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 ナツツバキ   カシワバアジサイ   ツンベルギア   キイロスズメ   メロン   ブーゲンビレア
 
ハンゲショウ   マンゴー   佐藤錦   厳島神社   日本の世界遺産   錦帯橋   ナナフシ
 
津和野   愛の毛布      オクラ   角島灯台   積乱雲   門司港レトロ地区   かぼちゃ
 
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ナツツバキ

 ナツツバキが咲きだした。
 ナツツバキはツバキ科の落葉高木。本州(福島以南)から九州の山地にはえる。樹皮は平滑で渇色、古くなると剥離して独特の模様を生じる。葉は楕円形で先は尖る。6-7月葉腋に径5p、白色5弁で、花弁にしわのある花を開く。葉と花弁の裏面には白い絹毛がある。おしべは多数で合着する。卵形で先が尖ったさく果が10月に熟し、5裂する。庭木、公園樹とされる。
 なお寺院などに植えられてシャラノキ、サラノキと呼ばれるが、サラソウジュとは別である。
 近縁のヒメシャラは関東ー九州の山野に生え、葉は卵状楕円形、径2cm内外の白色の5弁花を開く。

サラソウジュはフタバガキ科の落葉高木で、マメ科のムユウジュ、クワ科のボダイジュと共に仏教の三大聖木とされている。何れも熱帯アジアの熱帯雨林を中心に分布する。したがって、日本にはない。
 釈迦が涅槃に入った臥床の四方に2本ずつあった沙羅樹。涅槃の際には東西・南北の双樹が合してそれぞれ1樹となり、樹色白変したという。双樹の栄枯については教典により異説がある。
 平家物語(1「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」 は人々のよく知る所であるが、ナツツバキの花も、朝に開いて夕べには落ちてしまう、はかない花でシャラノキと呼ばれる意味もよく分かる木である。(6/22) 

 

オクラ

 

 

カシワバアジサイ

 梅雨前線の活動が九州方面で活発で、地域的に大雨による水害と土砂崩れの被害が出ている。次第に東へと移動して大雨を降らしている。
 梅雨の季節の花、紫陽花が綺麗である。
 一般に梅雨の季節、大きな手まりのような花を咲かせる。アジサイは、ガクアジサイの両性花がすべて装飾花になった園芸品種で、花の咲きはじめから次第に花の色が変化するのが特長。また。ハイドランジジアと呼ばれるセイヨウアジサイは、ヨーロッパで改良されたもので、多彩な品種が日本に逆輸入されている。
 
 写真のカシワバアジサイは「スノークイン」で、’雪の女王’の名にふさわしい、ボリューム感あふれる美しい花穂に魅力がある。
 大きな切れ込みのあるカシワに似た葉と、円錐形のボリュームいっぱいの花穂が魅力のアメリカの庭のアジサイで。葉は秋に赤紫色から赤銅色に紅葉し、長く楽しめる。
 この頃あちこちで見かけるアジサイである。(6/24)

関連 「錦鯉」のページの「長崎」を参照ください。

 

 

ツンベルギア

 鮮やかなな黄色の花を次々と咲かせるキンシバイ(金糸梅)ピペリカム’ヒデコート’、や金色の花火を思わせる長いおしべが見所のビヨウヤナギ(美容柳)ヒベリカム’カリシナム’が今、花の盛りで見事である。

 写真のツンベルギアも見事に紫の朝顔のような花を次々と咲かせている。
 先に紹介したように、この花は、石垣島に旅をした時にホテルの庭から挿し穂を頂いて来たもので、どんな花が咲き、名前も分かっていないものであったので、翌年花が咲いて驚き「石垣の花」と仮の名をつけて紹介したものである。
 ようやく、科名、学名を探し当て、後に紹介した花木で思い出の植物である。
 現在は挿し木で5本ほど若木を育てているが、まだ、この辺では市販は見られない珍しい花木で大切に育てている。
 思い出を育てることは楽しいことである。(6/26)

 関連 「百日紅」のページの「ツンベルギア」を参照ください。

 

 

 

キイロスズメ

梅雨の晴れ間、ブロック塀に体を休めるスズメガを見つける。コスズメかと思ったが、少し大きいようである。写真に収め、良く調べてみると、やはりキイロスズメであった。
 キイロスズメは、鱗翅目スズメガ科の蛾で、前翅長43-53mm、前翅の全縁部は緑色を帯び、翅頂からの斜線に沿って帯状に淡黄色。後翅は黒地に帯状の褐色班がある。腹部側面は黄褐色。5-10月に平地や低山でごく普通。食草はヤマノイモ、トロロ、ツクネイモ、サトイモなど、分布は本州以南である。
 幼虫は芋虫の代表で、成虫は飛ぶ力が強く活発、主として夜間活動し花に止まらないで蜜を吸う。
 日本にはスズメガの仲間が約70種いる。

