[資料−1 被告人の上告趣意書  No.1 - 1

  昭和49年(あ)第1067号          被 告 人  桜  井   昌  司

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改めました。さらに、読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、この上告趣意書は非常に長文な為、5分割してあります。また、文中の会話は一部<茨城弁>です。


被告人の上告趣意 ( 昭和49年10月26日付

目     次

. 冒頭に際して

. 上告趣意を申し上げるに

. 事件前後の行動

 (1) 8月26日の行動

 (2) 8月27日の行動

 (3) 8月28日の行動

 (4) 8月29日の行動

 (5) 8月30日の行動

 (6) 8月31日の行動

 (7) 9月1日の行動

 (8) 9月2日の行動

 (9) 9月3日以後の行動

. 警察、検察の取調べ

 (1) 10月10日逮捕前後の状況

 (2) 10月11日の取調べ

 (3) 10月12日の取調べ

 (4) 10月13日の取調べ

 (5) 10月14日の取調べ

 (6) 10月15日の取調べ
・・・ 嘘の自白の日

 (7) 10月16日の取調べ
・・・ 現場図面使用訊問の始められた日

 (8) 10月17日の取調べ
・・・ 杉山の逮捕自白を知らされた日

 (9) 10月18日の取調べ

 (10) 10月19日の取調べ
・・・ 深沢巡査立合最後の日

 (11) 10月20日の取調べ
・・・ 富田巡査立合最初の日

 (12) 10月21日〜24日迄の取調べ

   
・・・ 強殺事件の逮捕状執行、各目撃証人の勘違い証言が調書にされる

 (13) 10月25日の取調べ
・・・ 有元検事の取調べある日

 (14) 10月26日の取調べ

   
・・・ 兄のアパートを切っ掛けにアリバイを思い出した日

 (15) 10月27日の取調べ
・・・ アリバイ主張の日

 (16) 10月28日の取調べ
・・・ 再度の嘘の自白の日

 (17) 10月29日〜11月3日迄の取調べ
・・・ 最初の早瀬警部補取調終了

 (18) 11月4日〜7日迄の取調べ
・・・ 富田巡査の窃盗の取調べの日

 (19) 11月8日〜31日迄の取調べ

   
・・・ 土浦拘置所移送、有元検事にアリバイ主張

 (20) 12月1日〜13日頃迄の取調べ

   
・・・ 早瀬警部補の2度目の取調べ、3度目の嘘の自白

 (21) 12月13日頃から初公判まで

   
・・・ 吉田検事にアリバイ主張、4度目の嘘の自白、強殺事件起訴

. 早瀬警部補らの偽証

 (1) 判断戴くにあたって

 (2) 嘘の自白に至る迄に関する偽証

   1 取調経過の偽証

   2 取調内容の偽証

   3 その他の偽証

   4 早瀬警部補偽証に反面する取調内容の真相

 (3) 嘘の自白以後の取調べでの偽証

   1 捜査情報知識に関する早瀬警部補主張の疑惑に付いて

   2 調書作成経過主張での偽証

   3 現場図面使用に関する偽証

   4 アリバイ主張経過での偽証

   5 12月1日以後の再取調べ経過に関した偽証

   6 偽証判断を戴いた最後に

 (4) 早瀬証言に対した判決の誤り

   1 判決の勘違い

   2 取調経過偽証に対する判決

   3 偽証に対する判決の結論

   4 偽計に対する判決

    (1) 弁護人例証への判決

    (2) ポリグラフ検査鑑定書に対する判決

   5 偽計、誘導に対する判決の結論

. 各目撃証人の証言の誤り

 (1) 判断戴くにあたって

   1 青山、伊藤、角田3証人の勘違い証言に付いて

   2 海老原、高橋証人の勘違い証言に付いて

   3 前記5証人の証言の根拠といわれるものの信憑性に付いて

    (5) 最高裁判所判例

 (2) 渡辺昭一証人の偽証を判断戴くにあたって

   1 往路証言の偽り

   2 判決の証言判断の誤りに付いて

   3 判決の証言判断の個々の誤り

   4 判決の証言判断の誤り

   5 判決の信憑性判断の誤り

   6 往路証言に対する判決の誤り

   7 ご判断戴く上で

   8 渡辺証言の特殊性に対する判決の誤り

   9 渡辺証言に付いて最後に

. 判決の誤り

 (1) 勘違いの5証人に付いて

 (2) 別件逮捕に関した私見

 (3) 検察官調書に付いて

 (4) 調書内容の矛盾、疑問に対した判決に付いて

   1 自白の食違いに対した判決

   2 侵入口の疑問に対した判決

   3 8畳間ガラス戸に対した判決

   4 便所の窓に対した判決

   5 金銭に関する判決に付いて

    (1) 取った金の変遷に対した判決

    (2) 競輪場で使用した金の変遷に対した判決

    (3) 白布三折財布の変遷に対した判決

    (4) その信憑性に対した判決

    (5) その判断を戴くにあたって

   6 その他の判決部分に付いて

    (1) 弁護人弁論に対した判決

    (2) 信憑性に付いての判決

    (3) 警察によるアリバイ捜査に対した判決

 (5) 警察の不法捜査に付いて

   1 指紋捜査に付いて

   2 取手警察署回答書の出入状況調査表に付いて

. 最  後  に


 私は強盗殺人、窃盗被告事件に依り昭和48年12月20日東京高等裁判所に於て無期懲役未決通算600日を言渡された者でありますが、昭和48年12月21日最高裁判所に上告申立を致しましたので、左の通り上告の趣意を申し上げます。

. 私は、一審時に何度かの上申書を提出致しましたが、控訴趣意書は提出しておりませんので、身の潔白を正式な文章で訴えますのは、これが初めてであります。控訴趣意書を提出致しませんでしたのは、裁判所というところは真実を主張する者の上にだけ勝利の判決を下すところであり、真実を主張するならば、公判廷の中において問われることに答えるだけでも真実は充分に解って戴けるのだ、一審の判決は、警、検察を盲信する裁判官による特別なものだ、と信じていたからであります。

 しかしながら、その信頼も、このたびの二審においての一審同様に判決に際して、裁判官という職責への過信のようであったと知らされ、落胆の思いを禁じ得ないのでありますが、重ねて裏切られた信頼に失望は感じても、決して絶望はしておりません。それは、私達の真実と無実を証す力は裁判所の公式な判断のみが有するものであり、一、二審判決には、その公正な判断が欠けていると思うからであります。

 私は、裁判所が法の下に於ける総ての事実を公正に判断することを重ねて信じ、新たなる最高裁判所への信頼の上に、改めて、本件の真実がどこにあるのかを訴えるべく、本上告趣意書を提出致す次第であります。

 最高裁判所に於ける審理は、憲法判断のみであって、事の正誤の判断はしないと聞きますが、私ごときの申し上げる迄もなく、総ての裁判で何をおいても問われるべきことは、事実は何であるか、事実に間違いはないかということに尽きるかと存じます。そして、ゆるぎない事実の上に公正な判断を示すことこそ、裁判所に科された何よりもの使命であり、その使命は、最高裁に於いても同等に負うものであろうと信ずるものであります。

 本上告趣意書には、一、二審判決の根拠であり、唯一の証拠として残る自白調書の虚偽に付きまして、真実のみを述べさせて戴く心算ですが、最高裁判所におかれましても、その使命である順逆を誤ることのない正しい判決をなすために、本件のゆるぎない事実は何か、事実に対して正しい判断がなされているかという点に付きまして、もう一度、深く、公正なご検討を賜りますよう、冒頭に際してお願い致します。

. 二審判決も

 「 犯行を直接立証するものとしては、両被告人の供述以外には存しない 」( 8丁の(四) )

と説示する通り、有罪判決は、唯一の証拠である自白調書を根拠になされておりますが、なぜ、自白調書以外に証拠がないのか、といえば、これは私達が作り上げられた犯人であるゆえに、虚偽の自白の結果である自白調書しか証拠がないということなのです。この二審判決の一部分によっても、その判決が、揺るぎない事実、証拠に立脚したものでないことは明らかですが、二審判決は、

(1) 各警察官の証言によっても、また、各供述調書の内容によっても、被告人の自白が不当な偽計と誘導により得られた虚偽のもので、不法な別件逮捕によって得られた証拠と出来ないものであると疑わせるものは見出しがたい ( 8丁の(四)の(1)及び12丁の(2) )

(2) 各目撃証人の証言は、犯行日時に接着した日時に、被告人らが犯行場所付近にいたことを示す有力な状況証拠の一種である ( 7丁裏1行以下 )

という2つの理由から有罪判決をしております。しかしながら、この判決は、裁判所が証拠の取捨選択に当って順逆の理を誤り、事実を誤認した判決であって、憲法第38条3項と最高裁判所の判例に反するものであります。

 前述の二審判決ぶんにる通り、自白が唯一の証拠であるのですから、裁判が憲法に即して行われるものである限り、自白を根拠に有罪判決をなす原判決が憲法の精神に反するものであることは明白ではなかろうか、と法を信じる者として素朴に考えるのでありますが、原判決の誤りについて、改めて詳細、厳格なご検討を戴くために、以下、1.事件前後の行動、2.警察、検察の取調べ、3.早瀬警部補らの偽証、4.各目撃証人の証言の誤り、5.原判決の誤りについて、順を追って書かせて戴きます。

. 事件前後の行動

 前後の行動について書く前に、昭和42年8月中の行動を簡単に書きますと、8月17日頃までは、利根管工の東京、神田の現場で働いておりましたが、重い物を持つので、昔、交通事故で痛めた左膝が痛み、嫌気がさして会社を辞めました。会社を辞めた8月18日以後は、家の者には「 ビル清掃をしている 」ように装って、連日、定時に家を出て、定時に帰るようにしておりました。そして、職探しをしていたのですが、怠惰な生活に慣れて、ついつい遊びの日を過ごし、8月25日頃になったのでした。

(1) 8月26日の行動

(1) 25日夜は、同級生の渡辺和夫の家で、中学校の先輩の大学生達と一緒に麻雀をしました。

(2) 朝9時過ぎに麻雀を止めて家に帰ると、母がおりましたので、松戸競輪に行く金を貰おうと思い、「 1週間程、ビル清掃で出張仕事に行く。」と嘘を言って5千円を借用しました。

(3) 布佐駅に10時過ぎに着き、待合室にいると杉山卓男、兄賢司、佐藤尚(タカシ)の3人が、誰やら知らない人の車に乗って、松戸競輪に行くと言って来ました。

(4) 競輪場では、4人とも指定席スタンドに入りまして、私は、1レースから車券を買いましたが、母から借りた5千円のほとんどを負けてしまいました。杉山は、10レース優勝戦で設楽国治と若林哲夫が1、2着した車券を5枚当てました。

(5) 競輪が終わってから、4人で山の手線鶯谷駅傍にある酒場養老の滝に行き、杉山のおごりで飲みましたが、兄はバーの勤めがあったので、5時半過ぎに、中野区野方のアパートに帰りました。

(6) 3人で飲んでいる時(7時頃)、御徒町の喫茶店「 沙利文 」でアルバイトをしている友人の杉山恵子に電話をして、共通の友人で、赤羽のバー「 ロマン 」に勤めている杉野光夫の店に行く予定を話すと、「 杉野に貸してある指輪を貰ってきて欲しい。」と頼まれました。

(7) 私達3人が、赤羽駅傍のバー「 ロマン 」に行ったのは午後8時過ぎだったと思いますが、ロマンに行って、杉山恵子に頼まれた指輪の件を話すと、杉野は「 入質してある 」と言うので「 それじゃ、預かったことにするから、その間に出すようにして返してやってくれ。」ということにしました。

(8) ロマンでは、2時間程飲みましたが、3人で飲み逃げする話になっていたので、「 ちょっと、近くの友人のところに行ってくる 」と言って、10時過ぎに野方の兄のアパートに帰りました。

(9) 光明荘アパートに帰りますと、同じ部落の先輩の河原崎敏(トシ)さんがおりまして、その後は4人で近くの深夜食堂に行きましたが、この夜は、勤めを終えて帰って来た兄を入れた5人でアパートに寝ました。

(2) 8月27日の行動

(1) 前夜の話で、河原崎さんと西武園競輪に行くことになっていたのですが、河原崎さんが足に入墨をすると言うので、私と佐藤尚の2人で取手競輪に行くことにして、10時過ぎにアパートを出ました。

