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カルミア 新上五島 アコウ 九十九島 長崎 平戸 伊万里
キンポウジュ びわ 水海道小学校記念誌3 ベタ ニシキテイカ
ネム 石垣の花 フウセンカズラ 施餓鬼 シペラス シータテハ
ヒメウチスズメ ハマユウ ニチニチソウ 猿払村 宗谷岬 礼文島
利尻島 ワレモコウ 稚内
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ヤマボウシ、アカバナヤマボウシの花が見える。やはりヤマボウシは白花が何といっても風情があってよい。ユキノシタの花も咲き出した。これもまた変わった花で面白い。
写真の花はアメリカを代表する花木の一つで、見事に咲き乱れる花は日本でも人気がある。カルミアである。
カルミアはツツジ科カルミア属の常緑花木で、今が見ごろである。
金平糖のような花は、蕾の間は鮮紅色で、開花すると外側が鮮紅色、花弁の内側はピンクという取り合わせに。花が満開になると葉が見えないほど。樹勢は強いほうではないが、管理が十分であれば毎年樹冠いっぱいに花をつける。
ガーデニングの主木や庭園の景観木に。品種改良により、いくつかの品種があり、組み合わせも面白い花木である。 (5/26)
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九州は長崎・新上五島町を訪問する機会を得た。青い湖のような静かなきれいな入り江の海に囲まれた島々の浮かぶ新緑の自然の素晴らしい島であった。電気水道は勿論、道路も整備され、長崎港から2時間40分のフェリーの距離にあるとは思えない。
実はこの島に、29の教会があるというから驚く。
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として文化庁は、国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに掲載している。
「西洋の建築技術と日本の伝統的建築技術の融合がもたらした質の高い造形意匠をよくとどめている」と文化庁の特別委員会の許可が示すような、独特の造形的意匠を有する新上五島町の”青砂ケ浦天主堂””頭ケ島天主堂”もその提案資産として明記され、大曽根天主堂も構成資産としての認定の協議がなされている。
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| 国指定重要文化財青砂ケ浦教会 奈摩湾を見下ろす高台に立つ赤いレンガの教会、明治12年(1879)ごろに小さな集会所で出発し、3代目となる現在の聖堂は明治43年(1910)に完成した。当時の神父が外国から原書を取り寄せて設計施工を指導したことから、様式や意匠が正統的で優れ、レンガ造り教会堂の完成形といわれています。入り口の円柱とアーチと随所に石材も用いられており、カラフルなステンドグラスや、入り口上部の円形のバラ窓も幻想的な美しさを見せます。 |
国指定重要文化財頭ケ島教会 西日本で唯一、全国的にも極めて珍しい石造りの教会。 島内で切り出した石を丹念に積み上げた外観は重厚感に溢れている。 |
頭ケ島教会内部 堂内は天井や壁面などに花柄の装飾が施され華やいだ雰囲気に満ちています。天井は二重の持ち送りによって折り上げられたハンマービーム架構。特異な外観とあわせ、我が国の教会堂建築史上例のない構造といわれています。明治43年(1910)に着工され、完成までに10年とも言われる歳月を要したが、その間には島の信者による資金集めや労働奉仕など献身的な努力があったと伝えられています。 |
永禄9年(1566)、五島にキリスト教は伝来し、領主の庇護の下で布教活動は進められ、信者数は2,000人を超えたと伝えられている。しかし、天正15年(1587)に豊臣秀吉の出した禁教令によって五島の教会はすべて消滅した。
この時から明治6年(1873)の禁教が解ける時まで長い長い弾圧の歴史が続くのですが、その間の18世紀に長崎県の外海地区から開拓農民として集団移住してきた隠れキリシタンの子孫達の歴史が今も受け継がれていると語られている。
この禁教令の迫害・潜伏の期間に信仰形態はより風土に根ざした信仰となり、現在も独特の信仰が守り続けられているという。
まだまだ行った事のない所がいっぱいある。自己の無学さに恥じ入るばかりである。(6/4)
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アコウはアコギとも呼ばれ、クワ科の常緑高木である。
和歌山、四国(太平洋岸)、九州、など暖地の海岸に生える。
写真は新上五島町の奈良尾神社のアコウ樹で、樹齢650年を越えると言われている。神社へ通じる参道を跨ぐように根を張り天然の鳥居として親しまれている。その下を通ると長生きすると伝えられている。