 なかなか精悍な姿である。ゆっくり観察ください。(6/26)

 

メロン

 メロンの季節である。
 メロンは果実を食用とするウリ科のつる性植物の一群の総称である。
 日本では主に網メロン、カンタループ、冬メロンなど欧米系の3変種およびそれら相互あるいはマクワウリとの交雑品種をさす。茎、葉、花、などの性質はマクワウリなどとほぼ同様。熟果は大型の球形。
 網メロンの代表格はアールスアェボリットで、芳香(じゃ香)があるところからマスクメロンとも呼ばれる。果皮が薄緑か淡黄色で、表面に網目があり、果肉は淡緑色で甘い。ハネデューは冬メロンの一種で、表面は平滑で灰白色、果肉は淡緑色で甘いが、香りは少ない。何れも温室で栽培される。
 現在主流のネット型は、季候や日本人の好みに合わせて改良されたハウスメロンと呼ばれるもので、果皮のネットは亀裂を保護する組織で、いわばかさぶたである。
 写真は、市内〔常総市馬場〕産の「筑波レッドメロン」で、市内でも、素晴らしい外観を持ち、ご覧のような鮮やかなオレンジ色の果肉と上品な味のメロンが生産されていることを知って改めて喜び、お知らせする次第である。(6/27)

 

ブーゲンビレア

 梅雨の晴れ間、ブーゲンビレアが満開で見事である。大型の赤色も咲いている、橙色はすでに終わり緑の葉が伸びている。
 ブーゲンビレアはオシロイバナ科イカダカズラ属ノ常緑つる性木本である。南米原産で熱帯では樹木にからみ付いて咲く。
 ブーゲンビレアとはイカダカズラ属のイカダカズラ、テリハイカダカズラ、パルピアナの3種と、この3種の種間交雑によって作出された数多くの園芸品種の総称で。花びらのように見えるものは花序の苞葉。
 花は日本では夏咲く、中心部に2-3個ある筒状の花は小さく、3枚の美しい苞葉に包まれる。
 葉は楕円状披針形で光沢がある。
 幹にはとげがある。
 沖縄など亜熱帯地方では庭で盛んに栽培されている、夏の花である。
 ブーゲンビレアの名は1766年にルイ15世の命を受け、未知の大陸発見に出かけたフランス船の艦長ブーゲンビル中佐に由来する。同行した博物学者コメルソンが途中、リオデジャネイロでこれを採集し、艦長の名前をつけたというから面白い。(6/27)

 

 

ハンゲショウ

 今年は、7月1日今日は半夏生。72侯(24節気)の一つ、第30侯。雑節の一つでもある。太陽の黄経が100°に達する時で、夏至から11日目。現行暦では7月2日頃。このころ半夏(カラスビシャク)が生ずるのでこの名があるのだという。田植えはこの日までに終わり、梅雨はこのときから明けるとされる。
 
 写真は植物のハンゲショウ(半夏生)で、モジズリ(ネジバナ)と共に今花盛りである。アガパンサスの紫の花、黄色のニッコウキスゲの仲間ヘメロカリス、エゾミソハギノの赤紫の花も咲き出した。7月は盆の月である。植物は季節を良く知っているものである。
 ハンゲショウはカタシログサとも呼ばれ、ドクダミ科の多年草である。本州から沖縄、東アジアの平地の水辺に生える。茎は直立し、高さ80cm内外。長卵形の葉を互生する。6-8月、小さな黄白色花を多数穂状につける。花披はない。名は、半夏生(はんげしょう)のころ茎の上部の葉が白くなるためとも、白くなった葉色を半化粧に当てたとも言われる。
 名前にも趣のある、ちょっと変わった日本的な面白い野草である。


   半夏生白あざやかに出そめたる       福井圭児
                                           (7/1)

 

 

マンゴー

 マンゴーは熱帯アジア原産のウルシ科の常緑高木で、バナナ、パパイヤに次いで馴染み深く、日本人の味覚に合うトロピカルフルーツ。インドでは4000年前から利用された。多くの品種があるが、日本で出回るのは2種類。ペリカンマンゴー(カラパオ種)はフィリピン産で、黄色で扁平。アップルマンゴーはメキシコ産で、丸みのある実は緑色に赤みがさす。
 現在では、国産の宮崎県産の写真のような「宮崎完熟マンゴー」が出回り始めた。
 写真は西部産・完熟マンゴーで、宮崎県内でもいち早くマンゴーの生産に取り組み、徹底した生産管理を行い、樹上で完熟させ、自然にネットに落下した完熟品のみを収穫する。(日本で最初にJA西部が導入した収穫法)南国の太陽をたっぷりと浴びて育った「完熟マンゴーは、マンゴー本来の美味しさ、香りを充分に蓄えた果実で美味しい。(7/5)

