[資料−2 被告人の上告趣意書

  昭和49年(あ)第1067号            被 告 人  杉  山   卓  男

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改めました。さらに、読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、文中の会話は一部<茨城弁>です。


被告人の上告趣意 ( 昭和49年10月16日付 )

目     次

事 実 誤 認

第1.自白、否認、再自白の理由、心境

 1 逮捕時から起訴されるまで ( 10月15日から12月28日まで )

第2.取調官らの証言について

 1 久保木輝雄について

 2 森井喜六について

 3 吉田検事について

 4 結    論

第3.私のアリバイに関する証言について

 1 桜井賢司について

 2 河原崎敏について

第4.アリバイ主張と矛盾する証言について

 1 伊藤迪稔について

 2 角田七郎について

 3 高橋敏雄について

 4 海老原昇平について

 5 渡辺昭一について

第5.小貫俊明証人について

第6.その他の二審判決の誤り

第7.一審公判記録の誤り

第8.結    論


 

 一、二審判決には事実の誤認があり、この誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

第1.私は強盗殺人事件については無罪であるとの理由を述べます。

 まず最初に、私が自分は無実なのに、なぜ私の犯行であるという嘘の自白を警察でしたか、次に検察庁において有元検事の取調べに対し、自分の犯行ではないと真実を述べる気になったのはなぜか、再度吉田検事の取調に対し、自分の犯行であると嘘の自白をしたのはなぜか、を重点に警察、検事の取調状況を詳細に書き、その取調に対して嘘の自白、否認、再度の嘘の自白をくり返したのはどのような理由で、どのような心境であったのかを述べたいと思います。

 逮捕時から起訴されるまで ( 10月15日〜12月28日まで )

 昭和42年10月15日、日曜日、私は中学時代の同級生、小泉貞夫と久しぶりで松戸競輪場で会い、小泉が働いているという茨城県北相馬郡利根町立崎の花島鳥屋という店に遊びに来いという小泉からの誘いもあり、また自分の実家の近くでもあることから、2人で松戸競輪場を出、途中飲屋で酒を飲んだりしながら、電車で我孫子―布佐に着き、布佐から布川まで歩きバスを待つ、種々の小泉との話から、私の友人の佐藤尚と佐藤四郎の2人が昭和42年8月29日に起こした暴力事件で逮捕され、1週間位の留置で釈放されたと聞く。

 この事件には、私も共犯として関係があったので「 じゃ俺もパクられるかもしれないな、しかしパクられても尚と四郎がすぐ釈放になっているのだから、俺もすぐ出られるだろう 」等と話をして布川までやって来ますと、布川には数人の刑事らしい男達が、うろうろして、私達の方を見てさかんに何か話していましたが、私達は別に何も考えず、バスが来るのを待っていましたが、なかなかバスが来ないので近くの床屋に行き、そこでバスの来るのを待って乗車したところ、私と知り合いの女の人が「 今、刑事らしい人が杉山さんのことを私に聞いていた 」というので、「 ああそうか 」と言って小泉と2人で花島鳥屋に行く。

 そこで鳥屋の店主と、小泉と私の3人で酒を飲み遊んでいたが酔ってしまったので、今晩は泊まっていけというので、小泉の部屋で2人で寝ていると、夜中ドンドンと戸をたたく音がし、店の奥さんと何か話している声が聞こえました。

 私と小泉は、暴力事件のことで私をパクリに来たんだろうと話し、「 いいや、どうせすぐ出られんだから寝ていよう 」と言って2人で寝ていると、あんのじょう刑事が5、6人で来て、暴力行為の逮捕状を示し、私を逮捕しました。

 私は、軽い気持で「 じゃ、行ってくるから 」と警察の車に乗りこみ、取手署に着く。降りようとすると、「 いや、降りなくてよい 」と刑事が言うので、「 なぜだ 」と聞くと、「 取手署の留置場がいっぱいだから、他の警察署へ行く 」と言うので、おかしいなという気もしたが、あまり気にもかけないでいると車が走り出し、「 どこへ行くのか 」との私の質問に対し刑事は無言で、着いた所は水海道署でした。

 水海道署の取調室において弁解録取書というものに署名と指印をしろといわれ、言われたとおりしましたが、何が書いてあったかは、その当時相当酔っていた為わかりませんでした。

 それから留置場へつれていかれると誰もいなく、看守があわてて呼び出されたらしく、ブツブツ文句を言いながら私の身体検査をし、房内に入れられました。その後すぐねむってしましました。

 10月16日、午前9時頃起こされ、その後指紋、写真等をとられ、そのまま取調室に直行し、取調を受けました。この時私を取調べたのは、茨城県警察本部の久保木警部補、大木巡査部長の2人の刑事でした。

 ここで、暴力行為等処罰に関する違反事件について取調べられ、すでに佐藤尚、佐藤四郎の調書が出来ていた為、簡単にその日の夕方に調書作成が終わりました。その後、刑事は「 じゃ、今日はこれでもう休め 」と言って、(私は)留置場に入れられました。

 この時私は、「 ああ、これであとは1週間位がまんすれば出られるんだな 」という気持でした。

 フトンを敷いて寝ていると、久保木と大木が来て、「 おい起きろ 」と言うので起きると、久保木がこの時コピーした調書様の( 調書か又は他の書類かはっきりしない。ただあまり厚いものではなく、3、4枚の紙をホッチキスでとめてあるものでした。)ものを手にしていました。

 留置場を出ると、先程の取調べと同じ場所で、そこに入ると今度は、久保木、大木の態度がきびしい表情になっていました。私に向って正面に机をはさんで久保木がすわり、私と久保木の斜め横の間に私を包囲するように大木がすわり、まず久保木がコピーの調書様のものをチラチラさせ、「 お前、他に何かやっているだろう 」と言ったのです。

 私はこれを聞いてとっさに、何かなと考えましたが、思いあたる事は、竜ヶ崎で祇園の時あったケンカの事だけでしたので、「 竜ヶ崎のケンカのことですか 」と言うと、「 そんなことではない 」と言われ、「 よく考えてみろ 」と言われましたが、いくら考えても他には事件になるようなことは思い浮かびませんでした。

 すると刑事は、「 布川の殺しだよ 」と言ったのです。

 私はびっくりしてしまい、「 何言っているんだ、冗談じゃねえよ、布川の殺しのことは知っているが、俺は殺しなんか関係ねえよ 」と言ったのです。

 すると久保木は、「 お前とやったと言っている人間がいるんだ 」と言ったので、私は「 誰がそんな事言っているんだ、その野郎をひっぱって来てくれ 」と言うと、久保木は「 それなら、8月28日のお前の行動を話してみろ 」と言ったのです。

 しかし、私は急に8月28日の行動を言え、と言われても全然気にしている訳ではなく、まして強盗殺人事件という大事件の容疑者あつかいされているとは夢にも思わなかったので、中々思い出しませんでした。

 それでも、8月28日のだいたいの行動については、次第に思い出すことが出来、28日は、東京都中野区野方の光明荘に、河原崎敏、私、桜井賢司の3人で居たこと、そのアパートで河原崎の足に桜井賢司が、牡丹の花の入墨をしていたのを私はそばで見ていた事、それから夕方になって、河原崎と桜井賢司はアパートから出て行き、私1人が残り、その後風呂に行き、帰り道でパチンコ店により、アパートに一旦帰り、その後新井薬師の薬師東映に映画を見に行ったということ、その日は光明荘で寝たこと等話しました。

 久保木は、それをわら紙に書き、「 よし、それでは今日はこれで終わるが、よく考えろ 」と言って、16日の調べはこれで終わりました。

 私は、留置場に入れられてから、28日の自分の行動をもう一度思い出してよく考えたりし、又刑事の話では、布川の強盗殺人事件をだれかが俺とやったと言っているらしい、一体だれが、そんなでたらめを言っているのだろう、又警察も俺のことを犯人あつかいしている、私はどうしたら自分がやっていないんだということがわかってもらえるのかな、と次第に不安になりました。

 それで、その晩の看守の巡査に「 俺は強盗殺人という事件で疑われているんだが、自分はやっていないんだ。しかし、取調べの刑事さんの話では、俺とやったと言っている人間がいるらしいんだ。どうしたらよいでしょう 」と聞くと、その看守に「 お前もやっているんじゃないのか 」と言われ、私は「 冗談じゃねえよ 」と言って、その後はその男と話をしないでフトンの中にもぐってしまいましたが、不安と興奮でねむれませんでした。

 翌17日、私は竜ヶ崎の検察庁と裁判所につれていかれました。

 最初、検事の所に行き、暴力行為事件について簡単に聞かれ、終わってから検事から「 お前、まだ他に何かやっているらしいな、やっていたなら素直にあやまってしまいよ 」と言われ、私は強盗殺人事件のことを言っているんだな、と思いました。

 その後、裁判官のところに行き、暴力行為事件について簡単に聞かれ、それが終わってから裁判官は「 お前、親がいないのか、かわいそうだな 」と言い、机の上にあったまんじゅうを差し出し、「 今日、葬式があってもらって来たまんじゅうだが食べろ 」と言ってくれました。

 この間ずっと私は、検事の前でも裁判官の前でも片手錠をかけられたままでした。

 裁判官がくれたまんじゅうをつきそいの刑事が受け取り待合所に行き、そこで刑事が、私に「 まんじゅう食べろ 」と言って手渡しましたが、私は「 いらない 」と言うと、「 1つでもよいから食べろ 」といって無理に手渡したので、いやいやしながら1つだけ食べたのです。

 残りのまんじゅうは、つきそいの刑事がポケットに入れて、「 うちの子供にくれてやるか 」と言っていました。その時の私は、何故、裁判官がまんじゅうくれたりするのだろう、と不思議に思いましたが、あまり気にもしませんでした。

 その後、私はつきそいの刑事に「 あの裁判官は、なんという名の人ですか 」と聞いたら、「 名前は知らんが、なんでも松戸の方から来ている人で、あの人は子供がなくてさびしがっているらしい 」と言う返事でした。

 その後、水海道署に帰りました。帰ってから30分位たってから、久保木、大木が留置場に来て、再度取調室に連れていかれ、取調べられました。

 調べ最初に、大木が「 杉山、裁判所で何かあったらしいな 」というので、私は「 裁判官にまんじゅうもらった 」と言うと、「 そうか、それは良かったな。杉山よ、世の中にも心のあたたかい人もいるもんだな。昨日も言った通り、杉山もよく考えて、早くやったとあやまれよ。早くあやまれば、それだけ自分で得するんだから 」と言ったのです。

 私は、この言葉を聞いて、裁判官がまんじゅうくれたのも、実は私に強殺を認めさせる為の1つの道具だったのかとわかりました。私は、「 冗談じゃねえよ、やらないものはやらないんだ 」と言ったのです。

 こういう押問答をしている時に、取手署の「 モガキ 」という名の刑事が調室に入って来て久保木を表に呼び出し、何事か話していました。この「 モガキ 」という取手署の刑事は、その後私が水海道署において調べられている間、ずっと取手署と水海道署を車で毎日往復し、連絡する役目をしていたようです。

 調べ最中に毎日来て、久保木の調べの時は久保木を、調べ官が森井に替ってからは森井を調室から外へ呼び出し、何事か相談しては帰るという毎日でした。

「 モガキ 」と久保木が相談している間、大木が私に「 杉山、早くあやまった方が得だぞ。つっぱっていたって何にもならないぞ 」と言っていました。

「 モガキ 」が帰ってから久保木の態度がガラッと変り、「 お前がやらないと言ってもだめだ。お前の相棒がお前とやったと言っているんだ、あやまれ 」と言ったので、私は身に覚えのない事なので、「 だれが俺とやったなどと言っているんだ 」と言うと、「 桜井昌司、知っているだろう。桜井がずっと前につかまり、お前とやったと言って涙を流してあやまっているんだ 」と言ったので、「 冗談じゃねえよ、昌司がそんな事を言っているなら、呼んでこうよ 」と言ったのです。

 刑事は「 それはそれ、早くあやまれ 」と言う、私は「 やらない 」と言いあらそいがあり、その後刑事達は、「 なあ杉山よ、お前はやらないと言っても親もいないし、だれも頼るものはいないんだ。俺達おじいちゃんに何でも話してみろ。俺達が力になってやるから 」と言い、久保木は、「 お前、昨日言ったことはでたらめじゃないか。入墨ほってすぐ風呂に入れるか 」と言ったので、「 入れないと言ったって、河原崎は実際風呂に入ったんだからしようがねえだろう 」と言いました。

 すると今度は、「 桜井賢司はお前のこと、8月中旬頃までは光明荘にいたが、その後は知らないと言っているぞ 」といい、机の引き出しから複写してある賢司の調書を出して、私に見せました。

 その調書には「 杉山は8月15日ごろまでアパートに一緒にいたが、その後は別れてしまい、知らない 」しいうことが書いてあり、私はこれを見て、「 いくら賢司が8月中旬頃までしか俺のこと光明荘にいなかったと言っても、俺は8月末までアパートにいたんだ。賢司が嘘を言っているんだ 」と言ったのです。

 すると、

「 いや、お前の言っていることは嘘だ。昌司が杉山とやったとあやまっているし、兄貴の賢司だって、8月中旬頃までしか杉山の事は知らないと言っているんだ。これを聞けば、だれだって杉山の言っているのが嘘だと思うだろう。あやまれ。あやまらなければ死刑になるぞ。死刑になってからではおそいんだ 」

と言い、机の引き出しから又1通の調書を出して、私に見えるようにわざと机の右はしに置きましたので、私はなにげなく見ると、その調書のはじに桜井昌司という名前が書いてあり、その名前の書いてある部分だけを私にわざと見せ、

「 お前を現場付近で、事件当夜見ている人が20人も30人もいる。ダテに警察官が何百人も調べているんじゃないんだ。有形無形の証拠がいっぱいあるんだ。桜井昌司があやまっているのにあやまれ、あやまれば助かるんだぞ 」

と言ったので、私は「 証拠があるなら、目の前に並べてもらおうじゃないか。俺は強盗殺人までして金を取らなくたって、親の金があるんだ 」と言うと、刑事は

「 でかい口きくんじゃねえ、証拠を見せろだと、そんな事は、犯人ならばだれでもよく言うセリフだ 」

といい、今度はおとなしく私に種々話を聞かせました。

 その話は、

「 鹿島の方で郵便局員が殺人事件で逮捕され、否認して死刑になった 」

 あとはどこと言ったか、ちょっと忘れましたが、

「 人を殺した犯人が、『 私が殺しました、どうにでもして下さい 』と両手を畳についてあやまり、懲役5年ですんだ。この人は、拘置所に移監される時、田舎の風景の見おさめですから、よく見せて下さい、と言って涙を流して車の窓から外の景色を見ていたっけ 」という事や、

