[資料8−3 木 村 意 見 書(旧)

― 被告人桜井昌司及び同杉山卓男に係る強盗殺人事件の被害者玉村象天の死因等に関する意見書 ―

  昭和57年12月15日

※ 読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。


ま え が き

 被告人桜井昌司及び杉山卓男に係る強盗殺人事件(所謂布川事件)について、日本弁護士連合会・人権擁護委員会委員長野宮利雄殿ならびに同布川事件委員会委員長小高丑松殿は昭和57年7月26日、鑑定人に対して、下記資料による下記事項についての鑑定を嘱託され、その結果は後日書面により意見書として報告するよう告げられたので、鑑定人はこれを了承した。

 

鑑 定 資 料

1. 昭和42年12月1日付、医師秦資宣作成の鑑定書(写)

2. 死体解剖時撮影の写真12葉 (秦医師所持分)

3. 昭和42年 9月22日付、
取手警察署警部補小圷正夫作成の検証調書(写)

4. 秦医師からの事情説明聴取書(写)

 

鑑 定 事 項

1. 本件被害者 玉村象天の死体の死後経過時間

2. 玉村象天の死亡の原因

3. 凶器の種類とその用法、特に手拳による殴打の有無

4. その他参考事項

以 上

 よって昭和57年8月1日より上記資料を精読して検討したところ、次のような結論を得たので、その経過ならびに結論を意見書として報告する。

 

鑑 定 経 過

1. 本件被害者玉村象天の死体の死後経過時間推測の資料について

 解剖した死体の死後経過時間は、死体の外表所見と内部所見とを総合して判断するものであるが、外表所見では主として死斑の発現状態、死後硬直の発現部位と硬直の強弱、死体の乾燥の程度、直腸内体温の降下の度合、腐敗の進行程度などが資料となり、また内部所見では胃腸内容の消化の程度や粘膜、漿膜などの血色素浸潤、胆汁色素の浸潤状態、自家融解の進行程度、腐敗の進行程度などが推測の資料となる。

 そこでまず、本件被害者玉村象天の死体解剖鑑定書に記載されている事項の中から上記のような推測の資料となる所見を抽出列記してみると次のようになる。 ( )内の数字は、鑑定書左上隅に符されている一連番号である。

) 「まえがき」(702)、「あとがき」(706) から

1 死体解剖の日付と時間

  昭和42年8月30日、午後3時30分 〜 午後5時01分

2 死体の概観  腐敗膨大しあたかも巨人様観を呈している

) 外表検査 (703〜705) から

1 死体の概観

 腐敗膨大男性屍体、年令62才、全身の皮色は腐敗青銅色、胸部特に前胸部は表皮ビラン剥脱し汚穢暗赤色(おわいあんせきしょく)、頭部、顔面は青銅色、左側腹部前面は暗紫色、その他は青銅色をまじえた帯青銅白色。左右上肢の表皮はビラン剥脱しやや暗赤色をともなう青銅色、左大腿前面は青銅色をまじえた暗赤色、その他は蒼白色、右大腿上部内面は暗赤色、頸骨前面は淡青銅色その他は蒼白色、肩胛間部、背部、腰部はいずれも汚穢暗赤色(おわいあんせきしょく)、胸椎部ならびに尾仙部は青銅色。皮膚は皮下組織及び筋肉内の腐敗ガスの発生により気腫状を呈し、特に上半身は表皮腐敗剥離(ひょうひふはいはくり)し、全身腐敗膨大(ぜんしんふはいぼうだい)し所謂(いわゆる)巨人様観を呈す。 屍体硬直は身体各部諸関節に中等度に存し、緩解(かんかい)は容易。本屍の腐敗の度は人体形成を保つための極に達するものと思考さる。 直腸内の温度は 27.0度、外気温は 25.0度。

2 頭 部  腐敗膨大し頭皮は青銅色、頭頂部に蝿欄り。

3 顔 面

 顔面の皮色は全般に青銅色を呈し、左頬部は汚穢暗赤色(おわいあんせきしょく)、腐敗膨大す。眼球は突出し、角膜は中等度に混濁するも左側はかろうじて散大せる瞳孔を透視し得る。眼球の硬度はやや軟、圧すると腐敗ガス噴出す。鼻翼を圧すると鼻腔内より腐敗ガスを含んだ血性の小気泡漿液多量流出す。舌は腐敗膨隆暗赤色、口腔内粘膜は全体に暗赤色を呈す。左右耳翼は腐敗膨大し、青銅色を呈している。

