しています。 まず歌詞をココロのままに運んで。 時にそこが心地よかったり、たまらなくなったりしますが。 それと最近思うのが、浜崎さんの言動に一喜一憂する人は、浜崎さん 自身にシンクロしているからなのかなと。 私がそれをドウデモイイと思っているのは、浜崎さんの歌詞にシン クロしているからなのかなと思います。 それが良いとか悪いとかは問題じゃなくってね。 | |||
>>> hidew -- 2002/01/20-18:11..No.[1200] | |||
人間の右脳と左脳という切り口から「あゆの登り詰めた頂点の景色」「こんなものが欲しいワケじゃない」について考えてみます。 すごくおおざっぱに言ってしまうと、右脳は感情や無意識に関係する脳、左脳は機械的・能率的作業の脳と言われています。戦後の日本社会は、学校教育から企業活動まですべて左脳中心で生きることを我々に強いてきました。感情を殺したロボットのように、ひたすら働いたり勉強することが生きのこる術であり、仕方のないことなのだと暗黙の強制の中でみんな頑張ってきたわけですね。日本の社会や経済が上向きに成長してきた間は、目標を掲げて左脳的効率を追求する生き方もボロを出さずに済んでいましたが、成長が止まる予感が社会に満ちてきた頃から、左脳中心の生き方の歪みがあちこちに現れてきました。仕事人間とか勉強しかできないとか言われる人達は左脳によって支配されているようなもので、自分が嬉しいのか悲しいのかすらわからない、感情を無くしてしまったような状態になって、なんにも喜びを感じられない人間が社会にあふれてしまったわけです。 音楽や芸術はそういった非右脳的社会に対してずっと抵抗して叫び続けてきているわけですが、あゆ自身も幼少時から左脳的教育に拒絶反応を示していましたね。そうやって右脳的に生きてきた結果、女優浜崎あゆみは芸能界からおちこぼれてしまった(文字どおり敗者だったわけです)。再スタートを機に、彼女は「過去に対して復讐(RonJ誌での発言)」するために左脳的成功を目指した。セルフプロデュースですべてに完璧を望む所など、左脳的に徹底していると言えます。そして確かに彼女は成功し、左脳的頂点に登り詰めた。 ひたすら目標に向かって走り続ける左脳的生き方では、現実の頂点に達してみて、何の感情もおきないことに気付きます。なんたって左脳は自分が嬉しいのか悲しいのかもわからない、ただの効率ロボットですから。自分の感情(右脳)を置き去りにしてがんばって初めて到達できる頂点に達してみて、期待していた景色はいつもと何も変わらず、感じるのは寧ろ空しさだけだった、こういう経験は古今東西の芸術家や成功者達が(ビートルズとか)語っています。 その時に、ほんとうに自分が欲していたものは左脳的な成功(頂点)などではなく、右脳的な感動(魂の触れ合いであったり、永遠に変わらない絆であったり、自分を嘘偽り無く褒めてあげられる、誰も自分から奪うことのできない自分自身の大切な何かであったり)をこそ求めていることに気付くのだと思います(MやNEVER EVERなどで、彼女がそういった現実的成功でないものを欲していることが示されています)。だから、「I am...」の この瞳見つめて 私の名前を呼んでみてほしいの この手握って 大丈夫だって頷いて欲しいの は文字どおり彼女の求めているものなのではないでしょうか? こんなものが欲しいワケじゃない 「こんなもの」とは現実の頂点、数で数えられるような(売上げ200億とか20冠とかレコード大賞とか?)成功に代表される、彼女が手にしたものなんでしょうね。 じゃあ、レコ大の涙は何?!ってことになりますが、うーん、何なんでしょう?(^^;; 商品「浜崎あゆみ」を完璧に演じたかったのかな?2001年の最後の一日をレコ大、紅白、CDL、CDTVと左脳的完璧に締めくくることで商品「浜崎あゆみ」の頂点を徹底させておいて、(公式には)翌日発売の「I am...」で「こんなものが欲しいワケじゃないの」、「ほんとうに大切なモノ以外、全て捨ててしまえたらいいのに...」ていうメッセージを発したかった?てのはちょっとこじつけ過ぎか? | |||
>>> KUMI -- 2002/01/20-19:08..No.[1202] | |||
単純に考えて、「I am I」でしょう。 他には考えられない。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/20-23:58..No.[1211] | |||