(2) 私は、2,3百円しか所持金がなく、佐藤尚も金を持っていなかったので、当時、交際していた服部淑子さんの勤め先、京王デパートに行って千円を借りてから、取手競輪場に行きました。

(3) 競輪場では、中学の同級生の田久保光(アキラ)、同じ部落の先輩の木村香樹(コウキ)さんに会いました。佐藤尚と別れ、木村さんと会った時から一緒に観戦しておりましたが、帰りは、10レースの車券を当てた木村さんの払戻すのを待って、2人で競輪場を出ました。

(4) 会社の車で来てた木村さんと一緒に利根町に帰りましたが、横須賀部落のバス停で車を降り(26日の朝、「 1週間の出張 」と嘘を言って母から5千円貰っているので、家に帰るわけにはいかなかったのです)、その際、木村さんが当てた10レースの配当金の中から、「 29日に取手競輪場で返す 」約束で5百円を借りました。

(5) バス停前の同級生会田瑞穂の経営する床屋で布佐行きのバスを待っている途中、床屋前の大木屋酒店で買物をすると、店内にいた4、5人の高校生が、知人の根岸茂が同日利根川で溺死した旨の電話をしていました。

(6) 5時半過ぎのバスで布佐駅に行って、自転車預け所から自分の自転車を貰って布川に戻って来ると、取手駅発の大利根交通バスに会いました。バスの中には、競輪場で別れた佐藤尚がおりましたが、佐藤は、布川三つ角でバスを降りました。

(7) 三つ角の花島菓子店前のベンチに座って種々と話をしている間に、私の自転車を入質して飲もうということになり、2人で布佐の石井質店に行ったのですが、佐藤尚が身分証明書を持っていなかったので入質出来ませんでした。

(8) また、布川の三つ角に戻り、7時20分頃の関東バスが来る迄話をしていて、佐藤はバスで家に帰りましたが、私は家に帰れないので、渡辺和夫の家に泊まろうと思って、本宅の方に行ったのです。

(9) 和夫に会って「 今晩泊まりに来る 」と伝えてからは、時間を潰すために、栄橋から玉村象天さんの家の前辺りの舗装道路を、自転車で行ったり、来たりしておりましたが、この時、根岸の家に沢山の人がいるのを見ました。

(10) 8時過ぎに和夫の家の新宅の方に行き、1人で麻雀パイで遊んでおりましたが、9時半頃に和夫が本宅から来て、2人で新宅に泊まりました。

(3) 8月28日の行動

(1) 朝9時頃に起きて布佐駅に行くと、待合室に脱線事故の張り紙があって、常磐線の我孫子駅と柏駅間が不通と知りました。私は、18日頃まで働いていた時に買った、布佐、神田駅間の定期券を持っていたので、振替券を貰って成田回りの京成電鉄で上野に行きました。

(2) 京成上野には、12時前に着きましたが、金も百円程しかなかったので、上野にいても仕方ないと思って、目的もなく開通前の常磐線松戸行きに乗りました。

(3) ところが、電車が金町駅を過ぎた頃に、「 事故現場が復旧したので、電車はこの儘(まま)取手行きになる 」との車内放送があり、私も、その儘(まま)我孫子駅に行きました。

(4) 我孫子駅の成田線ホームに行くと、以前同じ会社に働いたことのある若泉開(カイ)さんに会ったので、自転車を入質しようと思って、若泉さんの身分証明書を借りました。

(5) 気動車が布佐駅に着いたのは、1時半頃だったと思います。私は、自転車を取って来て石井質店に行き、3千5百円を借り、質店隣の長谷川食堂で昼飯 ( 天ぷらライス120円 ) を食べました。若泉さんには、自転車を入質後に昼飯をおごる話になっていたのですが、どこへ行ったか判らなくなってしまい、身分証明書も借りた儘(まま)になりました。

(6) 金が出来たので取手競輪に行こうと思って、栄橋布川側袂(たもと)の大利根交通バス停に行ったのです。ところが、30分程待ってもバスは来なくて、通りかかった同級生の鈴木貞夫の単車で、大利根交通バスの営業所のある戸田井橋(とだいばし)まで乗せて行って貰いました。

(7) 戸田井のバス停傍の商店で氷(20円)を買って飲んでいると、3時10分か、20分頃にバスが来ました。このバスの車掌さんはおじいさんでしたが、バスが取手市内に入る前の利根川土手の道路を走っている時、後から来た黒の乗用車にバスが止められ、警察手帳を見せて二人の刑事らしい人がバスの中に入って来て、「いないな」と言いながら降りて行ったことがありました。

(8) 取手駅に着いたのは、4時5分前頃だったと思います。私は最終レースだけ遊ぶ心算でしたが、前日の脱線事故でレース開始が1時間遅れたらしくて、タクシーで競輪場に行って入場した時は、第8レースの発走直前でした。バス代40円、タクシー代130円、予想紙代50円、入場料30円。

(9) 第9レースの車券を500円買い、食堂に入ってカレーライス(130円)を食べてスタンドに戻る時、前日会った木村香樹さんに出会ったので、5百円を返して一緒に観戦しました。9レースの車券は外れ、10レースは、杉井正義から伊藤三郎に5百円投票したのですが、これも外れました。ハイライト代70円。

(10) レース終了後、木村さんと一緒に歩いて取手駅西口に行き、5時40分台発の上野行き電車に乗りました。乗車券代30円、夕刊紙東京スポーツ代10円。

(11) 木村さんとは我孫子駅で別れ、私は電車に乗った儘(まま)東京に向い、日暮里駅で山の手線に乗換えて、高田馬場の酒場養老の滝に行きました。乗越代40円ぐらい。

(12) 養老の滝に入った時は、まだ明るい頃でしたから、7時前だったと思いますが、酒場では、ビール1杯(100円)2級酒2本(120円)若鶏の蒸焼1皿(100円)を飲食しました。この時、店内のテレビで「 アベック歌合戦 」を見ましたが、司会者は鵜飼いの装束で、2組目(Bと名札を付けていた)の出場者が着物を着たおばあさんと子供だったと記憶しています。

(13) 8時頃に同店を出て、野方の兄のアパートに行くために、高田の馬場駅で40円切符を買いました。ところが、西部新宿線は8時過ぎなのに混雑していたので、急行やら準急をやり過ごし、電車に乗る迄、30分程ベンチに座っていました。

(14) 野方の光明荘アパートに着いたのは、9時前後だったと思いますが、アパートには誰もいませんでした。暫らく部屋でぼんやりしてた後に、銭湯に行こうと思ってズボンとシャツを着替えたのですが、銭湯に行く前に兄の勤めるバー「 じゅん 」に行ってみようという気持になり、5百円札1枚と風呂銭を持ち、石けんとタオルは腹巻の中に入れてアパートを出ました。

(15) バー「 じゅん 」に行った時間は、9時半頃だったと思いますが、店には2人の客とママさん、じゅんちゃん、兄の5人がおりました。

(16) 店ではカウンターの奥に座って飲みましたが、兄との会話では、兄が

1 27日、入墨が終わった後に河原崎と杉山の2人だけで遊びに行ってしまったので面白くなかった。

2 光明荘アパートを引越すことでは、河原崎と話が決まっていて、今度は2人でアパートを借りるが、生活が乱れないように誰にも場所は教えないようにする。お前には決まったら知らせる。

と言っていたのを記憶しておりますが、他に、会計伝票の裏側に「 ママにアパート出ることは内緒 」と書いたのを見せられたことがあります。店の客に紹介されたのは、8月初旬に行った時のことで、この日ではなかったと思いますが、1時間程飲み、5百円札を置いて店を出たのは10時半過ぎだったと思います。

(17) 店を出た時は相当に酔ってしまい、銭湯に行く気もなくなり、バー「 じゅん 」に入る路地の左角にあるお菓子屋さんで、杉山恵子と河村武に電話をしましたが、お菓子屋さんは店を閉めているところでした。

 杉山恵子には「 26日、杉野光夫から指輪は預かったのでそのうち届ける 」と話し、河村には「 26日、杉野の店で飲み逃げしたが、河村に電話なかったか 」と話すと、「 電話があって言ってた 」ということでした。

(18) 電話をしてからアパートに帰りますと、杉山卓男が流し場からパンツみたいなものを下げて出て来たので、洗濯をしていたと思いました。杉山は、

1 27日河原崎と一緒に飲みに行って、朝鮮料理を食べて映画を見た。

2 今日は、新宿で映画を見てきた。

というようなことを言ってたと思いますが、映画の題名などでは、また、会話の内容では私が酔っておりましたので、私の記憶の方が不正確かも知れません。私は、

1 今日も取手競輪に行った。

2 27日に根岸茂が利根川で溺死した。

ということを話しました。

(19) そんな話をしているうちに、どちらからともなく腹が減ったという話になると、杉山が「 隣のアパートの女の人が、今朝方バナナを買って来たのを見たので盗って来ちゃえ 」と言うので、「 それじゃ、盗って来る 」と言って、窓から窓に渡って女の人の部屋に這入ったのです。渡る際に、兄の部屋の窓の手摺から、女の人の部屋の手摺に両足を渡して下を見た時、兄の下の部屋の裸電球が眩しいと思ったこと、女の人の部屋に渡った瞬間、足の引きつけを失敗して片足の太股が触れて冷たく感じたのを覚えています。

(20) 女の人のガラス戸を開けると、鳥の羽ばたきがしてびっくりしましたが、蛍光灯をつけてみると、侵入口の西窓の反対側の壁を背にして、2つ重ねの茶だんすと洋服ダンスがあって、その間にテレビがあり、テレビの下に鳥籠がりました。部屋の南側も、西端から半分位が窓でしたが、北側には西窓選りに押入があって、出入口は東側の北端で、出入口に相対して流し場がありました。バナナを探したのですが、果物類はなく、2つ重ねの下の茶だんす、右側戸棚の中に缶詰3個を見つけたので、その中の1個を兄の部屋の杉山に投げました。食べ物が無いので、金目の物を探したのですが、洋服ダンスには鍵がかけてありましたので、それを壊してまで探す気はありませんでしたから、茶だんすなどを簡単に見て、兄の部屋に戻りました。

(21) 女の人の部屋に這入った時間は、水商売をしていると判ってた女の人が帰る時間かどうかを心配して目覚し時計を見たら、11時少し前だったので安心して渡ったと記憶してますが、盗って来た缶詰は、魚なので食べず、すぐに布団を敷いて横になりました。横になってから、暫くの間話をしましたが、杉山が「 明日は、取手競輪場に勤めてる友人が給料日だから一緒に行くか 」と言うので、私も金が無くてどこにも行く当てが無かったので、一緒に行くことにしました。また、女の人の部屋に這入る前か、後かは忘れましたが、杉山が「 8月31日に木村重雄から8千円貰える 」と言っておりました。眠ったのは12時過ぎだと思いますが、兄が勤めから戻った時間などは覚えておりません。

(4) 8月29日の行動

(1) 私達が10時頃に起き出した時は、兄は前夜の帰りが遅かったようで眠っておりましたが、私が「 取手競輪に行くけど、一緒に行かないか 」と言っても目が覚めないようなので、杉山と2人でアパートを出ました。

(2) 野方駅では、私が残っていた金で新宿迄の切符(50円)を2枚買い高田馬場、日暮里と乗換えて取手駅に着いたのは11時半頃だったと思います。私は、取手駅で定期券に足りない乗越代金30円を払いましたが、杉山がどうしたかは記憶がありません。

(3) 取手駅東口の競輪場行きバスに乗っていると、杉山の知人の大越悦夫に会い、一緒に競輪場に行きました。

(4) 競輪場内では、杉山の友人2人(倉持純一郎とオサムとかいう人)に会い、5人で観戦してましたが、杉山と倉持は、竜ヶ崎市であった暴力団同士の喧嘩の話をしていて、「 杉山は指名手配だ 」とか「 もうすぐ刑事が逮捕に来る 」などと言ってました。

(5) 第6レースが終った後に、競輪場に勤める杉山の友人の大貫哲男に食堂で焼ソバをおごって貰いました。

(6) 大越とは途中で別れ、レース終了後は杉山と2人で取手駅に行き、4時40分頃の上野駅電車に乗って我孫子駅に行きました ( この時に切符を買ったかどうかは記憶がありません )。