昭和36年に国指定の天然記念物に指定されている。
幹や枝から気根を下垂する。葉は互生し、質厚く滑らかで、楕円形をなし、葉や茎を傷つけると白い乳液が出る。雌雄同株。花序(果嚢も)はイチジクに似るが小さい。防潮、防風、生垣に用いる。
この木はアコウの巨木として、日本有数のものであるという。
(6/5)
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西海公園九十九島は1955年(昭和30年)3月16日、日本で18番目に指定を受けた公園である。長崎県西部一帯とその西側海上に浮かぶ「九十九島」は、佐世保港外から平戸瀬戸まで25キロの海上に連なる島々のことで、島の数は208.。島の密度は日本一と言われている。市内数箇所の展望台からは九十九島の大パノラマの風景を望むことができる。ハリウッド映画「ラストサムライ」や映画「釣りバカ日誌16」等にも美しい夕景が登場している。
写真は俵浦半島のほぼ中央部に位置する展望台「展海峰」での1コマで、ここには、「美しき天然」の作曲者「田中穂積」の像が立っている。
佐世保は米軍基地と大きな造船所の風景が広がるSSKバイバス付近は、旧日本海軍佐世保基地が置かれていたところで、明治に建設された当時の赤レンガの建物が今も現存で使われている。海軍工廠であった造船所は、戦艦「武蔵」が艤装された場所で、道沿いにドックが並ぶ風景は佐世保ならではと大正から昭和初期の平和な時代の海軍志願兵であった親父の姿が重なって感無量であった。(6/6)

長崎は函館と並んで夜景の美しい長崎港の見られる矢太楼に宿泊した。
左の写真が9階からの港の景色と夜景である。お天気もよく、素晴らしい夜景を見ることができた。長崎に来ると、他所のホテルに宿泊しても、夜景を見に、矢太楼に案内されたことを思い出す。
翌日修復された眼鏡橋を見学する。オタクサの名で知られる長崎はアジサイの花がいっぱいである。
昭和57年7月23日、長崎の街は想像を絶する集中豪雨により、死者行方不明あわせて252人という大惨禍を受け美しかった中島川石橋群の5橋を流出し3橋を半壊した。
現在修復された橋のたもとには、
不思議な能力を持つ伝説上の中国の少年と、元気な日本の少女が力を合せ、風を呼び、雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿の像が、安永と、日中友好を象徴して建っている。
長崎は何度訪れても異国情緒溢れる良い街である。(6/7)
関連 「折々の記」のページの「紫陽花」を参照ください。
「なんじやもんじゃ」のページの「「ガクアジサイ」を参照ください。
「「こめ」のページの「カシワバアジサイ」を参照ください。
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勝尾岳は室町前期に白狐山城のあった場所、今その北麗に建つカトリック教会の十字架が写真のように望まれる。その手前の浄土真宗の光明寺更に下の曹洞宗の瑞雲寺と、この三寺院の組み合わせは平戸のエキゾシズムを代表する風景である。
この教会は、昭和6年に建てられたものであるがザビエルの平戸来島を記念して去る昭和46年にザビエル記念像が立てられ、教会の名も聖フランシスコ・ザビリオ記念聖堂と改められている。
平戸の歴史は日本史の縮図とも言われる。
1550年8月平戸にザビエルが上陸してから長崎のキリスト教の歴史は始まった。
1550年(天文19年)にはポルトガル船が平戸に入港フランシスコ・ザビエルも鹿児島から来てキリスト教を伝えた。続いてイスパニアの船も入港し、1601年(慶長6年)にで・カストロが「たばこ」の種を始めて伝えた。
1609年(慶長14年)にはオランダ船が入港し、1613年(慶長18年)にはイギリス船が入港して両国の商館が立ち、平戸は日本最初の海外貿易港として栄えることになった。
しかし、1623年(天承9年)にイギリス商館は閉鎖され、1641年(寛永18年)には幕府の命でオランダ商館は長崎に移される。明の五峰王直を迎えて100年目で平戸の海外貿易は終わりを告げた。
華やかだった貿易時代の史・遺跡が昔日の名残を留め、ジャガタラ文の哀話やキリシタン弾圧による殉教の悲話などが旅人の胸を打っている。
西海公園の発足で全島の24%が特別指定地域となり、昭和52年に開通した「平戸大橋」は四囲の風光と和合して観光のシンボルとなっているところで興味と見所はつきない。(6/8)
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伊万里焼は有田焼とも云われ、佐賀県有田地方産の磁器である。伊万里港から輸出されたので、この名が広まった。
1616年、朝鮮の渡来人李参平が磁器焼成に成功し、寛永末期に酒井田柿右衛門が赤絵を創始するとともに、その声価はヨーロッパにまで及んだ。製品は染付、赤絵のほか青磁、染錦など多種多様である。
