[資料7−4 上 申 書

千葉刑務所在監   

再審請求人 桜 井  昌 司

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改め、漢数字を算用数字に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。


 昭和63年2月22日に東京高等裁判所第10刑事部がなした再審請求事件に対する即時抗告棄却決定は、著しく真実と正義に反する誤った判断でありますので、それを取り消していただきたく、昭和63年(し)第28号事件での請求人からの特別抗告の思いを、左記の通り上申いたします。

 

 は じ め に ( 真実を見極めてほしい )

 原決定を通読して感じますのは、裁判官には証拠や事実を基礎にして問題を判断しようという姿勢がないということです。いたずらに確定判決にとらわれ、かつ「自白」を盲信するばかりで、それらの主観によって一切の矛盾や疑問を否定するだけの決定を思いますと、これが司法の理性なのかと、これが司法の公正さなのかと、これが司法の常識なのかと、実に悔しい思いになります。腹立たしい思いになります。

 あえて申し上げますが、裁判において最も重要なものは証拠です。動かざる事実です。それらによって問題の正否を見定めてこそ、初めて正しい結論を得られるのです。そして、さらに申し上げ重ねるならば、裁判において嘘と真実を見極める力になるものは、決して法律的知識でもなければ、法律的経験でもないのだということです。それらの力となるものは、ひとえに人間としての理性であり、人間としての常識であるのだということです。

 原決定の誤りの個々につきましては、既に弁護団から特別抗告申立書が提出されているとおりです。それらにおいて説かれたどの一部分を取り上げても、それが即、原決定の全ての論を否定するほどに説得力をもつ内容であることは、事の正否を見極める力と目、つまりは人間の理性と常識とを保持するものであるならば、誰もが理解するところであろうと、私は確信します。

 
原決定を含む判断に共通する誤りは、どれもが「自白」を端から正しいと決めつけているところにあります。確かに嘘の自白をする心理というのは、理解し難い面があります。人殺しという重大犯罪で嘘の自白をするものだろうかとか、それが二人も揃って嘘の自白をするものだろうかとか、このような疑問を感じるのは、きっと誰でも同じだろうと思います。しかし、その疑問から一気に「二人が揃って嘘を言ったとは思えない。だから自白は真実だ」という具合に短絡的に結論を導くのでは、これは社会のヤジ馬と同じであって裁判官の名前が泣きましょう。とても真実を見極められるはずもないのです。

 
既に弁護団からも「自白」に存在する疑問は、るる述べられているとおりですが、かくも多くの疑問が看過される原因というのは、いずれもが証拠によって、動かざる事実によって個々の正否を正していくという、本来の裁判官としての姿勢を欠くところにあるのです。

 これらの弁護団の論証に、さらに私から加えることもないようですので、その個々は申しません。ただ、私のアリバイと、なぜ嘘の自白をしたのかという点等を中心に書きますので、どうか先入観を持たれませずに、人間の理性と常識とに立脚された目で真偽を見極めて頂けますように、心からお願い致します。

 ア リ バ イ ( 8月28日の行動の詳細 )

 
私は8月17日頃まで、布川下柳宿出身の矢沢さんが経営する利根管工という配管業の会社に勤めていました。東京の神田駅傍の新築ビルを現場に家から通勤していましたが、重い管をもつことで交通事故で痛めた左膝が痛み、それで嫌気がさして欠勤を続けて自然に辞める形になりました。

 しかし、家の者には、
「ビル清掃業をしている」
と言い、連日、通常の通勤時間(朝は6時40〜50分台の布佐駅発、夜は7時5分布佐駅着)に家と東京との間を往復していました。何か仕事を探して働こうと思っていましたが、1日延ばしで遊んでいたと言うのが当時の状況でした。利根管工を休み始めたのが8月18日頃ですから、事件があったとされる8月28日というのは、丁度10日目ということになります。

 その日の前夜は、同級生の渡辺和夫宅に泊まりました。
これは、8月26日の朝、
「1週間ぐらい、ビル清掃の出張仕事に行く」
と嘘を言い、母から5千円を貰って家を出ているために家に帰ることができないので、8月26日の晩は、兄賢司のアパート光明荘へ行って泊まり、27日は渡辺和夫(当時明治大学生)が一人で寝泊まりだけしていた新築の家へ行って泊まったのでした。
 8月28日は、午前9時頃に起きました。いつもの通勤時間は過ぎていましたが、和夫とは別れて布佐駅へ行きました。別に目的はなく、ただ習慣的に東京へ行くつもりでした。

 ところが、待合室の改札口そばに、脱線事故があって常磐線の我孫子駅と柏駅間が不通である旨の貼紙がありました。その事故のせいか、遅い時間の割には駅に乗客が多くいて、竜ヶ崎一高で同級だった山田某(杉山と同じ中学)など、何人もの知った顔がありました。
 私は、利根管工で働いているときに買った通勤定期(布佐〜神田間)を持っていましたので、それで振替乗車券を貰い、成田駅から京成電鉄線を利用して上野駅へ行ったのです。
 
 京成上野駅に着いたのは、12時少し前でした。同級生の鈴木しず江さんに電話をし、今朝の出勤時の様子を聞いた後、所持金も100円程度なので上野にいても仕方がないと思い、また目的もなく、今度は開通前の常磐線松戸行きに乗りました。この電車が金町駅を過ぎた頃、事故現場が復旧したので取手行きに変更になる旨の車内放送がありました。

 電車が我孫子駅に着いたとき、別に家に帰るという考えもなく降りました。そして、成田線ホームへ行ってみますと、同じ電車で我孫子駅に着いたらしい、知人の若泉開さん(利根町羽中)と会いましたので、自転車を入質して金を作ろうと思い、若泉さんに昼食を奢る約束で身分証明書を借りました。

 布佐駅に帰り着いたのは、午後1時半頃だったと思いますが、かなりの降車客の後ろから改札口を出ていくと、駅の広場の人の中に母のいるのが見えました。行商を終えての帰りだったのですが、出張仕事と嘘を言って金を貰い、その金を当日の松戸競輪で使ってしまった私は、そこで顔を合わせたくないという思いで、若泉さんとは別れ、必ず母が立ち寄る商店の前を避けて、路地裏から自転車を預けてある場所へ行きました。

 それから、駅前通りにある石井質店へ行き、3500円で自転車を入質しました。ただ、どういう擦れ違いがあったものか、若泉さんとは再会できず、そのまま別れてしまったのです。
 
 私は、暫く質屋で若泉さんを待った後、質屋の隣にある長谷川食堂に入り、昼食(天ぷらライス120円)を食べました。

 金ができたので、開催中の取手競輪へ行こうと思い、栄橋を渡って布川側たもとの大利根交通バス停へ行きました。バスを待って30分くらい過ぎた頃でしたか、同級生の鈴木貞夫(利根町下曽根)が、バイクで通りましたので、違う系統の取手行バスも通る戸田井橋まで乗せていってもらいました。

 戸田井のバス停のある商店で氷水(20円)を買って飲んでいると、かなり時間が経ってからバスが来ました。時間は3時過ぎと書いた記録がありますが、今では記憶にありません。
 このバスの運転手は見慣れた人でしたが、車掌は初めてみる老人でした。

 バスが城根停留所を過ぎて利根川堤防に沿った道路を走っているとき、後方から黒い乗用車が走ってきて、バスを停車させながら前方で停車し、警察手帳らしきものを見せた二人の男がバスに入ってきて、乗客(私も含めて7〜8人)を見回した後
「いないな」
と言いながら降りていったことがありました。

 取手駅に着いた(戸田井〜取手間のバス代40円)のは、4時少し前でした。4時過ぎに発走する最終レースの車券は買えると思って下車すると、駅の入口に脱線事故でレース開始が1時間遅れる旨の貼紙がありました。タクシーで競輪場へ行く(タクシー代130円、予想紙代50円、入場料30円)と、丁度、第8レースの発走するところでした。

 第9レースで車券を500円買った後、食堂に入ってカレーライス(130円)を食べてスタンドに戻ろうとしたとき、前日も競輪場で会い、500円借りた木村香樹さん(同じ部落の人で兄と同級)と会いましたので金を返し、一緒に正面スタンドで観戦しました。第10レースも500円の車券を買いましたが、どちらも外れました。場内では、煙草ハイライト(70円)を買ったことも覚えています。

 レース終了後、木村さんと一緒に取手駅西口まで歩いて行き、乗った電車は5時40分発でした。我孫子駅までの乗車券(30円)と、東京スポーツ紙(10円)を買いました。
 木村さんは、家へ帰るために我孫子駅で降りましたが、この時、既に成田線ホームには気動車が入っていて、もう一杯の乗客でした。
 