 

 

佐藤錦

 「佐藤錦」はサクランボの種類である。
 今年大学生に成った孫娘が、山形の自動車教習所に学生団体で夏期休暇教習に申し込みをした。。そのお礼に教習所から保護者の元にサクランボを送って来たのである。何処の社会もそれぞれに厳しいようである。
 ルビーのような美しさとその甘さが他のサクランボの王様「佐藤錦」。この佐藤錦がこの世で初めて実を結んだのは大正11年(1922年)のことである。
 明治初期に初めて輸入されたサクランボの苗木は、その後、山形県東根市の佐藤栄助翁と岡田東作翁の努力によって、それまでの日持ちが悪く酸味も多く実の固い品種が苦労の末改良され現在のサクランボの代名詞とも言われる佐藤錦となったのです。
 
 何によらず大変な歴史と、苦労があるものですね。
 じっくりと賞味させていただきましょう。(7/9)

 

 

厳島神社

 7月15日1996年12月に世界文化遺産に登録された厳島神社を参詣した。
 暑い日で鹿も松の木の根元の日陰に寝そぺって暑さを避けていた。
 海中に聳え立つ朱塗りの大鳥居と共に、祭神、市杵島姫命・田心姫命・端津姫命が祀ってある。スケールの雄大さ、寝殿造りの技の極地を物語る建築美、どこをとっても、国内有数の名社といわれるにふさわしい威厳と風格に満ちている。社殿の創建は推古元年(593)佐伯鞍職によるものと伝えられ、その後の仁安3年(1168)平清盛によって現在のように造営されました。海の中に建つ大胆かつユニークな配置構成の麗姿は、時代を超え、今なお訪れる人々を古の宮廷文化へ誘います。
 本社を中心に、客神社、門客神社、大国神社、天神社などの格社が配置され、朝座屋、高舞台、楽房、能舞台などがその間に設けられています。また、内侍橋、長橋、反橋などの橋が架けられ、建造物は延長108間におよぶ回廊でつながれ、見事に調和したものになっています。
 鮮やかな朱塗り・檜皮葺きの荘厳な屋根、清楚に配列された柱、ゆったりとした板敷床など平安時代にその極に達したその寝殿造りの建築美を誇っています。戦国時代には、日本三大奇襲戦の一つとして有名な厳島合戦の凄絶な舞台となったことで広く知られているところである。
 昔から「神の島」として崇められてきた宮島は、美しい瀬戸内海に浮かぶ歴史と浪漫の島である。(7/20)

日本の世界遺産

 1972年にユネスコで採択された世界遺産条約を日本は1992年に批准した。この条約の目的は、世界に価値の高い文化遺産や自然遺産を人類共有の財産として認め、それらが破滅や滅失の危機にさらされている時、各国が協力して保存のために力を尽くすというものです。そして、その遺産が顕著な普遍的価値を有していると認められたときにはじめて、人類共有の財産として世界遺産に登録されます。
 
 日本の世界遺産として登録された文化遺産は法隆寺地域の仏教建造物(1993/12)、姫路城(1993/12)、古都京都の文化財(1994/12)、白川郷・五箇山の合掌造りの集落(1995/12)、原爆ドーム(1996/12)、厳島神社(1996/12)、古都奈良の文化財(1998/12)、日光の社寺(1999/12)、琉球王国ノグスク及び関連遺産群(2000/12)、紀伊山地の霊場と参詣道(2004/7)、石見銀山遺跡とその文化的景観(2007/7)
 
 自然遺産では、屋久島(1993/12)、白神山地(1993/12、知床(2005/7)がある。
 
 私の知人も努力している平泉の中尊寺も、日本政府の暫定リストの中に「平泉/浄土思想を基調とする文化的景観」(2001/6)にあげているが、世界遺産への登録は、イコモス(国際記念物遺跡会議)の登録延期勧告によって、かなり厳しい情勢となっている。しかし、世界遺産に登録されようとされまいと、平泉の価値は普遍であるといっている。彼はいう、朝日新聞社刊「中尊寺」の中で故石田茂作博士がとりわけ激賞するのは、金色堂の漆工芸である。英語で、漆あるいは漆器がジュパンの代名詞となるほど、漆工芸は日本が世界に誇り得る工芸文化である。これこそ、力説すべきでなかったか。更にもう一つ。金の文化である。といって、平泉は、エジプトやインカのような金無垢、つまり金ぴかの文化ではない。漆工芸と表裏一体の繊細な金箔押しであり、蒔絵の美術工藝である。かつて奥州は世界有数の産金地帯だった。金色堂はその記念碑と言ってもいい。その金色堂は13世紀末、マルコポーロによって「黄金宮」としてヨーロッパに伝えられ、東方へ、東方へーのロマンをかき立て、コロンブスの新大陸発見につながったこと、あまねく知られた話である。金色堂はまさに、世界史的衝撃なのである。
 浄土思想を基調とする文化的景観より、この歴史的事実を突きつけることの方が国際的に、よほど説得力をもつのではないか。・・・((岩手日報」名村栄治より抜粋)
 残念ながら今年の登録は見送られたようで今後に期待する所である。(7/22)

