[資料7−5 上 申 書

再審請求人 桜 井  昌 司

 ※ 読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。


 私の犯行とされています強盗殺人事件は、無実です。私には全く身に覚えがありません。ぜひ再審を開始して頂きたくお願い申し上げます。

 私が犯人だとされますのは、「自白」があるゆえです。 「やってないのなら、なぜ自白したのか」と、この34年間に多くの人から問われました。「やってないならやってないと言い通すべきだった」と簡単に言う人もいました。確定一審の花岡学裁判長もそうでした。全くその通りですが、そうできないのが警察の留置場なのです。

 これまでにも再三申し上げて来ましたが、私は逮捕後にアリバイを問われ、うろ覚えな記憶でしたが、兄のアパートに泊ったと述べました。これは取調官だった早瀬氏も証言している通りです。

 この時に警察が誠実に裏付捜査をしていれば、今の私はありません。このような冤罪は作られなかったのです。

 早瀬氏は、「裏付捜査をしてある。兄さんは来てないと言っている。」と言いました。今のように警察の不祥事が多数露見し、嘘を言うことも多い警察の実態が知られていない時代のことです。まさか警察官が嘘を言うとは考えもしませんでしたので、自分の記憶が間違っているのだと思いました。兄のアパートに泊ったという記憶は間違っているという前提で、それを排除してアリバイを考えたのです。これでは、何度考えてもアリバイを思い出せるはずがありません。

 そこから「(私には)判らない」、「犯人だと認めれば思い出す」、「(私は)犯人ではない」、「それではアリバイを言ってみろ」、「それが判らない」、「言えないのは犯人だからだ」という具合に、際限のない問答、取調べが続くことになりました。

 自分の潔白を証明できない、そして信じて貰えないというのは非常に苦しいものです。このときの苦しかった思いは、昨年自宅から出て来た獄中日記にも、何度も何度も書かれていました。

 「桜井と杉山を見たと言う人がいる。」

 「お前の母親も早く認めろと言っている。」

 「認めないと死刑もある。」

 「証拠があるから逃げられない。」

 などと、ひたすらに責められ、自白を求められ、無実なのを説明できないのが私にはとても辛かったのです。早瀬氏の言葉の一つひとつを真実だと信じていた私は、「死刑もある」という彼の言葉に恐怖を覚えるようになり、そして嘘発見器にかけられた後に、

 「全部嘘と出た。もうダメだから認めろ」 と言われたとき、ついに耐える心が切れてしまいました。嘘の自白をしてしまったのです。

 この辺の経緯については、これまでに何度も申し上げて来た通りです。「オレならば言わない」と言う人もいますが、私にはとても耐えられなかったのです。

 私はこの34年間、取調べの辛さ、苦しさに負けて嘘の自白をさせられたときを除き、一度も真実を曲げないで来ました。勿論、刑務所の中でも「オレは犯人じゃない」と言い続けて来ました。その意味がお判りになりますか?

 刑務所には罪を犯した人が大勢います。刑務所で無実を訴えるのは異端の存在となり、職員だけでなく、受刑仲間というべき人の目も、無実を訴える者に優しくはないのです。しかし、たとえ冷笑されようと、またどのように言われようと、二度と嘘は言うまいと思って真実を貫き通しました。

 あの日に取調べの苦しさに負けて嘘の自白をした私が、獄中で真実を語り続けられたのは、私の無実を信じて支援してくれる人がいたからでした。

 仮釈放で社会に帰って5年、私の無実を信じて下さる人の数は年々増えこそすれ、減ってはおりません。その一人ひとりの存在こそが、私の無実の証明でもあると思っております。

 人生は一度限りなのに冤罪によって歳月を奪われてしまったことは、本当に悔しいです。無期懲役が確定して刑務所へ行くことになったとき、私は絶望的な思いの中で、「たった一度の人生だから、たとえ冤罪で刑務所へ入れられても明るく過ごそう。人を恨んだり責めたりしないで、とにかく目の前のやるべきことに全力を尽くして、社会で生きているのと同じ思いで頑張ろう」と、心に決めました。

 毎日の刑務作業だけでなく、何でも全力でやりました。独学で作詞・作曲などもやり、詩作にも励みました。そうして過ごした月日の結果が、昨年にはCDとなり、今年は「獄中詩集」となって結実しました。これまでに私に下された判決と同じように、私の作詞・作曲した歌や獄中での無念な思いを書き綴った詩が後世にも伝えられて行くのです。50年後、100年後の人々にも真実の思いを書き残せたことを、私はとても誇りに思っております。

 平成8年11月に仮釈放で帰った後、私は事件のあった故郷の利根町に住み、隣の竜ヶ崎市で働いて生活しています。もう事件を忘れてしまった人も多く、また新しい住民も増えて、事件のことを知らない人が多い町の中では、今更に無実の声を上げることを迷惑がる声すら聞こえて来ます。しかし、無実である以上、無実だと言うしかありません。無実を叫び続けるのが自分の使命だと思っています。

 重ねて申し上げますが、利根町で玉村象天さんが殺されたと言われている昭和42年8月28日の夜、私は午後7時頃から東京の高田馬場駅前の養老乃滝酒場で一人で飲食しました。そして、午後10時半頃に中野区野方の兄のアパートで杉山と会い、一緒に泊りました。私は杉山が無実なことも知っています。私達は二人とも犯人ではないのです。

 どうか事実を公正にご検討、ご判断下さいまして、私たちに当たり前の社会人としての時間を返して頂けますよう心からお願い申し上げます。

以  上 

平成 13 年 12 月 6 日

水戸地方裁判所土浦支部 御中 

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