 私は、兄のアパートへ行くために上野行きに乗っていきましたが、途中、北松戸駅のホームで下り電車と同時に停車する時間がありまして、この下り電車がいつも通勤に使う成田線の6時47分発列車と接続する最後辺りだと思い、誰か知った顔はないかと混雑する下り電車内を見たことがありました。誰もいませんでした。

 また、どこで考えたことかは忘れましたが、電話が東京管内になる金町駅に着いたらば、当時交際していた女性に電話をしようと思いましたが、京王デパートの閉店時間(忘れました)が過ぎてしまうので、駄目だと考えたことがありました。
 このほかに明確な記憶はありません。山の手線に乗り換えたのも、上野駅まで行くと乗車客が押し寄せるのを知っていますから、きっと日暮里駅であったろうと思います。

 記憶にあるのは、酒場養老の滝へ行くために、高田馬場駅の池袋寄りの早稲田口とか言う改札口を出るところからです。そのときは駅員に注意されているのかと思ったのですが、今、専門学校等の多いところだと分かってみますと、どこかの場所を尋ねていたのかもしれない女性が、改札口の所で駅員の話しを聞いていました。私は、定期券から外れる乗り越し代を40円ぐらい払ったと思います。また、養老の滝では新聞を見ながら飲んでいた記憶がありますので、きっと駅の売店で別の夕刊スポーツ紙(10円)を買ったと思います。

 改札口を出て、道路を横断するために西のほうに歩いたとき、未だ明るい空でした。養老の滝で飲み始めたときも、傍の線路を走る電車を見上げたとき、やはり明るい空をバックに電車が走っていたのを、今でも鮮やかに覚えています。

 
養老の滝高田馬場店に入ったのは、この日だけでしたが、入ったときには客はいなかったと思います。床が濡れていてガランとしていたこと、店員が固まって話していたことを覚えています。

 いつも鶯谷店で飲むハイボールをと思いながら飲食券売り場へと行くと、品切れだと言われました。それで、ビール1杯(100円)、2級酒2本(120円)、若鶏の蒸し焼き1皿(100円)の食券を買いました。この食券を渡して注文したときの女性が、少し目立つような美人でしたが、態度が横柄でした。そして、新聞を飲みながら飲食していて気が付いたらば、客が一杯になり始めていまして、この女性が横柄に席を移るように言うのに腹立たしく思ったことがありました。

 
この店には、大型テレビがありまして、当時の人気番組である「アベック歌合戦」をやっていたこと、司会者のトニー谷が鵜飼いの装束をしていたこと、2組目(Bという札を付けていた)の出場者がおばあさんと子供だったことなどを覚えています。

 店を出た時間は、午後8時過ぎでしょうか。外は、すっかり暗くなっていました。西武新宿線の野方駅までの切符(40円)を買い、ホームへ行きましたが、来る電車がどれもかなり混雑していました。それで何本かの電車をやり過ごして、実際に乗車するまで、かなりの時間をベンチに座っていました。この時、何かを読んでいたような覚えがありますので、売店で週刊誌(50円くらい)を買っていたのかもしれません。

 野方駅に着いたのなどは、記憶になくなっていますが、光明荘アパートに着いたのは9時前後だったと思います。施錠していない兄の部屋には、誰もいませんでした。しばらく、ぼんやり座っていました。何を考えていたのかは、覚えていませんが、自転車を入質した金を使ってしまい、きっと落胆していたのだろうと思います。

 それから、銭湯へ行こうと思い立ち、部屋にあった誰かのズボンと開襟シャツとに着替えたのですが、銭湯のまえに兄の勤めるバー「ジュン」へ行こうという気になり、風呂銭のほかに500円札1枚をもってアパートを出ました。石けんとタオルとは腹巻のなかに入れました。

 「ジュン」へ行った時間は、9時半過ぎでしょうか。店には客が二人、それにママとジュンちゃん(ママの妹)、兄の5人がいました。カウンターの奥のほうに座って飲みましたが、約1時間くらい飲み、500円を置いて店を出ました。

 店を出たときには相当酔っ払ってしまい、銭湯に行く気がしなくなり、「ジュン」に入る路地の南角にある商店街の菓子屋から、田舎の知人で都内の喫茶店に勤めている河村武と杉山恵子に電話をしました。この時間は、ここの菓子屋が定時の閉店時間を持っているのでしたらば、丁度、店を閉め始めたところで、電話なども店のなかに入れたのを使わせてもらいましたので、正確な時間が分かるかもしれません。

 河村には共通の知人で、赤羽駅傍のバーに勤める杉野光男のことで、8月26日に杉山達と飲みに行きまして代金を払わないできたのを話し、
「タケシに電話がなかったか」
と聞いたところ、
「電話があって言ってた」
と言っていました。
 杉山恵子には、指輪のことを話したのです。

 光明荘に戻って部屋に入ると、丁度、流し場のノレンを分けて杉山が出てきました。手にはパンツみたいなものを持っていましたので、洗濯をしていたのかと思いました。

 それから座って話したのですが、杉山は、8月27日に河原崎敏さんと新宿へ行って、朝鮮料理を食べて映画を見たとか、今日は新宿で映画を見てきたとか言ったように記憶しています。私も、取手競輪に行ったこと、8月27日に利根川で根岸茂が水死したことなどを話したと思いますが、何しろ相当に酔っていましたので、杉山の話との違いは、私の記憶違いだと思います。

 そのような話をしているうちに、どちらからともなく腹が減ったという話になりまして、杉山が「隣のアパートの女が、今朝方バナナを買ってきたのを見たので、とってきちゃえ」というようなことを言いましたので、それではということで窓を渡る気になりました。

 果たして渡れるかと案じましたが、手摺に上がって廂のうえに上半身を出してみると、隣のアパートの廂が目の前にあって、これは簡単に渡れると思いました。事実、隣の廂に手を延ばして掴むのは簡単でしたが、いざ隣のアパートの手摺に足を渡そうと試みますと、なかなか足が届かなくて冷や汗をかきました。ぎりぎり一杯に足を広げて指先を渡したときに下を見ますと、兄の部屋の下の部屋の窓ガラスの一番上が透きガラスで、裸電球が光っていたのが眩しくて印象的でした。
 
 女の部屋に移った瞬間、ぎりぎり一杯に広げた足に力が入らなくて引きつけられず、片足がだらりと下がってしまい、手摺に太腿が触れて冷たく感じました。従って、私はズボンを脱いで渡ったのだと思います。 

 女の人の部屋の窓を開けてみると、錠はかけてなくて、開いた瞬間、いきなり鳥の羽ばたきがしたので驚きました。カーテンを開けて部屋に入り、蛍光灯をつけると、侵入口の西側窓の反対側は壁で、そこの南寄りに洋服ダンス、北寄りに二つ重ねの茶ダンスがあり、その間にテレビがあって、テレビの下に鳥篭がありました。

 杉山の言ったバナナや果物類はなくて、下側の茶ダンスの右側戸を開けたところ、棚に魚の缶詰が3個重ねてありました。上の1個を盗り、兄の部屋の窓のところに立っている杉山に投げ渡しました。

 それから入ったついでと金目のものを探したのですが、何もなくて洋服ダンスは錠がかけてありました。錠を壊してまで探す気が起きなくて、茶ダンスや押し入れ(北側の西端)などの開くところを全部探した後、兄の部屋に戻りました。戻るときは杉山に手を引いてもらいましたので、行くときよりも簡単に戻れました。この時の時間ですが、女の人が水商売をしている人だと分かっていましたので、帰宅時間が気になって目覚し時計を見たところ、針が11時辺りだったので安心して渡ったので、大体11時頃だと思います。

 この時に盗った缶詰は、魚だったので食べませんでしたし、杉山がどうしたのかも聞きませんでしたから分かりません。

 兄の部屋に戻った後は、すぐに布団を敷いて寝たのだと思いますが、杉山が、
「明日は、取手競輪で働いている友達が給料日なので一緒に行くか」
と言うので、金もない私は一緒に行くことにして眠ったのでした。兄が戻った時間は分からなくて、翌朝9時頃目を覚ましたらば、兄も寝ていたのでした。
 以上が8月28日の行動で、アリバイです。


 今の記憶にある8月中の行動を考えてみますと、8月17日までは布佐駅と神田駅間を往復して働いていました。また、其の後も、母に「1週間くらい出張仕事」と嘘を言って5千円を貰った8月26日までは、やはり定時に家を出て、定時に家に帰るという毎日でした。つまり
玉村さんが殺されたといわれる8月28日前後の5日間ほどが、母への嘘で家に帰れずにいただけであることを思いますと、まるで仕組まれたように思えまして、これが運というものなのかと、運というものも結局は自分の言動が作るものだ と感じております。

