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オウバイ 美術展 錦鯉 宮沢賢治の世界 ヒイラギナンテン 教育再生
菅生沼の歴史 アオオサムシ 賢治朗読 キブシ 法師戸水門 ダイコンソウ
「あすなろ」発表会 ジジババ 妙見大菩薩2 アサギリソウ 菅生城祉発掘
ムスカリ 音楽教室発表会 木瓜 菅生沼の歴史2 サクラ満開 菅生城祉2
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昨日は全国的に気温が上がり、埼玉で19.1℃、東京で16.8℃と4月上旬から中旬の陽気となった。尾鷲では今年初めての潮干狩りを楽しむ人たちが沢山いたという。
気象庁によると、北海道付近の低気圧に日本列島の南海上から暖かい空気が吹き込んだことに加え、前日からの晴天で気温が上がったと言う。
札幌の雪祭りも気温が高く困っているようである。
東京でもまだ今年は初雪がない、珍しい年で、このままだと今年は雪のない記録的な年になる可能性もあると言う。特異な年の記録更新はあまり歓迎できない。
ところで、鉢植えのオウバイが花を開き始めた。
オウバイはモクセイ科ソケイ属のつる性落葉樹であるが、花に香りはない。
自然にしておけば、枝を一杯に伸ばして、早春の陽だまりに咲く黄色の「迎春花」である。
中国原産で、これも春一番を告げる早春の花、中国名は「迎春花で、縁起の良い樹とされている。つる状の枝は四稜形の緑色、葉は対生し三出複葉で、葉が出る前に鮮やかな黄色の花が日ざしを浴びて咲く。
この頃は、大型のウンナンオウバイも見られるようになってきた。(2/7)
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ネコヤナギの花穂が白い絹毛に覆われてふっくらと春の陽に銀色に光っている午後。
ずっしりとした冊子小包が届いた。懇意にしている郷土の坂本唯市画伯からの個展案内の通知と写真のようなカタログ(掲載図録40)である。
日本各地の自然や風景、薔薇、道化師_など重厚な画面構成で描く新極美会会長の画業40年を記念して50号からサムホールまでの力作40点を千葉三越7階特選画廊で展覧すると言う。
風景画として厳しく、崇高なものを自然や物象の中に読み取った作品群は多くの美術愛好家を魅了することでしょうと担当者は語る。
氏は、私の人生は油絵とともにあり、四十有余年歩みつづけてきました。大自然の雄大な強さ、繊細な美の揺らぎ、静物に光る一瞬の美、波の調べに聞こえる海の声、
人の背に見る人生の強さと哀歓、
キャンバスに追い求め続ける美的欲求は情念にも似た極美の世界の追及の道でもあります。私は更に油絵と共にキャンバスに極美の世界を追い求める人生を歩み続けます。と決意の程を力強く述べている。
画業40年記念 坂本唯市油絵展
会期 2007年2月27日(火)ー3月5日(月)(最終日は午後5時にて閉場させていただきます。)
開場 千葉三越7階特選画廊
興味のある方は是非ご覧になってください。(2/9)
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久しぶりに昨夜は雨があり、今朝は空気もしっとりとして春の息吹を感じる、黒く濡れた土の上にフキノトウが顔を出していた。
池の水もぬるみ、錦鯉が元気に泳ぎまわっている。
まだ餌は与えていないが、そろそろ欲しいようである。
錦鯉は鯉科の魚で、鯉はユーラシア大陸温帯部に広く分布し、体長80cmにもなる。普通40cmほどである。フナに似るが4本の口ひげがある。池や沼、流れの緩やかな川の中・下流などにすみ、雑食性である。
錦鯉はマゴイの突然変異種を基調に観賞用のニシキゴイ(錦鯉)として、先に新潟県中越地震で壊滅的被害を受けた山古志地方で育種改良されたものである。
おもな品種に赤白、大正三色、昭和三色、浅黄系などがあり動く宝石などと言われている。
20数年飼っている個体もあり、体長60cmを超えて、餌付けにもなれ可愛いもので、朝の給餌もまた楽しみである。(2/10)
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「宮沢賢治の世界」は朗読クラブ あすなろ定期発表会の表題である。
演出 亀山 歩 入場 無料 要 整理券
日時 3月4日(日) 午後2時開演
会場 常総市生涯学習センター 2階
主催 朗読クラブ あすなろ
後援 常総市教育委員会
整理券 図書館 生涯学習センター
朗読クラブあすなろは、常総市立図書館や小学校・公民館などで本の読み聞かせや紙芝居、民話の語りなどの活動をしているボランティア団体です。
会の成り立ちは少し変わった特徴をもっています。
会員が常総市在住の人だけでなく広くつくばみらい市、坂東市、古河市、下妻市の人たちで構成されていると言うことです。