浜崎さんには、大きな目的があってその目的の為には、多くの人 に歌を聞いてもらいたいという望みがあったんだと思います。 レコ大ってのは、その最大級の栄誉であり、望みがかなった証しだと。 あの涙が語るのは、そういう意味だと思います。 RonJ誌に掲載された時には、地位と名声を得るという意味ではもう 既に成功者であり、女優で失敗したことに対する復讐は果たせたん じゃないかと思いますが? 「過去に対する復讐」っていうのは、望みのために近道を通って その結果、目的へ遠回りしてしまったことに対する浜崎さん自身へ の復讐だと思います。 「こんなもの」というのは、おそらくこのアルバムのキーワードに なるモノだと思います。 この瞳見つめて 私の名前を呼んでみてほしいの この手握って 大丈夫だって頷いて欲しいの っていうのは、確かに「僕」が「君」に求めているんだと思います。 しかも「歩き続けられそうにない」とか「私がいちゃいけなかった」 とか、かなり切迫しているのがお分かりいただけると思います。 だから私は・・・。 だけど私は・・・。 | |||
>>> ayubaka -- 2002/01/21-18:41..No.[1222] | |||
Robinさんの叙情的アプローチはそれはそれで良いとして、どうしても僕らの知的欲求を満たさないのが「頂上の景色」問題ですね。あゆは自分や周りの関係者の努力もあり現在の地位を築いたと思いますが、それ以上にあゆや関係者も気づかないうちに、社会や時代が彼女を欲していた部分が大きいと思うんですよ。その意味で頂上は彼女のためにリザーブされた誰も見たことのない場所だけれど、決してプライベートな空間ではなくてパブリック・スペースだと思うのです。そこであゆ個人の求めていたものは何だったのかという内省の結果として「こんなものじゃない」とか「敗者でいい」とか言ってしまうのだろうけれど、それではあゆを求めて結果的に彼女を頂上まで押し上げた少年少女や若干の大人たちは、行き場を失ってしまう。I am … はあゆにとってはあゆが何者であるかという問いですが、僕らにとってはYou are …すなわち今の時代にあゆを支持する僕らはいったい何者なのかという問いでもあるわけです。まあここまで本当に超特急で駆け上がってきて、自分が勝者である不思議や敗者でない孤独などがあり、その一方で状況にいやに馴染んだ自分も発見したりして、気楽なファンの人たちとなかなか同じ心境にはなれないのも無理からぬこととは思いますが。 それから、これまでのあゆの多くの作品には題材としての自分と、その題材を冷静に見つめる観察者としての自分がいて、後者のメタ言語的視点で語られるシンプルな言葉によって比類のないリアリティーが表現されていたと思うわけです。今回のI am… においては、完全な一人称でかつ抽象的な言葉で「私」が語られすぎたきらいがあります。3D立体画面が古代エジプトの壁画になっちゃった。「頂上の景色」に関して言うと、社会的実存としての浜崎あゆみの現況こそが「頂上の景色」の中心であり、それを観察者たるあゆはどう見ているのか、その辺に最大の関心を寄せているわけです。 | |||
>>> みっち -[URL] -- 2002/01/22-23:27..No.[1238] | |||
>Robin 今の「時代」があゆの存在を求めていたとするならば、彼女はおそらく 新しい社会の「卵」だと思う。 4thアルバムで表現している君と約束した場所とかって表現をあゆの立場から想像すると、自分には「新しい社会」にしか思えません。 現実の社会情勢を見て、具体的に表現するならば、おそらく二つの意味があると思います。 一つは「癒し」的、宗教的な存在、もう一つは、おそらくインターネットの普及による「インターネット社会の創出」だろうと思います。 >僕らにとってはYou are …すなわち今の時代にあゆを支持する僕らは>いったい何者なのか この問いに積極的な意味を見出そうとするなら、後者の理由しかないんじゃないかなと思う<(・o・)>。 自分も、ここ一年間随分同じような事考えてきましたが、私はこういう結論にたどり着きました。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/22-23:48..No.[1240] | |||