(7) 成田線ホームには、5時10分頃に発車する気動車が入っていて、車内に入ってみると、知人の坂本ケイジがおりましたので「 飯代持ってないか 」と言うと「 持ってない 」と言ったことがあります。

(8) 私は金もなく、26日に「 1週間の出張 」と言って母から5千円貰っていましたので家にも帰れず、結局、姉の嫁ぎ先に稲刈りを手伝いに行くことにして、東京に行くと言う杉山と別れました。その際、杉山が「 8月31日、木村重雄から金が入ったらおごる 」と言うので、8月31日に布佐駅の美角(ミカド)食堂で、午後7時1分着の列車の時間に会うことになりました。

(9) 布佐駅よりも2つ成田駅寄りにる小林駅に着いたのは5時40分頃で、姉の家の藤ヶ崎清次さん方に着いたのは6時頃でした。

(10) この日、姉は実家に帰っておりましたが、同夜は義兄の部屋で一緒に寝て、私は10時頃のボクシングをテレビで見てから眠りました。

(5) 8月30日の行動

(1) 朝は7時過ぎに起きて、義兄と一緒に田圃(たんぼ)に行って稲刈りをしました。

(2) 昼飯時に家に戻ると、有線放送のラジオ放送が、利根町布川で殺人事件があり、玉村象天さんが殺された、と言ったのです。布川で殺人事件が起こるなどとは考えられませんでしたから、なぜ象天さんが殺されたのか、誰がやったのだろうという興味とともに、びっくりしましたが、私は咄嗟(とっさ)に、2、3日前( 実は8月27日 )に玉村象天さんの家の前辺りを自転車で行ったり、来たりしていたことがあったのを思い出し、「 あの日が事件のあった日だったのかな 」と考えました。

(3) 藤ヶ崎さんなどに、玉村さんがどこに住む人であるかなどを説明したこともありましたが、午後も稲刈りを続け、終ったのは午後6時過ぎだったと思います。この晩も泊まりましたが、玉村さんの事件に興味がありましたので、もっと詳しいニュースを放送しないか、と思ってテレビを見たのですが、放送はありませんでした。

(6) 8月31日の行動

(1) 起きてから朝飯までの間に、新聞で玉村さんの記事を読みましたが、何月何日何時頃の事件と書かれていただけで、有線放送で聞いた内容と大差ありませんでした。

(2) 午前中、午後と稲刈りをしましたが、杉山との約束もありましたので、午後3時に田圃(たんぼ)から家の方に戻って、風呂に入ったりしてから、歩いて小林駅に行きました。この時、おばあさんに千円、戴きました。

(3) 小林駅前の商店で、週刊現代を買い、5時50分発の我孫子行きの列車に乗りましたが、この列車が、折り返し7時1分布佐着の汽車になることを知っていましたので、真っすぐ我孫子に行きました。

(4) 一旦、列車を降りると、ホームで後輩の若泉隆に会いました。その後、再び乗車して、前から3両目のホームの反対側の座席で、時々一緒になる同級生の小林綾子さん達と話をしておりました。

(5) 発車の10分前と思われる頃に、杉山が列車の中を窺(うかが)いながら通り過ぎて行くのを見たので、ホーム側の人の座っていない座席に移って呼び止めたところ、「 木村重雄がいないので次の気動車の時間迄待ってみる 」というので、私が先に美角食堂に行ってることにしました。

(6) 汽車が布佐駅に着き、美角食堂に入ろうかと思ったのですが、やじ馬根性で玉村さんの事件に興味を覚えましたので、布川がどんな騒ぎなのか知りたいと思って歩いて布川に向いました。

(7) 駅前通りを少し歩くと、同級生の黒川よし江さんが自転車で来たので、相乗りして布川に行ったのですが、この時に黒川さんから、

1 8月30日夜は、警察が栄橋の袂で検問をして、通る人全部に事件の日の行動を尋ねた。

2 警察は家の方にも、何度も聞込みに来ている。

ということを教えられ、また、「 昌司さんはどこにいたの 」と聞かれたので事件を初めて知った時( 前記18頁の(2)の3行以下 )に、8月27日を8月28日と勘違いしていましたから、「 渡辺和夫の家に泊まった 」と。「 今日はどこに行って来たの 」と聞かれては、「 親戚の家で稲刈りを手伝って来た 」と答えたことがありました。

(8) 黒川さんの自転車を栄橋の布川坂下で降り、昔から街のニュース屋的な大和屋食堂に行くと、刑事らしい人が1人先客としていて、オムレツを注文して食べておりました。

(9) 食堂には、ご主人とおかみさん、それに刑事らしい人の3人がいましたが、私か玉村さんの事件のことを聞くと、主人が

1 部屋の床が壊してあって、床下の瓶
(ビン)の中に入っていた金を盗られた。

2 象ちゃんはワイシャツでぐるぐる巻きに縛られて殺されていた。

3 家の中にはロッカーが沢山あった。

4 象ちゃんは金貸しをしていたので、タンスの中には女、子供の服があったというから、担保品だろう。

5 事件のあった日の夜、近くの永沢食堂の閉店間際に、2人連れの男が玉村さんの家を尋ねて行ったことがあるので、この2人が犯人だろう。

などということを話してくれました。

(10) そんな話の途中、刑事らしい人は、常磐線の水戸方面の列車時間を尋ねて店を出て行きました。私は氷を食べて暫く話した後、次の気動車が布佐駅に着く時間になったので7時40分頃に店を出ると、同級生の会田瑞穂の運転する軽四輪に出会ったので、布佐駅迄乗せて行って貰いました。

(11) 布佐駅に着くと間もなく気動車も到着しましたが、降りて来た杉山は「 木村に会えなかったので、これから木村の家に行く 」と言うので、私も5千円を貰ってから6日目なので家に帰ろう( 木村重雄の家は私の家の傍 )と思い、杉山とタクシーで中田切に行きました。そのタクシーの中で、杉山が「 賢司が明日アパートを出る 」と言うので、「 隣のアパートから盗んだ缶詰はどうなったか 」と聞いたことがありました。

(12) 私は家に帰って寝る心算でしたが、杉山が「 泊まるところを何とかして欲しい 」と言う( 杉山は竜ヶ崎の祭りの時、暴力団の乱闘事件に関係したので家に帰れないと言って兄のアパートなどに泊まり歩いていた )ので、渡辺和夫のところに聞いてやる心算で、家に帰って「 今晩は帰ってくる 」とだけ告げてタクシーに戻ると、杉山は木村と話しておりました。話はすぐに終って帰って来た杉山は「 給料がまだ出ないので明日になった 」と言ってました。

(13) タクシーで渡辺和夫の家に行き「 杉山が泊まれるか 」と聞くと、「 29日にも杉山達が酔っ払って来たし、事件があったので家の人がうるさいから駄目だ 」と言うので、杉山には和夫の親父さんが泊まるので駄目だと告げると、杉山は「 それじゃ、佐藤尚の帰りを待とう 」と言って、再び布佐駅に戻り、美角食堂に入ったのです。

(14) 9時頃の下り気動車で帰って来た佐藤尚に会うと「 給料を貰ったばかりなのでおごる 」と言うので、3人で美角食堂で飲んでいると、2人の刑事( 県警の五町警部補と取手署の小井戸巡査と後日知る )が店に入って来ましたが、この時は何も聞かれませんでした。

(15) 暫く飲んだ後に、杉山は佐藤の家に泊まることになり、3人で佐藤の家にタクシーで行き、私は自分の家に帰って寝ました。

(7) 9月1日の行動

 9月1日の朝は、通勤時間( 朝6時過ぎ )に家を出ていることは確かですが、逮捕以来全く記憶が無くて、警察の調書の9月1日は、「 かもしれない 」と適当に言ったことです。この日の確かな記憶は、夕方我孫子駅で杉山に会ったところからなので、そこから書きます。

(1) 午後6時15分頃、我孫子駅成田線ホームのベンチに座って、折り返し成田行きになる汽車の到着を待っていると、杉山が少し酔った顔をして来ました。

杉山は

1 今日賢司がアパートを越した。

2 引越しの前に、佐藤治
(ハル)の腕時計を入質してウイスキーを飲んだ。

3 佐藤治が2、3日前に新橋で殴られたので、今晩8時に御徒町の喫茶店「 門 」で賢司と河原崎に待ち合わせて、殴った奴のところに行く。

という話をしておりました。

(2) 汽車が来た時に杉山と別れ、いつも乗る場所の前から3両目の客車に乗っていると、眼帯や赤チンを顔に付けた佐藤治が酔っ払って来て、杉山と同じような話をしておりました。

(3) 治とはどこで別れたか記憶がありませんが、布佐駅に着いて駅前通りを1人で歩いて行くと、杉山達は前の方を歩いていて、カクタスガソリンスタンド前辺りで杉山が木村重雄を掴まえているのを見ました。

(4) 駅前通りと成田街道が交じわる三つ角の靴屋の前で自転車を止めた木村重雄と杉山、治の3人が話をしていたので、8時に御徒町に行くと言っていながらどうしたのか、と思って3人のところに行って「 御徒町に行くのか 」と尋ねると「 行く 」と答えたので、私は別れて栄橋の石段に向う細い路地に入って行ったのです。

(5) 石段の傍迄行くと、前を3人ぐらいの人が横一杯になって歩いていて、石段を上って行くので、私は石段の左脇の坂になったところを駆け上ったのです。その時に、3人ぐらいの中にいる1人は同級生の青山敏江さんだと判りましたが、連れらしい男の1人が私に向って、「 威勢がいいな 」とか冷やかしの言葉を投げたので、振り向いて「 何だ 」と言いました。その男はそれ以上何も言わなかったので、私もその儘栄橋を渡りました。

(6) 栄橋を渡り切ると、自分より後にいる筈の杉山が端の袂にいて、「 治は用事があって家に帰った 」と言ってましたが、私は「 明日の朝、上野の喫茶 "みちのく" で待っているから新橋に行った結果を教えて 」と言ってバスに乗りました。

(7) バスの発車前( 7時20分頃 )に佐藤治が、「 門 」の電話番号を聞きに来ましたが、知らなかったので、治はバスを離れ、私は家に帰ったのです。

(8) 9月2日の行動

(1) 朝は、6時44分布佐発の汽車で上野に行き、喫茶店「 みちのく 」で杉山達を待ちましたが、10時頃になっても誰も来ないのでパチンコ屋に行きました。

(2) パチンコも簡単に負けてしまい、京王デパートに勤める服部淑子のところに行こうと思って上野駅山の下口のガード下信号のところ迄来ると、駅の方から歩いて来た杉山に会い、再び "みちのく" に行きました。

(3) 杉山は前夜のことを「 佐藤治と2人で布佐から気動車に乗ったが、我孫子の辺で酒を飲んだので2人とも泥酔してしまい、常磐線には乗ったが治と途中ではぐれ、"門" には行けなくて南千住に泊まった 」と言ってました。

(4) 映画を見に行くと言う杉山と12時前に別れ、新宿の服部さんのところに行こうと思いましたが、上野駅10番線に行ってみると母に会ったので金を貰いました。その後は、何をしたのか記憶がありません。

(5) 夕方は、いつもの汽車で帰ろうと思って我孫子駅に行くと、列車の中で佐藤尚と湖北の人で遊び人の清水サダオさんに会い、話をしていると後から杉山が来ました。杉山は、上野の "みちのく" で別れる時に「 夕方鶯谷の養老の滝で会おう 」と約束したのに来なかったと怒ったことがりました。

(6) 布佐駅に着くと、杉山は同級生の五十嵐徹と後輩の若泉隆の2人を掴まえて話をしておりましたが、杉山と若泉が話している時に、私は、五十嵐のオートバイで栄橋に行き、五十嵐を家に帰しました。

(7) 杉山と佐藤尚、若泉の3人が栄橋に来ると、杉山は五十嵐を先に帰したことで、私に文句を言ってましたが、結局、若泉のつけで大和屋食堂で飲むことになり、若泉と杉山は先に大和屋に行き、その間に、佐藤尚は佐藤治の家に治を呼びに行ったのでした。