それぞれの地域で読み聞かせの活動をしていた人たちが好きで読み聞かせをするだけでなく、聴く人の心に響く読み手、語り手になりたいという気持ちから平成13年から集まり、語り部 亀山 歩 先生に師事して毎月勉強会をもって来ている。平成15年からは、おはなし会あすなろとして会を結成し勉強を続けている。
更に平成17年4月からはボランティア連絡協議会に仲間入りした。
おもな活動
常総市立図書館児童室でのお話会。(毎月第2日曜日午前10時30分からから30分くらい会員が交代で行っています)
小学校でのお話集会(月1回、低中高別の集会で)
公民館でのお話会
独居老人の食事会
要請が合った時に話している。
今年度は子育て支援団体からの要請もあり幼児への読み聞かせと言う新しい分野の勉強もさせて頂きました。
集落センターでの語り
婦人部総会の後で何か話ということで地域のお母さん達にも民話を語りました。
この会の経過は2月10日の平成18年度常総ボランティア研修の席で、今年当番に当たった「お話会あすなろ」での発表をもとに記し、発表の後、お話会の中の一例として地元水海道の伝説「川に沈められた娘」を語って好評を頂いたとのことであった。
3月4日(日) 宜しかったらどうぞ (2/20)
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今日は4月上旬の陽気となり、昨日の水戸偕楽園の梅祭り初日の肌寒い一日とは大きく変わった。
偕楽園は五分咲きとか、我が家は八分咲きぐらいだろうか。サンシユウの花も綻び、ヒィラギナンテンの黄色の蕾や、ミツマタの花も大きくなってきた。
写真はヒイラギナンテンの新しい種類のチャリティーである。1_ー2月にご覧のように花房が垂れ下がらずに上向きに立つ種類で、先に「年末・年始」のページで「チャリティー」として紹介した通りである。
ヒイラギナンテンはメギ科ヒイラギ゜ナンテン属の常緑低木で原産地は中国、台湾である。
小葉の棘がヒイラギの葉に似て、複葉の様子がナンテンに似ることによりこの名がある。属名は19世紀のアメリカの植物学者B.Mマホンの名前にちなみます。
日向の冬の寒さに当たると、写真のようにきれいに紅葉します。
学名 Mahonia japonica (2/21)
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今日の新聞は「中教審」のニュースを伝えている。
過日教育職員関係団体の会報が届いた。時節柄、元職業柄、教育問題が多いので一部抜粋してみる。
Y氏は、現職校長で「教育再生」と言う言葉にこう述べている。
「再生とは死んだものを生き返らせることだ」
学校教育は、本とうに死にかかっているのでしょうか。一部の不心得者はいますが、学校現場で黙々と奮闘している多くの職員たちは、この言葉をどう受け止めるのでしょうか。
N1氏は、いじめ自殺問題が相次いだ、ご両親やご家族の気持ちを考えると居たたまれない思いであった。
それにしても、マスコミによる学校イジメも相当なものであった。自分ではまったく手を汚さない立場にいて、当事者である教育委員会や学校の先生方を口をきわめて罵倒した。しかし、教育問題は根が深く、学校というところは社会の縮図である。社会が深く病んでしまっている現在、学校だけ健全であれといってもそれは無理な話である。
給食費の未納額が国全体で22億円にも上るという現在、何か問題が起こると、ゴミ捨て場のように何もかも教育現場に持ち込もうとする。国も社会も、もっとゆとりをもつて学校を信頼し、温かく見守っていくことは出来ないものだろうか。
N2氏は、遊びの中に芽生えたあざけりや仲間はずれの言動は、一過性のものもあるが、多くの成長過程で人間としての習い性につながる気質に起因する。集団の上位に立ち自らの手を汚さないで人間を統括する卑劣さ、傘の下に入る子供も善悪の判断より強者の圧力から逃れる術を模索しているに過ぎない。程度の悪い政治家や暴力団の組織と類似している。
いじめは陰湿だとか自分も子供のときいじめたとか言う次元でくくることは出来ない犯罪なのである。犯罪を隠蔽する教育現場の体制の整備は論外で児童生徒の苦しみをどう緩和するかを第一に考えなければならない問題だと思う。
犯罪につながる暴力的行為をとめるためには、一つでいいから親権者の勝手な判断に左右されない特効薬を学校、地域が選択できる、教育体制の整備が必要ではないか。
教育現場で苦労してきた教師の本音こそ最大の特効薬になることを確信してやまない。
M氏は、現代はあまりにも教師と子供の距離がかけ離れている。子供たちと遊ぶ姿が学校生活の中から見えてこない。先生と子供たちが遊びながら学び合うという分野が欠落しているのではないかと気がかりである。
今年は教育再生の年とかで、教育改革が叫ばれているが、この状態を作り出したのも行政の為すところではないか。授業時間の10%増による学力向上、いじめの見直し、免許更新などいろいろ叫ばれているが、教員を混乱させてしまわねばいいが!