伊万里は鍋島藩窯跡国の史跡指定となっている秘窯の里・大川内山を訪れた。
延宝3年(1635年)から廃藩置県(1871年)まで佐賀鍋島藩の御用窯が置かれ、藩窯では朝廷、将軍家や諸大名などへ献上する高品位な焼き物が焼かれ、これが世界の至宝「鍋島」と呼ばれた。
このような歴史を有する大川内山では30数軒の窯元がその伝統、技法を現在の伊万里焼に受け継いでいる。
三方を山に囲まれた”秘境”ムードあふれる川内山は別名”秘窯の里”としてしたしまれている。
まず目を奪われるのは、山水画にも似た切り立つ大屏風奇岩の景観である。
この地は、中国景徳鎮の官窯の組織を模し鍋島藩の御用窯が置かれたところで、レンガ造りの煙突や窯元が立ち並び、今なお300有余年の歴史と伝統が息吹いている。
伊万里焼の特徴としては、
色鍋島は、 光沢の優れた白磁の肌に渋い染付けと赤・緑・黄・の三色を基調として、美しい上絵が描かれている。
鍋島染付けは、呉須の藍色で描かれており、色鍋島のあでやかさと異なり落ち着いた雰囲気の色合いである。
鍋島青磁は、青磁原石を細かく砕いた釉薬をかけて焼き上げたもので、自然の青翠色の光沢が神秘的な美しさをかもし出している。
鍋島藩御用窯で作られた焼物を鍋島と呼び、その伝統を受け継いだのが伊万里焼である。
江戸時代から明治にかけて、伊万里・有田地方の焼物は伊万里港から積み出され、伊万里の地名は焼物の代名詞として呼ばれていた。
その当時の焼物を古伊万里と呼んでいる。(6/9)
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キンポウジュ’スプレンデンス’はフトモモ科カリステモン属で学名Callistemon cittrinus ’Cprendens’(カリステモン シトリナス スプレンデンス)で、
真っ赤なボトルブラシ形の花は、エキゾチッククな風情を作り出す。
ボトルグラスに例えられる真っ赤な花が一番の魅力で、エキゾチックな雰囲気が持ち味。オーストラリア東部原産で、日本には明治の中ごろに渡来。
多くの園芸品種があり、日本でも品種改良が行われている。
関東以南の暖地では露地植えが可能であるが、我が家では冬は屋内で越冬している。
萌芽力が強く、目立った病虫害はない。
冬の乾寒風は避けることが大切である。(6/10)
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びわ(枇杷)はバラ科ビワ属の常緑果樹である。
代表的な初夏の果実でみずみずしさが魅力。晩秋に咲く白花も楽しめる。
葉は堅くて厚く、長楕円形で裏面には褐色の毛を密生する。秋に新枝の先端に花穂をつけ、11月ごろから冬にかけて白い芳香のある花を開く。
果実は黄褐色で球形、中に大きな種子がある。5-7月に収穫。中国渡来とされてきたが、日本の南部には野生していたと推定されている。
九州地方では茂木、千葉県などでは田中という品種が栽培され、2大品種となっている。
果実を生食、缶詰用とするほか、堅い材を木刀、装飾用、葉を鎮咳・去痰薬、入浴料などにする。
ビワはいろいろな薬効があるためか、屋敷内にビワを植えると「病気が耐えない」という迷信もあるが、美味しい初夏の果実である。(6/11)
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水海道小学校記念誌「仰ぐみどりの」刊行を終えてということで、発行者の昭和31年度卆 名村栄治氏から市報に投稿があり、6月号に掲載されているので、市外の読者のために、その一部を掲載する。
・・・
水海道小学校の記念誌「仰ぐみどりの」が完成しました。これ偏にご協力いただいた皆様のおかげです。しかし、いくつか反省点もあります。ここ水海道に、なぜ、地方の小学校として破格の、あの洋風校舎が建てられたのかー記念誌ではこの最も肝心な点について、若干、説明が希薄だったように思います。そこで、広報紙上を借り、改めて補足させていただく次第です。
・・・
本校「沿革誌」によると、あの「さんがい」を擁する洋風校舎が完成したのは、明治14年(1881)7月である。着工したのは同年5月であり、わずか2ヶ月で完成したことになる。
費用5千余円は町民からの浄財で賄った。同時期、水戸の上市東小学校が1千5百円、上市西小学校が1千3百円であり、水海道がいかに豪勢だったかがわかる。
実際、水海道は当時、かなり裕福だったらしい。明治11年、茨城師範が編纂した「茨城県地誌略」は「西に鬼怒川を控え、運送の便よく、繁栄の様は本郡に冠たり」と記している。
明治22年、全国的に町村合併が推進されたが、水海道は何処とも合併せず、独立を保った。明治30年刊「茨城県町村沿革誌」はその理由として、「本町は戸数9百80戸、人口4千5百余にして、独立自治の資力充分なるを持って合併を要せず」と特記している。
しかし、経済力だけであの瀟洒な校舎ができたとは思いない。それなりのセンスと技術を持った大工棟梁がいて始めて可能だったはずである。その棟梁こそ、新町(本町)の羽田甚こと羽田甚蔵である。