(8) 尚と治の2人が栄橋に戻って来た時に、31日の夜、美角食堂で会った2人の刑事に会って、

「 あんたのアリバイはまだ聞いてなかったので、聞かせてくれや。」

と言われました。私はこの時も、8月27日に渡辺和夫の家に泊まったのが8月28日だと勘違いしていましたが、家の母達には、「 出張に行く 」と嘘を言って5千円を貰ったことがあったので、「 ビル清掃の出張仕事で親方のところに泊まった 」と言ってありました。それで、刑事が家にも聞き込みに来ると聞いていたので、「 和夫の家に泊まった 」と言うと、刑事が来た時、家の者に働いていないのが判るので困ると考えたのです。その結果、
どうせどこにいたって俺には関係ないんだから家の者に話した通りに言えばいいや、と思い

「 ビル清掃の仕事をして、親方である横川さんの家に泊まった 」

と嘘のアリバイを言ったのでした。

(9) 私と佐藤尚、治の3人で大和屋に行き、杉山も入れた4人でビールを3本飲んで、8時頃に大和屋を出ました。その後、治のつけで酒場「 若葉 」で飲もうとしたのですが、断わられ、杉山と佐藤尚、私の3人で湖北の清水サダオさんの家に行くことにしました。

(10) 栄橋の上を歩いていると、杉山の友人の車に会い、それに同乗して湖北に行き、清水さんの家に行って、「 泊めて欲しい 」と杉山が言うと「 3人は無理だ 」との返事だったのです。杉山は、「 それじゃ柏の同級生小倉守のところに行こう 」と言いましたが私は、わざわざ泊まりに行く必要がなかったので「 俺は家に帰るよ 」と言うと、「 昌司が、最初に小倉のところに行ってくれないとまずい 」と言うことなので一緒に行くことになり、成田線の上り気動車が来るまで、湖北駅前のタクシー会社内で清水さんのおごりで酒を飲みました。

(11) 午後10時頃の気動車に乗って柏に行き、初めに小倉守が昔、働いていた会社の寮に行った後、小倉が住むところに行ってみると「 用事で出てる 」ということでしたので、今度は杉山の知人の柏市内の暴力団員のところに行って、朝鮮料理屋でご馳走になりました。この時に、「 生意気だ 」とか「 調子がいい 」と言っていきなり、杉山にビール瓶で殴られたことがありました。

(12) 12時過ぎに、改めて小倉のところに行って、杉山、佐藤尚、私の3人で泊まりました。そして、翌朝、小倉守のズボンとベルトを持って来たことが、10月10日に逮捕される原因となった窃盗罪でした。

(9) 9月3日以後の行動

(1) 9月10日頃迄は、相変わらず働いていないのを隠して、家に帰っておりました。

(2) ところが、8月28日に自転車を入質したことを隠しておけなくなって、9月10日過ぎに、兄と河原崎敏さんが新しく借りた中央線中野駅傍の横山荘アパートに行ったのです。

(3) そこから東中野駅傍のビル清掃会社にアルバイトに行っておりましたが、10月5日頃に新宿区の千登世寿司に勤め、10月10日に逮捕されたのでした。

. 警察、検察の取調べ

 警察等の取調べに付いて書く前に、逮捕当日である10月10日の行動を簡単に書きますと、朝は前記の千登世寿司で起きて、机の中から6千円余り( 被害届は1万5千円となっておりますが、いずれにしろ盗んだことは確かながら、6千円位であったことは間違いありません )を盗みました。その金で大宮競輪に行きましたが、負けてしまいました。そして、新宿まで戻って来て、京王デパートに勤めている服部淑子さんに電話をしたのです。

(1) 10月10日逮捕前後の状況

(1) 淑子さんに電話をすると、「 茨城の刑事さん2人が、2、3日前から貴方を捜して私の家に来ている 」と言うので、私は茨城で盗みはしていないし、茨城の刑事に追われる筈がないと思って、「 俺は茨城の警察に追われるようなことしていないから、それじゃ、お前の家に行く 」と言って、新宿駅で待ち合わせたのです。

(2) 6時半頃に新宿で会って、淑子さんの家のある北区十条に向いましたが、電車の中で「 刑事さんは貴方の写真を持っている 」と聞かされ、写真を持って追い掛けるなんてなぜだろう、と思ったことがありました。

(3) 十条駅に着きましたが、服部さんの家には種々と迷惑を掛けていましたので素面では行きにくくて、淑子さんと2人で駅傍から電話をして、「 今から行きます 」と伝えてから、私は酒場「 バクダン 」に入り、淑子さんは先に家に帰ったのです。

(4) 「 バクダン 」で、オリンピック出場権をかけた日本と韓国のサッカー試合を見ながら30分程飲み、服部さんの家に行こうと思って店を出て10メートル程歩くと、前方から歩いてくる服部さんのご主人とその友人、他に見知らぬ2人の4人連れに会ったのです。それで「 今から家の方に行こうと思ったのですが 」と声を掛けますと、服部さんが「 飲みに行くんだから来い 」と言うので、再び、バクダンに行きました。

(5) 「 バクダン 」に入って、その見知らぬ人が酒を注文し、服部さんが便所に行くと、酒を注文した人が私に向って「 もう判るだろうけど、柏のズボンの件で聞きたいから 」と言うので、この時初めて、この人が服部さんの家に張込んでいたという人なのだなと、判りました。

(6) 「 バクダン 」では、刑事( 早瀬警部補 )が「 暫く飲めなくなるから飲め 」と言い、また、服部さんは「 どうせ1年ぐらいなもんだから、帰ったらウチに来ればいい 」などと言ってくれましたが、30分程で、服部さんの友人だけを店に残して、服部さんの家の方に行ったのです。

(7) 服部さんの家でご飯をご馳走になったりして、2人の刑事に連れられて取手警察署に向ったのは10時頃だったと思います。東十条駅前派出所に入る直前に「 決まりだから 」と言われて手錠をされましたが、派出所では、刑事の1人( 早瀬 )が、取手署に電話をして、「 本部ですか、ガラを取りました 」と言っていたことがあります。

(8) 上野駅回りで取手署に着いたのは、午前0時少し前でしたが、小倉守のズボンを盗んだ件( 前記25頁の(12) )の逮捕状を見せられただけで、留置場に入りました。

(9) 留置場の房内に布団を敷いた頃に、子供の頃の私を知っていると言う諸岡巡査が、臨時の看守勤務( 本来の看守夜勤は2人なのですが、私が逮捕されたということで、この晩から特別に3人勤務になったということを後日しりました )に来て、少しの間、話をしたことがありました。

(2) 10月11日の取調べ

(1) 朝の9時頃から、留置場前の接見室と標示された部屋で、逮捕された2人の刑事に調べを受けましたが、取調べに先立ち、早瀬警部補深沢巡査であると名乗りました。

(2) 先ず、小倉のズボンを盗んだ件で、その処分先などを訊かれましたので、柏市内の質屋に入質したことを話し、逮捕状の調べは簡単に終わりました。

(3) 逮捕状の調べが終わった後は、昭和40年頃から42年7月頃まで清掃会社に働いていた時、仕事で行った現場の場所と会社名に付いて、

「 仕事で行った会社の名前と場所を、覚えてるだけ全部話してみろ。」

と訊ねられましたが、この訊問がしつこくて、「 まだあるだろ 」と何度も言われ、この訊問が午前中の調べ時間一杯ありました。

(4) 昼食休憩の時に、取手署鑑識係の巡査部長( 市村 )に指紋、掌紋を採られました。

(5) 午後も同じ部屋で早瀬警部補の取調べを受けましたが、この時、8月中の行動に付いて訊ねられたのです。

「 ビル清掃を7月に辞めてから何をしてた。」

と訊かれて考え、8月17日頃までは利根管工の神田現場で働いておりましたので、どこで何をしていたかは判らずとも働いていたことだけは判りましたが、18日以後のことは良く覚えておりませんでした。それで、断片的に覚えていたことを話しますと、早瀬警部補は、

「 それじゃ、20日頃のことはいいから、25日頃のことから考えて話してくれ。」

と言いました。

(6) 言われる儘に8月下旬のことを考えますと、母に5千円を貰って松戸競輪に行ったこと( 前記10頁の(2) )を思い出し、その前夜は渡辺和夫の家で麻雀をしたことも思い出したので話したのですが、早瀬警部補は、

「 前のことはいいから、松戸へ行った日から後のことをはなしてくれ。」

というので、その後のことを考えました。

(7) 松戸競輪に行った日が何日か判らない儘に思い出して行って、この日が優勝戦であったことを話すと、早瀬警部補は手帳を出して見て、

「 それは8月26日だ。」

と言うので正確な月日が判ったのです。8月26日は兄のアパートに泊まり、翌日は、佐藤尚と2人で取手競輪に行ったこと、競輪場で木村香樹さんに会ったことなど、記憶があっちこっちしながら、「 こうだったと思う、ああだったと思う 」という程度の前記の8月下旬の行動とは比較にならぬ粗雑な記憶を思い出す儘に話しました。

(8) そして、8月27日の晩に佐藤尚と自転車を入質に行って断られたことなどから、その晩は渡辺和夫の家に泊まった日は8月27日だ、と判ったのでした。

(9) 8月28日のことも和夫の家で起きたことから考えて、一度上野に行ってから布佐に戻って自転車を入質して取手競輪に行ったこと、場内で木村香樹さんに会ったことなどは簡単に思い出しましたが、競輪が終わってからどうしたのか、記憶がはっきりしなかったのです。

 それは、8月27日の取手競輪場からの帰り( 前記11頁の(4) )の方が強い印象が残っていたので、8月28日の方の記憶が薄れたためのようですが、記憶のはっきりしないところはその儘にして、その晩にどこに泊まったのかを考えましたら、これも兄のアパートに泊まったようにも、渡辺和夫の家に泊まったようにも思えるので、「 その晩は兄のアパートか、和夫の家に泊まったと思う。」と話しました。

(10) すると早瀬警部補は、

「 9月2日に栄橋のところで言ったアリバイ( 前記24頁の(8) )はどうなんだ。」

と言うので、私も「 あれは警察が家の方にも来ると聞いていたので、家の者に働いていないのが判ると思って言った嘘だ。」と答えると、

「 ちゃんと調べて判っているよ。」

と言ったことがありました。

(11) 8月28日の夜は「 兄のアパートか、和夫の家に泊まった 」ということで、29日の話になりましが、その日も、杉山と取手競輪に行ったことは思い出したのですが、どこで会ったのかはっきりしなかったので、曖昧なところは抜かして思い出す儘に話をして行ったのです。

 8月30日以後も思い出す儘にはなしましたが、この時は、訊問が玉村さんの事件の犯人と疑われたものだとは夢にも思いませんでしたので、私も余り真剣に考えず、9月2日頃迄の大ざっぱな記憶を話したのでした。

(12) その話が逮捕状の窃盗をした日である9月3日になると早瀬警部補が、

「 その辺でいいから、8月28日どこへ泊まったかもう一度考えてみてくれ。」

と言うので、言われる儘に考えたのですが、何度考えてもはっきりしなくて、「 兄のアパートだったのか、和夫の家だったのか、それとも藤ヶ崎さんの家に行ったのが28日だったのだろうか 」と考えれば考える程混乱して行ったのです。結局記憶が戻らない儘に調べが終わりましたが、取調べの終わった時間は記憶がありません。

(3) 10月12日の取調べ

(1) 朝の調べが始まった時間は記憶がありませんが、前日と同じ部屋で、先ず、自分が盗って入質した小倉守のズボンとベルトを見せられてから、その調書が作られました。

(2) 調書が作られてから竜ヶ崎の検察庁に行くことを知らされ、留置場に戻って昼食になったと思いましたが、昼食が終わると、鑑識係の巡査( 早川 )が来て、

「 昨日の指紋は採り方がまずかったので採り直しだ 」

と言われ、指紋の採り直しがありました。

(3) 竜ヶ崎の検察庁、裁判所には、石川ゴエイという被疑者も一緒に護送されまして、石川という人は竜ヶ崎警察署に移管され、私1人が取手署に戻りました。

(4) 取手署に戻って留置場に休んでいると、取手署の後藤刑事課長が来て勾留状を示し、

「 これを見せるのを忘れた、これで桜井を10日間調べられるんだ。」

と言うので、勾留状の余白が気になって「 その余白は何んですか 」と尋ねると

「 これは桜井の調べが終わらない時に、何日でも調べられるように空けてある。」

と答えるので、何日も調べられるのでは大変だな、と思いました。

(5) この日は、竜ヶ崎の裁判所から帰ってからは調べが無くて、警察は私の8月下旬のアリバイの裏付け捜査をしたようです。

(4) 10月13日の取調べ

(1) 朝9時頃に、深沢巡査が留置場内の看守仮眠室に大、小2つの机を運んで来て、また出て行きました。暫くして、今度はお茶の道具などを持って来ると、続いて早瀬警部補が入って来て調べが始められたのですが、調べの際は、看守勤務員も留置場の外に出されて、留置場の中は早瀬警部補、深沢巡査と私の3人だけでした。