「 人を殺しても執行猶予にもなるんだ 」と言ったり、

「 杉山も母親が生きていたら、悪くならなかっただろう。杉山の周囲の人達ももっとあたたかく見てやれば、悪くならなかっただろう 」

などと言っていました。

 その間、大木はよく自慢話のように、

「 昔は、俺が行くとヤクザ者はふるえあがったものだ。千葉県佐原の堀越一家の堀越という暴れん坊がいて、よく酒を飲んで暴れるんだが、俺が行くと猫みたいにおとなしくなってしまうんだ。性格が、杉山によく似ているよ 」とか、

「 昔、バクチをやっている所へ1人でふみこんで、20人もいる男達全員、俺の一声で手錠もかけないで、おとなしく警察署までついて来たもんだよ 」などと言っていました。

 その後、

「 杉山よ、いつまで否認していると、桜井の言いなりになってしまうぞ。桜井は、盗っ人たけだけしいというか、杉山に引きずり込まれてやったと言っているぞ 」と言い、

「 杉山は、竹を割ったような、さっぱりした男だからな 」とも言っていました。

 私は、母親には死に目にも会えず、生きている時はいろいろ心配ばかりかけ、親孝行も出来ず死んでしまったので、母の事を言われると、自分が警察につかまり、身に覚えのない強盗殺人という大事件の容疑をかけられて取調べをうけているのが、みじめになってしまったのです。

 私は両親もいない、いったいだれに頼ったらよいのか、だれが私の言い分を聞いてくれるのか、と頭の中は混乱するばかり。人間に対する不信感とだれを信用したらよいのか、だれが私の真実の叫びを聞いてくれるのか、と私の気持は、次第にやけっぱちになってしまいました。

 刑事達は、その後も

「 早くあやまれ、あやまらなければ死刑になる。死刑になってからでは、おそいんだ。あやまれば、前にも言った通り、執行猶予もあり、刑も軽くなるんだぞ 」

と言ったのです。

 この間中、私が考えたことは、

 
まず第1に、なぜ桜井昌司は、全然関係のない私を「 杉山とやった 」などと言っているのか。

 第2に、なぜ桜井賢司は、私を8月中旬までしか光明荘にいなかったなどと、嘘を言っているのか。

 第3に、私は昌司とは仲が悪い、昌司をなぐったこともあるし、昌司が私の陰口を言っているのも知っている。昌司とはあまり付き合いもないし、昌司の性格というものもよく知らない。

 こういうことを考え、もしかしたら昌司と賢司で強盗殺人をやったのではないか、それで昌司と賢司で口裏を合わせ、昌司が「 杉山とやった 」と言う、賢司は助かる為に、「 杉山は、8月中旬頃までしか光明荘に一緒にいなかった 」と言う、これしか私には考えられなくなってしまったのです。

 友達に対する不信感、何故賢司と昌司は嘘を言っているのだろう、疑惑は広がるばかり。

 もし、私の考えているように、昌司と賢司の兄弟で私をひきずり込んでいるのだとしたら、私がいくらこのままやらないと言っても信用してくれないだろう。

 この時、私の頭に浮かんだ事は、私が19才の時、千葉県柏署に傷害事件で逮捕された時の事がはっきりと浮かびました。逮捕されたのは、桜井賢司、私、川上敏雄、坂本和也の4人でしたが、この4人の中で、川上は事件現場にいなかったのに第3者のでたらめ証言で逮捕され、警察、検事、裁判官の前で、私達が「 川上は事件とは関係ないんだ 」と言っても信用してくれず、とうとう川上は、傷害事件に関係したとされてしまったのです。

 そして、川上と賢司と坂本の3人は、余罪として窃盗事件が1件出てしまい、とうとう私と川上と坂本は少年鑑別所送りとなり、桜井賢司は成人だったので、すぐ不起訴になり出てしまったのです。

 私だけは窃盗事件には関係なく傷害事件だけだったので、私の母が検事に呼ばれてすぐ釈放になる予定だったのですが、川上の事で私が、警察、検事、裁判官に「 川上は障害事件には関係ないんだ 」と真実を言った為、検事ににくまれて、とうとう鑑別所まで送られてしまったのです。

 この時は、3人とも保護観察で、1月余りの拘留で出たのですが、川上の親がこの話を聞き怒り、裁判ざたにするんだと近くの弁護士に相談に行ったのですが、まだ少年だし、別の窃盗事件が出たのだし、裁判しても長くかかるとか何んとか言われたので、川上の親達も泣く泣く裁判ざたにしなかったのです。

 こういう前例があり、この時以来私は、警察に対していくら私個人が真実を主張しても、第3者のでたらめ証言、又は、あの人と共犯でやった等と言われては、いくら1人でやらないと言っても信用してくれない所だと思ってしまったのです。

 今、調べを受けている強盗殺人に対してみると、桜井昌司が私とやったと言っているらしい、桜井賢司も私とは一緒じゃなかったと嘘を言っている、これでは私がいくらやらないと言っても信用してくれないだろう、と思ってしまったのです。

 私はだれを信用したらよいのか、私を信用してくれるのは、私がやりましたと嘘を言うことによってのみ刑事が私を信用すると言うとおかしいのですが、こういう気持になってしまったのです。どうにでもなれ、昌司と賢司の野郎、どうなるか覚えていろよ、と昌司と賢司の兄弟に対して怒りがこみあがってきました。

 刑事は、その後も「 やらないと言っていると死刑になる 」と言い、又「 認めなければいつまでも調べる 」と言うので、私の考えは、このまま毎日せめられてはたまらない、昌司に会えば昌司が私の事をひきずり込んでいるのかどうかはっきりする、昌司に会わなくてはどうしようもない。

 認めなくては死刑になってしまうのかな、やったと言わなければ、いつまでも調べると刑事は言うし、毎日々々こうやって調べられては体がまいってしまう、一体自分はどうしたらよいのか、どうしたら自分の無実をわかってもらう事が出来るのか、と考え、又反面このまま犯人にされてしまうのではないかという不安もわいてきました。

 前の川上の例もあるし、と私の頭の中はこんがらかってしまいました。警察や検察庁、裁判所の事はよくわからない、裁判もどういうふうにやるのかわからない、認めなければしようがないのかな、と思ってしまったのです。

 それから私は、念を押すように刑事に聞きました。「 昌司が本当に俺とやったと言っているんだな 」と聞くと、「 そうだ、そう言っている 」と刑事は答えました。

 私の考えは、友達に対する不信感と怒り、又私の話をだれも信用してくれない人間への不信感、又自分1人の孤独にとうとう負け、認めさせられる結果となってしまったのです。

 私が嘘の自白をするに至った取調べの中で一番苦痛だったのは、桜井兄弟が嘘を言っていることと、私の真実の叫びを刑事が信じてくれず、認めるまではいつまででも調べるという言葉でした。

もちろん、刑事にすれば私を犯人にデッチあげるつもりなのですから、最初から私の主張などには耳をかさないのは当然かもしれませんが。

 とにかく、この時の私の気持は、いくら警察で嘘の自白をさせられても昌司と対決すれば全てがはっきりするという気持でした。又一方では、警察ではいくらやらないと言っても信用してくれない、どうしても犯人にするつもりなら刑事の言うとおりになってやろう、という気持でした。

 水海道署の留置場は、私が入っている間は、交通事故かなにかで1、2日、1、2人位が入っただけで、あとは土浦拘置支所に移監になるまで、私1人の生活でした。

 他に人が入っているならば、その人達に自分の今の立場を話し、元気づけられ、最後まで自白しなかっただろうと、法律的に無知な自分自身に対してくやまれます。警察は、故意に私を水海道署などという、ヘンピな留置場に入れて、何がなんでも自白を得ようという気で取調べを行なったのです。

 私が認めた時、最初に言った言葉は、「 昌司が俺とやったと言っているならいいです。しかし、俺は事件の内容はわからないので、昌司の言っている通り書いて下さい 」と言ったのです。

 この言葉を言った時の私の気持は、全然関係のない強盗殺人という事件で犯人扱いにされ、私がいくらやらないと言っても信用してくれない警察、又でたらめを言っている昌司と賢司に対しての怒りとくやしさで涙が出てきてしまいました。

 さてその後、調書を作成する作業にかかった訳ですが、この調書を作成する前に、まず上申書というものを書かされました。久保木が紙を持って来て、「 これに上申書を書け 」と言ったので、私は「 どういうことを書くんですか 」と言うと、「 書き方等はこちらで教える 」と言い、「 強盗殺人をやったのは間違いない。被害者や世間の人達に対して申し訳ない 」等という事のひな形を教えてくれて、その通りに書かされました。又、その上申書に署名指印しろ、と言われました。

 それから第1回目の自白調書作成に入る訳ですが、取調べ方法の例をあげますと、まず大木が大学ノートを持参していて、8月28日はどこで起きて、どこを通ってどういう順序で被害者宅まで行ったか、途中だれかに会わなかったか、等尋問されました。

 私は、事件には関係ないのでわからないので、何を答えてよいのかわからないのでだまっていると、

「 我孫子で佐藤治に会わなかったか 」と言うので、

 私は「 わからない 」と言うと、

「 桜井は、佐藤治に会ったと言っているぞ 」と言うので、

「 それなら会っているかもしれません 」と言うと、それを大学ノートに大木が書き、

 次に、「 あとはだれに会っている 」と言うので、

「 だれにも会ってない 」と言うと、

「 28日の事に限らず、その前後の日でもよいから話せ 」と言ったり、

「 玉村さんの所へは何回行った 」と聞くので、

 私はわからないので「 1回じゃないかな 」とでたらめを言うと、

「 いや、ちがうだろう。桜井は、2回行ったと言っているぞ 」と言うので、

「 それならそうかも知れません 」と言うと、又大木がノートに書く、

と、こういうやり方で何度も何度も同じ尋問をされ、そのたび大木がノートに書く、その書いたものの中から適当なものを選んで、また訂正して、そして最後に調書に清書するという方法でした。

 調書に清書する前に「 現場の図面を書け 」と言われ、大木が半紙と鉛筆を持って来て

「 これに栄橋から現場まで2回行った道順と、第1回目に行った時の玉村さんの家の外回りと玉村さんの位置と桜井の位置、それから殺して金をうばった時の室内の様子、の3枚の図面を書け 」

と言われ、また

「 最初からボールペンで書くと間違うといけないから、鉛筆なら間違っても消せるから、まず鉛筆で書け 」

と言われましたが、私は全然事件に関係ないので、

「 一体どう書けばよいんだ 」

と言うと、久保木が机のひき出しから現場の図面を出し、それを見て

「 まず家の外回りをだいたい書け 」

「 こうだ、ここが玄関で、ここが物置で 」

と教え、コピーされている図面を私に見えるようにして、しばらくすると

「 ああ、見せちゃダメダ、ダメダ 」

とわざとかくす、こういう方法で室内などを書いて行った訳です。

 栄橋から現場まで行く道順というのは、ただ布川の町の略図を書くので比較的早く書けました。その図に

「 最初に行った道順と2回目に行った道順を点線で入れろ 」

「 佐藤治と別れたところ、と個々に書け 」

と強制されました。

 1回目に行った時の図というのと、玉村さんを殺して金をうばった時の様子という図面は、刑事の図面を見ての誘導とチラチラと私に図面を見せ、それによって長い時間かかって何度も書き直し出来上がりました。

 事件の内容の中で、被害者とモミあった等ということは男ならケンカの要領はだれでも知っている訳で、簡単に決まりました。

「 その時玉村さんは、なんと言った。人間が最後の土壇場になって言うことは決まっているからな 」

と久保木が言い、
「 助けてくれよう 」と被害者が言ったとされました。

「 布はだれが押しこんだ 」

「 足はだれがしばった 」

と刑事が言い、この点についても「 わからない 」と言うと、

「 桜井はこう言っているぞ 」

と言ったり、

「 お前が口の中に布を押しこんだんだろう。足は、桜井がしばったんだろう 」

と刑事が決めてしまいました。又、
「 首をしめたのは桜井らしいな 」とも言っていました。

 被害者宅の床下が落ちていたのは、事件発覚当時、町の噂でも聞いていましたし、久保木からも図面を見せられてわかりましたし、噂で畳の下の床がぬけてその所から金がうばわれたという事も聞いていましたので、その通り調書にされました。

 又、被害者が殺されて、その上にアトンがかけてあった等という事は、町の噂で聞いていましたので、この点についても刑事の誘導があり、調書にされるのも簡単でした。

 偽装工作の点については、町の噂で被害者にフトンをかけて、寝たようにしてあった事や、久保木と大木が偽装工作がしてあったようなニュアンスを与え誘導したので、偽装工作したようにされました。

 うばった金が10万円位とされたのは、最初久保木が、

「 いくら金とった 」

と言うので、私は答えようがないので

「 全然とらない 」と言うと、

「 そんなはずがあるか、いくらとったんだ早く言え 」

と言うので、私は町の噂で4百万円位とられたという話を聞いていたので、

「 じゃ、4百万円位か 」と言うと、久保木は、

「 そんなにあるはずないだろう、さあいくらとった 」と言うので、今度は、

「 じゃ、5千円位か 」と少なく言うと、

「 そんなに少なくない 」と言うので、私はいくら位とられたのかわからないので、

「 俺は、そんな金いくら位とられたのかわかんねえよ、勝手に書いてくれ 」と言うと、大木が、

「 杉山よ、何万円か位だから、そこの所適当に話せよ 」と言うので、

「 じゃ、10万円位か 」と言うと、久保木は納得して、うばった金は10万円位と決定され、その後も一貫して調書にも10万円位うばったとされた訳です。

 18日、19日と強盗殺人事件について調べられ、19日には「 今日は少しおそくまで調べるけど、明日の朝ゆっくりと寝せておくから 」と言われ、水海道署においての取調べのうち、一番おそくまで調べられました。