錦帯橋

 山口県岩国市の錦帯橋を訪ねた。
 往復入橋料は大人往復300円、見た目には見事な橋であるが、渡ってみると急勾配でまことに不便な橋である。
錦帯橋は岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋である。日本三名橋や日本三大奇矯に数えられており、名勝に指定されている。藩政史料には大橋と表記されることが多く、「錦帯」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。
 5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3m、幅員5.0mで継ぎ手や仕口と言った組木の技術によって造られている。杭州の西湖にある「錦帯橋」をモデルにして1673年に架橋された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。
 
 初代岩国藩主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と城下町をつなぐ橋は、数回架けられているが、錦川の洪水により、たびたび流出していた。
 
 三代藩主吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造る事に着手する。橋脚を無くすことで流出を避けられる事のアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30mの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200mもあるため、同様の跳ね橋とする事は困難であった。
 広嘉は、明の帰化僧である独立から、杭州の西湖には、島づたいに架けられた6連のアーチ橋あることを知る。これをもとに、連続したアーチ橋と言う基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
 
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。しかし、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建した所、この改良が功を奏し、276年間に渉り、流されずにその姿を保った。

 1950年(昭和25年)9月に発生したキジア台風により、錦帯橋は流出してしまうが、1953年(昭和28年)に再建。

 1998年(平成10年)5月6日、この橋を軽トラックでわたった3人の男が逮捕された。橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。
 
 2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量の減る時期に施工された。

 2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第1橋の橋脚2基が流失した。後に復旧工事が行われ今に至っている。
 

現在は、観光のための橋で、物を食べながら歩くことも禁止されており、河原には駐車場が作られている。錦帯橋の上・下流には国道があり鉄骨の橋が架かっている。 (7/25)

ナナフシ

 ナナフシ科体長70-100cm、体は緑色−黄緑色、または褐色。本種は♀の頭部に1対の棘が出ており、触覚は短い。中肢と後肢の腿節下縁端には各1対の歯がある。ナラヤエノキにつき、ヤマブキ・ヤマフジなども食べる。卵はごつごつしたしわのある草の実型。本州に分布する。
 
 ナナフシ目についてちょっとふれてみる。ナナフシと言っても別に七つの節からなる虫ではない。漢字では竹節虫と書いてナナフシにあてるが。いかにもそのような感じの物が中にはある。一般に大形でしかも長い。体は普通円筒形だが背腹が扁平なものもある。頭は小さく、口は噛む型。触覚は長いのが普通だが、短くなっているのもある。前胸は短いが、中胸、後胸は常に長くなる。肢はどれも単純であるが、中には装飾葉状片をつけているものもある。基節は小さく附節は5節。翅は有翅と無翅の2型があり、前者では前翅は普通小さい。体が扁平になる主ではこの翅が(全体の感じが)いかにも葉であるような感じを与えるようなものがある。(例コノハムシ)。♂の外部生殖器は変化に飛んで第9腹節にかくれ、尾毛は短く無節。♀の産卵管は小さく、たいてい第8腹節にかくれ、卵は草木の実とそっくり。中には単為生殖をするものがあり、♀だけでどんどん子孫を増やすことができる。変態は不完全。

 ナナフシは擬態の典型的例としてシャクガの幼虫と共によくあげられるが、小枝に似た姿は目の前に居ても見間違うほどである。また外敵に襲われた場合などには、急に落下して死んだ真似をし、若虫の時には肢の自切をおこなうことがある。自切した場合の肢の再生力は非常に早いものがある。世界でおよそ2000種いるが、その大半は東洋区に住んでいる。日本には約20種がいる。
 2歳のひこ孫と調べたが、虫でも、調べて見れば可愛いものである。(7/26)

津和野

 津和野は白壁、なまこ壁、鯉の泳ぐ堀割のある武家屋敷の町である。森鴎外の出身地で今も残る旧宅、そして石州和紙の町という山間の小さい盆地にある小さな町を訪れた。
 鯉がいるのは左側の掘割だけで、右側は生活用水にも使われていて鯉は1匹もいません。
 