 どのようにして「自白」したか、できたか

 私が嘘の自白をしたのは、4度です。1度目は10月15日です。その「自白」をアリバイの記憶が戻ったことで、10月17日に否認し、2度目に「自白」したのは、10月28日です。3度目は、有元検事にアリバイを話した後、再び取手署に逆送された調べでの12月6日です。そして4度目が、再び吉田検事に無実を訴えた後の12月18日頃でした。

 この4度の
「自白」にいたる心境というものは、それぞれに微妙に違いますので、以下4項目に分けまして、なぜ嘘の自白をしたのか、それになぜ嘘の自白を作れたのか、と言う点も含めまして書きます。

1. 1度目の「自白」について

 私が逮捕されたのは、10月10日です。千葉県柏市の会社に住み込んで働いていた、同級生の小倉守のところに泊まり、ズボン等を持ってきた窃盗罪が理由でした。北区上十条の服部精一さん方に茨城からきた刑事二人が張り込んでいると、服部さんの娘から聞いたので、娘さんと一緒に行ったところ、早瀬四郎警部補と深沢武巡査が張り込んでいたわけでして、
「小倉守のズボンのことで聞きたいから」
と言うので、「分かりました」と納得して取手署へ行ったというのが、ごく大雑把な逮捕された経過です。

 10月11日から取調べがありました。初めに聞かれたのは逮捕状の件ですが、これは柏市内の質屋に入れたことを話し、実に短時間で終わりました。

 次に余罪を聞かれましたので、過去を清算しようと思っていた私は、自分のした盗み10数件を全部話しました。この話も短い時間で終わったのですが、続いてビル清掃をしていたときに仕事先とした会社や現場名を聞かれ、この尋問が
「もっとないか」
と、実に執拗だった記憶があります。

 このビル清掃の話に続いて、今度はビル清掃を辞めた7月からの行動を尋ねられました。これは利根管工に勤めたということで、自然に8月の行動の話になったわけですが、利根管工を辞めた後は働いていないと言いますと、
「毎日どんなことをしていたか、言ってみろ」
というようなことを言いました。もちろん、1か月以上も前のことは覚えていませんでしたが、なかなか答えられないでいると、早瀬が、
「25日頃からのことを話してみろ」
というようなことを言ったのです。

 私は、玉村さんが殺された事件で疑われているとは思っておりませんでしたし、まさか玉村さんの殺された事件を取調べるために逮捕されたとは思ってもいませんでした。ですから、利根町が故郷の私には、その早瀬の尋問が玉村さんの事件に関する、いわゆるアリバイ尋問と分かりましたが、参考のために聞くのだろうとのんきに考えていました。それで早瀬の言葉にも、どうせ関係ないやと思いまして、あまり真剣になれませんでした。

 大体、いきなり40日以上も前の行動を聞かれて答えられるはずもないのですが、それでも母に「出張仕事」と嘘を言って金を貰い、松戸競輪の最終日に行ったということがありましたので、早瀬が手帳で「それは8月26日だ」と確認した事から記憶をたどりました。しかし、明確に月日を特定して話せるような記憶は余りなくて、極めて断片的に思い出す記憶にしても曖昧で、全体的に「
こうだと思う」という話ししか出来ませんでした。

 それで8月28日の宿泊場所も「
兄のアパートか、渡辺和夫の家に泊まったと思う」という程度にしか思い出せなくて、それで調べが終わったのだと思います。

 10月12日の取調べは、午前中に柏市の質屋から持ってきたズボン等を見せられて、それの窃盗罪としての調書が作られました。昼食後、竜ヶ崎市の裁判所と検察庁へ行き、窃盗罪での勾留状を貰いました。

 それから、戻った午後は調べがありませんでした。この時、取手署の刑事課長だった後藤警部から勾留状を見せられたのですが、空白欄について、
「この空白はなにか」と尋ねたところ、
「これは、桜井の調べが終わるまでは何日でも泊めておけるように空けてあるんだ」
と言われました。この言葉は、法律を知らないものには重圧を感じるものでして、何日もやられたのでは困ると、深刻に考えさせられました。

 この12日午後の時間は、大変長く感じられました。好き勝手に遊び回っていた20才の男が、全く何もない留置場に入れられる退屈さは、まるで時間が止まったように感じられるほどでした。
自分のした盗みや人の信頼を裏切った行為を後悔し、また、「何日でも泊め」られるかもしれない今後のことを思ってはしょう然となるという具合に、あれやこれやと考えるばかりでした。

 10月13日からの調べは、それまでの留置場の外の部屋ではなくて、留置場内の看守仮眠室で始まりました。
この調べが始められたとき、私はアリバイのことを聞かれるとは思っていませんでした。11日の調べで終了したことだと思っていたのですが、それを早瀬は、 
「もう一度、28日のことをゆっくり考えてもらうから」
と言い、調べが始められたのでした。

 その言葉に、さすがの私も玉村さんの事件で疑われているのかもしれないと思いました。しかし、無関係な私ですから、疑われても困ったとは思いませんでしたし、アリバイも考えれば判かると、実に簡単に考えていました。

 それでアリバイを力を入れて考えてみますと、何度か考えているうちに、
「兄のアパートに泊まった。杉山も一緒だった」というように思い出しました。ところが早瀬は、
「もう調べてあって、お前の兄さんも泊まっていないと言っている」
と、即座に断言したのです。あやふやに思い出した記憶でしたし、警察の捜査に間違いはあるまいと思っていた私は、これは自分の記憶が違うのだと思いまして、その思い出した記憶を確認することを放棄したのです。
正しい記憶を「勘違い」として排除して考えては、何度考えてもアリバイを思い出せるはずはありません。

 しかし、当時の私の行動から考えて
「兄のアパートか、義兄の藤ヶ崎宅か、友人の渡辺和夫の家か、このどこかに泊まっている」のは確実でしたので、それを言うと、
「もう調べてあるよ。兄さんのところは26日、和夫の家は27日、藤ヶ崎の家は29日からだ。違う」
と、これも早瀬は断言するのです。
何しろ、当時の私は、警察が嘘を言うとは思ってもいないのですから、これでアリバイを思い出すきっかけを完全に失ってしまったのです。

 この経過について、私が自分の記憶よりも早瀬の言葉を信じたのが、容易で不思議だと思われるかもしれませんが、これには理由があるのです。

 実は、この日の調べのときに、早瀬は青いコピーの紙を持っていました。何気なく机の上に置いてあるのを見ると、それには私の行動の裏付捜査結果であるらしいことが書かれていると判かりました。今、覚えているのは布川中学校の1年後輩で、当時は早稲田大学へ行っていた若泉隆(利根町布川)が、
我孫子駅ホームで週刊誌をもって歩いているのを見た
と証言したらしい言葉があったことで、8月31日に義兄藤ヶ崎宅の稲刈りを手伝っての帰りに、成田線小林駅前の商店で週刊誌を買ったことがあったのを思い出したのです。

 これらを見たことで、早瀬が私の記憶を否定した断言も、この青いコピー紙にある裏付捜査結果のものだろうと思ったのです。したがって、
早瀬の言葉を信じて、兄のアパートには泊まっていないという前提で考えるのですから、どう考えても正しい記憶の戻るはずはありません。これ以後の取調べには、早瀬も証言しますように「記憶がない、判からない」としか答えられなかったのです。

 このような調べが続いて昼休みになる前に、
「28日が判からないというのは、布川へ行ったことを隠そうとするからだ。布川へ行ったことを話さずに、真実は話せないだろう」と、早瀬が言いました。

 この時の私は、まさか犯人と疑われているとは思ってもいませんでしたので、無関係なものにはアリバイがあってもなくても同じだと、実にのんきに考えていました。でも、早瀬の厳しい口調から、犯人と疑われているのだと悟りまして、それから必死に考えました。しかし、
正しい記憶を間違いだという前提で考えるのですから、いくら必死になって考えたところで、アリバイを思い出せるはずはありません。考えれば考えるほどに、混乱していくような状態でした。