・・・
伝承によると羽田家遠祖は南朝の臣北畠親房の家臣で、筑波郡小田城に拠ったが、南朝没落後、豊岡の報恩寺に土着、松崎姓を称した。
江戸中期、鬼怒川の船運によって水海道河岸が栄え、台町(元町)から本町一帯にかけ市街地が形成されたころ、報恩寺から移住、羽田姓を名乗った。
幕末から明治、大正にかけ、代々材木商を営んだが、幕末、初代甚蔵が分家して大工となった。戸籍によると、文久3年(1863)3月、2代目甚蔵が家督と共に大工職を継いだ。あの洋風校舎を建てたのは、この二代目甚蔵である。羽田家には明治初年以来数代に渡って使用した教科書、ノートなどが多数残り、平成元年ごろ、本校に「歴史の部屋」が創設された際、一括寄贈した。その中に、幕末から明治にかけての大工指南書が20数冊含まれ、初代、二代、共に大工棟梁としての研鑚ぶりを伝えている。
蔵書中に大塚戸一言明神や峯下天満宮の縁起書もある。特に、天満宮縁起は二代目羽田甚が自ら筆写したものである。一言明神、又、天満宮の拝殿も二代目羽田甚が建てたといわれ、神社の縁起にまで遡って本質に迫る努力をした様子がうかがえる。
あの洋風校舎は、水海道が鬼怒川の船運によって栄え、豊な土地柄だったことに加え、二代目羽田甚という、自ら学問好きの大工棟梁を得て始めて可能だったのである。
地の利、時の利、そして、人の利を得ての成果と言えよう。・・・(6/15)
関連 「諸葛菜」のページ「水海道小学校記念誌」・「水海道小学校記念誌余話」を参照ください。
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ベタはキノボリウオ科の魚で全長6cm。タイ、マレーシアの原産、熱帯魚として広く飼育される。
赤、青、白、紫、など色彩は様々で、鰭が発達していて美しい。縄張りをもつ雄は相手が倒れるまで闘う性質がある。この性質を利用してタイでは闘魚が盛んである。
従って雄同士を混泳させてはならない。
ベタは鰓の上部にラピリンスと呼ばれる補助呼吸器官があり、空気から酸素を取り入れて空気呼吸をするので、コップのような狭い所でも飼育できる。
飼育適温は23℃ー27℃、食性は雑食性である。
繁殖の時に泡巣と呼ばれる泡状のものを作り、メスが産んだ卵をオスが口で集めて泡巣に付着させます。産卵後、オスはメスを追い出す習性がある。
(6/16)
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ニシキテイカは錦定家で、キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性植物である。
学名はトラケロスベルマム ジャスミノイデス バリエガタムという。
カーペット状の錦葉が楽しめる、手間のかからない常緑つる性植物である。
葉は革質で光沢があり、白斑や黄班が楽しめる。秋以後は照葉の紅葉も手伝って、美しいトリカラーが見られる。
茎ははじめ20cmほど直立し、その後の伸長は匍匐茎になり、地表を這えながら伸び、地面に接する節から発根、翌年はそこから茎を出して株となる。
小鉢で楽しむこともでき、観賞価値のある植物である。(6/21)
関連 「白虎」のページの「テイカカズラ」を参照ください。
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梅雨入りして一日は雨、翌日から関東は梅雨の中休みで毎日真夏日で暑い日が続いていたが、今日は午後から梅雨空が戻り雨になった。
写真のように、ネムの花が咲き出した。
夕方に葉を閉じるネムノキは、初夏を彩るソフトで繊細な花が見どころである。
左の写真が葉色が赤紫色のサマーチョコレートで近年人気の高い品種である。花は夜も閉じない。
右の写真はネムでも属が異なるブラジル原産のトキワネムである。葉は2回複葉で小型、常緑で、四季咲き、花色は濃いピンクで、見事である。(6/24)
関連 「きちじょうそう」のページの「トキワネム」を参照ください。
「朝霧」のページの「ネムノキ」を参照ください。
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石垣島を訪れた際、ホテルの庭から花のないなんだか分からない、つまらない感じの潅木の小枝を頂いてきて挿し木したものが活着して伸び出していた。
熱帯性の植物であるので温室で管理はしていたが、今年の夏は屋外で管理していた所、写真のような見事な紫のアサガオのような直径5cmほどの花を開いているのを家族が見つけた。
意外である。菱形の比較的小さな対生の葉の付け根から細い柄の先に白い蕾をぶら下げ、大きく成長すると7cmほどの上向きの筒状花となり、筒は白く、花びらは紫で5弁に裂けて上向き、筒の中は黄色である。
何とも想像もしなかった花である。素晴らしいの一語に尽きる。