 この鯉は藩政時代から飼われているのですが、元々は観賞用ではなく戦いになった時の食糧だったと言うことです。最近、観光客の与える餌で鯉は太りぎみといいます。そのうえ繁殖しすぎて数が増えたと言う問題も抱えているようです。
 津和野のお稲荷さんは全国で唯一つ、稲成と書きます。
 家老の多胡家、大岡家の表門をくぐって中に入ると、そこは町役場です。木造平屋建て、殿町にはよく似合う古めかしい建物でした。また、今から約130年前には津和野の乙女峠でキリシタン迫害事件があり、畳敷きのカトリック教会もある。
 明治の文豪「舞姫」はじめ「高瀬舟」「山椒大夫」など幾多の名作のある森鴎外の旧宅もゆっくり見学することができ。津和野特産の石州和紙の手漉きの実演も和紙工房で見ることができ有意義な一時でした。(7/27)

 

愛の毛布

 「愛の毛布」−いのち灯すとき  は先に紹介した「お母さん窓あけて」の著者、 篠山孝子氏の続刊である。
 先日、氏より丁寧に手紙を添えて発刊間もない本が贈られて来た。ありがたいことである。
 銀鈴叢書 「愛の毛布」いのち灯すとき は2008年7月10日 初版発行 篠山孝子 著  銀の鈴社発行
    定価 1200円+税  145ページの本である。
 
 この本は今から20年前発達障害のある生徒たちを担任した経験から、様々な個性を持つ生徒とふれあい、子どもの好奇心、反抗心、優しさに共感、共鳴し、教育の原点を見つけたので、思い切って書いてみたと著者は言っている。
 また、子どもの暴力行為を起している淋しい心の叫びを赤裸々に書いてみたという。子どもの豊な、みずみずしい感情の形成に、大人の感情や態度が大きくい影響していると言うことをしみじみと実感したとも言う。発達障害の子育てに悩んでいる父母家族、また、非行と断絶に悩まれている父母。
 そして、これらの支援に悩んでいる教師達を少しでも勇気付けることができるならこんなにうれしいことはないと著者は語る。
 父母や上司、人間関係が作れない不満から、身勝手な短絡的凶悪な犯罪に走る事件の多い現在、是非一読をお勧めしたい一冊である。(7/28)

 関連 「みつまた」の「ページ」の「お母さん窓あけて」を参照ください。

 萩は日本海に面していて阿武川が橋本川、松本川の2つに分かれて作った三角州にあり、関が原の合戦に敗れた後毛利氏が防長2州36万石の本拠地とした城下町です。
 三角州全体に碁盤の目に道路が走り、さすが毛利氏の城下町の感がします。その三角の中心からやや西より、、萩城に近いほうに城下町の風情が濃い一角が残っています。
 ここは、かって中・下級の武士の屋敷や町屋があったところで、白壁越に夏蜜柑のなっているのが見られました。これは明治の初めに失業武士の退職金が、夏蜜柑の苗3本だったので屋敷に植えられたものだとも言われています。実がなると、元武士である体面上、頭を下げて売り歩くこともできず、路上に並べて、金入れの箱をそばに置いて無人販売を始めたと言う。萩の町が無人販売のはしりだと言うが本当かどうかは分からない。うがったはなしである。
 町屋の中では今も江戸時代前期の形を残していると言う萩藩御用達の豪商菊屋家が知られています。重要文化財に指定されております。
 武家屋敷では木戸孝允旧宅がある。
 孝允が桂小五郎といわれていた約20年間を過ごした家で、本来は小五郎の実家で藩医だった和田家の家です。
 居宅は平屋一部二階建てにして玄関、座敷等九室’(建坪42坪2合5勺)階上二室〔5坪2合5勺)あり書斎、浴室及び庭園に至るまでよくその旧態をのこしている。

 高杉晋作の旧宅もあり、ごく普通の平屋建て民家が奇兵隊(注※1)の創設で知られる幕末の風雲児・高杉晋作の生誕地です。
 
 松蔭神社を参拝し、松蔭神社は吉田松陰を祭神としています。松蔭は下田にやってきたペリー艦隊で海外密航を試みて失敗、江戸の伝馬牢に入れられました。萩に戻され幽閉中、私塾・松下村塾で明治維新の数々の英傑を育てましたが安政の大獄(注※2)に連座して処刑されました。若干29歳のことです。
 松下村塾は最初松蔭の叔父が開いたのだそうですが、松蔭が教えたのは2年足らずでその中から明治維新の数々の英傑・・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔磨、前原一誠、品川弥次郎、伊藤博文、山県有朋といったそうそうたるメンバーが生まれました。
 まさに明治維新はここから始まったと言ってもいいほどの偉業です。
 