>それから、これまでのあゆの多くの作品には題材としての自分と、 >その題材を冷静に見つめる観察者としての自分がいて、後者のメタ >言語的視点で語られるシンプルな言葉によって比類のないリアリ >ティーが表現されていたと思うわけです。 私には、どの詞がそれに当たるのか分からないので、教えて頂きた いのですが。 例えば、そういう風に表現されていたとして、浜崎さんは何を伝え たかったのだと思いますか? >すなわち今の時代にあゆを支持する僕らはいったい何者なのかと >いう問い だとしたなら、浜崎さんが語られるまで、その答えを待つのでしょ うか?古代エジプトの壁画になったことを嘆くより、他になすべき ことがあるのではないかと思いますが? 何もかもが目に見えるモノではなく、本当に大切なモノ以外も捨て られないということだと思います。 | |||
>>> hidew -- 2002/01/23-02:03..No.[1243] | |||
>>Robinさん No.1200で書いたことは、右脳と左脳という考え方を応用するとこんなふうに考えることもできるよ、ということで、これが絶対唯一の解というつもりはありません。その考え方だと「レコ大の涙」が解釈不能という部分もお示ししたわけです。 「過去に対する復讐」という表現は、ありきたりの言い方で言うならば「過去の自分にケリを付ける」「同じ轍を踏まない」という程度の意味だと思います。RonJの時点で「過去への復讐は『まだ』終っていない」と言っていたので、まだ現状に満足していない、さらに目標(?)に向かって走り続ける意志があったと。 その目標とは、デビュー当時はともかく、いつからか現実の頂点に立つことではなくなり、言わば「I am...」の「...」を見いだすことにフォーカスされていったのではないか?(初期は「居場所がなかった」、やがて「私は私のまま立っている」、そして「私はここに、ここにいるの」、「私はずっと、たった一つの言葉を探してる」へと変遷してきた)。 このあたりからayubakaさんの問いかけにも重なってくるわけですが、我々があゆを支持するのは、あゆに自分自身を見いだすから(自分の気持ちをあゆが歌にしてくれた、自分とあゆは同じ不器用な人間だ、など)なのでしょう。時代や社会があゆを欲する理由は、あゆの心の叫びは我々の心の叫びだから;自分の居場所を見つけられない、社会や仲間の内にあってやすらぎを得られない不安定な心を持つ我々が、自分の居場所は?自分って何者?という無意識の問いかけと同じものを、あゆの歌に見いだすから、と考えます。 これが一部の人間だけの問題にとどまらず、社会現象の規模になっていることは、あゆや我々が大量生産される社会構造上の理由が存在するということ、そのために我々も居場所や自己を見失っている(いわゆるアイデンティティ・クライシスと表現される状態)と推測できる。我々自身も「We are...?」と言う問いを、無意識の内に、言葉にできないまま繰り返してきたと思う。その過程で我々は、同じ問いを、声をあげて言葉にしているあゆを見つけ、こうやって集ってきた。だから我々もあゆも、突然変異体でもなんでもなく、同じ社会の元で必然性を持って生まれた、時代の子である、と確認できた(あゆが何度も逃げ出してしまったのは、自分たった一人の問題であったはずが、巨大な社会現象まで背負わされる予感に怯えたからでは?)。 「I am...」の提示する問題は、あゆに引っ張って貰ってみんなが頂上に到達しておしまい、という性質のものではないだろう。「...」は我々一人一人が自分の問題として探さなければ解決しないもの、「We are...」ではなく各自の「I am...」でなくてはならないと思う。それがわかっているから、あゆは自分の「...」について語ろうとしないのかもしれない。 で、KUMIさんが簡素に書かれているとおり「I am I」。確かにそうなんだろうけれど、補足するとその「I」は、「私」でも「僕」でも「自分」でも「あたし」でも「あゆ」でも「浜崎あゆみ」でもなく、そのいずれも「I」を表わす記号や意味として不十分なために、みんな「自分を表わすのに最もしっくりくる」言葉や関係、居場所を探してしまう。ひょっとしたらそれは言葉で言い表せないものなのかもしれないし、「私」「I」を拡大再定義することで「私は私なんだ!」としっくりくるのかもしれない。あゆはそれを見つけたのか? と、もたもた書いているうちにみなさんどんどん先に進んじゃってるので(^^;;続きは次に書きます。 | |||
>>> ayubaka -- 2002/01/23-13:13..No.[1254] | |||