(2) 早瀬警部補は、最初に

「 もう一度、8月28日のことをゆっくり考えて話して貰うから。」

と言うので、玉村さんの事件で疑われているな、と思いましたが、どうせ俺には関係ないし、28日のことも考えれば判る、と簡単に考えていた私は、大して重大にも思わないで、再び記憶を辿
(たど)ったのです。

(3) 28日朝のことから考えたのですが、やはり、木村香樹さんと競輪場を出たところからの記憶がはっきりしなくて、どうしても、木村さんと来るまで帰ったような気がして、来るまで帰った日は布佐駅に自転車を取りに行った、自転車は28日の昼に入質したので来るまで帰ったのは28日ではない、しいうことで、記憶は曖昧でした。

 29日の朝のことなどからも考えたのですが、何度か考えるうちに「 兄のアパートに泊まった、杉山も泊まった 」ように思い出したので話すと、早瀬警部補は、

「 もう調べてあって、お前の兄さんも泊まっていないと言っている 」

と断言しました。私も画然たる記憶では無かったものですから、早瀬警部補の断言で、その記憶は自分の記憶違いだ、と思ってしまったのです。実際には正しいその記憶を、勘違いだ、と思ってしまったのですから、何度考えても28日の泊まったところが判りませんでした。

(4) しかし、いずれにしろ「 兄のアパートか、 渡辺和夫の家、もしくは藤ヶ崎さんの家に泊まっていることは確か。」だと思って話しますと、早瀬警部補は、

「 もう調べてあるよ、兄さんのところは26日のこと、和夫の家は27日、藤ヶ崎の家は29日からだ、違う。」

と言い、大学ノートに、兄、和夫、藤ヶ崎と書きながら、1つ、1つに「 違う 」と言って×印をしていったので、どこに泊まったのか判らなくなってしまったのです。

 けれども、8月28日が玉村さんの事件の日と知ってはいても、無関係な私にとっては8月28日の記憶など有っても無くても良いことなので、記憶が混乱して判らなくなっても別に深刻にも思わず、何度考えても判らないアリバイをその儘(まま)に、「 記憶がなくて判らないです。」と言っておりました。

(5) そんな訊問だけで午前中の調べが終わろうとする時になって、突然、

「 28日が判らないと言うのは、布川へ行ったことを隠そうとするからだよ。布川へ行ったことを話さずに真実が話せないだろ。」

と、早瀬警部補が言ったのです。

 玉村さんの事件で参考のために聞かれているのだろう、と判っておりましたから、この早瀬警部補の言葉の調子などで犯人と疑われていると知り、びっくりしてすぐさま、「 玉村さんのことは関係ないですよ。」と言ったのですが、早瀬警部補は、私の言ったことには答えず、

「 昼飯にするけど、午後からは本当のことを話してくれ。」

と言って午前中の調べが終わったのです。

(6) 私は昼食の間も、これはアリバイを思い出さなくては大変だ、と思って一所懸命に考えたのですが、一度失念した記憶は焦って考えれば考える程混乱して判らなくなってしまい、どうしても思い出せませんでした。

(7) 午後1時から再会された調べでは、いきなり、

「 どうだ、本当のことを話す気になったか。」

と言われました。何をどう言われても、アリバイの記憶がないのですから、「 本当に玉村さんの殺されたことには関係ないのです。」としか答えようがありませんでしたが、

「 それじゃ、28日の晩はどうしたんだ。」

と聞き重ねられても、これも「 記憶がない 」としか答えようがありません。

(8) すると早瀬警部補は、

「 玉村さんを殺したことを話さずに真実が話せるか、取手からどこを通って布川に行ったんだ。」

「 悪事千里を走る、といって、悪いことをすれば、そのことはすぐ誰にでも判っちゃうんだよ、取手で盗みに這入って娘っ子を殺した奴も1年ぐらいして掴まったんだ。」

「 いつ迄も隠し通せるものじゃないから素直に話したらどうだ。」

「 玉村さんも苦しかったろうなあ。」

などと言って、自白を迫って来ました。私も、アリバイの記憶はなくても、犯人ではないのだから話せば判って貰える筈だ、と信じて「 犯人じゃないですから良く調べて下さい 」と何度も頼んだのですが、

「 26日、27日が判る、29日、30日も判るが、28日だけは判らないなんて、中学生が数をかぞえて、1、2と判るが3が判らない、4、5と判るなんて言うのと同じだ。」

「 それじゃ、誰に聞かせても納得がいかないだろう。」

と言われますと、自分でも、なぜ28日の記憶が思い出せないのか、と不思議に思っておりましたから、早瀬警部補の疑問はもっともだ、と思って反論も出来ませんでした。私が何も言えなくなると、

「 藤ヶ崎に泊まった29日の晩は遅く迄起きてたようだが、見つかるんじゃねえかと寝られなかったんだろ。」( 前記18頁裏の(10) )

「 黒川さんの自転車で布川に行った時、28日夜は和夫の家で稲刈りを手伝って泊った、などと嘘を言ったようだな。」( 前記19頁の(7) )

「 8月31日、布川に行ったのはどんな様子かと見に行ったんだろう、それが犯人の心理というもんだ。」( 前記19頁裏の(6) )

などと言って自白を迫って来たのです。私も何とか無関係なことを判って貰おうと思って、「 29日夜はボクシングを見るので起きてたのです。」「 黒川さんには、事件の晩に和夫の家に泊まった、今日は親戚で稲刈りをして来た、と言ったのであって、黒川さんの勘違いです。」「 8月31日に布川に行ったのは、やじ馬根性で行ったのです。」と、何度も関係ないことを説明したのですが、そのたびに

「 それじゃ、28日はどうしたんだ、話してみろ。」

と言われますと、アリバイの記憶がないのですから、これも「 判らないのです 」としか答えられず、どうしようもなかったのです。

(9) しかし、だからといって犯人扱いされることはない筈だ、と思って「 アリバイが判らないだけで、なぜ犯人扱いするのですか。」と言いましたらば、早瀬警部補は、

「 そうじゃないよ、貴公と杉山を玉村さんの家の前で見た人がいるんだよ。」

と言ったのです。この言葉で、杉山と2人で玉村さんを殺したと疑われていることを初めて知りましたが、杉山とは2人だけで布川の町中を歩いた覚えも無かったので、その旨を話すと、今度は、更に具体的に

「 貴公が勝手口の石台に上って玉村さんと話していて、杉山が道路に立っていたのを道路を通った人が見ているんだよ、その人が、道路に立っていたのが杉山卓男で、石台に上って玉村さんと話してたのが桜井昌司だった、と断言するんだから駄目だ。」

と言うのです。

 警察に調べられるのが初めての私は、警察の人が言うことは総て真実だ、と思っておりましたから、早瀬警部補の言う「 桜井、杉山を見たと断言する人 」も実際いると思い、なぜ行った覚えのない玉村さん家の前で私を見たと言う人がいるんだろうか、と真剣に考えました。

 その結果、道路を通った人が道路に立っていた杉山と庭の奥になる勝手口の桜井を見たと言うのだから、道路に立っていたという杉山は実際に行ったのだろう、勝手口の桜井というのは、杉山と一緒に行った誰かを目撃した人が見間違えたのだ、と思ったのです。

 そして、これは杉山と誰かが犯人だ、と思わされ、「 私は行った覚えがないし、見たという人に会わせてくれれば俺じゃないと判ります。杉山と誰かが犯人だから良く調べて下さい。」と頼んだのですが、

(10) 早瀬警部補は、私の言うことを全然取り合ってくれませんで、

「 天網(てんもう)恢々(かいかい)(そ)にして漏らさずと言って、誰も見てないと思ってもどっかで人は見てるもんだ。桜井もまさか見られてるとは思わなかったろうな。」

「 31日に杉山とタクシーで木村重雄のところに行った時、玉村さんの家の前で缶詰の話をしたようだが、玉村さんのところに持って行った奴か。」( 前記20頁裏の(11) )

「 お前のしていることは何でも判っているんだ、タクシーの運転手の石川ってのが、ちゃんと缶詰の話を聞いているんだよ。」

「 31日、稲刈りを途中で止めたのは、事件が発覚したので藤ヶ崎の家から逃げ出したんだろ。」

「 流山で貴公が盗みをした時、あの部屋に人間が寝てたらもう1人死んでたっけな。」

「 貴公のような人間がいなかったら、玉村さんも死なずに済んだよ。」

「 1日も早く自白した方が偉い人達の感じ方も違うんだし、貴公には有利なんだぞ。」

「 下手に突っ張ってると大変なことになんだ、死刑だってあるぞ。」

などと言って自白を迫るだけでした。何を言われてもアリバイを思い出せないのですから、「 犯人ではないですから、信じて下さい。」と言うよりありませんでしたが、早瀬警部補も

「 初めは誰だってそう言うんだよ、良いことをした訳じゃないから逃れようと思うんだ。いつ迄も言い訳を考えてないで話してみろ。」

と言うばかりで、ただ、ただ自白を迫るだけでした。

(11) 朝の9時頃から夜の12時頃迄、こんな調べが続けば、最後には何も答えようが無くなって、早瀬警部補の「 自白しろ 」と繰り返す言葉を一方的に聞いているよりありませんでしたが、12時近くになり、アリバイを考えることなどで頭の痛くなった私が、「 もう調べを止めて下さい 」と頼むと、

「 娑婆にいれば何時迄でも遊んでいるくせに、後暗いことがあるからそんなこと言うんだよ。お前がそう言うんじゃ、今日は終わりにすっけど、明日はすっかり話せるようにしろよ。」

と早瀬警部補が言って、やっと、13日の取調べが終ったのでした。

(12) 刑事宿直室の方で仮眠してた看守勤務が留置場に呼ばれ、布団を房内に入れたりした後に休みました。横になってからも、なんとかアリバイを思い出そうとしたのですが、「 兄のアパートに泊まった 」という実際の行動を、早瀬警部補の「 兄さんは泊まっていないと言っている。」という言葉で勘違いだ、と思わされていたのですから、思い出せる筈がありませんでした。

(5) 10月14日の取調べ

(1) 朝9時頃から始められた留置場看守仮眠室での調べは、前日同様に「 自白しろ 」の一点張りでした。早瀬警部補は、前日と同じように、

「 金は、玉村さんのところからいくら盗んで来たんだ。」

「 大きな金庫を開けりゃ、もっと金が入っていたのに惜しかったなあ。」

「 金は翌日の競輪で使っちゃったのか。」

などと言って来たのです。私も言われる一方で、潔白を判って貰えない悔しさから、「 そんなことは、杉山が犯人だから杉山に聞けばいいじゃないですか。」と言ったことがあるのですが、早瀬警部補が、

「 勿論、杉山にも聞くよ、杉山にも聞くけども、杉山だってお前のことを言うんだから、お前だって自分のしたことは話さなくちゃ駄目だよ。」

と言ったので、杉山も掴まって調べられているんだな、それでは杉山の調べが終われば俺の無関係も判るだろう、と思ったことがありました。

(2) アリバイを思い出せない私は、何を言われても「 本当に関係ないのです 」と言うよりありませんでしたが、私の言うことに全く耳を貸さない早瀬警部補に、

「 初めっから素直にやりました、なんて言う奴はいないんだよ。俺じゃない、俺はやってねえ、初めは誰でもそう言うんだ。」

「 見られてるんだから、しようがねえだろ。」

「 お前が犯人でなくてどこに犯人がいるんだ、お前のような人間がいなかったら、こんな事件も起きなかったよ。」

「 お前が犯人だってことは判ってるんだから、・・・・・。我孫子で杉山に会って、それからどうしたんだ、話してみろ。」

などと言われても反論することは出来ず、その早瀬警部補の自信たっぷりな調べでの
「 自白しろ 」の言葉を聞かされているうちに、この儘犯人にされてしまうのではないか、という不安を感じるようになりました。