名前はまだ調査中、しばらく、「石垣の花」と呼んで置こう。
ご存知の方は教えてください、お待ちしております。
(6/30)
追記 正しい名前がわかりましたので記しておきます。
キツネノマゴ科ツンベルギア属ツンベルギア エレクタで和名コダチヤハズカズラである。、原産地は熱帯アジア、亜熱帯アジア、アフリカで特徴は初夏から夏に花をつける。高さ1-2mの直立低木のエレクタ(コダチヤハズカズラ)は耐寒温度7-13℃で越冬する植物である。(10/2)
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フウセンカズラはムクロジ科フウセンカズラ属非耐寒性つる性植物である。
別名をバルーン パイン、ハート ピーとも呼ぶ。
原産地は東南アジア、熱帯アメリカである。
直径約3cmのまるく膨らんだ緑色の果実が細い茎の先にぶら下がる。つるの長さは約3cm。鉢はあんどん仕立てがよい。
表土が乾いたら水をやり、伸びすぎない様に肥料を控えて。果実が褐色に熟したらタネを取り、4月下旬に蒔く。
タネにハート形の模様があるので、別名ハート ピーともいう。
花言葉 「魅力ある性格」 (7/2)
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エゾミソハギの鮮やかな紫の花が咲き出した。
ミソハギは盆の祭壇を清める花である。
盆の月である。そう言えば、先日、地区の檀家総代が施餓鬼の集金に来訪したばかりである。
施餓鬼とは、飢渇にくるしむ餓鬼のために、飲食を施す法会を施餓鬼という。中国では唐代に施餓鬼会に関する経典が訳出され、これらの教軌に基づいて法会が行われた。
日本へは入唐僧によって経典と実修法がもたらされ、はじめは密教系の僧によって行われた。その後、禅宗寺院でも実施され、鎌倉時代末期から諸宗間で行われた。
現在でも真宗以外の各宗で広く修される。この法会は本来随時に修されたが、いつの時代からか、特に盆に行うようになり、この施餓鬼の法会をさして盂蘭盆会というようにさえなった。
それほど施餓鬼は盂蘭盆中の代表的行事となったのである。
民間に盂蘭盆行事が普及し、家の先祖とは別に、新亡の精霊や餓鬼仏すなわち無縁の精霊たちにも飲食を施さなければ、家や村のものにとって安心できないという思いが高まってからであろう。
盆はもともと家の祖霊よりも、祭ってくれる子孫を持たない餓鬼仏をまつるのが中心であったとの考えがある。
中国では、盆に来る霊はまさに餓鬼であった。
家の祖霊は各戸でまつり、家とは特定の関係にない無縁の餓鬼すなわち三界万霊は、新亡の精霊とともに村の寺院で共同祭祀として施餓鬼会を実施したのが本来であったと思われる。
現在のように、家の祖先をも盆の施餓鬼会で供養するのは後世の形で、おそらく中世末期以降のことであろうという。
年中行事として、何気無く行われている事でも時には立ち止まって考えてみることも大切なことである。
(注) 「餓鬼」はサンスクリット(梵語)pretaの漢訳。鬼とも訳す。
六道、三悪道の一つ。前世の悪行や貪欲な性質の報いとして餓鬼道に生まれるといい、飲食に苦しみ、食うものを得られないものを無財餓鬼、膿血を食べたり、残り物や施しものを食べることができるものを有財餓鬼という。 (7/7)
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家庭菜園の野菜が収穫できるようになってきた。毎日、ナス、キウリ、トマト、エンゲン、オクラ、モロヘイヤ、ピーマン、シシトウ、甘長トウガラシなど新鮮な野菜が豊富に取れて食卓をにぎわし何よりである。
トウモロコシは一日にしてカラスに食害されてしまい残念であった。カラス対策をしなかったのがいけなかったと反省している。
ところで、
シペラスはシペラス パピルスとも カミカヤツリとも呼ばれ、アフリカ北部から中部原産のカヤツリグサ科の大型の多年草で、河畔や沼地に生え、しばしば大群落をつくる。茎は緑色で太く、鋭い3稜がある。古代エジプトから筆写材料として用いられ、紙が普及する8-9世紀まで盛んに栽培された。現在では日本でも観賞用として温室内で栽培されている。
写真左側がバピルスの小型のイソクラデスで、中央付近の細い小型のものが草丈20-30cmのアルポストリアタスで通称シペラスと呼んでいる。
右よりの緑の長い葉は菖蒲でサトイモ科の多年草で五月節句に飾る植物であるが、昔は菅生沼に沢山自生していたが、現在では見られない。時々岸辺で見かけることがあるが、植栽管理されているもので自生ではない。菅生沼にも昔の自然の面影はない。
熱帯性のシペラスと菖蒲が小さな水鉢の中で冬も地上部は枯れてもそれぞれの根株は水の中で越冬し翌春元気に芽を出し写真のように成長している。熱帯植物も環境の変化か、、環境への同化かは分からないが温室外で越冬している。
置き場所は日当りの良いパーゴラの下であるが、暑い夏の間、扇風機や冷房よりも、緑の葉を揺るがして渡る自然の冷風は風情があって涼しいものでありがたい。(7/12)