O氏は、いじめ問題は人間の心にある。心はどのようにして出来るのだろうか。大部分は体験を通して養われるのだと考える。
心は、自分を取り巻く人間や物象との関わりの過程で発揮されるものである。と同時に養われるものであると考える。
心は日々の生活体験によって養われると考えると、いじめ問題を解決するには、子供達の日々の生活を見直すことだ。学校生活もそうだが、どんな家庭生活を送っているか、どんな生活環境にあるかがとわれるべきだ。いじめ問題は、学校教育だけを見直しても解決しない。家庭や、地域社会のあり方を正していくことだ。正していく策を講じることだ。
S氏は、社会生活の規範である法律を遵守することは、社会人としての最低のルールである。
この法律を遵守できる人格を身につけるのは、すぐにできるものでは無いだろう。ではどの成長期に身につけるのか。学生時代即ち社会人になる前段階までが学習するチャンスであろう。ここでどのように学び習得したかによって、よき社会人になるか、それとも反社会人、非社会人となるかだろう。学校生活は、自分が所属する集団の様々な場面で、ルールを守るという体験を多く積むことだろう。これを疎かにする風潮は、社会の未来を左右しかねないだろう。
集団生活の中で、ルールを学び、尊重し、実践する学習機会を見逃さないでもらいたい。
M2氏は、現今、様々の深刻な社会問題や教育問題が論議の対象となっているが、これらの問題の根源はむしろ、憲法の理想を社会の隅々まで生かす努力をしてこなかった戦後の為政者の怠慢にあると言えなくもない。決して憲法や教育基本法の「不備」ではないと思う。
この歳になってようやく孫をもてた。目に入れても痛くない。この子達の世代が平和と安らぎの中で暮らせるよう心から願う。
Y2氏、今の若者には忍耐の心が足りないといわれる。麦踏ではないが、試練の冬を乗り越える場を少しでも多く与え、心丈夫な青少年の育成に当たりたい。
・・・・・・
学校教育では教師にとって「やるべきことはやること」が大切であり、最も本質的なことは、「教育的実践」にあるのではないか。前進しよう!! (2/26)

菅生沼については現在地元の菅生沼を考える会が中心になって自然保護に各界への働きかけを始めゴミ拾い草刈など保護活動に活躍している。
歴史となると、いつからという事になるが、地誌の年数と現在の生活年数ではあまりにも違いすぎて理解しにくい所があるが、現代に一番近いところから記してみよう。
地球上の陸地の3分の1を厚い氷河や氷床が覆ってしまう、このような寒さは大昔、繰り返し4回もおとずれた。この寒かった時期を氷期と呼ぶ。
約2万年前を最盛期とした最も新しい氷期には海水面が現在より百数十mも下がり、現在の海峡は陸続きとなって、大陸からナウマン象やオオツノジカが渡ってきていた。人間の時代では旧石器時代の後期にあたる。その後、温暖になるにつれ、海水面が上昇し、約6000年前には利根川筋では古河市を越え栃木県藤岡町に達し、鬼怒川筋では下妻市の南まで入った。この海を古鬼怒湾と呼ぶ。この海進の時代は縄文時代の前期に当たるため縄文海進という。その証拠は各地の台地と低地の境に残る縄文人の貝塚である。右の図は昭和初年、東木竜七によって貝塚の分布を調査し、かっての海岸線を復元したものである。
菅生沼はこの古鬼怒湾の一部が残ったものと考えられる。
菅生沼は歴史的には平将門の時代(930年代)に出てくる沼で、かっては低湿地であったが利根川に形成された自然堤防によって流出口が閉じて沼地化したようで古い記録には保地沼の名がある。
菅生沼は、江戸時代の初めの利根川の東遷によって利根川の遊水地としての役割を課せられていたが。、江戸時代中期1716-1736(享保年間)飯沼の干拓工事の際に排水池としての役割も負うことになった。飯沼の新田開発は、新田の不要な水(悪水)を開削した飯沼川から菅生沼を経て利根川に流して工事を進めた。
現在小谷沼水田のただ一つの菅生沼の中ごろに通じる排水路である東仁連川(菅生と大塚戸の境を流れる通称刳り掘(くりぼり)もこの工事の一貫として行われたものである。深い堀で、当時を知る人も語る人も記録もないが、一部に刳り貫いて通水した部分があったのが名の由来かもしれない。
しかし、利根川の川床上昇によって洪水時に逆流が度々起こり、治水・排水問題で長く苦しめられ、1900年(明治33)の反町閘門(そりまちこうもん)の建設(現在は自然博物館に移設)、1955年(昭和30)の法師戸水門の完成によって利根川の逆流は防止され、飯沼新田の人々とは、治水・排水問題から開放された。しかし、菅生沼は、飯沼新田の排水機能が重視されることによって沼の水量が減少し、沼や湿原としての機能が衰え、動植物の生息する生活環境が失われ始めている。
私が子供の頃はこの沼で水浴びをし、藻取り船が出てクロモ、コウガイモを刈り取り船で運び、肥料と夏の乾燥を防ぐ土壌改良剤として畑に施したものである。又、食生活でも蛋白源をこの沼に頼る所が大きかった。例えばカラスガイやタンカイなど水の中に潜り、足で探して採った。長径25cm以上の真っ黒な大きなカラスガイがカマスにすぐに一杯取れたものである。
それだけの量のカラスガイが生育できる環境とは、酸素を多量に供給できる藻(沈水植物)とカラスガイの餌になる植物性プランクトンなどが豊富だったことを物語っている。現在、菅生沼は、上流からの土砂の流入と、枯死した植物の蓄積によって年々陸地化が進み、残された開水面は水深が数十cmと浅くなり沈水植物は一本もなくなった。
1975年(昭和50)菅生沼地域の全域が茨城県自然環境保全地域に指定され。
法師戸水門が完成してから水位が低下し、次第に上流部から陸地化が進み、現在では上池のごく一部と下池南部にその1/5の開水面を残すだけになってしまった。それに伴って植生も、ガマ群落→マコモ群落→ヨシ群落→オギ群落またはヤナギ群落と変わってきている。一方開水面の見られる地域でもキンギョモ等沈水植物はまったく姿を消してしまい。アサザ、ガガブタ、ヒルムシロ、トチカガミなどの浮遊植物も姿を消し、一部にヒシがあるだけだ。