 こうして10月13日午後の取調べからは、完全に犯人扱いの取調べが始まります。

隠し通せるものじゃないから素直に話せ

玉村さんを殺したことを話さずに真実が話せるか

初めから素直にやりましたなんて言う奴はいないんだ。俺じゃない、俺はやってねえ、初めは誰でもそう言うんだ

お前が犯人でなくて、どこに犯人がいるんだ

見た人がいるんだから、いくら突っ張っても駄目だ

下手に突っ張ってると大変なことになるぞ。死刑だってあるんだど

素直に認めたほうが有利なんだ。俺はお前さんのためを思って言ってるのだ

などと言われ続ける取調べが、この日から14日、そして10月15日と続きました。勿論、初めは私も、無関係であることを何度も訴えましたが、その度に、

それじゃ、28日はどうしたんだ、話してみろ

と言われます。アリバイを思い出せなくて「
判からない、記憶がない」と答えれば、即座に

それは、殺したことを話さないからだ

と、
言われるのです。いくら無実を訴えても堂々巡りになる問答は、私のほうに反論できるアリバイの記憶がないために、やがて早瀬の自白を促す種々な言葉を一方的に聞かされるような状態になりまして、次第に追い詰められるような気持ちになっていき、ついには嘘の自白になってしまったのでした。

 このような取調べのなかで、
嘘の自白をする原因となったものには
、3つあります。

 先ず1つは、10月13日に早瀬が、

「貴公が勝手口の石台に上がって玉村さんと話していて、杉山が道路に立っていたのを、道路を通った人が見ているんだ。その人が、道路に立っていたのが杉山卓男で、石台に上がって玉村さんと話していたのが桜井昌司だったと断言するんだから駄目だ」

と、言ったことです。警察が嘘を言うとは思ってもいませんでした。刑事が言うことは、確実な捜査結果の真実だけだと思っていたのです。その早瀬から、
いきなり共犯者杉山だと言われ、そのうえに全く身に覚えのない行動の目撃者なるものの存在を根拠に糾弾される驚きというのは、全く言葉を失うような思いでした。

「違う」としか言い訳のできない窮地に陥り、ますます袋小路に入ったような苦しい気持ちになりました。そして、「桜井、杉山を見たと断言する人」
も実際に存在するのだと思いまして、何故行った覚えもない玉村さん方で私を見たという人がいるのだろうか、と真剣に考えました。

 その結果、道路を通った人が道路に立っていた杉山と、勝手口で玉村さんと話す桜井を見たというのだから、道路に立っていたという杉山が行ったことは確かだと思いました。
自分が行っていない以上、勝手口の桜井というのは杉山と一緒に行った誰かを目撃した人が見間違えたものだろう、と思いまして、これは杉山と誰かが犯人なのだと思ったのでした。
これが嘘の自白の原因となる1つです。

 次に2つ目は、10月14日に早瀬が、

貴公の母ちゃんも、やったことは仕方ないんだから、1日も早く素直になって話せと言っている

と、言ったことです。私は、早瀬の自信たっぷりな取調べを受けているうちに、
このまま犯人にされてしまうのではないか、という不安を感じていました。でも、無実のものが犯人にされるなどとは考えられないことでしたし、無関係であることは判かるし、家のものは信じてくれると思っていました。

 
そこで聞かされた母の言葉だというものは、大きな衝撃でした。これも嘘だったとは思いもせずに、母までが自白しろと言うようでは、もう何を言っても考えてもどうにもならない、という気持ちにさせられたのでした。
これが嘘の自白の原因となる2つ目です。

 最後の3つ目は、10月15日の午後に嘘発見器にかけられて、その結果を、

貴公の言うことは、全て嘘と出た。もう駄目だから、本当のことを話せ

と、言われたことです。
 この時の経過を書きますと、15日午後の調べで留置場に入ってきた早瀬が、監房の前で、

お前の言っていることが、嘘か本当か、嘘発見器にかけるけど、どうだ

というのです。
嘘発見器のことなど思いも及ばなかった私は、これが警察から与えられた救いの手のように思えて喜びました。器械ならば真実さえ話せば分かってもらえる、と考えたとき、これで無実も分かってもらえる、と思いまして、万歳と叫びたいような喜びを感じたのです。

 すぐに早瀬に同意書を取られました後、同じ留置場の中にあった板の間の部屋で始められました。そして係の人による嘘発見器の質問には、全て本当のことを答えました。

 この係の人が、終わって留置場を出ていくときに、
「早くアリバイを思い出して、係の人に分かって貰いなさい」
と言って去ったこともありまして、
これで犯人扱いされることはなくなるのだと、すっかり器械を信頼して安心したのでした。

 ところが、取調べが再開されてみると、早瀬は、

全て嘘と出た。もう駄目だ

と言ったのでした。
言葉も出ない落胆というのは、この時でした。犯人にされてしまうのではないか、という不安で一杯のときに嘘発見器にかけられまして、これで真実を話せば分かってもらえるのだと喜びました。

 そして、すっかり安心したあとだけに、その結果を「
全部嘘と出た」と言われたことは、その喜びや安心が大きかっただけに反動のショックを受けたのです。

 
まさか警察が、嘘やハッタリで自白を強要することがある、などとは夢にも思いませんでしたので、この早瀬の言葉をきいて、何を言ってもどうにもならない、というような気持ちになってしまったのです。私には窃盗の罪があるために、疑われても仕方がない、という負い目もあって、

嘘発見器が犯人だと証明しているのだから、もう言い逃れはできない

と言われますと、アリバイを証明できないのでは何を言ってもどうにもならない、もう犯人にされてしまう、と思ってしまったのです。

 
こうして嘘の自白をするに至ったのですが、この時の心理状態は錯綜していました。何よりも、犯人にされるのだと思いますと、それまでは何の気もなく聞いていた、

突っ張っていると、死刑もある

などと言われた言葉が恐ろしくなりました。認めれば命は助かる、ということでしょうが、けれども自分は犯人ではないことを思いますと、どうすれば良いのかと考えては、頭の中で1つのことだけが回るような思いになりまして、それ以上の考えは進まなくなってしまったのです。

 
こうした思いの中で、杉山と誰かが犯人だとばかり思わされていました私は、たとえ一時的に犯人に仕立てられても、真犯人は分かっているのだから最後には無関係だと分かる、とも考えていました。

 
この「犯人にされる、命が助かるためには認めるしかない」という考えと、「自分の無関係は最後には分かる」という、一見すると相反する考えのなかで、とにかく目の前にある袋小路の苦しみから抜け出ることばかりを考えるようになりました。

 そして、嘘の自白をする後ろめたさに対する自己弁解としては、全ては犯人扱いする警察が悪いのだ、どうせ母も犯人と思っているのだから、
一時、犯人にされても構わない、大事件だから認めることで却って無関係と分かることがあるかもしれないし、とに角、犯人でないことをアリバイで証明できない以上認めるしかない、というように考えて、とうとう嘘の自白をしたのです。
 以上が、最初の「自白」の経過と心理です。

2. なぜ「自白」が作れたか

 なぜ嘘の自白をしたのか、という疑問と同様に、なぜ無実のものが「自白」を作れたのか、という疑問は、誰もが感じるところだろうと思いますが、私の「自白」を理解していただくには、私が利根町を故郷とするものだということを正しく認識していただかねばなりません。

 それはどういうことかと言いますと、事件後の噂話で、
玉村さんが八畳間の押入れの前で殺されていたとか、ワイシャツでぐるぐる巻きにされていたとか、畳がぶち抜かれて床下に隠してあった大金を奪われたとか、家にはロッカーが沢山あったとか、タンスには女子供の服があったのは金貸しの担保品ではないかとか、というような沢山の話を聞き知る立場にあったということです。

 そして、これらの話を聞けば、玉村さん方前を交通路とする私には、八畳間というのは道路際の窓のあるところではないかとか、押入れがあるとすれば、構造的に、そして子供のときに見た覚えのある八畳間の出入り口があるはずの南側と窓のある西側以外、つまり北側か西側ではないかとか、大体の想像がついたということなのです。

 これらのことをご理解頂いた上で、その「自白」が作成された経過も見ていただきたいのですが、早瀬が初めに言ったのは、
「それじゃ、取手競輪場を木村カジュと帰ったところから話してみろ」
ということでした。

 私が嘘の自白をしたときの気持ちは、
「やった」と認めれば犯人になってしまうのだと思っておりましたので、記憶を失念させられた以後のことを聞かれて困りました。しかし、「やった」と認めたい上は、何かを言わなければなりませんし、どうせ嘘の自白なのだから適当なことを言えば良い、そのうち犯人でないことも分かるかもしれない、などと安易に考えて、その早瀬の尋問に答えていきました。

 この時は、まだ木村香樹さんと取手競輪場を出た以後の記憶がありませんでした。それで、早瀬が自白を迫っていたときに、
「我孫子駅で杉山に会って、それからどうしたんだ、話してみろ」
と(聞かれた時に)言ったことのある話に合わせれば良いはずだと考えまして、一度柏駅まで行って我孫子駅に戻ったという話に作りました。なぜ柏駅まで行った話に作ったのかといいますと、時間的に我孫子駅で降りた話にすると成田線ホームに気動車が止まっているはずだと分かりましたので、それに乗らない話にするために柏駅まで行ったことにしたのです。