(3) そんな調べの続いた午後4時頃でした。繰り返し「 自白しろ 」と言っていた早瀬警部補が、

「 貴公の母ちゃんも、やったことは仕方ないんだから一日も早く素直になって話せ、と言ってるんだぞ。」

と言ったのです。

 私は、犯人にされるのか、という不安を感じながらも、無関係なことは判る筈だし、家の者は絶対に信じてくれる、と思っていました。それだけに、母が言ったと聞かされた言葉はショックで、「 本当にそう言ったのならば、なんでも貴方の言う通りに認めてやるから、お袋を連れて来て会わして下さい。」と言いました。

 すると早瀬警部補は、大学ノートに、お袋に会わしてくれ、とだけ書いて、

「 会わせられないが、言ったのは本当だから話してみろ。」

と言うだけでしたので、もう何を言っても仕方ない、と思って、何を言われても黙っていましたが、家の者迄自白しろと言うようでは犯人にされてしまうのではないか、勘違いの目撃者もいるので犯人にされる、と思わされました。

(4) 調べが終ったのは12時近くでしたが、房内で横になってからも種々と考えました。私は、警察が嘘を並べ立てて自白を迫るとは知りませんでしたから、早瀬警部補の言う「 桜井、杉山を見たと断言する人 」や、その自信たっぷりな調べを思うと、真実を言ってもこの儘犯人にされるのではないか、と思いました。

 しかし、その反面、杉山と誰かが犯人だ、と思っておりましたから、杉山の調べさえ終われば自分の潔白は判るのだ、と考え、最後に自分の無関係が判るのならば、家の者も犯人だと思っているというし、早瀬警部補の言う通りに何でも認めて、犯人でないと判った時、早瀬自身にどんなひどい調べをしたのかを思い知らせてやろうか、と考えたこともありました。

 そして、その夜の看守勤務員であった椎名巡査に「 強殺ってどんな罪なんですか 」と聞いたことがありました。

(6) 10月15日の取調べ

(1) 朝9時頃から始められた調べの早々に

「 ゆうべの看守さんに、強殺ってどんな罪だ、なんて聞いたらしいが、それはお前が犯人だから気にするんだよ。」

と言われ、更に自白を迫られました。私は、一度、言われる通りに何でも認めてやろうか、考えましたが、やはり関係ないことは認める訳にはいかない、と思って、
「 自分は犯人じゃないし、無関係です。」と言っておりました。結局、午前中の調べは「 自白しろ、認めろ 」「 関係ない 」という言葉のやり取りで終わりました。

(2) 午後の調べ時間になり、留置場に入って来た早瀬警部補と深沢巡査は、看守仮眠室に入らないで私の房の前に立ち、早瀬警部補が、

「 お前の言っていることが、嘘か、本当か、嘘発見器にかけるけどどうだ。」

と言ったのです。

 私は、器械ならば真実さえ話せば判って貰えるだろう、と思い、これで自分の無関係なことは判って貰える、と喜んでお願いしました。私が承知すると、早瀬警部補は、私を房から出して看守仮眠室前の机で同意書に署名押印させ、再び房に入れてから留置場を出て行きました。

(3) 早瀬警部補が出て行って暫くすると、嘘発見器を持った白衣を着た人と取手署鑑識係の早川巡査が来て、看守仮眠室の隣の3畳間程の板敷間で発見器に掛けられたのです。

 先ず、私に器械を仕掛けた係の人は、黒い紙だったかに包んだ「A」、「B」、「C」と書かれた縦7p、横5p程の3枚の札を出して見せた後、

「 誰にも見えないように札を1枚抜いて、何の札か確認して手に持っていて下さい。それに対して、『 Aの札を取りましたか 』、『 Bの札を取りましたか 』、『 Cの札を取りましたか 』と3回質問しますから、全部否定して下さい。」

と言って、その3つの質問を発見器に掛けたのです。直ぐにその結果を見せましたが、その前に、私が手に持っていた札の記号をピタリと当てました。それは、3つの質問の中で嘘の答になったところの記録の波が、他の2つの正しい答のところとは、全く違った乱れた線となっているので判ることでしたが、白衣を着た係の人は、その結果を示しながら、

「 このように、嘘発見器は高い確率があるのですから、信頼して話して下さい。過去にも水戸の方で犯人と疑われた人が嘘発見器で犯人でないと証明されたこともあります。」

ということを言いました。

 私は、この結果を見せられて、どんなことを尋ねられても真実を話さなければならない、と思いましたし、また、真実さえ話せば無関係なことは判って貰える、と安心したのでした。

(4) 午後1時過ぎから2時間程の尋問(ポリグラフ鑑定書質問事項参照)では、これが犯人にされるかどうかの岐路なのか、と思ってかなりの緊張は感じましたが、真実のみを答えました。

 それらが終って房に入れられますと、器械などを持って帰る係の人が房の前に立ち止まって、

「 1日も早くアリバイを思い出して、係の人に判って貰いなさい。」

と言って留置場を出て行ったので、器械では真実が判ったのだ、これで犯人扱いされることは無くなるだろうし、自分のやった窃盗の調べだけだ、と思ってホッとして休んでおりました。

(5) 30分程経った頃でしょうか、早瀬警部補達が留置場に入って来て、調べが再開されたのです。

 私は、3枚の札を使った結果を見せられていたので、すっかり安心しておりましたから、「 犯人ではないと判った 」とでも言いに来たのだろう、考えて看守仮眠室に入り、早瀬警部補に向って「 本当のことが判ったでしょう 」と言いました。すると早瀬警部補は、

「 貴公の言うことは総て嘘と出たよ、もう駄目だから本当のことを話してみろ。」

と言うのです。

 私は、その言葉を聞いて、もう言葉も出ない程がっかりしました。この儘(まま)犯人にされる、という不安で一杯の時に嘘発見器に掛けられ、これで真実を話せば判って貰える、と安心した上に、その器械を信頼して真実だけを答えたのですから、その結果が「 全部嘘と出た 」と言われてがっくり来たのです。

(6) アリバイが思い出せないのでその通りを話せば、有ること、無いことを言われて犯人扱いで自白を迫られ、嘘発見器に真実だけを答えれば、それが全部嘘だと言われたので、警部補や警察はどんなに真実を話しても、全部悪い方にして犯人にする心算なのだ、何を言っても無駄だ、と思わされました。私には、自分で犯した窃盗という罪がありましたので、疑われても仕方ない、という負い目もあり、早瀬警部補に

「 嘘発見器が犯人だと証明しているんだから、言い逃れは出来ないよ。」

と言われますと、アリバイを証明できない以上、もう何を言っても犯人にされてしまう、どうにもならない、という気持になってしまったのです。

 警察に調べられるのが初めてだった私は、刑事が嘘やはったりで自白を強要するなんてことは、テレビや映画の世界だけのことだ、と思っておりましたから、早瀬警部補の言っていることが嘘だなんて考えてもみませんでした。

 アリバイが証明できないので犯人にされてしまう、と思った私は、早瀬警部補の言う「 桜井、杉山を目撃した人 」の勘違いや、嘘発見器の「 嘘と出た 」という間違った結果があるので犯人にされる、犯人にされるなら「 死刑もある。」(死刑に)されたら大変だ、だけど自分は犯人じゃない、どうしたらいいんだ、と考えると頭が混乱してしまい、どうしたら良いのか判らなくなってしまったのです。ただ、その不安の中でも、杉山と誰かが犯人だ、とばかり思っていましたから、たとえ一時的に犯人にされても真犯人が判っているんだから、最後には無関係と判る筈だ、と思っておりました。

 この「 犯人にされる・助からねば 」という考えと、「 最後には真実が判る 」という考えの相反する思いの中で、犯人でないことをアリバイで証明できない以上は、犯人と認め、犯人としての調べの中で潔白を証(あか)すより方法がない。人間が1人殺されている大事件だから警察も細かく捜査するだろうし、認める中に矛盾が出て、そのことで却(かえ)って無関係なことが判るだろう、どうせ家の者も犯人と思っているのだから、一時、犯人にされても構わない、という馬鹿な考えを起こしてしまい、

「 早く話してすっきりしたらどうだ。」

と繰り返して自白を迫る早瀬警部補に対して、嘘の自白をする気持を起こしたのでした。

(7) 杉山(と誰か)が犯人であることが判り、私が犯人でないことが判った時、早瀬自身にその調べのひどさを思い知らせて罵倒(ばとう)してやろう、とも思ったのですが、ただ、一時的に犯人にされて新聞に出されると、結婚している姉に迷惑が起こると大変だ、と思ったものですから、「 すぐ新聞に出るのですか 」と尋ねました。

 すると早瀬警部補は、

「 そりゃ、お前さんが出されちゃ困るというなら、出さないようにするよ。」

と言うので、すぐに新聞に出ないのなら、そのうち杉山の調べも終って自分の関係のないことは判る筈だし、一時、犯人にされても構わない、と余計に考えたのでした。

そして、午後5時過ぎに

「 逃れようはないんだから、話してみろ。」

と繰り返す早瀬警部補に対して、
「 認めてやるよ、その代わり、自分が犯人じゃないと判ったら、首を覚悟して貰いますからね 」と言いますと、早瀬警部補は大学ノートに、5時15(だったか16)分自白、と書いてから

「 そういう気持だから、いつ迄も人に世話を焼かせるんだよ。」

と顔を真っ赤にして怒って、私の頭を小突いたりしましたが、すぐに

「 それじゃ、取手競輪場を木村カジュと帰ったところから話してみろ。」

と言い出したのです。

 私はこの時、ただ単に、犯人だ、と認めれば、それで犯人になるものだとばかり思っておりましたから、細かな話を聞かれ始めたので、困ったな、と思ったのですが、どうせ嘘なのだし、適当なことを言ってればそのうち犯人でないことが判るだろう、と思って、「 取手駅に行って上野行きの電車に乗った 」と言いますと、

「 木村は我孫子でお前と別れたらしいが、どうやって我孫子に戻ったんだ。」

と言いました。警察は、木村さんに会って調べてあるんだな、と思いましたが、そう言われてもアリバイの記憶を思い出せませんでしたので、とにかく早瀬警部補の言ったこと(前記38頁の11行以下)に合わせて我孫子駅に戻って杉山に会ったことにすれば良い、と思って、それ迄にも接続時間を潰すために何度も経験したことである柏駅に行って我孫子駅に戻る、という行動を、この日もしたように「 柏駅迄行って我孫子に戻ったのです 」という話にしたのでした。

 早瀬警部補は、私の言うことの要点を大学ノートに書きながら、

「 我孫子に戻ってどうした。」

と訊きました。咄嗟
(とっさ)に嘘の話など作れる筈がありませんので、実際に我孫子駅で杉山に会った9月1日(前記21頁の(1))のことをこじつけてやれ、と考えました。が、9月1日の行動については早瀬警部補に話してありましたから、そっくり同じ話ではおかしいので、適当に話を作り替えて、「 成田線ホームにいると、杉山と佐藤治に会った、佐藤と汽車に乗り、布佐駅で杉山と一緒になって布川に行った 」という話に作ったのですが、何しろ、咄嗟(とっさ)のこじつけ話、作り話だったものですから、早瀬警部補の

「 それから?」、「 その時どうした?」

などという訊問に、
「 佐藤治も一緒だった 」と、9月1日と同じ話になってしまったのでした。

 布川に着いた話になれば、佐藤治が一緒では早瀬警部補の言葉(前記35頁の10行以下)に合わないので、「 佐藤は家に帰ったので別れました。」という話にしたのですが、

「 それから、どうした?」

と訊かれ、どうして玉村さんの家に行ったことにすれば良いかが判らないので、先ず、
「 栄橋の袂(たもと)で話をしました 」という話にして考えました。

その結果、事件後の噂話(うわさばなし)や大和屋(やまとや)でも聞いた話(前記20頁の(9)の4)で玉村さんが金貸しをしていたと聞いていましたので、金を借りに行こうという話になって行ったことにすれば良い、と思って、「 これからどうする、という話から、玉村さんに金を借りに行くことになった。」という話に作りました。