しかし、湿原にはレッドデータブック記載種のタチスミレ、ハナムグラ、ミゾコウジュ、チョウジソウ、タコノアシ、コツブヌマハリイ、トネハナヤスリの生育が確認され、掘り起しなどのかく乱が行われるとミズアオイ、オオアブノメなどの発生は見られる。
沼を巡る台地斜面にはスダジイ、ヤブツバキ、シラカシ、などの照葉樹に、コナラ、クヌギ、エノキ、ケヤキを交えた斜面林がよく残り、これから水辺湿地のアカメヤナギ、カサスゲ、クサヨシ群落と共に保全していかねばならない。
法師戸水門より下は1946(昭和21)以降菅生沼干拓が本格化し、黄金地区として素晴らしい水田となったが、利根川堤防には越流堤があり利根川の増水時の遊水池となっているので毎年の収穫の保障はない。
関連 伝説・・・(馬)のページの「白い鯉」ご覧下さい。
現在は法師戸水門が2003(平成15)に新しく改築され菅生沼と飯沼川の分離工事が進められている。(3/1)
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朝の気温は低くても日中は日差しも強く気温も14℃位になっている。
早いのは春の花だけではないようである。
今日は道端でこの時期珍しい動かないが、緑の金属光沢のあるきれいで完全なアオオサムシを見つけてきた。たぶん昨日あたりの陽気につられて飛び出し、昨夜の寒さに耐えられなかったのではないだろうか。
アオオサムシはオサムシ科の甲虫である。本州、中部以北に分布する。
農地や雑木林に住み、体長は25-35mm、出現期は4月から10月であるから大分季節をだまされたようで気の毒である。
越冬態は成虫である。
地方変異が多く、色彩も変化に富んでいる。地上をすばやく歩き回り、ミミズや昆虫をたべる。オサムシの仲間は成虫で越冬する。冬に林に面した小さな崖を崩すと、いろいろなオサムシが越冬しているのを観察できる。自然界も暖冬で大変である、あったかい所に置いても甦ることはなかった。(3/1)
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先に「宮沢賢治の世界」で紹介した朗読クラブの定期発表会もいよいよ明日に迫った。昨日は水海道公民館で予行演習とか、今日は我が家に4人ほど集まって練習に励んでいる。やるからには一生懸命で頭が下がる。
今朝の読売新聞には昨日の練習の様子と「朗読会あすなろ」について報道されている。
組織や活動については先に述べた通りであるが、新聞では、特に障害を乗り越えて会員として活動している二人の方を紹介している。お一人は私のHPでも俳句で時々紹介している横瀬さん、横瀬さんは交通事故の後遺症を持ちながら朗読の会でも頑張って活動しておられる。もう一人は男性で全盲の広瀬さんで。4歳で視力を失った広瀬さんがあすなろに入会したのは04年、「美しい日本語を話せるようになりたいというのが動機だったという。台本はボランティアに読み上げてもらって点訳して作るという。
4日は「注文の多い料理店」や「やまなし」など宮沢賢治の作品ばかりを朗読劇で披露する。朗読あすなろ会はすばらしい人々の集まりの会です。(3/3)
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4月上旬の陽気にヒヤシンス、クロッカス、レンテンローズの花も咲き出した。
旅に出なくても、自然の変化に直接出会えるよう植え込んだ植物が、結構季節季節の花や様相を忘れずにその時々の思い出とともに演出してくれる。
ありがたいものである。
今朝はキブシが見事である。離れてみれば黄色の粒が房についているような花であるが、よく見ると花房の上のほうから開花し可愛い壺形に花びらが並び中にはおしべがまるく並び真ん中にめしべがある。しばらく其の創りと美しさにみとれてしまう。
キブシはキブシ科キブシ属の落葉低木である。雌雄異株、原産地は北海道西南部以西である。
別名をマメブシ、キフジとも呼ぶ。
葉は卵形で先が尖り、縁には鋭い鋸歯がある。新葉の出る前に前年枝の葉腋から長さ3-10cmの花穂が垂れ4弁の淡黄色花を密につける。果実は球形で、秋に成熟、ヌルデの五倍子の代用とする。
庭木、公園緑地樹として利用される。ハチジョウキブシ赤花もあるが、まだ蕾が固く咲きそうにない。(3/4)
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法師戸水門の名はこの水門の位置が坂東市法師戸であることによる。法師戸とはかつて法師戸村であったためで、村名の法師戸はここから下総一ノ宮香取明神や鹿島神宮に使いを出したと伝えられる「放使戸」が由来という。
法師戸水門は、利根川の洪水が菅生沼(飯沼川)へ逆流するのを防ぐため、昭和31年3月茨城県が設置し管理していたが、昭和48年4月から水門の管理は国土交通省(当事は建設省)に移管れた。
しかし、水門の設置から40余年の経過で施設が老朽化したこと、また、水門規模が小さいことから飯沼川の洪水が安全に流れない状況になったので改築を行うこととなった。
水門の改築は、平成10年3月に着手し平成15年3月に完成した。水門改築によって、飯沼川の改修にあわせ水門の敷高を2.35m低くしたことにより、飯沼川の流れが促進されるという。結構なことであるが、菅生沼の水面も一緒に下がってしまうのではないかという地元住民の声に国交省の役人は大丈夫な処置を取るという。しかし、水は高きより低きに流れるもの菅生沼の自然を本当に守れるのか心配である。
二つには水門規模が旧水門より大きくなったことにより、飯沼川の流れが促進され、飯沼川の水位低下が早まる事は結構なことであろう。