 萩焼きの窯元で夫婦湯飲みを記念に求めホテル萩本陣に宿をとる。
 萩本陣の大浴場で「立ち風呂」「野天風呂」など数種類の風呂に入って旅の疲れを癒し、夕食の「ふぐ会席」は美味しかった。(7/30)

注※1 奇兵隊 1863年、長州藩の高杉晋作らが創設した軍隊。奇兵とは正規軍でないという意味で、百性・町人・中間・足軽・藩士の別を問わず、有志を実力中心主義で入隊させた。士庄相半ばする軍事組織で、藩から武器・俸給を支給され近代的訓練を行い、馬関戦争やいわゆる俗論派から主導権を奪取した藩内戦、第二次長州征伐、戊辰戦争などに活躍。藩の兵制改革で1869年に解体。 

注※2
 「安政の大獄」 1858年日米修好通商条約調印と徳川慶福(のちの14代家茂)の将軍継嗣を断行した大老井伊直弼が同年から翌年にかけて反対派の雄藩大名、公卿、幕臣、諸藩士らを弾圧した事件。橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、ら8名が処刑され、水戸藩主徳川斉昭父子、越前藩主松平慶永らも処罰された。連座者は100名を超し尊王攘夷運動を狂熱化させた。 ⇒「桜田門外の変」 1860年、大老井伊直弼が江戸城桜田門外で尊王攘夷派の水戸・薩摩の脱藩浪士らに暗殺された事件。井伊が勅許を待たずに神奈川条約(日米修好通商条約)に調印したことや安政の大獄を起したことなどが原因。白昼江戸城の門前で暗殺されたことから、幕威失墜の転機となり、事件後幕府は公武合体へ政策を転換した。

オクラ

 我が家の菜園にもトマトが今年は見事に真っ赤に色づいて完熟している。例年疫病にやられてしまうので作るのをあきらめていたが、弟の所から苗をもらってしまったので植えてしまった。植えたからには何とか稔らせたいと、今年は雨よけのビニルの屋根を作ってやった。これが功を奏し、見事に成長し病気にもかからず現在新鮮な完熟トマトが毎朝収穫できる。
 ナス、キウリ、シロウリ、インゲン、ピーマン、シシトウ、ナガアマトウガラシ、ゴーヤも収穫でき、アシタバやモロヘイヤも食べられる、カボチャやスイカもなってている。野菜は大体自給自足できる。
 
 そうそう、写真のようにオクラも結構収穫できる。
 オクラはアオイ科トロロアオイ属の熱帯で栽培される野菜でアメリカねり、おかれんこんの名もある。若いさく果を利用する果菜類で、刻んでかき混ぜると、納豆のようなぬめりができる。日本には幕末に渡来し、1970年代からヘルシー志向に乗って生産が急速に伸びた。ねばり成分はムチンと呼ばれる糖質で、カルシウムや鉄などのミネラル、βカロチン、ビタミンC、も多い。
 オクラは原産地での呼び名である。
 全草トロロアオイに似て、約高さ2m、葉は5裂し、夏、葉腋に黄色花を開く。食用にするのは未熟の果実で、9cm程度の柔らかい鞘を食べる。ぬめりがあって舌ざわりがよく。生食あるいはサラダ、天ぷら、スープの実などにする。(7/31)

 

角島灯台

 7月14日角島に立つ。
 下関市角島は本州最西端の島である。下関市豊北町の北西約1.5kmの海上にあり、鼓形をしたなだらかな丘陵の島で、夢崎と牧崎の両岬が牛の角に似ていることから角島と名づけられたと伝えられ、古くは平城宮址出土の木簡や「万葉集」にもその名が見える。産業は、水産業が中心で、水揚げは旧豊北町内の約6割を占め、島の経済はもとより町の水産業を支えている。農業では、グリンピース、いちごのほか、古くから和牛が放牧されている。
 平成9年に島一帯が北長門海岸国定公園に編入され、海水浴、キャンプ、遊漁などの観光客が多く、明治9年初点灯の石造りの角島灯台がある灯台公園には、沢山の観光客が訪れ、また、本土と島を結ぶ、平成12年11月3日に完成した紺碧の海に架かる延長1、780mの左右にゆるやかなカーブを描く角島大橋は日本屈指の長さを誇る無料橋で何とも素晴らしい。
 
 角島灯台は、当地が古来北前舟等の海上交通の要衝の地であったことから、明治政府が建設を決定し、イギリス人技師RHフラントンの設計により、明治6年(1873年)3月1日に完成点灯した。
 灯塔は御影石造りで、石造りの灯台としては全国3番目の高さを誇り、堅固で重厚な中にも美しい造作が見られ、下関市の有形文化財に指定されている。
 1等8面のフレンネルレンズは、明治6年(1873年)イギリスで製造、輸入され、現在もその美しい姿で光を放っている。点灯当時は、イギリス人技師ディックが灯台長を務め、技術指導に当ったという。