「我孫子に戻ってどうした」
と言われました。とっさに、杉山との出会いの話を作れるはずはありません。それで、実際には9月1日にあったことを8月28日にもあったかのように話しました。その際、9月1日の行動の話は早瀬に言ったことがありましたので、そっくり同じ話にしないように注意した覚えがありますが、とっさの作り話は続けるのが難しくて、結局、早瀬の
「それからどうした」
などという尋問に促され、9月1日と同じような話になってしまったのでした。布川へ着いた後も佐藤治が一緒では話になりませんので、佐藤は家へ帰ったことにし、それから玉村さん方へ行く話に作るのですが、事件後の噂話で金貸しをしていたらしいことを聞いていましたので、
「金を借りに行くことにした」という話にしました。

 ここで一言加えますと、当時の私達の行動を検討していただければ分かるように、
まだ通勤客のある時間帯に「誰かいないか」を考えもせずに、いきなり借金に行く話の出ようはずはないのです。このような、当時20才で不良だった私達の行動常識に反する行動を安易に信ずるのであれば、とても嘘の自白の心理も看破できるものではないということです。

 玉村さん方への経過や借金交渉の話は、早瀬の尋問に合わせて、適当に作りましたが、「自白」にある
「5、6千円の借金申込み」というのは、8月25日に母から貰った5千円が頭にあって出た言葉ですし、私が交渉に行ったという話は、「目撃者」なる早瀬の言葉に合わせたものです。

 この時に最も困っていたのは、どうして殺した話にすれば良いのかが思い付かず、どのように話を続ければ良いのかということでした。それで、その話を作る時間を稼ぐために、再び利根川のほうに戻った話にしました。「川原をブラブラ歩いた」という話も、どう殺したことにすれば良いかと考える時間が欲しくて、早瀬の尋問に促されて作ったものです。しかし、何度考えてもうまい話ができませんで、早瀬の尋問に話が続かなくなってしまい、再び玉村さん方へ行く話にしました。

 最初の借金は私の発案としましたので、2回目は杉山の発案という話に作りましたが、どのような時点かは忘れたのですが、この2回目の借金に行く経過の話を作っているときに、杉山が犯人だし、一人で家に入ってやったとすれば良いのだ、と思いついたのでした。

 ところが、ひょいと2度目も私が勝手口に行ったような言葉が出てしまいまして、初めに考えついたのとは違う経過で、杉山が一人で家の中に入ったという話に作ることになりました。

 それから後の話は、どのような話にして8月29日の記憶のある行動につなげば良いかと考えたことがありましたが、どこかに泊まったという話にしても、嘘の話を作るのは大変なので、これも実際に体験した10月初旬に柏駅傍の旅館に泊まった事実を、この8月28日夜であったかのように話したのでした。もし調べられて判かったらば判かったときのことで、それまでには無関係だと判かるだろう、と思っていたのです。

また、8月29日の行動は、嘘の自白の始まりが9月1日の行動のこじつけでしたので、9月2日の朝に上野駅山下口で杉山と会ったことを8月29日のことにすれば良い、と思いまして、そのような話に作ったのでした。
 以上が、
「自白」の原形です。

ところで、今、10月15日付調書を見ますと、
「杉山一人が家に入った」とはなっていません。が、しかし、初めの「自白」というもの、つまり10月15日夕食前の取調べで言った作り話は、「杉山一人」だったのです。それが、早瀬から

お前も一緒に入ったんじゃないとおかしい。どうせ殺したのは同じだから言ってみろ

と、びっくりするような大声で言ったのです。大声以上に言われた内容に驚いた私は、なぜ犯人の杉山が無関係な俺を共犯と言うのか、と考えました。それで、何か事情があって本当のことが言えなくて、私が早瀬から
「杉山とお前が犯人」と言われたように、杉山も「桜井とお前が犯人」と言われるままに認めたのではないか、どっちにしても最後には無関係と分かることだ、というように自分を納得させ、早瀬の言うとおりに「私が首を締めた」という話に訂正したのです。そして、改めて10月17日付調書を作り直したために、この日の取調べが終了したのは、午前1時を過ぎたのでした。

 
この10月16日付調書と10月17日付調書とを総合したものが、今の10月18日付調書ですが、連日の犯行劇と現場を語る「自白」をつくらされましたことで、私も段階的に玉村さん方の状況が分かるようになっていきました。

 そして、深沢巡査の立会いが最終日だった10月19日には、第1回目の「自白」の録音が行われましたが、何度も同じことを言わされ、また、誘導によって現場の大体のことも分かりましたので、この日までに作らされた「自白」は、まるで自分が体験したことのように話せました。


 10月23日に強盗殺人事件の逮捕状というものを見せられたと同じ日には、いわゆる栄橋石段での出来事という角田七郎、伊藤廸稔、青山敏江の証言なるものを聞かされました。でも、それは杉山の木村重雄に対する恐喝との関連で、9月1日のことだというのは、すぐに分かりました。

 しかし、早瀬と、10月20日から立合人となった取手署の
富田直七巡査は、

お前一人の言うことよりも、3人の言うことのほうが正しい

と言って、承知しませんでした。
それで私も、この話が9月1日であることは間違いないし、後で9月1日だと分かれば、取調べのでたらめさを示す証拠になるのではないか、どうせ全てが嘘の話だからどっちでも同じだ、と言うことを考えまして、また言われるままに認めたのでした。

 以上が、10月15日から
「自白」が段階的に深められていった、ごく大ざっぱな経過と要点ですが、この間、私が何の苦痛も感じないで嘘の自白を続けていたとは思わないでいただきたいと思います。真実を訴えるにもアリバイの記憶を失い、かつ一度「やりました」と言ってしまいますと、後は言われるままに認め、答えるしかなかったのです。そこを分かっていただきたいと思います。

3. 2度目の「自白」について

 この時の否認と再自白の経過というのは、10月25日に土浦の検察庁へ検事調べに行ったことから始まります。

 10月26日の取調べが始まるとき、前日、私が検事調べに行くジープに同乗して、藤代町のキンセンセーター会社へセーターを買いに行った早瀬は、そこで買ったというものを着ていまして、
「これも普通の商店で買ったらば大変だ」
などと言い、暫く雑談をしました。それから、早瀬がおもむろに、

実は、28日は野方のアパートに泊まっていると、お前の兄さんが言っているけど、どうなんだ

と、言ったのです。

 
アリバイ尋問のときにさんざん否定しておいて何だ、と腹が立ちまして、

「今更、何を言っているんですか。兄貴のアパートは違うと言ったんじゃないですか。柏の旅館も裏付け捜査で間違いないと言ったじゃないですか」


と言ったのですが、結局、早瀬から

お前の兄さんが勘違いしていたんだから仕方ない

と言われますと、それ以上は何も言えません。

 
それで、嘘の話なのだから何処に泊まったことになっても同じことだ、と思いまして、言われるままに宿泊場所を柏駅傍の旅館から兄のアパートに変更したのでした。

 こうして8月28日は兄のアパートに泊まったのが事実とされますと、だんだんと薄皮をはがすように記憶が蘇ってきたのです。そしてこの夜、取調べが終わった後に寝ながら考えまして、兄のアパートに泊まったことや高田馬場の養老の滝酒場へ行ったことなど、大筋のアリバイが確実であることを思い出したのです。

 それで10月27日の取調べでは、いつアリバイを言い出そうかと、そればかりを考えていたのですが、余りにも犯人としての「自白」が作られすぎていたことの気後れでしょうが、どうしても言い出すきっかけをつかめずに時間が過ぎてしまいまして調べが終わったのでした。


 この時の気持は、そのアリバイの話さえすれば無実だと分かるのだ、と考えますと、余裕があるというか、早瀬も気の毒になどと思っていました。

 この日は、午後7時頃に調べが終わったのだと思いましたが、監房へ布団を入れる立合いに来た藤沢巡査にアリバイを思い出した旨を話したのです。そして、藤沢巡査が留置場を出て行って少しすると、再び早瀬と富田が来まして看守仮眠室での調べが始まり、ここで思い出した内容のアリバイを話しまして犯人ではないことを訴えました。 

 ところが、10月28日に午前9時頃から始められた調べでは、その初めに早瀬が、

お前の言ったことは全部調べたが、嘘だった

と言うのです。この時の私は、やっと警察に不信を感じました。

 
いくら警察でも、前夜の8時頃に訴えたアリバイの全てを、そんな簡単に調べられるはずはない、と思いました。そして、これは犯人ではないと分かると責任問題があるので、このまま犯人にするつもりで調べないのではないか、とも考えました。