この水門の特徴は、普通門柱の上に操作室を設けていますが、法師戸水門では操作室を門柱の脇に設けている。それにより、門柱の上部荷重が軽減され部材の厚さを薄くでき経済的水門となっている。また、水門の高さが低くなり周辺景観への影響も少なくなった。
飯沼川は、茨城県西部を流れる一級河川で、流域面積は229.9Kuにおよび利根川の支流のひとつである。流域内には農地などが広がり、法師戸水門の直上流は沼の面積2.32Kuの菅生沼がある。
菅生沼は、茨城県の自然環境保全地区に指定されており、都心から50km圏内にありながら豊富な魚類、鳥類、昆虫や植物が生息している。
また、近隣の施設では坂東市側に「茨城県自然博物館」、常総市側に「あすなろの里」(青少年宿泊研修施設)がありお互いに菅生沼を木橋で渡れるようにつなぐ等自然とのふれあいの場も整備されている。(3/5)
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今日は啓蟄、昨夜の雨に今朝は空気もしっとり、潤いを感じる。ハクモクレンの白い花も見える。ヒマラヤユキノシタの花が咲きだし、ユキヤナギも真っ白な枝を風になびかせ、ボケの蕾も花びらを覗かせはじめた。木々の枝にもよく見ると赤や緑の生気と活気に満ちた新芽が伸び出している。
山形では温室の中でサクランボの花が満開という。いつもの年だと外は雪であるが今年は雪がないという。我が家のサクランボの花は露地で、今、数輪開花したところでこれからが見ごろとなる、今年は随分早い開花である。
ところで、ダイコンソウの花も咲き出した。
ダイコンソウはバラ科ゲウムダイコンソウ属の多年草である。
約50種の根茎をもつか、ときには匍匐する宿根草がヨーロッパ、アジア、ニュージーランド、北アメリカ、南アメリカ、アフリカの極寒地帯と温帯地方の山岳地帯、小川の畔、湿った採草地、森林地に自生する。
日本では北海道−九州、中国の林中や草地に生える。全体に短い軟毛がある。根出葉は長い柄のある複葉で、頂小葉は広卵形、其の下方に小型で不同の側小葉を数対つける。名は根出葉がダイコンの葉を思わせることに由来する。
今咲いている写真のダイコンソウは、観賞用に栽培されている南米産のチリダイコンソウで花がご覧のように赤い花で。学名はG.coccineum (コクシネウム/コッキネウム)和名、園芸名をベニバナダイコンソウと呼んでいる耐寒性の園芸植物でロックガーデン等にも植栽される。(3/6)

3月4日の朗読クラブ「あすなろ」の定期発表会も好評の中に盛会裏に終了した。
このほど、常総環境センタービデオクラブ会員の鈴木正巳氏の特別のご奉仕によって1時間20分に渡る、朗読クラブ「あすなろ」 発表会 宮沢賢治の世界 2007年3月4日 常総市立生涯学習センター 演出 亀山 歩 撮影・編集 鈴木正巳による貴重な記録ビデオが完成した。
会そのものの発表も会員23人、風の又三郎、雨ニモマケズ、注文の多い料理店、やまなし、ざしきぼっこの話し、永訣の朝、よだかの星の朗読劇を行い参会者の大きな反響を頂いたという。
このビデオの中からも演劇やお祭りと違った撮りにくい内容にも関わらず、それらの雰囲気が十分に伝わりカメラ・ワークや編集の苦労が窺える見事な記録作品となっている。本当にご苦労様でした。
演出・朗読指導 亀山 歩 プロフィール
1934年東京生まれの茨城育ち。1989年朗読サークル「モチモチの会」発足。
1992年「日本演劇教育連盟」の全国委員。
1994年日本演劇振興協会賞を受賞。
茨城県図書館朗読講師「歩座」主催者。
(3/10)
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昨日今日は、春の陽気から一変して寒気の流入によって北陸・東北など北日本は強風、大雪の大荒れの天気である。関東も気温が上がらず乾燥した冷たい北西の風が吹いている。
それでも、陽だまりでは落ち葉の下からジジババが花を咲かせている。ジジババはシュンランのこの地方の昔からの呼び名である。現在野生のものは乱獲によって見当たらなくなっている。
ホクロとも呼ばれ、北海道南部から九州中国の山地の雑木林などに生える。蘭科の常緑多年草で、葉は線形で堅い。早春葉の基部の花芽から花茎を伸ばし、緑黄色の花を一つ咲かせる。
目立つ3枚の花びらは本当の花弁ではなくがく片、花弁は左右から抱き合うように見える。さらに花の下側に変わった形の花びらがあり、これが唇弁(リップ)。唇弁は白っぽく、暗赤紫色の斑点がいくつか入っている。この斑点を人間のほくろにみたてて、ホクロの別名がある。
東洋蘭の一種として栽培され、多数の園芸品種がある。
シュンラン属の中で東洋蘭以外のものをシンビジュウムと呼んでいる。(3/13)
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菅生町の日枝神社(妙見社)のご神体は平将門寄進による妙見菩薩像である。
このことについては、先に「金魚」のページで「妙見大菩薩縁起」に紹介した通りである。
其の像については後日「もみじ」のページで「妙見大菩薩」として写真をつけて紹介している。
しかし、妙見菩薩像はもう1体一緒に祀られているのである。先の像より1.5倍ほどの武将像で極彩色され同じく亀の上に立つ立像である。彫刻年代は先のものより新しく感じられるが製作年次や銘は見当たらない。
菅生村郷土誌(大正7年記)によると出典は、書かれてないが(「妙見大菩薩縁起」によると思われる妙見社縁起が記されている。
次にこんな記載もある、承平元年創建する処の社殿は慶応元年4月17日回禄(火事)の禍により悉くなくなった。それ以来本殿を再建せりと雖も同じ旧観にもどすことはできず。