夢崎から牧崎にかけての変化に富む海岸線はハマユウの群生する浜辺だという。そちらには行けなかったが、角島灯台公園の周囲に植栽されたハマユウの花を見ることができて満足だった。(8/1)

積乱雲

 積乱雲は10種雲形の一つ、垂直に発達する雲の1種で、形は積雲に似ているが、垂直方向の発達が著しく、その頂きは山や塔状に立ち上がり、入道雲と呼ばれる。その上部は氷晶からなりなり、種々の形を示すが、かなとこ状に広がっていることが多い(かなとこ雲)一般に驟雨性の降雨を伴い。ときには雹を降らせる。国際式記号はCb。
 
 積乱雲ほど、恐ろしげな雲は無いだろう。稲妻と少し間を置いて轟き渡る雷鳴、突風にあおられた嵐のような雨。真夏の激しい夕立は、積乱雲によるものだ。
 積乱雲は、巨大な雄大積雲がさらに発達してできる。雲底は、地上2km程度の低い空にあり、雲頂は、高度10kmに達することもある。雲底は暗く水平で、10km程度に広がることもある。これほど大きいので、全体の姿は遠く離れないと分からない。
 先日、大雨によって急に川が増水し、工事中の人夫や親水公園で遊んでいた幼稚園児・小学生が水に流されて亡くなり、路上冠水、、家屋浸水、崖の崩壊による家屋の倒壊・道路の損壊、田畑への損害、突風によるテント崩壊による死亡事故、落雷による家屋の火災等多くの災害が起きたばかりである。危険からの早い避難と、安全へのその対策は早急に見直されるべきである。(8/3)
 

門司港レトロ地区

 関門トンネル車道下のトンネル遊歩道を700mを歩いて下関から門司へ渡り、門司港レトロ地区に入る。
 レトロ地区の桟橋からクルーザーに乗り関門海峡の玄界灘側左側近くに、平家が滅亡した源平合戦の最後の戦いの地、壇ノ浦を見学し、続いて橋の瀬戸内海側に武蔵・小次郎対決の巌流島を周遊する。巌流島は結構大きな島であったが、当時は現在の五分の一の小さな島であり、今は埋め立てで五倍の大きさになっているとのことであった。
 クルーザーを降り、まずレトロ街見学に出かける。
 最初に重要文化財の門司港駅を見た。左の写真は駅舎としては唯一つ国の重要文化財に指定されている門司港駅である。洋風の木造二階建てで、今でもJRの駅として使われている。駅舎内の喫茶店、待合室、トイレ、洗面所も昔のつくりのままで表示も旧字体右書きで、今もそのまま使われている。
 明治から大正時代にかけて建てられた数々の建物が今も、昔のままの姿で残り、イベントホールやレストラン、喫茶店、休憩室として利用されている。
 観光用の人力車も走っている。
 北九州市では門司港レトロは、今、新しい観光スポットとなっている。(8/4)

かぼちゃ

 家内が買って食べたかぼちゃが美味しかったからと、種をとって置き蒔いた江戸崎かぼちゃが生育がよく実をむすび、収穫できた。写真の大きいかぼちゃがそれである。西洋種でほくほくした肉質が特長のようで美味しい。
 かぼちゃは、16世紀に渡来した東洋種(ニホンカボチャ)、幕末に渡来した西洋種(セイヨウカボチャ)、近年品種が多く登場してきたペポ種(ペポカボチャ)、の3種が日本で栽培されている。
カボチャはカロチンやビタミンC、B1、B2、を多く含み、カロリーも高い。冬至゜に食べる習慣は、先人の知恵といえる。
 
 手前の小さい5個のカボチャは、大塚戸の横島さんのお宅から頂いて来たもので、おもちゃかぼちゃ。ペポ種。食用ではなく、インテリアやお盆のお供えにされる。可愛く、きれいなものである。ありがとうございます。(8/5)

 

 

馬関戦争

 写真は下関側の関門橋たもとの「みもすそ川公園」で後ろに見えるのが関門橋。記念碑が馬関戦争のものである。この左の方には数えはしなかったが10台に及ぶ砲台がぞろっと関門海峡に向けて備えてある。
 また、壇ノ浦古戦場を一望できるこの場所は「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」(長門本平家物語)という二位の尼辞世の歌から地名が生じたたといういわれ、当時を偲ぶ石碑や、歌碑もあります。
 