>Robinさん 僕がメタ言語的と言ってるのはたとえば a song for XX の「どうして泣いているの」という切り口のことです。ここであゆはある日あるとき泣いていた過去の自分いったんに自らフォーカスしていきます。そのあと再び現在の自分の視点に戻って「居場所がなかった、見つからなかった」と述懐しています。この素材でありテーマでもある「自分」との遠近法がすっごくリアルなんですよ。 そこでは不器用だった自分とそれをかけがえのないものとして見つめるあゆの視線が鮮やかに表現されています。あゆは自分のためにそう歌わざるを得なかったのではないか、そこがI am ... や No more worda の面と向かった「主張」や「マニフェスト」とちがうかなと感じたもので。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/25-03:36..No.[1303] | |||
>みっちさん 「約束した場所」に彼女はもうずっと待っているのかも知れませんね。 >hidewさん、ayubakaさん >自分のために・・・ >自分たった一人の問題だった・・・ だとしたなら、歌詞に出てくる「君」や「あなた」は何を意味してい るとお考えですか? | |||
>>> みっち -[URL] -- 2002/01/26-10:10..No.[1339] | |||
>Robin >「約束した場所」に彼女はもうずっと待っているのかも知れません >ね。 そうね、待っているというか創っているというか、そんな感じなのかなと思う。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/27-00:03..No.[1351] | |||
前回のレスがあまりもあまりな内容だったので、もう一度レスします。 >hidewさん おそらく多くの人は歌詞に共感してそこで終わってしまうか、もし くはさらにその先のコトまでも望んでいるのかなと思ったりします。 彼女が逃げ出したのもそれに耐えられなくなったのかなと。 でもそれは、自分がしてきたことの結果だと受け止めて、帰ってき たのではないかと。 >ayubakaさん それだと本意が伝わらないと思ったからこそ、変わってきたのでは ないでしょうか? だから、続編と呼ばれる曲も作ったのかなと思ったりします。 全ては、目や耳だけではなく、他にもあるんだと思います。 | |||
>>> hidew -- 2002/01/27-00:11..No.[1352] | |||
>>自分のために・・・ >>自分たった一人の問題だった・・・ >だとしたなら、歌詞に出てくる「君」や「あなた」は何を意味してい >るとお考えですか? 言い訳から先にすると、歌詞には特定するのに充分な情報が含まれてないために、誰もが納得する「正解」は導けない、という前提で自分の感じ方を述べます。 あゆの多くの歌の場合、自分の中の「主体」に対する「客体」(A song for XXなら、「どうして泣いているの」と過去の自分に語りかけているのが主体、語りかけられている過去の自分は客体)、のような(ほかにもいろんな表現があるようですが)、自分の中の二つの視点が存在することはよく指摘されていますね。「君」や「あなた」は、この「語りかけられている自分」であると同時に、あゆに共感するファン(聞き手の視点)も「君」「あなた」に含まれていると思います。 ファンがあゆに自分を同化して聞いているという構図がある場合、自分自身に対して歌いかけることで、同時にファンに対しても歌いかけているという図式も成り立つと思うから。 | |||
>>> Robin -- 2002/01/28-23:21..No.[1387] | |||
確かに歌詞では、いろいろな意味が含まれていて、全てがこれだとは 言いきれませんね。 でも私は、多くの歌に出てくる「君」というのは、ファンというか この歌を聞いてくれる人々の一個人だと思います。 「A song for XX」についてですが、浜崎さんはこの歌を聞いてくれ る人全てに「どうしてそんなに苦しんでいるの?」と語りかけ、自分 にもこんなことがあったんだよねと過去を振りかえり、 でもそれじゃいけないんじゃないかな? いつまでもこんな考え方じゃあダメだよね? と諭しているように感じるんですよね。 でも、いろんな方のお話しを見る限り、過去のところで共感したと いうお話しばかりなんですよね。 まるで、ずっとそこに立ち止まっているかのように。 これじゃ伝わらないと思ったのではないでしょうか? | |||