(按) もとより伝説なれば其の真否はわからない。妙見社再建何年前なのかわらないけれども、神明宮の近くに建立せる社壇は銅葺きで其の他の建造物も多く当時は輪奐の美を尽くしたと伝えられる。何年前に現在の地に移ったかこれまた明らかでない。(200年前なりというものもあるが信じられない。))
「菅生村郷土誌)は大正初期に役場はじめ神社・寺院又古老の家にあった古文書を悉く調査しこの資料をもとに執筆したという。
この資料から見ると、将門寄進の銘のある妙見像は火事の禍を免れたのであろうか、現在ある2体のご神体の由緒は、いずれにしてもご神体は非公開で見ることはできないし、したがって、学術調査も行われていないが貴重な文化財には間違いない。
関連 「金魚」のページ「妙見大菩薩縁起」
「もみじ」のページ「妙見大菩薩」 ご覧下さい (3/15)
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暑いも寒いも彼岸までと言われるが、今日は彼岸に入って2日め、日本付近は冬型の気圧配置が続く、日本海側は雪が降る。太平洋側は乾燥した晴天が続く。全般に北風が次第に強まる。と天気予報は報じている。
東京地方の今年の初雪は3月16日午前7時ごろ小雨に混じって5分ほどちらつくが積雪はなかった。73年ぶりの記録更新とか。この辺の初雪は翌17日の午後7時頃に同じく小雨に混じって少しちらついた程度であった。ハクモクレンの純白の見事な花も霜によって見るも無残な茶色な姿に変わってしまい、暖冬によって咲き出した花々も戸惑っているようである。
写真はアサギリソウである。寒さにめげず、新芽がきれいに伸び出した。
アサギリソウはキク科の多年草で、中部以北の亜高山や高山、海岸の岩礫地や断崖に生える15-30cmの草本である。
葉の表裏にはほとんど差はなく、全体に細かい絹毛を密生する高山性ヨモギの仲間の代表種である。
全体が緑色を帯びた銀白色に輝く、北海道では海岸の断崖などに単独でみごとな株がみられ、近づくことはできなくても遠めにもそれと分かる。
繊細にして優美な葉姿と光沢のある葉色は観賞価値が高い。(3/19)
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菅生城址は常総市菅生町にある。通称「城山」と地元では呼んでいる。
現在県営畑地帯総合整備事業に伴う記録保存を目的とする菅生城址を含む3遺跡の発掘調査を平成16年度より実施している。過日発掘調査現地説明会が常総市教育委員会によって行われたので、その概要を記してみる。
現在調査の進んでいる場所の隣は、耕地整理前に我が家の田圃のあった場所で稲を作った経験もあり特に興味のある場所である。
菅生城の成立時期は明らかではないという。戦国期にこの城をめぐる2度の攻防について、其の存在が記されている。
最初の攻防は永禄3年(1560)横瀬能登守長氏による菅生城攻取りで、明治40年(1907)に発刊された「東国見聞私記」と大正15年(1926)に発刊された「東国戦記」に記されている。その内容は、北條氏康に攻められて猿島郡弓田城主染谷民部のもとに身を寄せていた横瀬氏が、染谷氏と敵対していた菅生氏が弓田城を攻めるに及び、其の留守をついて菅生城を落とし、其の勢いを駆って染谷氏と共に菅生氏を討ち、以後菅生城に入ったというものである。菅生氏は菅生町字中郷あたりで討ち死にしたといわれていますが、身を隠して生き延びたとの伝説もあり、はっきりしていない。この記述は、昭和59年(1984)に横島広一氏の「水海道郷土誌物語」でも取り上げられています。この後の記述は、天正5年(1577)の多賀谷氏と北條氏との攻防に関するもので、天正期の菅生城は「守谷史」「図説谷和原の歴史」によれば筒戸城、高井城などと共に相馬氏の守谷城の支城として、菅生城越前守胤貞「相馬一家連盟帳」の記載のような一族が配されていたと記されています。天正4年(1576)に古間木城を落として以後、南下する多賀谷勢は、横瀬主膳(能登守の子)の大塚戸城を落とし菅生城「水海道市史」は横瀬能登守が守る”としているも攻めましたが、落とすことはできず。このことを「水海道市史」では、相馬氏と横瀬氏が城を堅固にし、大塚戸兵を合わせて奮戦したためとし、「守谷町史」も多賀谷勢は堅固に構築されたこの城を落とすことができず、かえって反撃にあって敗走したとしている。
発掘調査は平成18年8月の確認調査に始まり、18年12月より19年3月まで本調査を実施(主郭である城山は調査対象外)菅生城の規模や全体像がほぼ判明する結果が得られた。
調査によって検出された遺構は、菅生城址に関連する堀跡8条、堀に付随する土塁、堀立柱建物跡2棟、井戸跡5基、土坑3基(地下式坑2基)、平安時代の竪穴住居跡2軒、時期不明の竪穴住居跡1軒等がある。遺物はカワラケ小皿、内耳鍋、擂鉢を主体として、瀬戸・美濃陶器、常滑焼、永楽通宝、砥石、硯、石臼、茶臼、鉄滓、鉄砲玉等が出土しており、年代的には16世紀中葉から後半と考えられるという。
調査によって検出された堀跡と土塁の配置から、菅生城は小谷沼という沼澤地に突き出た猿島台地の一部である半島状の台地に曲輪を直線的に配置する連郭式の城郭であったと判断され、堀を増強・改築した可能性が高いことから、短期間ではなく、ある程度の長期間、城郭として機能していたと考えられる。また、外郭の堀と考えられる7・8号堀跡は横矢掛かりを多様し、2号堀跡には畝堀を施すなど、小田原北條氏の築城の影響が強く感じられることから、最終的に当域を支配していたのは、守谷城を本拠ととする北條氏方の相馬氏であった可能性が高く、戦国時代末期、北條氏・相馬氏の滅亡とともに廃城になったものと推測されるという。
註 横矢掛かり・・・7・8号堀は屈折があり敵に横矢を射掛ける事ができる後北條氏の戦術
畝掘(うねぼり)・・・写真のように底面に堀り残しの障壁を施した堀で、今回の発掘では幅8m前後、深さ4m以上の規模がある。