 20日、午前11時頃起こされ、その後久保木が留置場に来て、「 俺は他の事件があるのでその方へまわるから、今後取調べする人が変わるから、その人によく話してな 」と言って、久保木につれられ取調室に行くと、見知らぬ刑事が椅子にすわっていて、それが森井警部補であると言われ、これからこの人が取調べをすると言われました。

 その後、森井に強殺について取調べをうけました。森井の調べも久保木同様で、1つの事で何通りもの答えを私にさせ、それを大木持参の大学ノートに書く。そして、その中から適当なものを刑事が選んで調書に清書する、というやり方でした。

 21日も同様、強殺について調べられ、22日の取調べでは、私が事件現場まで行く道程について、森井と大木は、

「 汽車や道路でだれかに会わなかったか 」と言うので、私は、

「 わかりません 」と言うと、

「 いや、会ったはずだ。28日に限らなくてもよいぞ、その前後の日でもよいから、その時会った人の事を話せ 」

としつこく言われ、8月29日に木村重雄に我孫子駅で会ったことを28日とされ、8月31日に昌司と我孫子駅成田線の汽車で会い、窓ごしに話している時、高橋敏雄と会ったということを28日とし、又9月1日に伊藤迪稔、角田七郎と会ったという事も28日とし、志水サダオ、岩井キヨミと会ったという事も28日とされ、また当時何度も同じ時間に同じ列車内で知人、友人、同級生等と会っていたので、森井からいつの日でもよいから何でも話せと言われたので、28日前後に会った人達の事をさも28日であるというように調書に清書された訳です。

 とにかく当時の私は、ひんぱんに東京と田舎を往復していたので、列車内や道路でだれかに会うのは当然で、他の日に会った事を28日にされるのは簡単でした。

又、根岸の弟が川で死んだということは、28日の晩、私が映画から光明荘に帰って来て、昌司に会って、その時昌司から聞いていたし、刑事からも根岸の家で葬式のような何かふつうと変わった事があっただろうと言われました。

 23日の取調べは、取調中に強殺の逮捕状を見せられました。この時大木が、

「 ここを読んでみろ 」

と私に示したので読むと、被害者の口の中にパンツが押しこんであったと書いてあり、この時大木が、

「 どうだ杉山、口の中に押しこんであった布というのはパンツだとわかったか 」

と言って、今までの調書では私はわからないので、ただ布としか答えられなかったものを、この時以来、パンツと調書に清書されていった訳です。

 この点につきましては、私は事件が発覚されて大さわぎになっていた時、噂などで被害者はさるぐつわされていたと聞いていたので、最初さるぐつわと答えたのですが、刑事が、

「 いや、さるぐつわじゃない。口の中に布が押しこんであったんだ 」

と言ったので、そのような調書になっていたのです。

 又、小貫俊明を私が被害者宅前で立っている時見たということについては、森井が、

「 被害者方前でだれか見かけなかったか 」

というので、私は「 わからない 」と言うと、

「 杉山は鳥屋、知ってるな。あそこで働いている道っちゃんという人いるだろう。あの人のせがれが自転車で通ったろう 」

と言うので、「 わからない 」と言うと、

「 いや、よく考えてみろよ。通ったんじゃないか 」

としつこく言われ、小貫俊明が自転車で通ったのを見た、ということにされてしまいました。

 その他の人が通ったという事は、さも私が本当に被害者宅前に立っていた事を真相づける為、40才位の女だとか、男だとか、おばあさんだとか、いいかげんな事を刑事がつけたしたにすぎません。

 それから、渡辺和夫に会ったという事も、私は他の日のことを言ったのですが、この時は刑事の方で待ってましたとばかり調書にしましたが、後に渡辺和夫の記憶がはっきりしていた為、これは他の日であるという結論が出、後の調書で訂正されています。

 とにかく、その他にもいろんな人と会った事により、刑事は私が8月28日に現場付近にいたということを正当化しようとやっきになっていました。

 24日、

「 2回目の金借りの相談をした場所だが、杉山の言っていることは違うんじゃないか、よく考えてみろよ 」

「 桜井は、川原におりてそこで相談したと言っているんだがな 」


と言い、この点について訂正されました。

 被害者宅の室内については、17日に書かされた図面と刑事が持っている図面を見せられ、誘導されて調書が出来ました。

 又、「 被害者は、メガネをかけていたか 」

と刑事に聞かれ、「 わからない 」と言うと、

「 いや、わかるはずだ。人間にはメガネをかけているのと、いないのと、その2つしかないんだから、そのどちらかを答えればよいんだ 」

と言われ、こう言われれば普通の人間として、ああ刑事がこんな事言っているようでは、被害者はもしかしたらメガネをかけていたんじゃないかな、と思うのがまともだと思います。それで、被害者はメガネをかけていたとなりました。

 被害者が着ていたという衣類については、刑事から

「 夏、ふつうの大人が自宅で着ているものはなんだ、その色は 」

と聞かれ、私はわからないのででたらめに

「 黒 」

「 ちがう 」

「 白 」

「 そうだ 」


と言って、ズボンについても同じやり方で決定されました。

「 パンツは、だれが口の中に押しこんだか 」「 足のしばり方 」等について、17日付調書よりくわしく刑事が調書に書きました。

 被害者宅の床下が落ちていた事も町の噂で聞いていましたので、この点についても刑事の言うとおり書きこまれました。

 次に、森井が

「 杉山よ、金をとった場所が違うんじゃないか、よく考えろよ 」

と言いましたが、私は町の噂で畳の下と聞いていたので、そのように答えると、

「 いや違う、押入れじゃないか 」

と言ったので、押入れを物色したようにされ、

「 押入れのどこだ。押入れの中には、普通何がある。まず、この家の押入れの戸だが、これもふつうの家と異なっていただろう 」

などと言い、押入れの戸がなくカーテンがつってあり、その中にフトンがあり、そのフトンの間を物色した、という事にされました。フトンの間に財布があり、その中に金が入っていたというように、17日付の調書とちがう内容に刑事の訂正により調書に作成されました。

 森井は、

「 バラ銭が畳の上に落ちていたんだけど、桜井が落としたんだろう。後は、桜井はどこを物色していたんだ 」

と言い、バラ銭を落としたのは桜井、タンスを物色したのも桜井ということにされました。この日、財布の図面を書かされましたが、私は当然わかる訳もなく、全くのでたらめでした。

 25日、私は土浦検察庁につれていかれ、有元検事に「 これに間違いないか 」と聞かれ、花岡裁判官にも同じようなことを聞かれ、裁判官から接見禁止を言われました。

 その後、水海道署に帰り再び取調べを受けました。

 26日、うばった金の使途については、森井が、

「 お前達がうばった金をどこでどう使ったかという裏付がとれないので、競輪で使ったことにしよう 」

と言い、翌日29日に取手競輪場で全部使ったことにされました。それから、

「 偽装工作をした事について、桜井とは話がちがうんだが、この所をよく聞くから 」と言われ、

「 ガタン、バシンと木やガラスがわれたような音をさせたのはどっちだ 」とか、

「 桜井は、杉山から金を見せられたと言ってるんだが、どこで見せたんだ 」

と言われ、この点についても調書にされました。それから森井は、

「 桜井は、杉山が栄橋の真中辺で何か川へ投げ込んだと言っているんだが、何を投げたんだ 」

と言い、私はわからないので、

「 投げたこともないし、俺にはわからない 」と言うと、

「 じゃ、桜井が何か投げたのを見なかったか 」

と言うので、私は「 知らない 」と言うと、

「 いや、そんなことはないだろう。じゃ、桜井が投げたんだな 」

と言って、栄橋真中辺で桜井が白い紙切れを川へ投げ込んだ、ということにされました。

 それから、成田線に乗って我孫子で乗り替え、野方に行ったとの逃走経路についても、刑事の納得のいくように調書にされました。

 27日、28日と連日調書が作成され、29日は「 今までの調書の食い違いを改める 」と森井が言い、取り調べられました。

 1回目の被害者との交渉中40才位の女を見たという事について、その人の服装等くわしく調書にされましたが、この服装についての調べ方についての例をあげますと、1つ1つ「 上は何を着ていた 」と聞き、女物のシャツの名称等いろいろあげ、その中から刑事が適当な物を選んで、それから「 色はなんだ 」「 青 」「 黒 」「 赤 」「 白 」と何種類もの色をあげ、その中から又刑事がなっとくした色を書く、というやり方で服装については決定されました。

 それから、被害者方の室内のこと等種々訂正されましたが、自分はやってないんだから、私にとってはそんな事はどうでもよいことで、刑事が言う通にわせて調書になりました。

 又森井が、「 桜井に金をわけた場所が違うんじゃないか 」と言い、訂正されました。

 30日も夜おそくまで調べられました。この日は、録音テープに吹きこみました。森井と大木がテープレコーダーを持って来て取調室に用意をして、森井が、

「 今まで調書にして来た事を私が聞くから、それに対して杉山は、調書に書いてある通りに答えればよいんだ。他のことなど余計なことは言うなよ 」

と言い録音しましたが、何分にも私は事件には関係ないので、いくら今まで何度も事件のことについて教えられ、調書にされても、森井の質問に対しうまく答えられず、録音も質問途中で何を答えてよいやらわからず、空白時間が長くなったりしてしまい、録音途中で何度も止めて、森井が、

「 ここは、こう答えろ 」

等と指示して録音しましたが、刑事達にすれば、この吹き込みはうまくいかないようでした。

 31日の取調べは、今までの調書の矛盾等を調べられ、森井が「 玉村肥料屋の前に止まっていた車というのは、マツダB360と違うんじゃないか、よく考えてみろ 」と言い、刑事のなっとくの行くように訂正され、事件現場の室内でのこと、逃走経路のこと、等についても刑事のなっとくの行くように訂正されました。

 又森井は、「 桜井が、栄橋の真中辺で川へ投げこんだ物はなんだ 」としつこく言っていました。この日、8月30日に見た映画館の場所の略図を書かされました。

   11月1日 〜 11月30日 

 11月1日、土浦検察庁につれていかれ、有元検事に簡単に事件のことを聞かれ、この時有元検事は、机の上に被害者宅の図面を広げて、私に全面的に見せました。

 2日の取調べも「 今までの調書に対しての食い違いを訂正する 」と言って調べられ、この時被害者のフトンや毛布、メガネ等を見せられ、刑事が勝手に「 これに見覚えあるな 」と言って、私は何とも返事をしないのに勝手に調書にこの点について書いてしまいました。

 3日の取調べも、食い違い等について訂正されました。前にも書きました通り、渡辺和夫と会ったのは別の日、その他の矛盾点等について訂正されました。

 この日、調書が一通り終わってから、又森井と大木に呼ばれ、取調室において録音吹きこみをしました。この時は、森井が

「 前に録音したけど、あれはだめだ、使いものにならないので、今日もう一度録音取るからな。わからない事は、今のうち聞いておけ、全部教えるから、まず一通り調書を読んで聞かせるか 」

と言って、調書を読んで聞かせ、

「 この通りしゃべればよい 」

と言って吹き込みをしましたので、前回録音したものよりもうまく行ったと森井は言っていました。

 警察での調書作成の特徴は、まず森井が私に質問し、私はわからないので答えないでいると、

「 桜井はこう言っている 」

とか言い、又、1つの事で何種類もの答えを私にさせ、それを全部大木が大学ノートに書き、その中から刑事が適当なものを選んで、

「 こうじゃないか 」

と言って訂正して調書に書く、というやり方でした。久保木の調べも同じやり方でした。こういう取調べですので、毎日朝から晩まで何時間も時間がかかる訳です。取調べは、毎日朝から晩の10時、11時はざらでした。

 又、調べ途中に私の叔父が来ると、わざと大木は、

「 今日はよく話してくれるので、叔父さんと面会させてやるか 」

などと思わせぶりに言うので、私は本気にしてしまい、面会で叔父に会って私の無実を話そうと思っていると、森井が

「 いや、接見禁止中だからだめだ 」と言う、大木が「 ああ、そうだった、そうだった 」

と言ったりして、私に早く自供調書を作成すれば面会させる、というようなことを遠回しに臭わせるというやり方でした。私は、自分の真実を信じてくれるのは叔父しかいないと思っていたので、この時面会させられないことは、私にとって非常に苦痛でした。

 調べの途中にも、何度も私は、「 世の中、間違っているよ 」と言ったが、刑事はそんな事には耳をかさず、ひたすら自白調書作成だけをせまりました。

 昌司と賢司のことを考えると、くやしくてくやしくて涙があふれそうでしたが、裁判まではがまんしようと考え、私は昌司に会うまでは、と自分自身に言い聞かせながら、刑事の言う通りになって来ました。

 その後、4、5日の2日間にわたり、暴行、傷害、恐喝の取調べが、取手署員の長田巡査部長ともう1人の刑事の2人によって調書にされました。

 水海道署から土浦拘置支所に移監になると決まった時、森井と大木によばれ、

「 今日、土浦拘置所へ移るからな。向こうへ行ったら、検事さんや裁判官によくあやまってな。桜井は、この際だから今までやった全部の余罪を話していくと言っているから、今日は移監にならないから、少しおくれて行くからな 」と言い、

「 桜井は、杉山にひきずり込まれてやったと言っているから気をつけろよ。拘置所へ行けば弁護士もつくし、弁護士によくやったことを話せば、桜井がなんと言っても大丈夫だからな 」

と言っていました。

 11月6日、土浦拘置支所に移監になりました。この日、拘置所の事務所内で、私は竜ヶ崎の乱闘事件で一緒だった川村という男と会い、河村が「 どうしたんだ、あのケンカのことか 」と言ったので、私は「 違うんだ 」と言い、その場はそれで別れてしまいました。

 それから舎房に入れられ、翌日の運動場で川村他の、やはり竜ヶ崎の知り合いの男達と一緒になり、「 どうしたんだ 」と私に聞くので、私は、「 実は、俺はやってないんだけど、強盗殺人という事件で桜井昌司という野郎が、警察で俺とやったなどとでたらめ言っているので、俺も一緒にやったようにされちまったんだ 」と言うと、皆「 それはひどい野郎だな、桜井ってどんな野郎だ 」と言っていました。

 竜ヶ崎の連中にも「 やってないなら検事に認めてはだめだ。犯人にされてしまうぞ 」と言われ、私の話を聞いていた拘置所の職員も心配してくれて、「 杉山、やらないならはっきり検事さんにやらないと言うんだ。やってないのに犯人にされるなんて、そんなバカな事があってはいけない 」と言ってくれました。その人の名は、蛭田部長という人でした。