 警察は調べなくても、検事ならば公正に調べてくれるだろう、と思いまして、
「検事さんに会わしてください」
と頼んだのですが、

完全に調べが終わるまでは駄目だ

と言って、全く相手にしてくれないのです。


 
何度頼んでも相手にしてくれない早瀬の態度を見ているうちに、警察が犯人にするつもりならば、下手にアリバイを訴えていると、それを握り潰されたり、消されたりするのではないか、と心配になりました。

 それで、思い出したアリバイに確信のあった私は、アリバイさえ公正に調べてもらえれば無実は分かるのだし、下手にアリバイを訴えて握り潰されでもしたら大変だから、警察にいる間は犯人を装い、一日も早く検事に会えるようにしてアリバイを調べてもらえるようにしよう、と考えまして、アリバイを「勘違いだった」ということで撤回し、再び嘘の「自白」をしたのです。


4. 3度目の「自白」について

 11月8日に取手署から土浦拘置所に移送されました。12日頃に有元検事の調べがありましたので、その時までに思い出していたアリバイを訴えました。有元検事は、
「なぜ今まで黙っていたのか」
と言いましたので、警察でアリバイを訴えて、また撤回した事情を含めて話しましたところ、その調書も作ってくれました。

 その結果、強盗殺人罪での拘留が消えて、接見禁止が解除されたり、12月に期日の窃盗での公判通知が届くなどしましたので、中旬に取手署から2名の刑事が来て、髪の毛を採取されたことはありましたが、
もう無実は分かったのだ、大丈夫だ、と思って過ごしていたのです。

 ところが、12月1日に取手署に移送されたのです。そして、再び留置場の看守仮眠室で早瀬警部補と高田巡査から、

検事様は、お前の言うことなど信じていない

お前一人が否認しても、杉山が認めているんだから駄目だ。このままじゃお前一人が悪人になる

一度認めた調書があるんだから、否認しても犯人になるんだ。認めたほうが身のためだ

などと言われる取調べが始まったのです。

 
この時は、再び嘘は言わされますまいと思っていた私ですが、1日、2日と同じようなことを言われ続けますと、法律に無知であるものですから、自分の犯した窃盗罪があるので、このまま否認をしていると何十日でも限りなく調べられることになるのではないか、と思っては、それが大きな苦痛になってきたのです。その上、

このままでも犯人になるが、お前のために言っている

などと言われ続けますと、このまま果てしなく調べが続けば、本当のアリバイも分からなくなって犯人にされてしまうのではないか、と思うようになりまして、それが恐怖となって感じられるようになったのです。

 1日中、留置場の看守仮眠室で続く調べでの、その苦痛と恐怖はとても大きく感じられまして、結局、この苦痛と恐怖とに負けて嘘の「自白」をすることになったのです。

 
そして、再び嘘の自白をする自己弁護としては、警察は私を犯人と思っているから嘘の自白を得るまでは何日でも調べが続くだろうし、それでは調べ方さえ正確であれば分かるはずのアリバイも分からなくなってしまう、嘘の自白であることは、事の真偽を判断する専門家の裁判官なら分かってくれるのではないか、裁判官が真実を見抜いてくれるならば、ここは1日も早く裁判があるようにしなければならない、その方が自分にもいいのだ、などと考えたのでした。
 以上が、3度目の
「自白」をする心境です。

5. 4度目の「自白」について

 12月13日頃でしたか、水戸地検からだという
吉田検事が取手署に調べに来ました。
 この時の私は、それまでに嘘の自白をした後と同じように自白強要の取調べがなくなりましたことで、やはり真実を話すべきではないかと思っていました。そこへ来た吉田検事でしたので、真実を分かってもらうには真実を言うべきだ、と思ったのですが、吉田検事は、いきなり机を手で叩き、

この事実を認めるのか、認めないのか

と大声で言ったのです。
その強圧的な言動に早瀬と同質の、犯人に作り上げる姿勢を感じまして、私は悔しくて涙が出ました。でも、やはり正しいことを言うべきだと思いまして、再びアリバイを話し、無実を訴えたのです。

 それを聞いた後、吉田は、
「もう一度、君の言うことを調べてみる」
と言って、帰ったのでした。

 ところが、二日ほど過ぎた後、取手区検(だと思うのですが)に呼び出されての調べでは、


アリバイを調べたが真実として出てこない

と言うのです。私は、何度もアリバイが真実であることを訴えましたが、


盗みに入ったというアパートの窓は、とても渡れないほどの距離がある。私は、家が東京なので見てきた

君の兄さんも店に来たのをはっきり覚えていないと言ってる

養老の滝でも君のことがはっきりしない

おかしい、他に真実があるとしか思えない

などと言い、暗に自白を求めてきました。

 
私のほうは、「信じて欲しい」というしかないために、吉田検事に、

真実というものは、たとえ裏付けがなくても人の心を打つ響きがあるものだが、君の言葉には、それがない

などと言われますと、それに反論する言葉を失ってしまって、自白を迫る言葉を一方的に聞かされるような調べになりました。この区検には3回呼び出されまして、同じような調べというか、お説教が続きました。

 それから、また2日ほど過ぎた後、再び吉田検事が取手署に来ましたが、この時は、 

君の言うような誘導尋問や不当な取調べを警察の人がするはずはない

あのような調書は、犯人でなくては作れない

たとえ裁判になっても、君の言うことくらいでは裁判官も信じない

否認していたのでは救われない

と、はっきり自白を迫ってきました。
まさか刑事事件では、警察の尻拭いをするだけなのが検察だとは、当時の私は知りませんでした。検察官というのは、裁判官と同様に真実を公正に、かつ的確に見抜く人だと思っていたのです。

 その検事から
「裁判官も信じない」
という保証を付けたうえで、
「否認していては、救われない」
と、言われたことの衝撃は、早瀬に自白を強要されたときよりも、何倍も大きいものでした。
目の前が暗くなるような感じで、何時間ぐらい吉田検事の言葉を聞かされていたのか、もう忘れていますが、このまま犯人にされるのだと、ただそれだけを考えていたのを覚えています。

 その息苦しさに耐えられなくなって、「調べをやめてくれませんか」と頼みますと、吉田検事は、
「明日になれば心の整理ができるのか。本当のことを話してもらえるか」
と言うので、「よく考えてみます」と答えますと、
「明日を楽しみにしているから」
と言って帰ったのでした。

 
その晩、自分はどうしたらいいのかを考えましたが、もうどうにもならない、犯人にされてしまうのだ、と力の抜けてしまった状態でした。自分が犯人にされる原因は、早瀬の嘘にだまされて嘘の自白をしたことにある、とも思いました。その嘘の自白による調書があり、そして「自白」は嘘で誘導等によって作られたのだ、ということを判かってもらえないのでは、真実と信じてもらえないアリバイを言い続けて検事の言うように「救われない」で死刑にされ、殺されてはたまらないので認めるしかない、という考えになったのでした。

 この時は、もう裁判のことなどを考える気力もないという状態でして、裁判官に真実を訴えて調べてもらおうなどと考えたこともなければ、思いもしませんでした。ただただ、もうどうにもならないという思いで、再び嘘の自白をしたのでした。


 加えれば、このあとの12月28日の強盗殺人事件基礎の当日には、水戸地裁土浦支部で
花岡学判事の前に連れていかれて尋問されまして、この時にも「やりました」と嘘の自白をしました。

 
この時は、もう身に覚えのない罪の自白を強いられる苦痛と、その取調べから受ける『認めないと死刑にされる』という恐怖感は薄らいでいましたので、またも裁判では嘘を言うわけにはいかないし、裁判官ならば真実を話せば判かってくれるのではないか、と思うようになっていました。

 けれども、法律的なことを何も知らない私は、拘留尋問(という言葉も知りませんでした)も取調べの延長のように思えましたし、また、警察に拘留されたまま裁判が始まる前に真実を訴えたりすれば、再び嘘の自白をするまで責め続けられるだけだから、警察にいる間は何を言っても駄目だ、と思いまして、花岡判事にも認めてしまったのです。

 その後も引き続いて取手署に拘留され続けて、初公判の日を迎えましたが、裁判では嘘を言うわけにはいかないし、真実を話しさえすれば無実だと判かってもらえるはずだと思いまして、再び真実を訴えたのでした。

 以上が、4度目の「自白」の経過と心理、及び若干の補足です。

6. ま と め

 右の項までに述べましたのが、私が嘘の自白をし、また真実を訴えるという変転を重ねた経過と心理です。

 
私は、何度も真実を訴えました。無実を訴えました。そのたびに意志の弱さなどもあって、嘘の自白をさせられてしまったのですが、訴える機会があるたびに真実を話してきたのです。公判廷における尋問では、嘘の自白に至る複雑な心理を話し切れず、不十分な理由しか述べられませんでしたが、これでご理解頂けますでしょうか。