 玉村さんの家に金を借りに行く話になると、早瀬警部補は、

「 玉村さんの家に行くのにどの道を通った、大通りか?」

と訊きましたので、その言葉の調子に合わせて
「 はい大通りを通って行きました。」と答えましたが、玉村さんの家に着いたことになれば、これは取調べの時に早瀬警部補の言った言葉(前記35頁の(9)の6行以下)に合わせて、

「 玉村さんの家の前に来たので、自分が勝手口に行って声を掛けました。」という話が簡単に作れました。

 そういう話を作ると、早瀬警部補は、

「 勝手口に行って声を掛けた、うん、それからどうしたんだ。」

と言うので、適当な話を、と思って
「 今晩は、と言うと返事があって出て来ました。」ということにしましたが、更に、

「 象天(しょうてん)さんが出て来て、どんな話をしたんだ。」

と訊かれました。いかに金借りに行ったことになっていても、
「 すぐに金を貸してと言った。」という話では不自然だろうと思って、「 景気はどうですか、今でも鶏小屋を作っているのですか、などと話してから金を貸して下さい、と言った。」ということにしたのです。すると、

「 いくら貸してくれと言ったんだ。」

と訊かれましたが、咄嗟
(とっさ)に話も作れず、8月26日朝に母から5千円を貰ったこと(前記10頁裏の(2))を思って、「 5、6千円です。」と答えると、また、

「 5、6千円貸してくれと言ったら、象天さんは何て言った。」

と訊き重ねられました。勿論、金が借りられた話にしてしまうと殺す話が作りにくいだろうと、思ったので、「 断られたのです 」ということにしましたが、

「 断られてどうしたんだ。」

と言われて困りました。

 今は何で知ったのか覚えておりませんが、玉村さんが殺されたのは9時頃だと聞いていたし、どんな切っ掛けで、どうやって殺したことにすれば良いのかも判りませんでしたから、どのように話を続けたら良いのか判らなかった訳なのです。

 それで、とにかく一度玉村さんの家から利根川の方に行ってぶらぶらしていたことにして、その間にどうやって玉村さんを殺したことにするかを考えよう、と思い「 断られたので仕方ないから、どうもと言って家を出た。」という話にしたのですが、その時に

「 家を出た時、杉山はどこにいた。」

と訊かれましたので、早瀬警部補の言った目撃者の話(前記35頁の(9)の6行以下)に合わせて
「 道路に立っていた 」と答えました。

 続いて、「 ドブ川沿いの裏道を通って利根川の土手に行った 」という話を作りましたが、「 ドブ川沿いを行った 」という話にしたのは、布川を熟知する私が、何の意味もなく勝手に作ったものです。

 玉村さんをどう殺したことにしたら良いのかを考える時間を得るために、「 土手に行って、川原に降りてぶらぶらした 」などという話も作ったのですが、その点では、

「 杉山とどんな話をした。」

と何度も訊かれました。しかしながら、嘘の行動の話は作れても、嘘の会話はとても考え付かなくて作れず、ほとんど話をしていないことにしましたが、
「 川原に降りて、上流に行ったり、下流に行ったりぶらぶらした。」という話にしたり、杉山との会話などを思い出す振りをして、どんなふうに玉村さんを殺したことにすれば良いかを考えたのです。

 ところが、何度考えてもうまい話が考え付かなくて、川原でぶらぶらした話も、

「 それからどうした。」

という早瀬警部補の訊問に、話が続かなくなってしまったのでした。

それで、どっちにしろ、玉村さんの家に行ったことにしなければ話にならない、と思って、再び玉村さんの家に行った話を作った訳なのですが、最初の話が、「 私が、金を借りに行こうと言った。」と作ってあって断られたとなっているのに、私が再び「 借りに行こう 」と言った話ではおかしいだろうと、と思ったので、「 今度は杉山がもう一度行こうと言ったので行くことになった。」という話にしたのです。

「 2度目に行く時はどこを通って行った、大通りか、ドブ川の方か。」

という早瀬警部補の訊問の緩急で、
「 ドブ川の方を通って行きました。」という話になったのですが、玉村さんの家の中など全く知らないのにどうしようか、とばかり考えていると、ひょいと、家の中の様子が判らないのだから、杉山一人で家の中に入ったことにすれば後の話は適当に作れるし、それで話が出来上がる、という考えを思い付いたのです。

 ところが、玉村さんの家の前に来た話になり、早瀬警部補に

「 玉村さんの家に着いてどうした。」

と訊かれると、どういう具合でか
「 私が先に庭に入って行った 」と答えてしまったのでした。それで仕方なく「 再び勝手口に行って声を掛けた。」という話にすると、

「 象天さんは、2回目もお前が言ったら何て言った。」

と訊くので、一度断った後に来られれば、誰でもまた来たのかと言うだろう、と思ったので、
「 なんだ、また来たのかと言いました。」という話に作りました。

 このような話に作って考えたことは、どういう切っ掛けで杉山が家の中に入ったことにすれば良いか、ということでしたが、借金が成功した話に作っては殺す話が作れない、と思い、再び借金を断られた話にして、その後杉山が家の中に上がって行ったことにしよう、と考えて、「 部屋から出て来た象天さんに、話だけでも聞いてくれと言ったら、駄目だと断られた。」という話にすると、早瀬警部補が

「 駄目だなんて言った訳か、その時杉山はどうしてたんだ。」

と言うので、その言葉に合わせるように、
「 玉村さんに断られた時に、後から杉山が来て家の中に上がって行ったのです。」という話を作ったのでした。

 すぐに

「 杉山は、何て言ったんだ。」

と訊かれましたので、尤
(もっと)もらしく「 象ちゃん俺だよ、と言って上がり込んだ。」ということにしたのでした。

 杉山が家の中に入ったことに話が出来上がったので、後は早瀬警部補の訊問に合わせて逃げる話を作ればいい、と思って、「 杉山が話に行ったので、私は道路の方に戻った。」と言うと

「 お前は家の中に入らなかったのか。」

と訊かれましたが、
「 私は2度聞きに行ったので、後は杉山が聞けばいいと思ったので入らなかったのです。」と尤(もっと)もらしく話しますと、その時は、それ以上の追求をして来なくて、

「 杉山が上がってから、家の中はどんな様子だった。」

と訊かれました。勿論、玉村さんは殺されているのだから静かだったという話ではおかしいだろう、と思い、
「家の中では、ガタガタ騒いでいました。」と答えましたが、それに対して

「 なんだって言ってた。」

と訊かれました。言葉では、実際に人を殺す程に騒ぐ時の音や声などが、具体的にどんなものかが判りませんでしたから、
「 はっきりしません。」と答えると、更に

「 どんな音がした、音ぐらい判るだろ。」

と何度も訊かれましたので、早瀬警部補の納得するように適当に作ってやれ、と考えて、
「 道路の方に行く時に、玄関の辺りで大きな音を聞きました。」という話を作ったのでした。

 それからは、逃走の話を作ったのですが、逃走の話を訊問した時の早瀬警部補は、

「 それから?」「 それでどうした?」

というような言葉しか言いませんでしたので、それに合わせて
「 家の中での騒ぎがすぐに静かになって、杉山が家から飛び出してきた。」「 杉山は、ドブ川沿いの道を駆けて行ったので、後を追った。」という話を作って行きました。

 この逃走話を作ることになって、最初に考えたのは、どこに泊まったことにするか、ということでした。アリバイが判らなくて8月28日に泊まったところも判りませんでしたから困ったのですが、と言って全く嘘の宿泊場所の話も簡単に作れませんでしたので、結局、杉山との出会いの話を、9月1日のことなのに8月28日とこじつけたのと同じ方法で宿泊場所を作ろうと考えました。

 それで、10月初旬に泊まった常磐線柏駅傍(そば)の旅館の話をこじつけよう、もし調べられて違うことが判ればその時のことで、それ迄には自分の無関係も判るだろう、と思って「 布佐駅迄行って、少し待った時に来た電車に乗り、我孫子で乗り換えて柏駅に降りた。」という話を作ったのですが、柏の旅館に泊まったことにするにも、当時の実際の手持金が旅館代ぎりぎりだったものですから、「 柏で降りる時に杉山から千円貰った。」という話を作ったのでした。

 また、8月29日朝の記憶もありませんでしたので、どんな話を作って記憶のある実際の行動につなげば良いか、と考えましたが、嘘の自白の始まりが9月1日のこじつけでしたので、9月2日の朝に杉山と上野で会ったこと(前記23頁の(2))を8月29日にこじつけよう、と考え、その9月2日の時の杉山の話(前記23頁の(3))も入れて、「 柏駅で杉山と別れる時、杉山は南千住に泊まると言っていて、明日の朝、上野の西郷会館に来いと言われた。」という話に作り上げたのでした。

 9月2日と同じように「 喫茶みちのくで会った。」としなかったのは、尤(もっと)もらしい話に作ってやれ、と思ったので「 パチンコ西郷会館 」としたのでした。

 柏の旅館に着いた話になってからは、「 ビルの3階の旅館で、入ってすぐ左の部屋に泊まり、旅館代は若い女の人に1200 円払った。明日は電話で起こしてくれと頼んで寝た。」ことなど、10月の実際の儘(まま)に話し、「 翌朝、電話で起こされて上野に行った。」という話を作りましたが、上野で杉山に会ったとしたところでは、「 西郷会館に行ったが会えないので、上野駅の山の下口のガード下信号のところに来ると杉山に会った、それから喫茶みちのくに行ってから取手競輪に行った。」と、ほぼ9月2日と同じように話して、実際の行動で、記憶があった杉山と取手競輪場へ行ったことに話を合わせ、最初の嘘の自白が出来上がったのでした。

(8) 最初の嘘の自白が終わったのは、6時半頃だったと思いますが、夕食休憩になって看守勤務員が留置場へ来て、私が房に入ると、逮捕された夜の勤務員であった諸岡巡査(前記27頁の(9))がこの日も勤務だったので、「 実は、私は犯人じゃないのですが、早瀬さんの調べ方が余り汚いので嘘の自白をしたのです。」と言うと、諸岡巡査は、

「 家の人も大変だから、良く考えた方がいいよ。」

と言ったことがありました。

(9) 30分程休んだ後、今度は調書作りのための調べが始まったのですが、初めに早瀬警部補は、

「 2回目に玉村さんの家に行ったところから、もう一度話してみろ。」

と言いました。私は言われる儘(まま)に、もう一度、「 川原で話をして玉村さんの家に行き、私が先に勝手口に行って声を掛けた後、杉山が上がり込んで行った。」と話しますと、早瀬警部補は、

「 その時、お前はどうしてた。」

と訊くので、最初に作った話の通りに、「 少しの間勝手口にいて、道路の方に行った。」と答えたのです。すると、すぐに早瀬警部補は、

「 お前も家の中に入ったんじゃねえか。」

と言って来ましたが、家の中のことなど話しようがないので、「 絶対に入ってません。」と言いますと、何度も重ねて

「 本当に入ってないか、間違いじゃないか。」

と訊いて来ました。

 この点に付いては、10分程「 入ってるなら言ってくれ。」と言われましたが、家の中の話など作れないので、「 絶対に入っていません。」と言っていると、最後に私の話を中断するような形で止めた早瀬警部補は、

「 それじゃ、今から調書を作るから、種々細かなことを訊くけども、良く思い出して話してくれ。」

と言って調書作りに入ったのでした。

 最初は、私の経歴を書きましたが、それが簡単に終わると、8月28日朝のことから書かれていきました。

 8月28日朝、渡辺和夫の家で起きてから、同夕、取手競輪場を木村香樹さんと出たところ(前記12頁の(1)から13頁の(10))までは、特別の尋問はされませんでした。それが、木村さんと別れ、柏駅に行って我孫子駅に戻った、というところになると、早瀬警部補が、