 私も、竜ヶ崎の友人や拘置所の職員から真実を検事に述べるように言われ、又前々から警察ではいくらやってないと言っても信用してくれないので、警察では刑事の言いなりになって来ましたが、検事ならば私の無実をわかっていただけるのではないかという気もあり、検事には真実を述べる決意でいた所、10日頃有元検事の検察庁での取調べがあり、その時私は、

「 自分は、この強盗殺人事件にはいっさい関係ありません、無実です 」

と真実を述べました。

 すると有元検事は、ちょっと意外な顔をしましたが、「 一応、君の話を聞いてみる 」と言って、「 では、この事件のあった日には、どこにどうしていたか 」と聞きましたので、

私は、「 東京都中野区野方の光明荘アパートで、昼は河原崎敏、桜井賢司と私の3人で遊び、河原崎の足に検事が入墨をした、その後賢司、河原崎はアパートを出て行き、私1人で風呂屋、パチンコ店に行き、その後新井薬師の『 薬師東映 』へ映画を見に行った 」等を話しました。

又「 映画途中、タバコを買いに外へ出た。映画が終ってから光明荘に帰り、1人でいると昌司がやって来て、その後昌司が向かいのアパートの女の人の部屋から魚のかんづめを盗んで来て、それを食わずに茶だんすに入れ、2人でアパートで寝た 」ということを話しました。

 有元検事は、この話を聞いていて「 よし、これは調べ直してみる 」と言って、この日は終わりました。

 11日頃、又検察庁に連れて行かれ、有元検事に調べられ、この時有元検事は、

「 映画館やその他のことを調べたが、薬師東映では確かに君の言っている『 クレージーの黄金作戦 』という映画はやっていた。しかし、パチンコ店と風呂屋では、君らしい人がいたかどうかははっきりしない、ということだ 」

「 映画館に風呂道具を持って行ったとか、何か特徴のあるかっこうで行ったなら、だれか覚えているだろうが、な 」と言い、

「 バー『 ジュン 』のママさんとじゅんちゃんという名の人にも直接来てもらって調べてみるが、なぜやらないものを警察でやったと言ったんだ 」

と言うので、私は「 それは、一口では言い表せませんので、ノートか何かに書かせて下さい 」と言うと、有元検事が私を連れて行った拘置所の職員に「 杉山にノート買ってやって、書きたいことを書かせて下さい 」と言っていました。

 それでこの日の調べは終り、拘置所まで歩いて帰る途中、つきそいの拘置所の職員が、「 杉山よ、やらないんならはっきりと筋道をたてて検事さんに話した方がよい 」と言ってくれました。帰ってすぐ、職員がノートを持って来てくれましたので、私はそれからすぐ書き始まって、夜9時頃までかかってノートに警察で認めた理由等を書き終りました。

 12日、そのノートを持って有元検事の所に行きました。有元検事は、このノートをじっと読んでいましたが、読み終えると、

「 よし、君の言っていることは嘘とは思えない。君の亡くなられた両親にも、この事件は自分の犯行ではないと誓えるな 」

と言ったので、私は「 はい 」と答えました。

 すると有元検事は、

「 よし、それでは調書を作ってやる 」

と言って、次の13日に調書を作ってくれました。この時の私は、とにかく自分の無実を検事さんにわかってもらおうと必死でした。私の無実を主張する調書を作成してくれたということは、検事さんが少しでも自分の無実を信じてくれたのだろうと考え、うれしさがこみあがって来ました。

 13日の夜、検察庁から4人位、人が来て私を裁判所に連れて行きました。そこで裁判官から暴行、傷害、恐喝事件が起訴になったと言われました。

 14日、拘置所の職員が、暴行、傷害、恐喝の起訴状と強盗殺人事件は釈放という書類を持って来て、その書類に私の指印を押しました。竜ヶ崎の男達も皆この話を聞いていて、一緒になって喜んでくれました。私も強盗殺人の犯人にされなくてよかったと安堵の気持でした。この日をもって接見禁止もとけ、面会も出来るようになりました。

 17日夜、有元検事が書記官をつれ、突然拘置所に調べに来ました。そこで私は、有元検事に警察の取調べの不当性と、警察ではいくら真実を言っても信じてくれないので言いなりになって来たが、検事さんなら、私の真実の叫びを聞いてくれるだろうと信じていたと話しました。また、この日は13日付の調書よりくわしく私のアリバイ等について話し、調書に作成されました。

 この時、桜井賢司や、ジュンのママや、じゅんちゃんという人等も調べたと言ってました。

 22日夕方、検察庁から呼び出しがあり、歩いて行くと、取調べではなく、私が警察で認めた理由を書いたノートの押収品目録交付書という書類に署名指印させられました。この日は、これで終わりました。

 その後、2、3日して、又有元検事から呼び出しがかかり、行くと検事は、「 君の今まで言ってきたことは、君の目を見ていると嘘だとは思えない。しかし、起訴するかしないかは私1人の判断ではどうしようもない。上司が相談して決める事だ。しかし、もし起訴になったとしても、このノートを証拠として提出するから、君はこの事件には関係ないんだと真実を述べればよいんだ。私の方は、原告といって、法廷ではやったんだやったんだと主張するんだが、そんな事は気にしないで頑張るように。君、こんなことをすれば間違いなく死刑だよ。私がここからいつも君のことを監視していると思って真面目にやるように 」と言い、「 これで調べは一応終わる 」と言いました。

 私は、この言葉を聞き、ああ強盗殺人という大事件の犯人にされずにすんだ、とうれしくて涙がこみあがって来ました。検察庁から拘置所まで歩いて帰る時、つきそいの拘置所の職員も「 よかったな 」と言ってくれました。舎房に帰っても安心して、やっぱり検事さんは私の真実の主張を聞いてくれた、警察とは全然ちがう、と改めて考え直しました。これでもう、私の強盗殺人に対する調べは完全に打ち切られたと思って、安心した毎日を送っていました。

 11月6日から12月1日まで、土浦拘置支所にいる間に警察官が2度拘置支所に来た事があるので書いておきます。

 1つは、日付は忘れましたが、富田という刑事ともう1人名の知らない取手署の刑事の2人が来て、私の頭髪を抜かせてくれと言って髪の毛を数本抜いて、封筒に入れて持って帰りました。

 もう1つは、これも日付は忘れましたが、県警本部の渡辺警部、森井、大木、と運転手の計4人が来て、私を拘置所から連れ出し、利根町布川の利根川原に連れて行き、私の自供調書に出ている「 新聞包みと黒い財布を川に投げすてた 」という事に関して検証をさせられました。

 私は手錠をかけられたまま、利根川原に立たされ、私達の車より前に来ていた10数人の刑事達に

「 ここへ立て 」

「 こんどはこっちだ 」

と言われ、写真を写されました。

 この件に関して、有元検事から

「 君は、今日布川へ行って検証をしてきたそうだね。君はやってないと言っているのに、何故検証なんかしてきたんだ 」と言うので、私は、

「 前にも検事さんに言った通り、警察は真実言っても信用してくれない。検証だって無理やり私を川原に立たせて刑事達がかってにやったんです。だから、私は警察は警察、検察庁は検察庁と別々に考えているんです 」と言いました。

   12月1日 〜 12月2日 

 12月1日、この日叔父と従兄弟(いとこ)が面会に来てくれ、私は「 強盗殺人事件が釈放になった 」と言うと、叔父達も喜んでくれました。

 面会後、舎房に入るとすぐ拘置所の職員が私を呼びに来て、

「 出られるんだ、荷物をまとめて全部持って出ろ 」

と言うので、私は、暴行、傷害、恐喝が起訴されているのにおかしいな、と半信半疑で出ていくと、事務所に大木と森井がいて、その他にも2、3人の刑事がいて、警察へ逆送だと言うのでがっくりしてしまいました。

 どこの警察へ行くのかなと思っていると、土浦警察署へ連れていかれました。土浦署の留置場へ午前中に入れられました。私はこの時、なぜ再び警察署に移監したんだろうと疑問をもちました。

 その後すぐ、森井、大木の2人の刑事に取調べられました。最初に暴行、傷害の3件の取調べがあり、1、2日の2日間かかって調べ終りました。

 3日から強盗殺人について調べるというので、私は強殺の調べは終ったものと思っていたので、びっくりしてしまいました。森井と大木の調べの主点は、なぜ検事に否認したか、という点についてでした。

 森井は「 杉山、気持がぐらぐらしているらしいな、検事さんの所でごねてみたちけな 」と言ったので、私は、

「 やらないものはやらないんだ 」と言い、

「 警察では俺の言っている事を信用してくれないから、俺は有元検事さんに真実を話したんだ 」と言うと、森井は、

「 そんな事言っても通らないぞ、もう桜井は取手署で杉山にひきずりこまれてやった、と自供しているんだ。このままだと桜井の言いなりにされてしまうぞ 」

「 はやくあやまった方が得だぞ 」と言うので、私は、

「 昌司は昌司だ。俺は俺で最後までたたかうんだ 」

と言うと、刑事は

「 桜井は盗っ人たけだけしいというか、杉山にひきずり回されてやったとか、事件の日に杉山に会わなければこんな事にならなかった、とか杉山の方を悪く悪く言っているぞ。このままでは桜井の言いようにされてしまうぞ 」

と桜井の悪口ばかり言っていました。

 私がそれでも「 やらない 」と言うと、大木が、

「 そんな事で通ると思っているのか、杉山よ、そんなよこしまなこと言ってもだめだぞ、真昼の暗黒という映画にもある通り、いくら否認してもだめなんだ 」

「 弁護士だって、証拠の前には頭を下げるしかないんだ 」と言うので、私は、

「 俺の言っている事は真実なんだ、通らなければおかしい 」と言ったのです。

 すると、森井が

「 杉山がごねている訳もわかっているんだから、早くこうこうこういう訳で否認したんだという事を話せ 」

と言ったので、私は、

「 拘置所の中で手紙が来た、しかしあとは話すことはない。俺はやっていないんだ 」と言うと、

「 それではだめだ。俺達は調書取るまでいつまででも調べなくてはならないんだ、それが商売だからな 」

「 さあ早く話せ 」と言ったので、私は、

「 刑事さん、あんたらに何を話しても信じてくれないんだし、俺は話すことはねえよ 」と言うと、

「 それじゃだめだ、話さなければだめだ 」

「 なあ杉山よ、早く否認した理由を話せば、いつでも検事さんを呼んできて、よく杉山の話を聞いてくれるように頼んでやるから 」と言ったので、私は

「 そんな必要ねえよ 」と言いました。

 私は、毎晩夜おそくまで調べられるのでねむくなってしまい、「 俺は話すことはないから、早くねせてくれ 」と立ちあがると、大木が私の体をおさえ、いすにすわらせました。

 こんな押問答をしている間に、森井は勝手に調書を書いて、読みもしないで、ただ署名指印しろと私に強要しました。

 私はこれをこばみ、時間はどんどん過ぎ、夜中酔っぱらいが1人保護されて来て大きな声でどなっていました。私は、どうしてこの不当な取調べからのがれることが出来るか思案しましたが、何を言っても刑事は署名指印しろの一点ばりでした。

 私は、「 酔っぱらいが来ているから、うるさくて頭が混乱しているから署名指印は出来ない。明日にしてくれ 」と言うと、森井は、

「 そんなことはない、今日決めちゃった方がいいんじゃないか 」

「 早く署名指印しろ 」
と言ったので、私は、

「 こんなものに指印押せるか 」

と言って再度立ちあがると、又大木が私の体を押さえて無理にすわらせ、

「 早く署名指印しろ 」と言って私にせまりました。

 この間、私の考えは、指印を押せないように左の手をそばのストーブに突っ込んでしまおうかと何度思ったかしれません。しかし、とうとう私の気力も空腹と睡眠には勝てず、とうとう3通の調書に署名指印させられてしまいました。

 5日、その調書を刑事が持って有元検事の所に行きました。有元検事は調書を読んで、びっくりしたような顔で

「 なんだ杉山、ついこの間まで杉山はやらないと言っていたから、私も杉山を信用して、あのノートを証拠として杉山の無実を証明しようと思っていたのに、今度こんな調書を持ってきて、いったいどういう訳なんだ 」

と言いましたので、私は、

「 実は検事さん、この調書は私の意志に反し、夜おそくまで調べられ、刑事の方で勝手に書き、それを読みもしないで無理やり署名指印させられたものです 」

と言うと、検事は「 ああそうか 」と言い、

「 それじゃ、この暴行、傷害の方はどうなんだ 」と私に聞いたので、私は、

「 それはまちがいありません 」と答えました。それで、その日の調べは終りました。

 検察庁から帰ってきてから、又森井と大木に「 なんで検事さんに否認するんだ 」といじめられ、調べられました。

 6、7、8、9、11日と連日森井と大木はなだめたり、すかしたり、脅迫したりして、強殺を認めろと自白強要しました。しかし、調書は1通も作成されませんでした。

 この間、日付は忘れましたが、光明荘の向かいのアパートから昌司がかんづめを盗んできたことに対しての、光明荘とその向かいのアパートの略図を書かされました。

 12日、森井と大木が留置場に私を呼びに来て、いつもどおり取調べが行われました。この時森井が、「 今日、今から検事さんの調べをやるからな、よく話してあやまるんだぞ。否認なんかするなよ 」と言い、大木も「 検事さんによくたのんでおいたからな 」と言っていました。

 私は、何を言ってやがるという気持で、どこで調べるのかな、と思っていると、検察庁ではなく、土浦署の2階の特別室につれていかれました。ここは取調室ではなく、警察官の制服などが置いてあり、更衣室のような感じでした。

 部屋に入ると顔の知らない検事(のちに吉田検事とわかる)と事務官の2人がいました。

 私を連れて行った刑事が「 手錠はどうしますか 」と聞くと「 手錠は片手だけはずしてよい。あとは腰なわをかけて、いすにしばって下さい 」と言い、その通りにされました。