 私が機会あるごとに無実を訴えた経過を、悪あがきと解するのが有罪の判断ですが、それは余りにも悪意を持ちすぎた解釈です。その経過を正しく見極めていただけますことを、心からお願い致します。

 ところで、何故「自白」が作れたか、という記述は(1)項で触れたのみですが、これは全体の「自白」というのは、基本的に同じような経過で作られたものですから、敢えて同じようなことを書かないために他の項では触れませんでした。

 それはどう言うことかといいますと、私は犯人ではありませんので、現場のことは分かりません。地元町の住民として聞いたり、見たり、推測できたりする以外の状況は、全て早瀬警部補から

「玉村さんの首に何か巻かなかったか」
「玉村さんの体のうえに、何か掛けなかったか」
「ふたりでガラス戸を、何かしなかったか」
「勝手口と違うところから逃げたのではないか」

などと言われることによってしか、その現場状況の問題を認識できなかったということなのです。従って、
全ての「自白」は、現場状況を認識する早瀬からの発問により、早瀬が納得するまで続けられる問答によって作られたのが、「自白」だということなのです。

 早瀬が聞かない限りは、それで良いものだと思っていたものですから、「自白」に存在する食い違いというものは、決して任意性や真実性を語るものではないということも、この私が「自白」を作れた理由というものを正しく理解していただけますならば、必然的にご理解頂けるものであろうと思います。

 ここに重ねて申し上げれば、その「自白」調書に書かれている言葉というのは、全ては早瀬と言うフィルターを通した早瀬自身の言葉なのだということです。早瀬の尋問に対して、右だ、左だ、はい、いいえ、大きかった、小さかった、などと短い言葉の意志を示しさえすれば、あとは早瀬自身が自分の意識を通して連なった文章に作ったものなのです。

 例えば、11月3日付調書です。ここに書かれた問答は、実に良く喋ったように書かれていますが、このほとんどは早瀬の独演独書でした。今でも良く覚えていますが、早瀬も証拠物を直接に見るのは初めてだったらしくて、それを以前に見ていたらしい富田が看守仮眠室の外から証拠物を持ち込んでくるたびに、例えば、
「このタオルは切ったのが」
などと富田に聞いていましたが、その話を私との問答であるかのように書いたこともありました。ロッカーの鍵は、その鍵束の半分以上に正札よりもやや大きな(縦2〜3センチ、横1〜1.5センチ程度の)荷札が付いておりまして、それで分かったのですが、富田が、
「おお、書いてあるの見ちゃ駄目だぞ」
と、笑いながら言いまして、早瀬自身が刻印を言い出して書いたものでした。

 あるいは、裁判官には、それでは「自白」の録音テープは何だ、と思われるかもしれませんが、あれは暗記したセリフです。
役者が台本にそって演じるように、私は取調べの中で暗記できた、玉村さん殺しの犯人としてのストーリーをあのように続けて話せと、指示されるままに話しただけのものなのです。

 あの録音テープは、あのように話せるようになった時点の、それも録音のためのセリフであって、決して取調べそのものを語るものではないということを、どうか見誤らないで頂きたいと願うものです。

 私が、なぜ嘘の「自白」をしたのか、そして、なぜ嘘の「自白」ができたのか、という点につきまして、今回は私自身の心理を中心に、できるだけ簡潔に書いてみました。そのために取調べ状況や調書の問題の説明の多くを省きましたので、やや不十分な点はありますが、ここに書きました真実を正しくご理解頂けますことを、心から願っております。

「自白調書」について(体験者でないことを示す供述の例)

 その「自白調書」に存在する問題については、どうしても1点だけは書きたい気になりましたので、その点である勝手口ガラス戸の件を書きます。
 その検証調書に添付されています写真9号、及び20号を見てください。

 それでも分かるように、昼間にはガラスを透かして茶ダンスの存在が確認できるようです。では、家屋内に電灯のつく夜間には、この茶ダンスはどのように見えると考えられましょうか。きっと背後から照明を受ける茶ダンスは黒々とガラス戸に写ることでしょう。そして、茶ダンスの存在しない部分が照明を受けて明るいのとは対照的に、そこにガラス戸を開閉するに障害となる何かが存在することを、かえって夜間であるほうが良く教えてくれるはずなのです。

 これは、先般、目の前にある刑務所講堂の窓に映るカーテンが、昼間はぼんやりと見えるだけであるのに反して、夜間には電灯で黒々と明確に見えたことで、きっと玉村さん方の勝手口の状態も同様であったろうと分かったのです。

 この勝手口ガラス戸の「自白」部分については、既に弁護団から多くの疑問が指摘されております。それらの疑問が重大であり、かつ、決して決定の弁疏
(べんそ:弁解)のごとくに看過されるものではないことも、既に弁護団から論証されるとおりです。

 
そして、その上に現場状況を正しく考察するならば、玉村さん方の勝手口に夜間に立つものは、その室内灯によって茶ダンスの存在を障害物として明確に認識できることから、必然的に左側ガラス戸を開けるのは都合悪いと意識することになり、絶対に左側ガラス戸は開けないだろうという事実も明らかにされるということなのです。

 これは意識とか認識とかの以前の問題であって、普通の生活を経験するものならば、誰しもが無意識のうちに障害物らしきものがある左側ガラス戸を避け、電燈を明るく透かす右側ガラス戸を開けるはずなのです。

 
それであるのに、なぜ私が左側を開けたごとくに「自白」したのかといえば、それは玉村さん方の状況を知らないからです。そこに開閉するに障害となるようなものがあることは、知らなかったからなのです。そのために『道路から庭へ入って行けば、近い方(つまり左側)を開けたと言えば自然だろう』などと考えて、そのような「自白」が作られたということなのです。

 加えれば、吉田検事によって「右側を開けた」ごとくに訂正された調書は、吉田が、

現場へ行って見て来たが、左側を開けたのでは玉村さんの顔は見えない。違うのではないか

と言いますので、その言われるままに訂正したものなのです。もし早瀬の取調べの段階で同様のことを言われたならば、きっと同じように訂正していたでしょうが、何も言われなかったのです。

 
この勝手口ガラス戸(及び八畳間ガラス戸)については、まだ残暑の厳しい8月28日午後7時半頃の話としては、本当に閉まっていたものかどうか、という点での疑問もあります。

 その「自白」は、10月初旬の秋に作成されたために、何の疑いもなく秋の皮膚感覚のままに
「閉まっていたのを開けた」という話にしましたが、誰に覗かれるでもない田舎暮しの8月28日宵のことであり、また、自転車が庭先に置かれたままであることを考えれば、この勝手口ガラス戸は(そして八畳間ガラス戸も)開けてあったのではないかと思われますが、これは真犯人が解明できることでしょう。

 いずれにしても、弁護団の説く勝手口ガラス戸に関するたくさんの疑問と矛盾を含めまして、そこに「自白」全体の信用性を損なう疑問があることは、余りにも明白ではないでしょうか。

 この「自白」部分は、その犯行を実行したことについて語る、実行に移る冒頭部分とも言うべき点ですが、ここにかような疑問が存在することにこそ、私達の「自白」がどういう性質のものであるかということを語るものがあるのですから、どうか見誤らないで頂きたいと願うものです。

 渡辺昭一証人について

 その高裁決定について、明確に言えば、それもこれもが瑕疵(かし)だらけです。それは事実の究明を重ねて正否の判断をするのではなくて、初めに結論を出しておき、その理由を一片の文章や言葉をもって説こうとするところに生じるのです。

 それ故の瑕疵の代表が、この渡辺昭一証言に対する決定です。どこを、どのように見ていけば、決定のような思考が可能になりうるというのか、全く私には理解できません。

 既に弁護団から何度も説かれている通りでして、その渡辺証言に一貫した部分は存在しません。この証言をして、

同人の供述全体の信用性が失われることになるとは思われない(決定14ページ裏4行以下)

と言い得る神経が、私には理解できないのです。
弁護団の厳格な論拠に抗して、その決定が渡辺証言の信用性は揺るがないとして述べる文言を読むたびに、私は書き表せないような憤激を感じてなりません。

 「
供述全体の信用性」とは、どこの証言を根拠としたものかは分かりませんが、弁護団も説くように渡辺証言の疑惑というのは、あらゆる部分にあります。これらの、どこに全体の信用性を支える部分的な信用性、信頼性があるというのでしょうか。