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今日は11日目のしばらく振りの快晴真夏日となった。関東地方は太平洋高気圧の張り出しが弱く梅雨明けにはならない。
百日紅、ムクゲ、が咲き出し、アメリカリョウブのロゼアも香りの良い優雅な淡紅色の花穂をつけている。この花には昆虫が良く集まり、毎年花の時期を楽しみにしている花木である。
今日は写真のようにシータテハがやってきた。
タテハチョウ科タテハチョウ亜科の蝶である。
ぼろぼろになったキタテハという雰囲気だが、この羽根でなかなか機敏に飛ぶ。後ろばねの裏にある銀のイニシシャル「C」。これが名前の由来である。
草地を好むキタテハに比べ、林の周辺に良く見られる。秋型は移動性が大きく、高山帯にも平地にも飛んでくることがある。
タテハチョウはチョウ類の中でも最も進化した一群で、静止する時に翅を立てる種類が多いのでこの名がある。
前肢は退化して歩行や静止には役立たないが、感覚毛が集中し、甘味に鋭く反応する。花、熟果、樹液などによくくる。中型の種類が多く、全世界に約4000種、日本には約50種を産する。(7/23)
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昨日は関東地方も梅雨明けとなった。昨年より12日遅い梅雨明けである。しかしながら、台風5号の西日本接近で天気は不安定である。
真紅のモミジバアオイの花が咲き、昨日蒔いた白菜やハボタンが苗床で今日はもうぞっくり発芽している。
目を住宅の壁面に向けると、ヒメウチスズメが写真のように止っていた。
ヒメウチスズメはスズメガ科のがである。
スズメガは体は流線型で翅は細長くほぼ三角形。飛ぶ力が強く活発、主として夜間活動し、花に止らないで蜜を吸う。幼虫は芋虫の代表で、円筒形、無毛、第8腹節に尾角がある。全世界に多くの種類があり、、日本には約70種いる。
ヒメウチスズメは前翅長28-33mm。後翅には大きな釣鐘形の眼状紋がある。前翅の前縁部は灰白色、翅頂下の外縁はえぐられたようにへこみ、その部分が半月形に暗喝色。5-8月に出現する。
食草はドロヤナギやその他のヤナギ類。北海道では多産するが、本州の山地では少ない。(8/2)
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今日は立秋、とは言っても暑さはまだまだ続きそうである。
我が家のハマユウが咲き出した。目黒の国立教育研究所に内地留学していた時、通用門脇の用務員室と通路の空地に用務員さんがハマユウを蒔いて大事に育てて居たのを朝夕興味をもって見ていたことを思い出す。
明日9日は当時お世話になった元国研(現能力開発工学センター)の先生方とお久しぶりにお逢いする予定になっている。しばらく振りに教育談義ができるかと楽しみである。
ところで、我が家のハマユウは千葉県は千倉の旅館から何十年か前に頂いて来たもので、毎年良く花をつけてくれる。
ハマユウは浜木綿と漢字を当て、ハマオモトともいう。ヒガンバナ科の多年草で関東南部から沖縄の海岸の砂地に生える。茨城県が北限植物である。
鱗茎は円柱状で長さ30-50cm、厚く長い葉を束生し、冬も枯れない。8-9月、葉間から高さ50-80cmの花茎を出し、2枚の包葉の上に十数個の香りのある白色花を開く。花被片は6枚で長さ約8cm、おしべ6本、花被の基部は筒状となる。果実は球形。種子は大きく。種皮が海綿質で海水に浮いて広がる。
発芽率は良い。(8/8)
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今日は62回目の終戦記念日。古河の三菱重工に学徒動員され、工場の炎天下の庭で整列して聞いた終戦の玉音は忘れられない。
平和の尊さを噛み締める。
今日もあの日のような猛暑が続いている。暑さに負けずニチニチソウ(日日草)の花が咲いている。
ニチニチソウはツルニチニチソウ属と一緒に扱われることがあり、(ビンカ)と呼ばれることもあるが、現在では別属(カタランサス)に分類されている。
熱帯に広く分布するキョウチクトウ科の小低木で、日本では非耐寒性春蒔きの1年草として扱われている。原産地はマダガスカル、インドネシア、ブラジルなどである。
毎日花が咲き続けることからこの名前がある。ビンクや白色のシンプルな花が艶のある葉に映えて美しく、最近は淡い色の品種も出回り人気が高い。
日光を好むので日当りの良い戸外を好み、乾燥に強く、過湿に弱い植物である。今年の夏には最適の草花である。
花言葉 「友情」 (8/15)
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8月25日元同僚が住んでいた北海道最北の村、宗谷支庁に位置する猿払村を訪ねた。