 そこでまず、その検事がのっけから

「 言いたいことがあったら言ってみろ 」と言うので、私は、

「 強盗殺人事件はやってない 」と言うと、

「 それじゃ、やらないという理由を言ってみろ 」と言うので、私は、

「 私は、事件の会ったという日は東京にいて、映画をみていた。布川には全然行ってない 」と私のアリバイを話すと、

「 それが28日だという根拠はなんだ 」と言うので、

「 29日に利根町羽中で、羽入幹一というオヤジを私と佐藤尚、佐藤四郎の3人でなぐった日の前日です 」と言うと、検事は、

「 それだけか、そんなことぐらいじゃ、世間の人に信じてもらえない。有罪になるぞ。お前は東京にいた、それでは布川にきて事件をおこしたのはだれだ、だれなんだ。私は、お前達以外に犯人がいるとは思えないし、また思わない。布川に来たのはお前の幽霊か。布川で28日にお前を見た人がいるんだぞ 」

と、この検事は、頭から私を犯人だという前提のもとに取調べを行いました。

 それから検事は、

「 お前が28日に光明荘アパートで桜井といた時、向かいのアパートの女の人の部屋へ桜井がしのび込んで、魚のかんづめを盗んで来たと言うが、検証の結果、人間わざではとても窓から窓へは渡る事は不可能だ。それでも渡ったなどと嘘を言うのか 」

と言うので、私は、「 現実に渡ったんだからしようがない 」と言うと、検事は、

「 お前の話をだれが本当だと信じてくれる。だれが聞いたって信用してくれないぞ。そんなことでは助からないぞ、また私にしても助けられないぞ 」と言っていました。

 私は、「 有元検事さんに、私はやらないんだという事をノートに書いて提出してあるんだ 」と言うと、

「 そんなものは見ていない。関係ない。どうしたってお前は有罪になるんだ。あやまった方が得だぞ 」

と言っていました。この検事は、頭から私を犯人あつかいしている、これじゃまるで警察と同じじゃないか、と再び不安感がおそってきました。

 この時の私の心境は、有元検事が、この前これで強殺については調べを終ると言ったのに、土浦警察に移監され、毎日森井と大木から自白強要され、又、今度は新しい検事に自白強要され、これから先いったいどうなるんだろうと心配になってきました。

 刑事も検事も否認しているといつまでも調べると言うし、本当に否認しているといつまでも調べられるのかな等と思ったり、土浦署に移監されてからでも、毎日のように朝から晩まで自白強要され、こう痛めつけられては体がもたない、この所心配で夜も眠れないし、といろいろ考えこんでしまいました。

 この検事は警察と同じだ、いくら私が真実を言っても信じてくれないし、私を犯人にするつもりなんだな、と感じました。一方では、私は有元検事さんに、私は無実なんだという調書を作ってもらってあるし、又、11月14日に強盗殺人は釈放という通知が来たので不起訴になったものとばかり思っていたのに、一体これはどうなっているんだ、と不思議でなりませんでした。

 こんな事では、この先どうなるかわからない、認めなければどんなにされるかわからない、認めなければいつまで調べられるかもわからないし、と精神的にもまいってしまい、いつまでも、やった、やらない、ともめているより、有元検事に作ってもらった調書もあるし、ノートに上申書も書いて提出してある、この検事じゃ何を言ってもだめだ、あとは裁判でたたかうしかない、と考えてしまったのです。

 私はこの時、自供調書というものがどのように重大なものかということは、考えてもみませんでした。ただ、1日も早くこんな不当な取調べからのがれたいとの一心でした。

 有元検事にいだいて来た検事への信頼が、この吉田検事によって裏切られた事に対してのショックは大でした。

 これでは、あとは裁判しか私の真実を述べる場所はない、裁判ならば私の真実の叫びをわかってくれることは、まちがいないだろう、という気になってしまい、とうとう吉田検事に認めさせられてしまった訳です。

 強殺を私が認めさせられてしまった時は、すでに12日の夜おそくになってしまっていたので、この日は調書作成はせず、吉田検事が警察調書を持参してきていたので、検事が警察調書を見ながらスラスラと述べ、それに対し事務官が罫紙に雑然と吉田検事が述べた事を書いて行き、その雑然と書いた物に私に署名指印しろと言い、私はこれに署名指印をするという簡単なもので終りました。

 正式な調書作成に入ったのは13日からで、吉田検事の取調べはまったくの強引で、かってに自分で決めて調書に書いて行くというやり方でした。

 事件現場まで行く途中、高橋敏雄、角田七郎、伊藤迪稔に会ったという事は、警察調書に合わせ、その他、

「 被害者宅の庭に自転車がとめてあっただろう 」

「 なあ、あっただろう 」と言い、私は「 わからない 」と言うと、

「 そんなはずはない、あったはずだ 」と言って、被害者宅に自転車があったようにされ、

「 1回目に行った時に、道路に立っていた時、鳥屋の道ちゃんという人を見なかったか、見ただろう 」

と言って、これも検事が自分で決めて書き、

「 この道ちゃんという人とお前は何か関係があるか 」

と言うので、私は「 何の関係ですか 」と言うと、

「 とぼけんな、この人は若い男をもてあそぶのが趣味だそうじゃないか 」と言うので、私は、

「 自分は関係ないが、私の友人の小泉貞夫という男が、前に同棲していた事があるんじゃないかな 」

と答えました。

 それから「 被害者のポケットにかんづめ入っていたんだが、知らんか 」

と言うので、「 わからない 」と言うと、この点についてはしつこく調べませんでした。

「 金は、全部翌日の競輪で使ったんだな 」

と言い、検事がかってに決めて調書を作成していきました。

 万事、こういうやり方で調書を作成していきました。またこの日は、否認した理由も調書にされましたが、これについても、検事の都合のよいように自分で決定して調書にするという方法でした。

 14日、この日は被害者宅の室内のこと等調書にされましたが、この点についても警察調書をもとに、

「 桜井がこう言っているからこうだ 」

「 ここはこうだろう 」とか言い、

「 桜井が被害者の足をしばったというのは、タオルとワイシャツだよ 」

とか、一方的に作ってしまった調書です。

 それまでは、私は被害者の足が何でしばってあるかわからず、この時吉田検事に教えられてはじめて知りました。又、

「 有元検事に言った、お前のアリバイにつかった映画は別の日に見たんだろう 」

と言って、他の日に見たように調書にされました。

 21日、この日の調べも警察調書に合わせ、一方的に勝手に検事が言うことを事務官が書いていき、私はただ署名指印するだけでした。又、

「 道ちゃんという人と会ったと前に言ったが、こちらで調べた所会っていないというので、本当は会ってないんだろう 」

と、自分で前に言い出したくせに今度はそれを取り消させるという、何がなんだかわからない程おかしな取調べでした。

 23日は、桜井の調書との矛盾すること等調書にされましたが、これも一方的でした。

 25日も桜井調書との矛盾等について調書とされました。

 とにかく12月1日からの吉田検事の取調べ方は、警察調書をもとに、くい違いについては、

「 桜井はこう言っている 」

「 ここはこうだろう 」

とか、まったくの一方的に検事が決め、自分勝手に調書にして行くという方法でした。ある面では刑事の取調べより強引で、これが検事かと思う程、有元検事と比較した場合、非人間的でした。

 ただ、自白調書をただどんな方法にしろ、作ってしまえばこっちのものだという人権無視もはなはだしいものでした。

 調書作成が全部終ってから、吉田検事は、

「 お前、私になにか書きたい事はないか 」

と言ったので、私は前々からぜひ書きたい事があり、それというのも、私は警察に認めた理由はノートに書いて提出してあるが、事件当時の私の行動を書いてなかったので、これを書いて提出しておこうと思い、前から森井、大木に書かせてくれるように頼んでいたのですが、全然相手にされず書かせてもらえなかったので、この機会に書こうと思い、

「 書いてもいいんですか 」と言うと、

「 いいよ 」という返事でしたので、私は「 じゃ、書かせてもらいます 」

と言ったのですが、吉田検事の言う書きたいことというのは、あくまでも私の犯行であるという自白の上申書であることが後に判明する訳です。

 とにかく、この時の私の心境は、私の事件当時の行動を書こうという決意でした。その後、森井と大木に取調室に連れていかれ、森井が半紙を出し、「 これに書け 」と言ったので、私は、

「 ちょっとやそっとじゃ書き終わらないし、刑事さんの前では思うように書けない、留置場の中で書かせてくれ 」と言うと、

「 いや、それはだめだ。俺達が見ている前じゃないと、何を書かれるかわからないからな 」

と言うので、私はこれじゃ自分の真実の行動を書くことはとうてい不可能だと思い、

「 それじゃ、よいです。刑事さんの監視つきじゃ、俺は別に書きたいことはない 」と言うと、

「 何言っているんだ、そんな杉山の事件当時の行動なんか書いたってしようがない 」

と言い、大木は自分のポケットから1枚のハガキを出し、
「 これを見ろ、こういうふうに書くんだ 」と言いました。

 このハガキは、飛田とかいう名の人が大木に宛てたハガキで、内容は「 刑事さんにさとされ自分も改心し、裁判も未決通算90日をもらうことが出来ました。これからは、気分一新して真面目に務めてきます 」というような事が書いてあり、大木は、「 まず、何故有元検事さんに否認したか書け 」と言い、「 こういうふうに書くんだ 」とひな形を教え、又ハガキの文章を引用したりして、森井と大木に強制されて、そのままを上申書として書かされ提出させられた訳です。

 書き終わると、森井と大木は喜んで「 これを持ってさっそく検事さんの所に行って、よく頼んでくるから 」と言っていました。

 この時に、吉田検事が「 お前書きたい事はないか 」と言ったことが、あくまでこの強殺は私の犯行であるということを維持させる為のものであった事が判明しました。

 私は、有元検事に作成してもらった調書とノートが提出してある為、裁判になれば私の無実の主張が通るだろうと思い、いかに検事や刑事達に強制されたとはいえ、認めさせられてしまったことがくやまれます。この自供調書というものが、後にこんなにも私達を苦しめる為の道具となろうとは、この時は思いも及びませんでした。

 27日、暴行、傷害の公判通知が来て、1月10日と指定されましたが、この通知は後に取り消され、強殺と併合審理になるわけです。

 28日、取手署から富田ともう1人の刑事が来て、裁判所に連れていかれました。そこで裁判官から本日をもって強殺事件で起訴になったと言われ、起訴状を読んで聞かされ、

「 これに間違いないか 」と尋問されたので、私は

「 強盗殺人はやっておりません 」と答えると、裁判官は、

「 なに、やってない。殺しはしなかったと言うのか。じゃ、ただ被害者の家へ行って、話し込んできただけか 」

と、私がさも被害者宅に行ったような尋問をする裁判官でした。

 私は、「 全然そんな家へは行ったこともなく、被害者の顔も知りません 」と言うと、

「 そんな事はないだろう、行ったんだろう 」と言うので、私は、

「 行ったことはない 」と、きっぱり言うと、

「 じゃ、この被害者の家も知らないと言うのか。行ったこともないと言うのか。じゃ、この家の前を通ったことはあるか 」と言ったので、私は、

「 この家の前の道路も何度も通っている。しかし、この事件当時に一番接近している日で通ったのは、8月29日の夜11時過ぎ、佐藤尚、佐藤四郎、私の3人で通ったことがありますが、28日にはいっさい布川の方には行ってない 」

と言うと、裁判官はしぶしぶ「 そうか 」と言って、拘留状というか何という書類か知りませんが、その書類に私が裁判官に述べたことを書き、署名指印して終りました。

 念の為申し上げておきますと、この拘留尋問をした裁判官は、一審の裁判長の花岡学判事です。この尋問からもわかる通り、花岡裁判長は、最初から私達が犯人であるという前提のもとに尋問、公判を進めていったとしか思えません。

 この後、土浦署に帰り、裁判官に否認したと富田刑事や他の刑事からも「 なんで否認したんだ 」と責められました。

 これまでが、逮捕された日から強殺で起訴される日までの警察、検事、裁判官等の取調べにより、自白、否認、再自白をくり返した経過と、その時その時の私の心境です。

 

第2.次にこれまで述べてまいりました、取調べの実態に対し、直接私を取調べた取調官達は法廷でどのような証言をしたか、についてふれてみたいと思います。

 まず、私を最初に取調べた久保木輝雄の一審証言の主なものを抜粋してみますと、

○ 逮捕日(10月16日)には強盗殺人について調べてない。

○ お前とやったと言っている人間がいるんだと言ったことはない。

○ リコピーにかけた調書を(16日の取調べで)見せたことはないし、知らない。

○ 世の中にも心のあたたかい人もいるんだから、早くやったと白状しろとは言わない。

○ 桜井昌司がずっと前に捕まっていて、お前とやったと涙を流して謝っているとは言わない。

○ 桜井の調書は見せない。

○ 桜井賢司は、8月中旬まで杉山はアパートにいたけれどもその後は知らないと言っているぞ、と言ったことは忘れた。

○ 桜井昌司が杉山とやったと言っているんだ、謝れ、とは言わない。

○ あやまらなければ死刑にするぞ、とは言わない。

○ やったと言わなければ、いつまでも調べるとは言わない、なぜならすぐ自白してしまったので。

○ お前を現場付近で見ている人が20人も30人もいるとは言わない。

― 杉山は強殺までしなくても親の金があるんだと言ったことはないか、という質問に対して、

○ そこまでやるひまがなく、すぐ30分位でしゃべっちゃった訳ですから。

○ でかい口きくんじゃない、と言ったことはない。

○ 鹿島の方で郵便局員が人を殺し、否認していて死刑になった、とは言わない。

○ 人を殺して海へすてた犯人が、私が殺しました、どうにでもして下さい、と泣きながら両手をついてあやまり、懲役5年ですんだ、とは言わない。

○ 人を殺しても執行猶予にもなるんだ、とは言わない。

○ あやまらなければ死刑になる、とは言わない。

○ 死刑になってからではおそいんだ、謝れば前にも言った通り執行猶予もあり刑も軽くなる、とは言わない。そういう余裕はない。

○ 杉山被告人が、私(久保木)に対して桜井昌司が俺とやったと言っているんだな、と確かめたような事は、自白する前にはない。

○ 自白した後なら、桜井も言っているぞと話をしているかもしらん。

○ 事件の内容はわからないので、桜井昌司の言っている通り書いてくれ、と言ったかどうか忘れたが、本人の言うとおりに調書にした。

○ 桜井昌司の言っている通りに書いてくれとは言わない。

○ 現場の地図を書かせたが、何べんも書き直したことはない。

○ リコピーの調書は、自白後持ってきて読んだ記憶がある。

○ 桜井の調書をひじで隠して机の上に置いたのは、自白してからだ。

○ 現場の地図を見ながら図面を書かせたことはない。

○ 地図なんか知らん、見てない。

○ 大木部長が死刑になると言ったのを聞いたことはない。

○ 28日のアリバイについてお前が言ったことは嘘だ、入墨ほってすぐ風呂に入れるか、桜井賢司はお前のこと8月中旬までしか賢司のアパートにはいなかったと言っているぞ、と桜井賢司のリコピーした調書を見せたことはない。