「 なぜ、わざわざ柏駅に戻ったんだ。」

と訊いて来たので、作り話に理由のある筈もありませんから、「 理由もありません。」と言いましたが、

「 事故 (8月27日発生の脱線事故) を見に行く気もあったんじゃないか。」

と言うので、その儘に認めて「 事故の興味もありました。」と言ったのです。

 早瀬警部補は、大学ノートを見ながら、調書を作って行ったのですが、我孫子駅で杉山と佐藤治に会ったところの話になると、

「 2人はどんなふくそうだった。」

と訊くので、当時の記憶の儘に9月2日の2人の服装を言ったのでした。布佐駅に着き、栄橋を渡り、佐藤治は家に帰って杉山と2人で栄橋の袂で借金の話をしたところから、玉村さんのところに行った話迄は、特別に訊かれたことは無いと思いましたが、玉村さんの家に着き、勝手口に行く話では、

「 勝手口に行く時、庭に何か置いてあったのに気が付かなかったか。」

と訊くので、事件後に何度も玉村さんの家の前を通って庭に縄が貼ってあって、自転車が西向きにあったのを見てましたから、「 自転車が停めてりました。」と言えました。それに続いて、

「 勝手口で声を掛けた時、勝手口は閉まってたか、どうだ。」

と訊かれ、実際のことは判らないので、適当に「 はい、閉まってました。」と答えたのですが、勝手口で玉村さんと話をしたところでは、早瀬警部補に種々と訊問されましたので、その時の早瀬警部補との会話、訊問の様子を、私の考えたことを入れて書きますと、それは次のような調べ方だったのです。

「早」 じゃ、勝手口を開けて声を掛けたんだな。

「私」 そうです。

「早」 勝手口の戸はどっちに開けた。

「私」 (判らないので)右だったかな、左だったかなあ。

「早」 よおく考えてみろ。

「私」 (適当に言ってやれ、と)右に開けたのかも知れません。

「早」 右な、左の奴を右に開けたんだな。

「私」 そうです。

「早」 なんて声掛けたんだ。

「私」 (7時過ぎの話だから今晩はだろう、と)今晩はです。

「早」 今晩は、と言ったら返事があって、なんて返事したんだ。

「私」 (普通は声を掛ければ、どちら様だろうから、同じような言葉を作れば良いと)どなたですか、とか、誰ですか、なんて言ったようでした。

「早」 そうか、誰ですかなんて言って出て来たんだな。

「私」 はい、そうですね。

「早」 玉村さんは、出て来てお前が判ったか。

「私」 (小学生の時に庭で遊んだことが、1、2度あっただけなのに、判ったという話ではおかしいだろう、と)いえ、判りませんでした。

「早」 それで何だって言ったんだ。

「私」 (俺が判らないという話では、金を貸してという話も不自然だろうから、判ったという話に作ろう、と)誰だっけなんて言ったので、小学校4、5年生の頃遊びに来て、鶏小屋作りを手伝ったことを話したのです。

「早」 そうか、そしたら何て言った。

「私」 (他に話の作りようが無かったので)ああ、あの時の人か、なんて言ってました。

「早」 それから、景気はどうですか、なんて話したわげが。

「私」 そうですね。

「早」 その他には何が話さながったか。

「私」 (架空の会話を作るのが難しかったので)鶏小屋は今でも作っているのか、なんてだけですね。

「早」 それじゃ、すぐ5、6千円貸してくれろ、と言ったわげが。

「私」 そうです。

「早」 さっきの話じゃ、断わられたということだけど、象天さんは何だって言ったんだ。

「私」 (象天さんは年寄りで、温厚そうな人だから、実際に断わるならやってないと婉曲に言うだろう、と思って) やってないと言ったんです。

「早」 そうか、そんなことはやってない、なんて言ったんだな。

「私」 そうです。

「早」 それでお前はどうしたんだ。

「私」 (2、3度貸してくれと言った、とした方が尤
(もっと)もらしいだろう、と) なんとか頼みます、と2、3回言ったんですが、駄目だったのです。

「早」 駄目だって言ったわげが。

「私」 (何度も頼めば駄目だと言うだろう、と) そうですね、駄目だい、駄目だいなんて言ったんです。

「早」 それで、どうもって帰ったわげだっけな。

「私」 はい、そうです。「早」 それじゃ、話をしていた時の象天さんの服装を訊くがら、よく思い出してみてくれ。

「私」 (判らないので) 覚えてないですよ。

「早」 家の中から出て来た時にどんな服装だったが、長袖が、半袖がぐらいおぼえてるだろ。

「私」 (夏だから長袖もないだろうと) 半袖だったがな。

「早」 半袖な、どんな色だった、黒が、白が。

「私」 (夏のシャツは白だろうと) 白っぽい奴でしたね。

「早」 白いシャツな、じゃズボンはどんな奴だった。

「私」 (判らないので) 忘れちゃったですね。

「早」 色ぐらい判るだろ、黒っぽかったとが、白っぽがったとが。

「私」 (夏に黒ズボンもないだろう、と) そういえば、白っぽがったがなあ。

「早」 いや、違うんじゃねえが、良く考えてみろ。

「私」 (それじゃ黒なのかと) あれ、黒っぽかったんだっけがなあ。

「早」 いや違うべー、覚えてるだろ他にも考えてみろ。

「私」 (白も黒も違うとなると、ズボンの色としては青系統かと) 青だったかな。

「早」 そうがあ、違うんじゃねえが。

「私」 (それじゃ茶系統あたりでもあるかと) はっきりしないけど、茶色っぽがったのがな。

「早」 そうが、そうが、茶色な。茶色っても少し薄っぽがったんじゃねえが。

「私」 (そう言うならそうだろうと) そんな感じでしたね。

「早」 それはどんなズボンだった。

「私」 (判らないので) はっきり覚えてません。

「早」 普段穿いているようなのが、新しいのがぐらい覚えてるだろ。

「私」 (家にいるのに新しいズボンも穿くまいと) 普段着みたいでしたね。

「早」 どうだ、それは作業着みたいな奴じゃないが。

「私」 (薄茶の作業着というのでは、ビル清掃をしていた時に着たことのあるカーキ色の作業ズボンのことでも言ってるのだろう、と思って) そうですね、カーキ色の作業ズボンのようでした。

 右のような問答 (言葉使いなどは違うところがあると思います) で、最初に行った時の話が調書にされていったのでした。

 借金を断られてから再び利根川の土手に行った話、2度目に借金に行くことになった話の点では、

「 杉山と話したことで忘れていることはないか。」

と、何度か訊ねられただけで、最初に作ってあった話の通りに調書が作られましたが、再び玉村さんの家に行き、なんだ又来たのか駄目だと断わられた、と作ってあった話のところでは、また、種々と訊問されたのでした。

 まず、

「 象天さんは、どこで、なんだまた来たのか、と言ったんだ。」

と訊かれたと思いましたが、この時は、家の造りが、道路に面した窓のあるところが事件のあった部屋なのだろう、ぐらいしか判らなかったので、「 8畳間から顔を出して言ったのです。」という話を作ると、

「 どんなふうに顔を出したんだ。」

とも訊くので、事件があったのが8畳間だというのだから、障子ぐらいあるだろうし、それを開けて顔を出したと尤もらしく話を作ってやれ、と思って「 障子を開けて上半身を出した。」という話にしたのでした。すると、早瀬警部補は、その玉村さんが開けたとした障子について、

「 それは、普通の紙の障子だったが。」

と訊いて来たのですが、普通のものならわざわざ訊かないだろう、と思って、「 紙の障子ではないみたいでした。」と答えると、

「 それは、どんな障子だった。」

と訊くので、紙でないならばガラスしかないだろう、と思い「 ガラス障子みたいでした。」と言ったのでした。

「 象天さんとは、他に話したことないが。」

と訊かれては、玉村さんを殺す話なのだから、その布石として玉村さんが怒ったような話があった方が良いだろう、と思って、「 話だけでも聞いて、と言ったらしつこいな、と怒ったように言った。」という話を作ったのですが、杉山が家の中に上がり込んだという話のところでも、「 杉山が、象ちゃん俺だよ、と言って上がって行ったら、お前ら来ても駄目だと言った。」という話を作ったのでした。

 杉山が玉村さんを殴った話、部屋の中で人殺しなどと声がした話などを早瀬警部補の訊問に答えて作ると、

「 本当にお前は家の中に入らなかったのが。」

という点で訊かれました。勿論、家の中の話など作れるものではない、と思って「 入ってないですよ。」と言うと、それ程無理押しせずに、

「 道路に行く時、玄関のところで聞いた音はどんな音だった。」

と訊いて来ましたが、人が殺される時はどんな物音に判らないので困りました。でも、殺人が行われた話なのだから、大きな音が起こることだけは入れても良いだろう、と思って「 ガーンとか、ゴーンとかいう大きなおとでした。」という漠然とした音の話を作ったのですが、更に、

「 それは何で起こったみたいだった。」

と訊かれましたので、これは何か音がしたと思われるような事実が現場に残されているのだな、と判りました。しかしそれがどのような痕跡であるのかは見当が付きませんでしたので、人間1人が殺されているのだから、何かは倒れているのだろうし、もしかするとガラス障子が倒れているのかも知れないな、と考え、「 何かが倒れるような、割れるような音でした。」という話を作ったのでした。

 それから、逃走についての調書になるのですが、杉山が玉村さんの家から飛び出して来て、布佐駅迄歩いて行った話のところでは、

「 杉山は歩いていく時、何も言わなかったのか。」

と訊かれました。それで、人を殺して来た男が何も言わないという話では不自然なのか、と思いましたが、どんな話をしたとすれば良いのかが判りませんでしたから、「 別に何も言いませんでした。」ということにしたのでした。その代わりに、柏駅で別れる時、千円貰った話になっているのだから、その貰った金の入った財布を杉山が見せたという話を作ってやれ、と考え、
「 栄橋に行く手前の土手で財布を見せた。」という話を作りました。そういう話をすると、早瀬警部補は、

「 どこで見せたんだ。」

「 どんなふうに見せた。」

と、相次いで訊いて来ましたので、適当な話を作ればいい、と思って、「車寿司の上の土手の辺りで、財布の中の金を取り出して見せた。」と言うと、更に

「 金はいくらぐらいあった。」

と、訊かれましたが、財布だからそんなに入っていたと言ってもおかしいだろうし、柏で分けて貰った話になってる千円を入れれば後はどうでもいい、と思って、口から出まかせに「3千円ぐらいだった。」と話を作り、

「 何だって言って見せた。」

という訊問では、金額を3千円としたこともあり、人を殺しての3千円では、もし事実なら誰でも少ないと思うだろう、と思い「 少ないな、と言いました。」という話を作ったのでした。この財布に関した残る1つの訊問は、

「 その財布はどんな形のものだ。」

というものでしたが、総てが嘘の話に形も何もありませんので、その返答に窮したことがありました。しかし、どうせ盗って来てしまったという話だからどんな形でも勝手に話が作れる、と思ったのです。

それで、どんな形の財布にするか、と考えた結果、玉村さんの事件が、大工殺しと報道されていたこともありましたので、大工さんの使う布製の釘入れ袋みたいな物だったと言えば尤もらしいだろう、と考え、母が使っていた布製の財布のことも思い出しながら、「 白っぽい布製で、三つ折になり、金を入れるところが2つあるものでした。」という話を作ったのでした。

そして、話を尤もらしくしてやれ、と思って「 財布は、橋の上から川の中に投げ入れた。」という話も作ったのでした。

 この財布の件で訊問が続いた後は、時間が12時近くになったこともあって、特別に訊かれたことはありませんで、最初に作った話の大学ノートに書かれた通りに調書作りが進みましたが、柏駅で杉山と別れて旅館に泊まった話迄書いたところで、早瀬警部補が、

「 区切りがいいところで止める。」

と言い、作った調書を早口で読んだ後に、私に署名押印させると、

「 今日はこれで終わるけど、続きはまた明日から聞くがら。」

と言って、10月15日付の調書作りが終ったのでした。

 深沢巡査が留置場で電話をし、刑事宿直室に休んでいる看守勤務員を呼んでいる時に、早瀬警部補が、

「 まだ言い忘れてるところがあれば、良く考えておいて話してくれるようにしてくれ。」

と言い、看守勤務員と入れ代りで留置場を出て行きました。

(10) 房に入ると、時間が12時頃であったために、正常な2交代勤務(午後8時から1時迄の2名、午前1時から6時迄の1名)が出来ないことで、誰が初めに休むかなどの話を看守勤務員同士で行なっておりましたが、私も寝る前に、もう一度諸岡巡査と「 俺は犯人でないけど、嘘の自白をした。」という話をしたことがありました。

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