現在人口2,895人、面積585.65平方kmの北海道一広い村で、総面積の約80%は山林と原野で占める主として丘陵性山地である。 ホタテの漁獲高日本一、村は豊で、ホタテ御殿が多数存在する。
この村にも大変な歴史がある、自然のホタテを取り付くし漁民は漁ができなくなった時代があった。村は困窮し協議の上、大変な借財をしてホタテの稚貝を放流したのが当たって現在のホタテの村になったという。
緯度的にはカナダのモントリオールとほぼ同じ位置で、年平均気温4.4℃、夏期最高気温は30℃近くまで上がることもあるという。
タラバガニ、毛ガニ、メジカ鮭などと豪快な味覚をたっぷりと堪能でき、他に、山の幸や酪農製品も豊富な所のようである。
故人となられた元同僚を偲びながら、新鮮なホタテの貝柱に舌鼓を打った一時でした。(8/25)
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25日日本最北端の地、北緯45度31分の宗谷岬に立つ。
「日本最北端到着証明」 07 08−25 17:02をもらう。
天気快晴、風が強く立っていられないくらいである。したがって暑さは感じない。日陰は涼しく秋の感じである。写真をとるにも、カメラや帽子が吹き飛ばされそうであった。竜飛岬が風が強いといわれるがその比ではなかった。貴重な体験である。
空気が澄んでいて、はるか彼方の水平線上にボンヤリとサハリンが見えていた。
隣の市つくばみらい市の北方探検家「間宮林蔵のブロンズ像」に偉大な偉業を偲び、「宗谷岬」の歌詞と音符の石碑を見ながら流氷館を見学する。室温−11.7℃の館内に流氷が保存されていて見学と貴重な体験をすることができた。地球温暖化の影響で年々流氷も少なくなっているという。
流氷が見られくなる日も間近ではないかと言われる。
地球の温暖化を身近に感じさせられた瞬間である。(8/25)
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8月26日、稚内港から礼文島香深港まで1時間55分の船旅によって礼文島についた。海は結構荒れていたが船酔いするほどではなかった。
礼文島は、今から2万年前、大陸と陸続きであった。氷河期が去り海面が上昇して礼文島が離島となった、そんな太古の歴史を伝えているのが、花の島・礼文島で咲き続けてきた高山植物たちで、美しい青い海も、花たちも、自然の営みの偉大さと尊さを、知っているのである。
礼文島は、北緯45度30分、東経141度4分ー。日本最北端の島で、珍しい高山植物が春から夏の終わりにかけて咲く「花の島」として知られている。本州では2000m級、北海道でも1600m以上の高山でしか見られない可憐な花が、海抜ゼロメートルで咲く、ここは「海の上の「北方植物園」なのだ。
最初に「猫岩・桃岩」を観光する。
写真左は桃岩を望む展望台での記念撮影である。
ここ桃台猫台展望台からは、澄んだ海の青さの日本海のほか海に向かって右手には高さ50mの地蔵岩、元地漁港、約70戸の家並みを望む。
又、左手には、外海に耳をそばだてて背を丸めた猫の姿をした猫岩を望む。
背後には、高さ249.6mの桃岩が、その威容を誇り、桃岩に連なる岩盤状の頂きは、現在地が峡谷の谷底のイメージを与えてくれている。
右の写真は今咲いていた、ミヤマアキノキリンソウである。
その他にも、チシマワレモコウ、ツリガネニンジン、レブントウヒレン、アサギリソウ、カンチコウゾリナ、オオバミミナグサ、レブンノコギリソウ、エゾニュウ、エゾウメバチソウ、サラシナショウマ、タカネナデシコ等の花が見られた。今年は、秋の花が1週間早いと言う。
礼文島西海岸の元地からはじまる発達したこの海食崖は、10数kmに及び、山と海の展望・絶壁と岩礁・お花畑など自然の要素に恵まれ、礼文島の秘境とも言えるところである。
昨日に比べ、風も弱く、天気快晴、ガイド嬢からも今日は恵まれた天気で海も青く澄んで波も静かでめったにこんな日はありませんよと喜んでくれた。
続いて、澄海岬・スコトン岬を観光する。
ありがたいことである。
そうそう、礼文島に来てウニを食べないということはあるまいと、昼ご飯はうに丼にした。しかし、バフンウニの漁期は終わり現在はムラサキウニの漁期で、それも9月いっぱいとの事であった。したがって、ムラサキウニ丼を頂いた、それでも本場の新鮮なうに丼は美味しかった。(8/30)
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26日、礼文島香深港から利尻島鴛泊港まで40分の船にゆられ利尻島につく。
周囲53kmの利尻島のほぼ中央に聳える利尻山は、別名利尻富士と呼ばれ、美しい稜線で日本百名山に数えられる標高1721mのやまで、5合目の高山植物群落は、その美しさで見る人々を魅了している。
鴛泊港から利尻山や礼文島のすばらしい景色を望みながら海岸通りを行くと、そこは原生林に囲まれた姫沼。写真左に行く。散策路が整備され沼の周囲の木道を一周する。爽快であった。