○ 現場の地図は、取調室に持ち込んでいない。

と、私の述べる不当取調べについては、全て否定しています。

 次に、久保木輝雄の二審証言の主なものをひろいあげてみますと、

○ 10月16日は夜調べた。

○ (16日夜は)強殺に関係あるかどうか、という点についてのアリバイを聞くために調べた。

○ 逮捕した晩に、アリバイその他について聞いた。

○ お前、他に何かやっているだろうと言った。

○ その問に対し、(杉山は)竜ヶ崎のケンカのことですかと言ったので、そんなことじゃない、布川の殺しだと言った。

○ コピーの点については、持っていたかもしれないし忘れた。

○ (16日夜は)一応のアリバイの話を聞いて終った。

○ 入墨の話は覚えている。

○ 杉山が言ったアリバイを大木部長が紙に書いていた。

○ 桜井賢司調書は、調室には持って来て置いたことがある。

○ 上申書を書かせた。

○ 大学ノートか何かわからんが、下調べの為、メモを書いた。

○ 16日の晩は、杉山は否認した。

○ 杉山が事件について否認したんで、それでは28日のアリバイを言ってみろと追及した。

○ それに対し、アリバイの申し立てがあった。

○ 上申書の下書を作ってやり、杉山にそのとおり書かせた。

― 図面を書かせる時に、最初は鉛筆で書け、そうすれば間違っても消せるからと言って、鉛筆と消しゴムを持参して来ていて書かせたのではないか、との問に対し、

○ 答、消しゴム位は準備していた。

○ 図面を書かせる際、現場の図面を取調室に持ち込んでおり、その図面を見ていた。

○ 桜井昌司の自供調書を取調室に持ち込んでいた。

○ 17日の調べの時、桜井昌司の自供調書を見たことがある。

と、以上のような証言に変わって来ています。

 一審、二審証言を比較検討してみますと、明らかに矛盾点が数多くあります。

 たとえば、一審では10月16日に強盗殺人について調べないと言いながら、二審では、16日夜、強盗殺人について調べたと言い、さらに二審証言では、16日の調べで否認した私に対し、

「 お前、他に何かやっているだろう 」と言い、

私が「 竜ヶ崎のケンカのことですか 」と聞くと、

「 そんなことじゃない、布川の殺しだ 」と言った。さらに、

「 桜井昌司の自供調書を取調室に持ち込んでいた 」

「 上申書の下書を作ってやり、杉山にそのとおり書かせた 」

「 図面を書かせる際、現場の図面を取調室に持ち込んでおり、その図面を見ていた 」

と、私の述べる不当取調べの実態を裏付ける証言に、二審証言では変わってきています。

 久保木刑事が、最初から私を犯人であると決めつけて取調べたことを立証する証言として、一、二審を通じて次のような証言があります。

○ 桜井は、前に自供をしておるという話を聞いていた。

○ 調べる以上は、(犯人だと)間違いなく自信もあり、自信を持って調べたわけなんです。

○ 杉山の事件当時の足が、当夜あったことを知っており、これが自信につながった。

○ 杉山を調べると決った時、桜井はとにかくしゃべっているからと一応自信を持ってやってみろと(上司に?)言われた。

― 山口裁判官の質問

  暴力行為で逮捕した当時から、強盗殺人について疑いを持っていたわけですか。

○ 答、その頃から現場に足があるということで、捜査本部としては本人を相当捜査しておったようです。

と、一審証言にあり、さらに二審では、

○ 被害者が足をしばられて、口に布を入れられて死んでおったということで捜査を進めていた。

○ 犯行時間、殺害方法、死亡時刻、その他のことを一応捜査会議の中で討議された上で、聞込みまたは地取り捜査をした。

○ 捜査会議の中で図面を見ながらやった。

○ 家の中の間取図も捜査本部の中にあり、見ている。

○ 中学生の目撃者がいたということは、知っていた。

○ その中学生が、現場付近を自転車にのって通ったということを幹部の方から聞いている。

○ 犯行日時は、28日晩から29日朝までらしいということは、解剖結果から断定され、知っていた。

○ 28日の晩に、現場付近に若い2人の男性がいたということも捜査会議で知っていた。

○ 若い2人連れは、ノッポとチビだということも知っていた。

○ 犯行日時、場所、犯行現場の平図面、地形的な図面、目撃証人の話によれば、現場付近に若い2人連れのノッポとチビの男がいたということは聞いていた。

○ 取調べを命ぜられた時、すでに桜井が強殺について自供したということは、聞いております。

○ 杉山と桜井は共犯だと聞いていた、それで調べた。

と、一、二審を通じて以上のような証言をしています。

 この証言により、久保木刑事は私を調べる以前に、すでにこの強盗殺人事件の内容につき、相当な知識があったものとみられ、これらの証言から、実は私を逮捕したのは暴力行為事件に名をかり、本命は強盗殺人を取調べる意図ないし目的があったことは明らかであり、逮捕の理由となった犯罪を明示する令状によらなければ逮捕されないことを保障した憲法33条及び拘禁の理由を直ちに告げられることを保障した同法34条に違反する違法な見込捜査であることが、この久保木の証言から明らかであります。

 次に、他の取調官の一審証言によりますと、久保木のあとを引きついだ森井喜六は、自白をテープに吹きこんだことについて、弁護人の尋問については、

○ 録音前にわからないところは聞けば教えるとは言わん。

と答え、私の尋問にも

○ 録音前に教えたことはない。

と答え、検察官の尋問には、

○ 録音前に、杉山の方から何か所かの部分については、そのように聞かれて教えている。

と、私と弁護人の尋問には反発する証言をし、検察官の尋問には、録音前に杉山に何か所かについては教えた、ときわめてあいまいな証言をしています。

 また、この録音テープを聞いていただければわかりますが、森井が私に対し「 何故、君は最初にはやらないんだ、やらないんだ、と否認していたのに、今になって自白する気になったんだ 」というような趣旨の問答が吹きこまれていると思います。

 この時、森井も言っているように、私は、久保木が述べる「 杉山が自らすすんで30分位ですぐ自白した 」というものではなく、頑強に事件を否認しましたが、取調官の強制的な自白強要に無理に認めさせられたものであります。

 次に、この強盗殺人事件を再度自白させ、起訴した吉田検事の一審証言によりますと、

○ 杉山も桜井も、自分はその事件には関係ないと否認した。

と、述べています。しかしながら、前記取調状況にも述べましたように、吉田検事の一方的な取調べに私は自白させられてしまった訳です。

 いかに吉田検事の取調べが、私達を犯人であるという前提のもとに自白強要をしたかの証明となる証言として、吉田検事自から次のようなことを述べています。

○ 杉山を調べる以前に警察調書を読んで、一応自白は真実性があるという気持で取調べにかかった。

○ (取調べ以前から)自分の心の中には、杉山と桜井がやったという気持があった。

と、証言している点に注目していただきたい。

 結    論

 これまで述べてまいりました、久保木、森井、吉田の取調べ刑事、検事の証言は、一審証言では必ずと言ってもよい程不当取調べを否定しています。

 それは、自分達の不正を明らかにされることを恐れる気持と、私達を自分達の手で犯人に作りあげたんだ、もしここで自分達の不正が明るみに出たら、杉山と桜井は無罪になってしまい、今までの謀略も水のあわになってしまうという考えから不当取調べの実態を否定しているのです。

 さらに深くつきつめて行きますと、

 森井の一審証言の中に、次のようなことを述べているものがあります。

○ 取調べの任意性が争われるようなときには、やはり調書よりも録音テープの方がそういう任意性がはっきり出るかというふうに感じました。

 この証言によりますと、あらかじめ、事件を否認されるおそれがあることを前提にしていたとしか思われませんし、この録音テープは、とりようによっては自分達取調官が自白を強制したので、もし否認された場合、調書だけでは心配だ、録音テープなら、任意性があると裁判所も判断してくれるだろうと自分達の不当取調べの事実を隠蔽(いんぺい)しようとはかったのです。

 もし、彼らが述べるように本当に任意の上での取調べなら、森井が述べるような録音テープなど必要ないのです。

 こうしてあらゆる手をつかって、自分達の取調べの不正を隠蔽しようとしている取調官が、法廷で真実の不当取調べの実態を証言するはずはなく、真実の証言を得るのは不可能であります。

 裁判官には、警察や検事がそんな不正な取調べをするはずがない、とお考えになるかも知れませんが、現実に私は不当な取調べをされているのです。また、これまでにも幸浦、二俣、松川、八海等と多くの冤罪事件で、警察、検察の不当な取調べが明らかになっております。

 久保木のように、一審では否定しましたが、二審で再度証人として出廷し、一審と二審の証言内容が矛盾しているということが、いかに取調官が嘘を言っているかとの証明ではないかと私は思います。

 嘘は、どこかでボロが出ます。

 一審でも、二審でも、またどこでも、自分にやましい所がなければ、多少のくい違いを除いては証言内容が変わってくるということはあり得ません。

 人間ですから忘れることもあると思いますが、久保木の場合、一審と二審ではまるで正反対な証言が、随所にみられます。

 控訴審(二審)判決では、久保木の一審証言を引用し、当審(二審)証人として述べるところもこれらの点につき実質的な差異はない、としていますが、これは明かな誤りです。

 一審、二審証言には重大な点についての証言のくい違いがあります。二審証言には、私の述べる真実の不当な取調状況を裏付ける証言もあります。

 取調官と被告とは、敵対する関係にある間ですので、取調官が被告の有利になる証言をするはずがありません。もし、取調官と被告の言い分が一致したら、それは間違いなく真実でありましょう。

 この点をよく考慮されて、権力の座にある取調官の嘘を信じるか、弱い立場にある私達、被告の真実の叫びを信じるか、を深く御検討いただきたい。

 

第3.次に、私のアリバイを裏付ける証人にふれてみたいと思います。

 桜井賢司の昭和42年11月17日付検調には、

「 8月26日、松戸競輪場に昌司、杉山、佐藤尚の4人で行き、次の日は日曜日で河原崎敏の左内腿
(ひだりうちもも)に牡丹(ぼたん)の入墨をしてやり、午後3時頃までしてやりましたが、この日は完成しませんでした。この日、弟と尚はどこかの競輪に行きました。夜、店が終ってアパートに帰ると、杉山と河原崎がどこかで飲んで帰ってきました。次の28日、前日の残りの河原崎への入墨を3時頃までやって完成しました 」

と、私の当時の概
(おおむ)ねのアリバイ主張を裏付ける供述をしている。

 また、桜井賢司の一審証言では、検事調書と同様の証言をし、

私と昌司のつき合いの程度を、

○ 杉山と弟との仲は悪いようでした。

と、述べている。

 河原崎敏の一審証言は、

○ 昭和42年8月27日と28日の2日がかりで入墨を入れてもらった。

○ 27日、杉山と一緒に新宿のビヤホールに行った。

○ この日は光明荘に泊った。

○ 翌日、入墨の続きをしてもらった。

と、述べています。

 ただ、裁判官の質問に対しては、入墨をしてもらったのは土曜と日曜だと思うと述べています。

 この点について二審判決は、入墨をしていた日は不明確である、と判断していますが、しかしながら、日付と曜日の勘違いはよくあることで、日付で述べるのと曜日で述べるのでは、常識的に日付で述べた方が信用性は高いと思います。1月のうちに同じ日付はその日を除いて他にはないのです。しかしながら曜日というのは、同じ曜日が1月間の間に平均少なくても4回は同じ曜日があるのです。

 ですから、河原崎が述べる27日と28日の2日がかりで入墨をしてもらったという証言が、信用性がある事は明確であります。又、それを裏付ける証拠として、入墨を入れてやった本人の桜井賢司の証言があります。

 二審判決は、河原崎の証言も桜井賢司の証言もあいまいな点があり、信用性がないと判断しておりますが、それは明かな誤りであります。

 また、桜井賢司の一審証言にあるように、私と昌司とは仲が悪く、共犯として強盗殺人という大事件を起こす程の関係ではありません。

 

第4.アリバイ主張と矛盾する証言について

 伊藤迪稔について

 一、二審判決は、昭和42年8月28日に我孫子駅で伊藤証人が私と一緒になり、その後布佐町まで同行したという供述を証拠として採用しておりますが、これは明かな誤りである。

 一審の伊藤証言からも「 警察官から『 杉山が会っていると言っている 』と言われた 」とあるように、警察官が誘導をして、伊藤証人を困惑させ、無理に押付け、私と8月28日に会ったという調書を作りあげたものであります。

 事実は、この伊藤証人の述べるところは9月1日のことであり、その根拠としては、一審の伊藤証言には「 この日、杉山が布佐駅前通りと成田街道のぶつかる丁字路の近くの靴屋の前で、2、3人の男達と何か話をしていたのを見た 」と証言しています。

 この伊藤証人が目撃したのは、私が木村重雄を呼びとめ、成田街道から少し引っこんだ靴屋の前まで連れて行き、木村重雄から2千3百円を恐喝している場面であり、その恐喝した日が、9月1日だということは一審判決の罪となるべき事実第2の8によっても証明されています。

 さらに伊藤証人は、「 我孫子駅のホームで杉山に会ったのと石段での出来事のことは同じ日 」「 木村重雄から杉山が布佐の靴屋の前で恐喝した日と石段の出来事の日は一緒 」と証言しています。

 私は、石段での角田と桜井昌司の口論のいきさつは全然知りませんが、伊藤の証言からすると、石段での出来事と私が木村重雄から恐喝した日は同日であるとすると、石段での出来事も8月28日ではなく、9月1日の出来事であると判断するのが正当であります。

 角田七郎について

 角田証人の述べる所も伊藤証人と同様であり、9月1日のことを8月28日だと警察官から押付けられ、当時何度も同時刻に同じ場所で私と会っている為、はっきりした記憶もないまま、8月28日として調書を作成されてしまった訳であります。