内耳鍋・・・つるしたひもが焼けないように内側に耳がついている鍋。
関連 「馬のページの「菅生城址」・「玉台地名由来」
このぺーじの「菅生城祉2」をご覧下さい。
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追記 市教育委員海では2009年10月23日文化財保護審議会の答申の基づき、「菅生城祉」を市指定文化財に指定し12月16日所有者に指定書などをした。菅生城祉は、茨城県遺跡地図などに中世の埋蔵文化財包蔵地として周知され、地元でも城祉として古くから知られている。今回指定されたのは、通称「城山」と呼ばれる本丸部分に相当する部分です。(2010/2/7)
ムスカリが鮮やかな紫の花をつけている。
何とか春の日差しがもどり、レンギョウの黄色の花が咲き始め、アセビ、カイドウ、ヒュウガミヅキ、トサミズキ、ヒィラギナンテン、アカバナトキワマンサク、アカバナキブシ、シュモクレン、ボケ、ウグイスカズラ、スモモ、ショカツサイ(オオアラセイトウ)、寒白菊(スノーポール)、スイセン類の花が目につき、いよいよ春本番か。サクラはまだ咲かないが。
ところで、ムスカリは地中海沿岸から西アジアに分布するユリ科の耐寒性多年生球根植物である。
ブドウムスカリ、グレープムスカリの別名もある。花の形から納得のいく名前で面白い。
ムスカリはギリシア語のmoschos(麝香・・・古くから珍重されてきた香水の原料)に由来し、芳香を有することによる。
写真は香りのよさも魅力のムスカリ アルメニカムである。
花ことば 高貴な生活。なるほどとうなずける花である。 (3/24)
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神奈川県久里浜で、大学生の孫の音楽教室発表会があった。
奈良文化センター音楽教室発表会である。
期日は2007年3月25日(日) ところは はまゆう会館 開演 AM10:00
小学校1年生のときに一人でイタリヤに演奏旅行に出かけた子であるのでバイオリンは本当に好きなのであろう。
自分の大学の専攻科目はそれでいて生物学である。
一昨日もピアノ合せに久里浜まで行き、きのうは発表会に出かけていった。
若さと好きだからこそ続くのであろう。大きな拍手を送ってやりたい。
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サクラが数輪咲き出し、昨日今日は5月上旬の陽気である。
我が家の菜園にも葱苗を植え、里芋も植え終わった。
家内は蕪や菜類の種を蒔いた様である。
ところで、木瓜ハバラ科ボケ属の落葉低木である。
学名はCaenomeles speciosa (カエノメレス スペキオサ)
カラフルな花が欧米でも人気があり、移り変わる花色が早春の景色を彩る。
日本には平安時代に中国より渡来した花木で、多くの品種が作られてきた。
晩秋から翌春にかけて、長く花を楽しめる。
欧米でも人気が高く、今では、海外で改良された新品種も日本に輸入されている。
写真は今咲き出した白色種の「金鶏殿」で、蕾の時も、咲き出した時にも、薄く緑色がかかり一段と生気を感じる好きな花の一つである。
木瓜の実は長さ4-7cmで堅くて渋い。生では食べられないが、香りがよいので果実酒などにして楽しめる。(3/29)
先の「菅生沼の歴史」を巡り問い合わせもあるので「水海道郷土史物語」横島広一編著をもとに別の角度から記してみる。
最初に「保地沼」であるが、安政2年、下総布川の赤松宗亘の著「利根川図志」に「保地沼-岡田郡飯沼の下流なり。末は2に別れ、法師戸に至りて利根川に入る。その下のほうなる流れ、平時は水なし」とあり、図示されている。
「保地」の名称については、大日本地名辞書では「法師戸と相渉れる名なるべし」とあるが、横島氏は、菅生流作のいくつかある小字の内の「保地」が沼の名になったものと思うという。この「保地」に民家が4-5軒あったらしいが、度々の浸水にあい、いつの時代か樽井其の他の坪に陸上がりしたが、今もそれらの家は「保地(ぼうち)の家-ぼちの家ではなく」と呼ばれている。ただし、ぼちかぼうじか、どちらが正しいかは分からないという。
菅生沼の名称についてはは明治以後に正式につけられたかと思う。
明治22年町村合併し、菅生沼周辺では、菅生、大塚戸ニケ村が菅生村、神田山が神大実村、法師戸、大崎、下出島其の他が七郷村、辺田が岩井町となったが、其の内菅生沼の大半が菅生村の管轄に入るため関係町村協議の上、「菅生沼」と正式に名称付けたものと思われる。地元菅生村役場が合併直後の明治29年に全焼して、重要書類が全部烏有に帰しているので、明治何年からとはいえないが、明治以後であることは間違いないという。
古代には「めぐり谷」と呼ばれたか、大日本地名辞書には、菅生沼の項に、「かぶら矢記に、相馬御厨西限、めぐり谷と云う。「この沼の古名か」とある。御厨とは、古代、皇室や神社に付属した領地。この相馬御厨は伊勢神宮の所領であり、その範囲は旧相馬郡のうち小貝川から西全体をいったものらしく、そのほかに目吹(千葉県)から、神田山、幸田、馬立(現坂東市)も含まれていたようである。
したがって、めぐり谷とは、千葉県目吹辺から現在の利根川筋が沼澤化しており、それに矢作、法師戸流作、菅生沼が続き、更に北にさかのぼって馬洗、辺田、並びに江川の水源地である生子菅に至る一連の沼澤、谷津を云ったものの様である。
飯沼は、かつて将門時代に「広川の江」と称されたところで、江戸時代の31か村にわたる大沼湖である。
飯沼沿岸の有志達は、4代将軍徳川家綱時代から飯沼開発を願い出ていたが許されず、8代将軍吉宗の時代に至った。
たまたま吉宗将軍の荒地開発、米の増産政策が打ち出されるや、関係名主達とはかって開発を願い出た結果、遂に許可が得られた。
そこで、開発の第1用件である飯沼の水を何処に落とすかをはかった。