姫沼の名前はヒメマスを放流したことによるという。面白い。
帰路海岸線の道路に出る所の内側の短い草の斜面に黄色の小さな花がちらほらと咲いているのが目につく。リシリヒナゲシ(中央の写真)である。利尻山中腹でしか見られない花であるが、島民が観光客のためにこの地に何年もかけて咲かせたのだという。大変な苦労があったようである。
続いて、オタトマリ沼を探索。
右の写真は利尻島の西海岸に位置する沓形岬で、礼文島を間近に望む景勝地で、後ろに頭を雲に隠しているのは利尻富士である。澄み渡った海や変化に富んだ海岸線、夕日の美しさを堪能できる人気のポイントだという。
西海岸の見所の一つは、利尻島創世紀に噴火した溶岩で創られた、ダイナミックな海岸である。
百名山の一つ利尻富士に抱かれた二つの湖で、貴重な自然を間近にし。島の創世記を伝える荒磯と夕日。自然のアートを堪能できた。(8/31)
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今日は防災の日、台風9号の進路が気にかかる。
秋色も顔を出し、今日は23℃と涼しい。
ワレモコウが咲き出した。ワレモコウはバラ科の多年草である。オミナエシと共に秋の七草の中の一つと思われることが多いが、秋の七草の中には入っていない花である。左写真がそれである。
北海道から九州、東アジアからヨーロッパに広く分布し、日当りの良い山地の草地に生える。
この辺では川岸の堤防などでよく見られるが、堤防管理上の草刈で刈り取られ、花を見ることはほとんどできなくなった。
茎は高さ1m内外、上方では分枝し、葉は羽状複葉で、5-11枚の長楕円形の小葉からなり、根出葉では長い柄がある。夏から秋、枝先に長楕円形で、暗赤色の花穂をつける。花は小さく、密に多数つき、花弁はなく、ガク片は4裂。漢方では根を地楡(じゅ)といい、止血剤などとする。
湯浅氏は、誤解の花だと言う。吾亦紅の表記が広く知られたのは、久米正雄の小説からだろう。渋い暗紅色を「吾も紅」と納得する人は多い。が、植物学者前川文夫博士の説は違う。蕾が、宮中の御簾の上部を飾る帽額(もこう)の模様から生じた木瓜(もっこう)紋に似て、4つに割れ目が入っているので、「割れ木瓜」を語源とするという。
右の写真は、礼文島で撮影したチシマワレモコウという高山植物で白花である。礼文島ではこの辺にあるような赤花のワレモコウは見られない、逆にチシマワレモコウは勿論この辺にはなく、見たくも見られない植物である。
ところ変われば、違った植物があるものである。(9/1)
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稚内市は北海道北部、宗谷海峡を隔ててサハリンに対する日本最北端の、人口41,000余人、面積760.80平方kmの市である。
宗谷丘陵には風力発電の風車が57基も林立し、稚内市の電力需要の70%を供給しているという。
宗谷港から宗谷岬、ノシャップ岬を訪ねた後、市街地区にある「稚内公園を訪れた。そこには開基百年記念の展望塔のほか、氷雪の門、9人の乙女の碑、キャンプ場などがある。
左写真は「氷雪の門」である。
「氷雪の門」の後方には、ぼんやりとサハリンが見える。
人々はこの地から樺太に渡り樺太からここに帰った。
戦後はその門も、かたく鎖された。
それから18年望郷の念止みがたく、樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊治郎氏 笹井安一氏の熱意と全国樺太引揚連盟の賛同並びに全国からの心あたたまる協力によってここに記念碑を造る。
氷と雪の中できびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする 彫刻家
本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した。
昭和38年8月15日
と碑文にはある。
平和の尊さを知らされる。
稚内公園を後にして、大沼バードハウスに行く、
右の写真が大沼から利尻富士を望んだ所である。
大沼はテレビで紹介された、ハクチョウの餌付けに成功した家族の沼です。
コハクチョウは北極圏に近いところで繁殖し、10月初旬にオオハクチョウはコハクチョウより南の地域で繁殖し、10月中旬に大沼へやってくるという。結氷期(12月中旬−2月末)は、本州に南下している
大沼は、ほぼ前面氷がはる。、氷割りやエサまきを続けた結果、今では間近に白鳥たちと接することができるようになったという。
何をするにも一方ならぬ大変な忍耐と苦労があるものである。
私の郷土、菅生沼に渡ってくるコハクチョウもこの中にいるのかもしれないと一層身近に思われた一時であった。
自然を愛し、ハクチョウを愛する心に打たれながら大沼を後にする。(9/3)
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