 その根拠に、伊藤、角田両証人とも、私の正確な記憶にもとづく尋問にあうや、「 その日は、9月1日である 」と、私の主張を裏付ける証言をしています。

 たとえば、角田の一審証言で、「 杉山がだれかを追いかけ、自転車にのった男とその他2、3人の男達と一緒に靴屋のところにいたので、杉山とはそこで別れた 」と述べています。これも、伊藤のところで述べましたように、布佐の靴屋の前で木村重雄から恐喝しているところを角田も伊藤同様目撃している訳であります。

 以上の点から、この伊藤、角田証言により、私、伊藤、角田と一緒に我孫子から布佐に同行したのは、実は8月28日ではなく、真実は9月1日であることが証明されたものであります。

 しかし、一、二審判決は、この伊藤、角田の証言が私達に有利な証言の為、両名共はっきりした記憶がないまま、誘導と押付けで作成されてしまった検察官の供述調書を証拠に採用しています。

 いったい、公開の法廷で述べた証言と密室で誘導と押付けにより作成された供述調書のどちらが信用性があるというのでしょうか。

 一、二審判決は、密室での誘導により作成された供述調書の方が信用性があるとしています。

 これでは、裁判というものがあってもなくても同じです。裁判というものは、公開の場で被告も証人もなんの分けへだてもなく、自分の記憶にもとづき真実を述べる場所として、もうけられているのではないでしょうか。

 そうでないとしたら、裁判の崩壊にひとしいと思います。

 これは、明らかに伊藤、角田が公開の法廷で述べた証言が正しいのであり、9月1日のことを8月28日としたのは明らかに一、二審判決の誤りであります。

 高橋敏雄について

 一、二審判決は、高橋敏雄が我孫子駅布佐線ホームにおいて、私と桜井と会ったという証言を証拠として採用しておりますが、これは8月28日のことではなく、8月31日のことであります。

 その根拠としては、私が木村重雄から布佐地内丁字路上において恐喝した前日のことであり、この8月31日に木村重雄から金をうけとる約束で、我孫子駅成田線ホームで木村を待っている時に高橋敏雄と会ったのであり、この恐喝は9月1日である事は、前記伊藤、角田のところでも述べました通りです。

 海老原昇平について

 一、二審判決は、海老原昇平が8月28日に私が布佐駅の外のベンチにこしかけているのを見かけたとの証言を証拠として採用しておりますが、これは8月28日のことではなく、8月25日のことであります。

 その根拠は、同人の出務表にも25日に勤務したことが明らかにされていますし、この日私は、桜井賢司、佐藤尚の3人で布佐駅外のベンチにこしかけて話をしていたものであり、この出務表が公判で提出される以前から、私は布佐駅外のベンチにこしかけていたのは8月25日のことだと述べていますし、海老原証人も一審証言で「 杉山は、2、3人の男達と一緒であった 」と述べているし、これも私の述べる桜井賢司、佐藤尚と一緒だったということに合致するものであります。

 又、当時の私は、東京と利根町を頻繁に往復していたものであり、利根町に帰ってくる時は必ずと言ってよい程、同時刻の同列車を利用していたものであり、海老原証人の記憶もはっきりしないまま述べたものと思います。

 以上の証人達とは、昭和42年8月下旬から9月上旬にかけて、たびたび同じ場所で同時刻に会っていたものであり、記憶の混乱はさけられません。

 伊藤とは、当時私の記憶だけでも、8月26日東京都上野駅ホームにて会い、30日朝、布佐駅で会い日暮里まで一緒に行き、9月1日布佐に向うバスの中で会い、布佐から日暮里まで一緒に行き、その後午後6時半過ぎ頃、我孫子駅午後6時47分発、成田線の列車内で会い、布佐まで一緒に行き、9月2日、午前8時頃、上野駅ホームにて会い、その後埼玉県の宮原駅まで一緒に行き、午後6時半頃、我孫子駅、午後6時47分発列車内で再び会い、布佐 ― 布川栄橋バス停まで一緒に行き、9月3日、前日と同じ午後6時半頃、我孫子駅午後6時47分発成田線の列車内で会い、利根町立崎まで一緒に行き、と以上のように伊藤とはたびたび会っている訳であります。

 角田とは、8月30日朝、布佐駅で会い北千住まで一緒、9月1日朝、布佐に向うバス車内で会い、北千住まで一緒、その後、午後6時半頃、我孫子駅午後6時47分発成田線の列車内で会い、布佐まで一緒、9月2日、午後8時から9時頃、栄橋の中央地点で会い、9月3日利根町立崎で会い、という次第です。

 高橋敏雄とは、8月29日午後6時半頃、我孫子駅成田線ホームにて会い、8月31日、午後6時半頃我孫子駅成田線ホームにて会い、9月4日、午後6時半頃、我孫子駅成田線ホームにて会う。

 以上のように、伊藤、角田、高橋とはこの他にも顔を合わし、簡単なあいさつ位だけなら、私が東京から利根町に帰って来た日には必ず会っているし、右3名の記憶が混乱し、他の日のことを混同していて正確性がないのは明らかであります。

 又、海老原証人についても、私が東京から利根町方面に帰って来た日で、海老原証人の勤務日と合致した日なら必ず顔を合わせているいるはずです。なぜなら、海老原証人はキップを乗客から受けとる改札口の仕事等をおもにしており、小さな駅ですので駅員達とも私は皆顔なじみであり、私のことはよく知っているはずであり、海老原証人の記憶も他の日のことを混同していて正確性がないのは明らかであります。

 渡辺昭一について

 まず、布佐に行く途中に、本件現場付近の路上で私達を目撃したという状況についての一審証言では、

○ 最初、被害者方前を通った時2人を見た。

○ 杉山と桜井である。

○ 単車で玉村方の前辺にさしかかった時、桜井がふり返って私の単車のライトの方を見たので、桜井の顔を見た訳です。

○ 杉山は、道路の方を向いていたのでわかりました。

○ 玉村方前にある溝をはさんで、杉山が玉村方、桜井が道路の方にお互いに向きあって立っていた。

○ 私の単車が桜井の所へ2メートル位の距離に接近した時に桜井がふり返ったのです。

と、述べていますが、

二審証言では、

石井弁護人の往路の目撃についての質問に対し、

問 同じ時間に裁判所と現場検証に行ったが、あの辺は30メートル位はなれたところに蛍光灯があるだけで薄暗くて、特に注意して見ないかぎり、30キロのスピードで走り抜けたのではそれがだれであるか判らないのが普通だが、証人はその2人がだれであるか判ったか。

答 一寸見ただけですから判りませんでしたが、何か印象に残りました。

問 それがだれであるかわからなかったのか。

答 はい。

問 しかし証人は、法廷では被告人達と云っているが、どうゆうところからそう思い始めたのか。

答 それはわかりません。

と、述べさらに、

佐伯弁護人の質問に対し、

問 行きのとき、どの辺りに来たとき人がいると判ったか。

答 ドブ川を渡ってからと思いますが、一寸判らなくなってしまいました。

問 この図面のどの辺りに2人の人が立っていたのか判るか。

答 一寸判りません。

問 証人が行く方向でどちら側か。

答 道路の左側にいました。

問 それは玉村さんの家の前か、田口さんの前か、それとも逆の中野さんの方か、どの辺にいたか判らないか。

答 玉村さんの家の前かどうか判りません。

問 この図面のどの辺りにいたか判らないか。

 ( このとき弁護人は前同の第4図を示す )

答 玉村さんの家の前にいたことは間違いありませんが、門の辺りか窓のところかは、今ははっきりしません。

問 2人は、どのような状態でいたのか。

答 向い合っていました。

問 立ってか、座ってか。

答 立っていました。

問 道路を基点にして、どのようにして向い合っていたか。

答 下水溝の家側に1人いて、もう1人は下水溝をまたいで立っていました。

問 下水溝をまたいでいた人は、北に背を向けていたのか。

答 どっちがどうか忘れましたが、1人は背を向けていたと思います。2人は向い合っていました。玉村さんの家の方にいた人は、道路側を向いていて、もう1人は玉村さんの家の方を向いていました。

問 道路側にいた人が、またいでいたのは足を前後にしてまたいでいたのか。

答 はい。

問 その人が大きな人だったのか。

答 はい。

問 最初に人がいると判ったのは、ドブ川をこえてからその2人の人の何メートル位手前か。

答 見たのはドブ川の手前と思います。先程云ったドブ川を越えてから見たというのは訂正します。

問 それで顔は判ったか。

答 私が通ったとき振り向いたので。

問 振り向いたのは、道路側にいた人が振り向いたので判ったのか。

答 なし。

問 証人の方に横を向いたということか。

答 2人が話しあっていて、玉村さんの家の方にいた人が、私が通ったとき振り向いて私の方を向いたのです。

問 証人の方を見たわけか。

答 そうです。

と、以上のような証言をしています。

 一審では、玉村方の溝をはさんで杉山が玉村方、桜井が道路の方にお互いに向きあって立っていたと述べ、杉山は道路の方を向いているので判りました、桜井は振り返って私の単車のライトの方を見たので判った、と述べております。

 しかしながら二審証言では、(玉村方の)下水溝の家側に1人いて、もう1人は下水溝をまたいで立っていました、と述べさらに、どっちがどうか忘れましたが、1人は背を向けていたと思います。2人は向いあって立っていました。玉村方の方にいた人は道路を向いていて、もう1人は玉村さんの家の方を向いていました、と述べさらに、道路側に足をまたいでいた人は大きな人である、と述べています。

 御存知のように、私は身長が180センチメートルもあり大男、桜井は小柄な男です。この渡辺の一審証言と二審証言を比較検討してみますと、まるで正反対のことを述べています。

 そして、どうして杉山と桜井だとわかったか、との問に対しては、一審では杉山は道路の方を向いていたので判りました。(道路側にいた)桜井は、ふり返って私の単車の方を見たのでわかった、と述べ、二審では、1人は背を向けていた、とか、2人が話し合っていて、玉村さんの家の方にいた人が、私が通ったとき振り向いて私の方を向いたのです、とか、まるで支離滅裂なことを述べています。

 さらに控訴審第9回公判での

石井弁護人の質問には、

問 原審記録1563丁の記載によると、"杉山は道路の方を向いていたので判りました"と述べ、更に1564丁では、"玉村方前にある溝をはさんで杉山が玉村方の方に、桜井が道路の方にお互いに向い合って立っていました"と述べている一方、この検察調書3枚目には、"もう1人背の高い方は、私の進行方向に向ってその背の低い男の前にいたのですが、その男はふり返らないので、うしろ姿だけ見て通り過ぎたのですが、その姿から杉山卓男だと思ったのは玉村さんが殺された事が判って、さわぎになって1週間目頃になって思い出しながら、あの時の髪の毛を短く刈った頭と大柄な体つきから杉山らしいと思いついたのです"とありますが、どちらが本当ですか。

答 思い出せないのです。

と、述べています。

 この渡辺の検調、一審証言、二審証言から明らかなように、渡辺昭一の述べる往路に玉村方前で杉山と桜井を見たというのは、まったくのでたらめなのです。

 この点について二審判決は、渡辺の証言には相当の混乱がある、しかしながらこの混乱は、帰途に現場付近を通りかかった際の事柄につき見られるのであって、その前の往路に現場付近で両被告人を見た旨の供述は十分信用することができるものと言わざるを得ない、としています。

 しかしながら、往路に杉山と桜井を見た等ということは、真実見てない人でもだれにでも言える事なのです。

 問題は、その目撃した状況を正確に言えるかどうかにあります。真実目撃したなら、その目撃状況を、強盗殺人という大事件の目撃者なのですから、年月のちがいで多少のくい違いはあるとしても、どこでだれに質問されても自分が見た状況を正確に言えるはずです。もし嘘を言っているのなら、必ずどこかでボロが出ます。

 渡辺の往路に見たという証言でも、検察官調書、一審証言、二審証言では、その時々に、まるで正反対のことを述べています。これを偽証でないとするなら、世の中は嘘の氾濫となります。

 次に、渡辺の帰途に目撃したという状況については、控訴審においての私の弁護人の最終弁論要旨にもくわしく述べられておりますし、また二審判決にも、帰途に見かけた人影が何人(なんぴと)なりや等に関する供述部分は明確を欠くものが多く、これを全面的に採用することはできない、と信用性を疑う判断を示していますので、私からの渡辺の帰途に目撃したという証言についての判断はさけることにしますが、渡辺昭一の検調、一審証言、二審証言を全般的に検討して、いかに渡辺の証言には変転やくい違いが多いか、二審判決のように帰途の目撃証言は信用出来ないが、往路の目撃証言は信用出来るという判断がいかに危険なものか、同一人が述べている証言を一方は信用出来、一方はあいまいで信用出来ないなどということが、正義の判決として許されてよいものか、深く御検討いただきたい。

 また、二審公判で渡辺証人自ら「 私は、この事件当時も今もノイローゼである 」と述べています。ノイローゼ男の証言を証拠に採用すること自体まちがっているのです。

 それを往路の証言は信用出来、帰途の証言は信用出来ない等と判断している二審判決は、何をかいわんやです。

 これは私の独自の考えかも知れませんが、被告に有利な証言等はわずかなくい違いがあると信用性がない、と採用せず、その反面、被告に不利な証言は渡辺のような、まるで言っていることが正反対で支離滅裂な証言でも何かと理屈をつけて証拠に採用する、これでは神聖であるべき裁判の名にあたいしない判決と言うべきものであります。

 

第5.事件発覚当時、目撃証人として注目された小貫俊明についてふれてみたいと思います。

 小貫俊明の検調には、

「 午後7時40分頃、象ちゃんの家の前を通り過ぎる時、1人の背の高い若い人が家の西南の角の所に、南の方を向いて立っていました。・・・・ その人の他にもう1人若い人が、象ちゃんの勝手口の踏台の上に立っていました。・・・・ 背丈は、表に立っている人の様には大きくなかったと思います 」