案としては、
・坂手江島から鬼怒へ落とす線
・猫実-小谷沼−内守谷-鬼怒へ落とす線
・その他
いくつか出たが、落差と経費の関係から何れも実現に至らなかった。
その後、馬立入沼口から幸田、神田山地先を新しく掘削して、菅生沼から利根川へ落とす排水路が詳しく実地調査された。その結果幕府の許可があり、享保10年(1725)起工され、完結を見るに至った。
こうして飯沼落しは、できたのであるが、落水が思うようでなく、幾度か改修されたといわれる。
関連 このページの「菅生沼の歴史」を参照ください。 (4/1)
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夏日、真夏日があり、昨日今日は2月下旬から3月上旬の寒い陽気である。春に3日の晴れなしと言われるが、誠に不陽気である。
それでも、紅白のハナモモの花は満開、花の王様といわれるカイドウも花盛り、黄色のレンギョウ、ピンクのハナズオウ、ヒマラヤユキノシタに混じってシャガの花も顔を出してきた。
桜は今日が満開である。この寒さでは花は長持ちするであろう。
サクラはバラ科サクラ属の樹木である。アジア東部−ヒマラヤに固有で、日本にはヤマザクラ、エゾヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラなどのヤマザクラ系の種類と、これに似たチョウジザクラ、マメザクラ、ミネザクラ、ヒガンザクラが自生し、中国原産のカンヒザクラ(ヒガンザクラ)も暖地に植えられている。
これらのほか、古来観賞用に栽培されていただけに園芸品種が多数あり、これらはその細かい系統いかんにかかわらずサトザクラ(里桜)としてまとめられる。
サクラは古来万葉集など詩歌にうたわれ、愛されてきた。ウメに代わって左近の桜が植えられたのは桓武天皇の時代といわれる。八重咲きのサクラは平安時代にすでに知られていたが、特に江戸時代に入ってからは多数の品種が育成され今日に残っているものが多い。(4/4)
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現在県営畑地帯総合整備事業菅生地区の古谷原地区の中心には私の畑もあり、事業が終われば畑の位置も変わってしまう。昔は広い場所であると思っていたが、今見るとそれほど広大な土地とも思われない。
関心があるので菅生城祉発掘と合せて、「水海道郷土史物語」をもとに角度を広げて記してみる。
本丸 周囲400mほどの小丘で雑木林となっている。いずれの面も傾斜が急で登るのが困難である。中央からちょっと北に「城主大権現」の石碑がある。そこから約20m離れた低めの所に井戸が残っている。今回の発掘で確認されている。
二の丸 本丸の西、その間約10mの深い堀となっている。もともと山続きであったのを築城の際にうがって深掘りとなし、これに橋をかけたという。二の丸側には、明治初年まで、かけ橋の礎石が見られたと。礎石がもとあったあたりは、十年程度まで畑地であったが、今は何も作らず、荒地になっている。古老は、昔この畑を耕起中に、往時城兵の使用したらしい石まんじゅうをかなり掘り出したと言っていたという。
から掘 1・2の箇所は山林中にかなり深く残っている。三の地点もあったとも聞くが、その跡は見られない。と記されている。しかし今回の発掘で明らかとなり、観音様の西まで続いている広大なものであった。
お船畑 往時の小谷沼谷津がかなりくいこみ、その西畑となっている所も二百mほどは他の畑よりは2-3m低くなっている。ここは、通称、「お船畑」などといわれる。その昔、通水して、軍船を隠し置いたように考えられる。
侍屋敷・馬場 古谷原の一帯の耕地にあった。なお、侍屋敷は旧県道(諏訪・菅生線)の北側、もと絹西中学校(現島崎製作所)西側民家の辺も重臣が居たといわれている。
この古谷原の中央に観音堂がある。佐賀四郎家の氏神であるが、「なぜ、こんな離れた所に、うちの守り本尊があるのかわからない」と家人も言う。
なお、正月3日には村人のほとんどが、鎮守日枝神社に続き、この観音堂に朝詣でする慣習になっているが、それはなぜか、この一観音と村との間に何か関係があるのだろうか。往時、城内へ移した妙見菩薩のことと併せて考えてみたい。
その東北50m、入り組んだ谷津があり、その谷津に接して小塚のようなものがあるが、なんであるかわからない。菅生越前守が城内に移したという妙見菩薩はこの辺らしく、この小塚とそれとは何か関係があるかどうかと記されていたが、今回の調査から見ると、空掘りに周囲を囲まれた物見櫓であった可能性が強いようである。
物見櫓 別雷神社辺に物見櫓があったといわれる。
表門 (皆見博衛氏談・・・旧制水海道中学校第6回卒業生)皆見氏は郷土史に関心が高く、「妙見大菩薩縁起」の氏による写しなどもある。
県道岩井、板戸井、藤代線と旧県道諏訪、菅生線は平松で交差するが、その交差点のそばや「天寿庵」のすぐ東方に、本城の表門があったという。
この交差点から150m東に行き、旧県道の南側へ向かう道が以前の本通りであり、谷津田を上がりすぐ左に折れて旧県道の県道のほうに出たのであった。左への折れるその曲がり角に、「明治30年平間佐平」の名が刻まれた道祖神が、榎の下に建ててある。そこに、「西、野田、東、水海道、、内守谷」と道しるべがあることから、ここが本道であったことが分かろう。ここで曲がらず、真っ直ぐに坂を上り詰め、別雷神社北を過ぎた所が古谷原である。ここから一直線に約400m、左に観音堂、小塚を見つつ壕跡を越えると菅生城跡。そのふもとを辿り谷津田を越えると、すでに内守谷である。
関連 「馬」のページ「菅生城祉」
このページの「菅生城祉発掘」を参照ください。 (4/5)
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