 馬関戦争は、1864年英・米・仏・オランダの四国連合艦隊が下関海峡から長州藩(萩藩)を攻撃し、一部は上陸して藩兵と戦い、海峡沿岸の砲台を全滅させた事件。四国連合艦隊下関砲撃事件、下関事件とも。前年長州藩が攘夷決行のため海峡航行中の米。仏・オランダの船舶を砲撃したことへの報復と、長州藩や幕府の攘夷主義を粉砕するのが目的であった。
 長州藩内尊攘派が攘夷を捨てて開国に転ずる契機となった。
 とんだ所でタイムスリップ。
 
 ところで、関門橋の海の下には国道関門トンネルがある。
 関門トンネル(TN延長3、461.4m)は、昭和12年(1937年)に計画され、戦争による中断はあったものの、21年の歳月をかけて、昭和33年(1958年)3月に完成した海底トンネルで、車道下には人や自転車も通れる世界的にも珍しい人道(海底部780m、所要時間約15分)も備えています。関門トンネルと昭和48年に開通した関門橋は、本州と九州を結ぶ大動脈として現在も大事な役割を果たしています。
 関門トンネルは海底トンネルのため、絶えず海水がトンネルの中に染み出してきます。その量は1日4、800t、ドラム缶にすれば24、000本分です。このため、トンネル内に海水がたまらないように下関、門司側の2箇所に水抜き専用の立て抗を設け、排水ポンプで地上に汲み出しています。又、万一の停電時に備えて自家用発電機が備えてあり、一般家庭1000軒分の電気を送ることができます。停電時には、この自家発電機から電気が送られ、いろいろな設備が停止することなく働き続けます。
 お蔭様でなんの心配もなく、海底70メートルを700m歩くことができました。考えて見れば大変なことですね。(8/7)

 

トウキョウダルマガエル

 東京達磨蛙’(トウキョウダルマガエル)は跳躍力があり、水中に逃げると、その場でじっと身を潜めていることが多い。トノサマガエルと似ているため混同されている。実際、子どもの頃からトノサマガエルと呼んでいたが、蛙がいなくなったこの頃トウキョウダルマガエルという名前が使われるようになってきた。
 もう何十年来トウキョウダルマガエルの姿はこの辺では見られなかったが今年になって屋敷内の池で2匹程見られ、今回初めて写真に収められた。
 仙台、新潟、関東の各平野などで見られる。おおきさは40ー85cm、体の色は固体ごとに様々。緑色系が多いが灰褐色や茶褐色のものもいる。トノサマガエルと似た色形や模様だが、背中の黒い斑点は、それぞれ独立し、重なり合わないことが多い。
 すみかは平野から低山の沼や田圃など。繁殖期以外はまばらになっているため見つけにくい。
 鳴き声はグゲゲゲケッグゲゲゲと連続してなく。昔はやかましいほど聞こえたが今は聴くことがない。
 卵とオタマジャクシは 繁殖は4−7月の間だらだらと続く。オスはいつ現れるか分からないメスを獲得するために縄張りを作る。オスは鳴いてメスを誘いこんだり、他のオスの侵入を排除するなど忙しい。しかし、本種には縄張りをもたないスニーカー(忍び寄る者)と呼ばれるオスもいる。スニーカーは、鳴き声でメスを誘うこともせず、縄張りをもつオスのそばに潜み、縄張りのオスにひきつけられてくるメスを横取りしたり、縄張りそのものを奪ったりする。縄張りをもつオスは、子孫を残す可能性は高いが、労力も必要で天敵に捕食されやすい。一方スニーカーはうまく行けば安全で楽に子孫を残せる。スニーカーは多くの蛙で発見されつつある。
 田圃への農薬散布などによって居なくなった蛙であるが、壊された自然が戻りつつある兆しであれば良いが。(8/8) 

ゴーヤ

 写真は我が家の菜園で収穫したゴーヤである。
 ゴーヤは、ツルレイシ、ニガウリ、レイシ、とも呼ばれ。熱帯アジア原産のウリ科のツル性一年草で、葉は掌状で淡緑色、雌雄異花で夏、黄色花をつける。果実は長楕円形か紡錘形で表面に多数のこぶ状突起を有する。成熟するとだいだい黄色となり。果皮が裂けて紅色の果肉を現す。
 東南アジアでは重要な果菜で、日本では沖縄や九州で栽培されてきた。ビタミンCやミネラルの含有量が極めて高いので、健康野菜として人気が高まり、最近は全国的に出まわる。
ゴーヤという沖縄での呼び名も、よく知られるようになった。独特の苦味があるが、豆腐や豚肉との相性がよく、炒め物にも向く。この頃は、薄く切って湯通しをして、うすく塩を振り冷凍して冷たい物を食べるのも暑い夏には好まれるものである。
 今年のゴーヤは特に長い種類のようで見事である。昨年作った紡錘形の短い種類も写真の一番奥に写っている様になりだしている。結構種類は多いようである。(8/9)



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