との供述があり、

一審証言では、

○ (1人は)勝手場のところの石の上に立って、象ちゃんと話をしていた。

○ もう1人は、玄関の道路ぞいの壁に寄りかかっていました。・・・・ (この男は)横町の方を向いていて、(小貫証人と)顔が向かい合いになりました。

○ 玄関の道路ぞいの壁に寄りかかっていた人の背丈は、普通でした。

○ 中の方にいた人は石の上にのっていたせいか、背が大きいように見えました。

○ 2人の(背丈は)踏台にいた人の方が大きいように見えました。

― 検 察 官

問 前に、証人は中腰(道路ぞいにいた男)の人は、大きい人であると言わなかったかね。

答 警察の人が、それは自転車の上から見たから大きいのだと言ったのです。

― 裁 判 長

問 証人は、被告人等を知っていますか。

答 杉山さんを知っています。

問 先程、検察官から前に述べたこととちがうと言われたようだが、どうなのかね。

答 向こうの人が決めてしまったのです。

問 自分で見た本当のことを言わなかったのかね。

答 向こうから、そのようなかんじかと言われたので、そうだと言ったのです。

問 先方で決めてしまったというのは、どこかね。

答 警察です。

― 八木下弁護人

問 警察で杉山の写真を見せられましたか。

答 はい。

問 それで証人はどう答えましたか。

答 はっきり言いませんでしたが、こんな人ではなかったと言いましたが、結局わからないと言いました。

― 被告人杉山

問 証人は自分をよく知っているね。

答 はい。

問 見ればすぐわかるね。

答 はい。

問 その時のことは、わからないのですか。

答 わかりません。

と、述べています。

 検調では、道路側の男が大きい男、勝手口の踏台に立っていた男は小さい男となっています。

 しかしながら、小貫証人の一審で述べるところは、勝手場の石の上にいた人は、大きい人、道路ぞいにいた人は、普通位の人と言っています。

 これについては、私達の嘘の自供調書では、桜井が勝手場の石の上、私が道路側に立っていたことにされ、私と桜井の身長から判断しますと、小貫証人は正反対となります。

 この点について、一審証言で、中腰(道路側)の人が大きい人であると言わなかったかね、と検察官、裁判官に尋ねられ、小貫俊明は、それは警察官が決めてしまったのです、と述べています。

 これらから判断しますと、警察官が相当誘導し、強制的に述べさせたものということが明らかであります。

 さらに警察で杉山の写真を見せられ、被害者宅近くに立っていた人は杉山ではなかったと答え、また私の質問に対し、杉山かどうかわからない、と答えています。

 小貫証人も証言しているように、小貫証人は私ともよく知っている間柄で、私を見れば一目でわかる訳であり、もし私が現場近くに立っていたなら杉山と答えるはずなのに、警察でも一審公判でも、私でないと述べています。

 この小貫俊明の一審証言からも、警察官は私達を犯人にデッチあげる為、小貫俊明に相当な圧力をかけ、又誘導したりして押付けの供述をさせたりした事が、一層明白であり、これはほんの一証左にすぎません。

 この他にも同様の方法で、伊藤迪稔、角田七郎、高橋敏雄、海老原昇平等の各証人達にも押付けの供述を用いたふしが見受けられます。

 このように捜査官は、何としても私達を犯人にデッチあげようとやっきになり、許される範囲の捜査を逸脱し、違法捜査をしたことは明白であります。

 

第6.その他の二審判決の誤り

@ 控訴審(二審)判決では、私のアリバイを立証する、映画館の外へ出た際に雨が降っていたという被告人の供述は8月28日より、8月26日の降雨状況によりよく符合している、と判断しておりますが、この点について述べたいと思います。

 まず最初に、私の8月26日の行動を述べます。( 私の控訴趣意書のうち、私の行動8月26日参照 )

「 午前10時頃、尚の家で起床、尚は会社を休む(土曜日)。賢司と私と3人で松戸競輪後節最終日に行く。途中、布川の高熊肥料屋の車と利根町八原(谷原?)の川口マサという男の車で布佐駅までのせてもらう。布佐駅で賢司の弟の昌司と会い、4人一緒に松戸競輪場に向う。午後1時30分頃、松戸競輪場に着く。指定席に入り、最終レースまで遊ぶ。昌司が場内で、ズボンをくぎにひっかけて切ってしまう。私はこの日は全然当たらず、千五百円位しか残らない。午後4時30分頃、松戸地方は雷雨になる。4人で上野へ向う。5時過ぎ上野へ着く。ホームで利根町立崎の伊藤迪稔と会い、その後私と賢司、尚、昌司の4人で鶯谷の「 養老の滝 」という酒場へ行く。7時頃、賢司はバーテンをやっている中野区野方の「 ジュン 」という店へ仕事のために帰る。残った3人で9時頃まで飲み、その後私の友達の杉山光男がバーテンをやっている北区赤羽の「 ロマン 」という店に行き、その男のつけで飲む。( 鶯谷の「 養老の滝 」の前の公衆電話であらかじめ杉野に電話して、飲ましてくれるかどうか聞いて、飲ましてくれるという返事だったので行く ) 12時過ぎ、西武新宿線の野方へ帰る。野方駅から3人で別れ、私は1人で賢司が働いている「 ジュン 」というバーに行くと、店には利根町中田切の河原崎敏という男がいて、そこでビール1本位飲んで、河原崎と2人で店を出て、光明荘へ帰る。昌司が1人で部屋にいたので、3人で深夜食堂にめしを食いに行き、その途中、尚に会ったので4人一緒に行く。その後、めしを食い、光明荘に帰り、寝る。」

と、以上が8月26日の私の真実の行動であります。

 このように、私は26日には終始、佐藤尚、桜井昌司と3人一緒の行動であり、映画を見るひまも全然ありませんし、自分1人の行動をとる事も出来ません。

 しかし、二審判決では、被告人の供述は降雨状況からして26日の方がよりよく符合している、と判断していますので、私の記憶にもとづく降雨状況を述べたいと思います。

 8月26日と28日は、確かに東京地方は雨が降りました。しかし、雨の降り方の違いが歴然としています。

 26日の場合は、雷をともなった強い雨が降りました。もっともこの時は、私は佐藤尚、桜井昌司と一緒に鶯谷の「 養老の滝 」にいたのですが、しかしこの強い雷雨も、私達が「 養老の滝 」から出た午後9時過ぎには完全にやんでいました。

 この後、赤羽、野方と行きましたが、どちらも雨は降っていませんでした。

 28日の場合は、雨が降ったというより、小降りで路面がぬれる程度のにわか雨でした。

 これも中野区の新井薬師での話ですが、このように、26日と28日の降雨状況は、鶯谷と新井薬師の差がありこそすれ、両極端な違いを持った雨の降り方でした。

 一審公判で提出した上申書にも書いた通り、28日の新井薬師の降雨状況は、私が映画館に入る時は雨が降っていませんでした。途中、タバコを買いに表へ出た時、にわか雨が降っていて、映画終了後には路面はぬれていましたが、雨はあがっていました。

 このように私の述べる所は、雨の降り方、降雨量からしても28日に合致するものであり、二審判決は明らかに誤りであり、論理の飛躍であります。

 26日の降雨量は、二審判決でも認めているように、8月20日以降30日に至るまでの間での日々のうちでも1番多量の雨が降っていることからも、私の述べる雷をともなった強い雨が降ったという26日の雨の降り方に合致するものであります。

A 次に、薬師東映で上映された「 クレージーの黄金作戦 」という映画は、8月23日から29日まで上映されていたので、他の日に見た可能性もある、と考えるかも知れませんが、この点について述べたいと思います。

 私の8月23日から29日までの行動は(夜間に限ってですが)、

23日 光明荘にて桜井昌司と一緒に遊ぶ。

24日 佐藤四郎が光明荘に遊びに来るという約束だったので、野方駅前にて、午後7時ごろから9時ごろまで1人で待っていたが佐藤四郎がこないので光明荘に帰り、1人でねる。

25日 千葉県印旛郡印西町木下のバーで、私、賢司、佐藤尚、遠藤の4人で飲み、この晩は賢司と私は尚の家に泊まる。

26日 尚、昌司、私の3人で鶯谷の「 養老の滝 」で飲み、その後赤羽の「 ロマン 」に行き、その後、河原崎と「 ジュン 」で会い、その晩は4人で光明荘にねる。

27日 河原崎と新宿へ行き、酒を飲み、その後光明荘にて、賢司、河原崎、私の3人一緒にねる。

28日 新井薬師の薬師東映で「 クレージーの黄金作戦 」を見て、光明荘で昌司と一緒になり、2人でねる。

29日 我孫子で佐藤尚、佐藤四郎と一緒になり、3人で利根町羽中で暴力事件を起し、この晩は、3人一緒に利根町布川の渡辺和夫の家に泊る。

と、以上のような次第であります。

 この中から、25日、29日は利根町の方にいたので、東京で映画を見る事は出来ません。東京に居た、23日、24日、26日、27日、28日の5日間のうち、23日は桜井昌司と一緒であり、1人で映画を見る事は出来ません。26日は佐藤尚、昌司、河原崎と一緒であり、この日も、1人で映画を見ることは出来ません。

 27日は河原崎と一緒であり、私1人であった日は、24日と28日しかありません。

 となると24日、28日のいずれの日に映画を見たのかということになりますと、今度は当時の天候状況からみますと、気象庁からの回答では、8月24日は晴天ということになります。

 というと、24日も該当しない。残るは28日だけとなります。

 以上のような理由からも、8月28日に新井薬師の薬師東映で映画を見たというのが、一番の合理的であり、他の日に映画を見たという判断の二審判決は、明らかに誤りであります。

B 又、23日、24日、26日、27日、28日の5日間で私が居た場所で、私が膚(はだ)で雨が降ったと感じる程度に雨が降った日は、私の記憶では26日と28日の2日間であり、他の23日、24日、27日には雨が降ったという記憶は私にはありません。

 もちろん気象庁の回答では、他の日に雨が降ったというのですから間違いないと思いますが、しかしこの二審判決が採用している気象庁の回答書は、あくまで千代田区の気象台のものであり、中野区のものではないのです。

 東京地方の場合、私の経験や野球放送等からも道路1本へだてた左側は大雨でも右側は全然降ってないということがままあり、同日同時刻に後楽園では雨が降っておらず野球が行われても、神宮では雨で中止ということもしばしば見られます。

 でありますから、気象庁の回答書だからといって全面的に信用することは出来ないと思います。

 しかし、小雨の場合、私が家の中にいて気がつかなかったという場合もあるかも知れませんが。

C 次に、二審判決は、検察官に対する昭和42年12月14日付供述調書によれば、8月28日に映画を見たのは別の日だったとの供述もしているし、また8月28日前後の他の日にも映画館へ行く機会は多く、また当時の数日にわたる天候状況も知っていた状況にあったと認められる、と判断しています。

 しかしながら、昭和42年12月14日当時の検察官の取調べに対しては、私は強制的に事件を認めさせられていたのであり、検事とすれば、事件を認めさせた以上は今まで被疑者が述べているアリバイ主張をつぶさなければならない訳だし、これは捜査の常套手段ではないでしょうか。

 検事にすれば、映画を見たというのが28日以外の日ならいつでもよい訳で、簡単に映画を見たのは28日ではなく他の日である、と検事がかってに決め、調書にした訳であります。

 また、8月28日前後に映画に行く機会も多く、当時数日にわたる天候状況を知っていたと認められるという点については、前記しましたように、この「 クレージーの黄金作戦 」上映中の8月23日から29日までの間で、私1人で映画を見、又その時の天候状況からも8月28日以外には該当する日はありません。

 当時の天候状況を知っていた状況にあったという判断は、裁判官の常識を越えています。まるで推理作家の発言と同じであり、論理の飛躍です。

 自分が強盗殺人の犯人にデッチあげられるかどうかの大事なアリバイなのに、もしかりに自分が犯人なら、あえて危険をおかして、いいかげんなことを言えるでしょうか。

 雨が降ったか降らないかもわからないことを雨が降った等と言うことが出来るでしょうか。

 さらに二審判決は、当時は小雨の断続する状態が毎日のように続いていたことを知っていたものであると判断していますが、前記しましたように、私は自分の肌で雨が降ったと感じた日は、8月23日から29日までの間では、26日と28日の2日間であり、その他の日は雨が降ったという記憶は私の居た場所ではありません。

 二審判決は、あくまで裁判官の推理でしかなく、完全な誤りであります。

D 二審判決は、伊藤、角田、高橋、海老原らの証言をとらえて、このような証言は、犯行日時と目される日時に接着した日時に、被告人らが犯行現場から余り距(へだ)たっていない場所にいたことを示す有力な、いわゆる状況証拠の一種というべきである、と判断していますが、私達は利根町の土地の者であり、又東京と利根町をたびたび往復し、その往復の為には必ずと言ってよい程、常磐線我孫子駅から成田線を利用し、布佐駅で降り利根町に向うという経路で東京から利根町に帰って来ており、前記伊藤、角田、高橋、海老原証人とも当時たびたび会っているのであり、私達が犯行日時に接着した日時に犯行現場近くにいたからといって、有力な状況証拠の一種とみなすのは早計であります。

 これが、私達が利根町の者でなく他の土地の者であって、利根町周辺にいたところを見かけたというなら、有力な状況証拠ともなるでしょう。しかし、私達はあくまで利根町の土地の者であり、たびたび利根町には帰って来ているのであるから、犯行現場近くに犯行日時に接着した日時に居てもそれは不思議ではなく、むしろ当然ではないでしょうか。

 二審判決は、早計過ぎますし、又誤っています。

 

第7.最後に一審公判での公判調書においての記録の誤りについて述べたいと思います。

 一審公判第18回公判調書に、私の本人尋問として、

「 8月28日には、午後7時過ぎに映画館へ行ったが、その時は雨は降っていない。その時は戦争物をやっていた。30分から1時間して、一旦外へ出たら雨だった。」

とあります。この映画の点について公判調書には「 戦争物 」となっておりますが、私は「 青春物 」と述べたのであり、書記官の聞き間違いにより「 戦争物 」と「 青春物 」を間違って公判調書に記載されてしまったが、次回公判で気がつき、法廷で訂正してくれるように口頭で述べたのですが、二審判決を見ると訂正してないようなので、ここで改めて訂正していただけますよう申し述べます。

 

第8.結    論

 私は、強盗殺人事件は神に誓って青天白日であり無罪である。

 以上述べてまいりました自白、否認、再度の自白をくり返した理由、心境、各証人の証言の誤りに対しての判断、二審判決の誤り、その他私の無罪を証明する事実について深く御検討をいただき、人間社会が嘘と暴力で支配されることを防ぐ最後の砦としてもうけられている、しかも日本の司法の最高位にある最高裁判所の良心にもとづく正義の判決が宣告されることを願って上告の趣意を終ります。

以   上    

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