 これも、私達を犯人であると決めつけた上で、理由づけを作るところから起こる誤りですが、既に弁護団からも論証された通りですので、私からはこれ以上申し上げません。

 ここで私が申し上げたいのは、高裁段階で提出された3通の捜査報告書についてです。

 その9月20日付捜査報告書に
「杉山の仲間を捜査してみたら」と書かれてある文を捉えて、

渡辺供述の信用性を支える一事情となると見ることができる(決定18ページ裏4行以下)

と述べる決定には、何という偏見をもった目であろうかと言わずにおれません。既に高裁あての上申書でも書いたのですが、この9月20日付捜査報告書にある
「杉山の名前」というのは、決して決定の言うような性質のものではないのです。

 改めて、地元町の住民としての経験を申し上げますが、事件が発見された当時の利根町は衝撃を受けました。20才だった私達の世代でも驚き、なぜ、誰がやったのかと、話しあったものですが、とても興味本位の話はできなかったのが、当時の状況でした。だからこそ、渡辺の9月3日付報告書には真面目に捜査に協力した姿が表われているのです。

 ところが、9月中旬頃になりますと、初めの衝撃の薄れた町には、無責任な犯人探しの噂話が流れ始めました。永沢食堂へ玉村さん方を訪ねた二人組があったのが犯人だとか、木下地区のパチンコ店に勤める岡山県人の二人が犯人だとか、あまり地元町を歩かなくなっていた私の耳にも届きました。

 このような町の状況の変化があったことで、渡辺も無責任な犯人探しの言葉として
「杉山の仲間を」と言ったものが、この問題の9月20日付捜査報告書なのです。裁判官が知らなくても仕方ありませんが、杉山は町で有名な不良でした。世代を問わずに、誰でも知っているような不良だったのです。渡辺は、単に町で一番有名な不良の名前を言ったに過ぎないのです。

 
当時の町の者ならば、軽い気持で一度くらいは「杉山あたりじゃないのか」と言った経験があるのではないかと思われる、その杉山の名前をもって得たりやとばかりに論じる決定は、余りにも洞察力が無さ過ぎるというものです。

 これも、既に高裁あての上申書で触れたのですが、私は、これら3通の捜査報告書を見るまでは、なぜ渡辺は嘘の目撃を言うのか、言い続けるのか、と不思議でした。関係のない第三者が嘘をいう点が、どうしても理解できませんでした。

 
この疑問は、きっと誰しもが同じように思うはずです。同じように不思議であるために、きっと裁判官は、「だから第三者が嘘を言うとは思えない」と考えて、決定のような思考につながるのでしょうが、それでは裁判官の名前が泣くのではないでしょうか。

 何度も言いますが、その3月6日付捜査報告書を見てください。永沢進さんの住む立崎という地区は、利根町東端です。その永沢さんが、直接か、間接かは知りませんが、渡辺の目撃談を耳にしていたということは、渡辺がクリーニング屋であることを考えても、当然得意先も含めた布川地区の人は、多くの人が知っていたのではないかと考えられます。

『桜井と杉山が犯人。自白』というニュースを知った町の人は、きっと「あいつらだったのか」と、折に触れて話に花を咲かせたことでしょう。ましてや、商売の外交に歩く渡辺であれば、その機会は多かったはずです。たまたま、事件当夜といわれる日に玉村さん方前を通っていたこともあって、一件落着の気楽さと無責任さで、その時の話の勢いから、
「実は、二人を見ていたんだ」
と、言ってしまう。そして、嘘の目撃談を重ねていくうちに尾ひれを加えて、
「見たと言うと証人に出されたりするのが嫌だから、警察には言わないんだ」
と、さも真実らしく話を拡大していく気持は、私には良く分かります。

 この目撃を警察に言わない理由については、永沢さんの話と3月6日付捜査報告書では違いますが、ここにも渡辺が真実らしくホラ話を言っている姿を示すものがありましょう。

 こうして、得意先などで話し回った嘘の目撃談は、やがて永沢さんから警察に伝えられて刑事が渡辺のところに行く。ここで、「あれは嘘でした」と告白するのが普通の人でしょうが、余りにも沢山の得意先で言い歩いたために、それを嘘だと訂正することで商売への影響を考えたのかもしれません。

 また、証拠がなくて苦慮していた、警察の姿勢もあったのかもしれません。そして、渡辺本人の心に「どうせ二人は自白していて犯人なのだから、ここで嘘の目撃を言っても構わない」という思いも、あったのではないかと思いますが、それらが一緒くたになって語られたものが、この3月6日付捜査報告書だということなのです。

 
でもなければ、あのように話すたび、語るたびに内容の違う目撃談を大の大人が言うはずはないのです。一度言ってしまった嘘を撤回できずに言い続けるからこそ、あのように変転の激しい話にもなるということなのです。

 これらの考えは、あるいは裁判官には邪推であるごとくに思われるかもしれませんが、渡辺証言にある変転の一つ一つを厳格に判断し、全く偏見のない目で真偽を導き出していくならば、私の考え方が正しいのか、それとも決定のような考えが正しいのかは、おのずと明らかなのではないでしょうか。

 この3月6日付捜査報告書の目撃談のうちで、今でも変わらずに維持されている部分は、どこかにありますでしょうか。全くないではありませんか。

 
この渡辺証言が真実とされることによって、私達は獄中に21年を過ごしてきました。これ以上は、無実の私達を泣かせないでください。苦しめないでください。どうかお願いします。

 重ねますと、この3通の捜査報告書が語るところは、決して隠れていた目撃談の表われた経過ではありません。嘘の目撃談が作られていった経過を語るものだということを、どうか見間違えないでいただきたいと思います。

 最 後 に ( 全ての問題点を調べ尽くしてほしい )

 私達は、獄中に22度目の正月を迎えました。この長い歳月にわたって、私達が裁判所に求め願ってきたことは、ただ一つ、調べを尽くしてほしいということです。隠されている証拠を調べて真実を見極めてほしいということです。それだけを願ってきました。

 ところが、東京高等裁判所の
小野幹雄氏は、

どの程度の証拠を収集するかは、裁判所の健全な裁量に委ねられるところであり、その証拠開示の義務はない(決定22ページ以下)として、願いを拒否しました。

 
私は、法律論は知りませんが、一体、「裁判所の健全な裁量」とはなんなのでしょう。もとより臭いものに蓋をする式に疑問や疑惑を解明せずに放置し、その権限をもって証拠収集する手を縛ることではないはずです。と思うにつけ、私は、言葉に反する不健全さが高裁決定には隠されているのを感じてなりません。

 これまでに何度も言葉を尽くし、道理を尽くして弁護団から提出された、本件の真相究明を求める証拠開示の願いは、本当に裁判所では読んでくださったのでしょうか。弁護団からの求めを退けて、「健全な裁量に委ねられるところで、その義務はない」と言いうる裁判官を思うとき、何を言うべきかと、私は言葉を失う思いです。このような考え方を、裁判官の世界では「健全」というのでしょうか。信じられません。

 かような一部の裁判官の考えをもとに書くまでもないと思うのですが、真の裁判の健全さとは、その疑惑と疑問に対して仮借なく追求する姿勢にあると、その精神にあると、敢えて申し上げたいと思います。


 この上申書に述べました「自白」の理由などは、法律というよろいをまとわれ、かつ、強い精神を持たれるでしょう裁判官には、あるいは理解し難いものであるかもしれませんが、しかし、いずれもが正確な体験の記憶から限定して書いた真実ばかりです。

 本申立書の最後に当たりまして、私は最高裁判所に心からのお願いを重ねます。今も検察庁の倉庫には、玉村さんが殺された事件の証拠は眠らされております。その証拠のなかにこそ、私達の訴えの真実と無実とを明らかにする証拠があるはずです。その証拠の全てを開示させていただき、全ての問題点を徹底的に調べていただきたいのです。

 何度も書きますが、私は法律は分かりません。しかし、既に何度も道理を、条理を尽くして証拠開示を求めました弁護団の意見が、いまだに極めて一部分の実現しか見ておりませんことは、とても社会正義の納得するところではないと思います。

 どうか最高裁判所におかれましては、真の裁判所の健全さと常識とのうえに立たれまして、私達の長い月日の願いを実現してください。そして、今度こそ正しい決定を下さいますよう、この新しい年の初めにお願いを重ねまして、本上申書を終わります。

昭和64年 1月 4日

右  桜 井  昌 司

 最高裁判所第一小法廷

裁 判 長 四 ツ 谷 巌  様

 

※ 上記のような、桜井さんの道理を尽くした<魂の叫び>とも言うべき上申に対する裁判所の対応は、本当に常識では信じられないものでした。ぜひ、下の NEXT をクリックしてみてください。

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