4 胸腹部

 胸腹部は全体に腐敗膨大し、上半身前胸部は表皮ビラン剥脱し汚穢暗赤色(おわいあんせきしょく)、下半身腹部は左側腹部前面は暗紫色、その他は、一般に青銅色をまじえたる帯状青銅白色、皮下組織において腐敗ガス発生により表皮は膨隆し気腫を作る。

5 背 部  胸椎部ならびに尾仙部は青銅色を呈し、肩胛間部、背部、腰部は汚穢暗赤色を呈している。

6 上 肢  左右上肢は表皮ビラン剥脱し、暗赤色をともなう青銅色を呈している。

7 下 肢

 左大腿前面は青銅色をまじえた暗赤色、右大腿上部内面は暗赤色、頸骨前面は淡青銅色、その他は蒼白色を呈している。

8 外陰部  陰茎、陰嚢は膨隆す。

) 内景検査 (705〜706) から

1 頭腔開検

 頭皮を横断開検する際暗赤色流動血少許、頭皮軟部組織は全体充血性にして腐敗、頭蓋骨を鋸断開検する際腐敗せる泥土状の脳実質流出し、原型を全くとどめず。

2 胸腹腔開検  胸腹腔の開検に際し、胸腹腔内部より腐敗ガス多量噴出す。

3 胸腔臓器

 左右胸腔内に薄い血性漿液多量貯溜す。左右胸肋膜下は腐敗度はなはだし。胸腺腐敗度はなはだし。心嚢ならびに心臓は、ほとんど腐敗し原型をとどめず。左右両肺は、他の臓器に比べて腐敗度はやや遅延し原型をとどめる。

4 腹腔臓器

 肝臓の腐敗度は、他の臓器に比べてわずかに遅延し原型をとどめる。脾臓、膵臓、左右腎臓は、腐敗度はなはだしく原型をとどめず。胃内、小腸、大腸内には腐敗ガス多量充満して膨大す。

 

 さて、以上の所見が本件被害者玉村象天(たまむらしょうてん)の解剖所見の中から死後経過時間を推測する資料として抽出した所見であるが、この所見から判断すると、玉村象天の死体はかなり腐敗度の進行した死体であったことがうかがわれる。

 即ち以上の抽出した所見を要約すると、死体の皮色は左大腿後面、左下腿後面、右大腿前面、右下腿後面は通常の死体の皮色である蒼白色であるが、その他の部分は暗赤色、青銅色、青銅色を混じた暗赤色を呈している。暗赤色の皮色は、腐敗血の血色素浸潤に由来するものであり、青銅色は腐敗血の血色素が硫化ヘモグロビンになったためである。このことは、体内に硫化水素をはじめとする腐敗ガスが発生していることを示しているが、この腐敗ガス発生のため死体は全身膨大して巨人様を呈し、胸腹部の皮膚には気腫が発生している。

 前胸部、左右上肢の表皮は、腐敗のためビラン剥離しているが、これは腐敗水疱発生のため表皮と真皮が離開したため圧迫、擦過等軽微な外力により表皮が剥離したものである。胸腹腔内には腐敗ガスが充満し、胸腹腔開検の際はガスが噴出し、胸腔内には血性の漿液が多量貯溜している。

 左右両肺、肝臓はかろうじて原型を保ってはいるが、腐敗度ははなはだしく、その他の胸腹腔臓器は、腐敗融解して原型をとどめていない。頭腔内においても、脳は腐敗融解して泥状となり、頭腔開検の際は流出してきている。しかして、解剖を行なった鑑定人の秦医師は、このような死体の腐敗状態を指して「人体形成を保つための極に達したもの」と表現しているのである。したがって、これらの所見からは、玉村象天の死体は腐敗が高度で、かろうじて身体の外形を保っていたような程度であったと推察されるわけである。

 ところで、死体の死後変化、特に腐敗の発現と進行とは死体のおかれた環境や死因等、いくつかの要因によって左右されるが、本件の鑑定人秦医師は、鑑定書の説明の項「5」に「本屍の死後経過時間はこれを明言することは至難であるが、死後変化の程度ならびに本屍の直腸内体温等により判断するに、約45時間内外、すなわち約2日前後経過したるものと推測さる(昭和42年8月30日午後5時01分現在)」と述べており、また鑑定主文「5」にも同様のことが記載されているので、秦医師が本屍の死後経過時間を推測するに当り、前述のような要因をどのように考慮したかについて検討を進めたい。

 鑑定資料の1つである「秦医師からの事情説明聴取書」には鑑定書の記載事項以外の死体所見等についての説明がなされているので、この中から死後経過時間の推測の資料となり得るものを抽出列記すると次のようになる。( )内の数字は、「聴取の内容」の番号を示す。

 玉村方庭先に到着した時は、死体は着衣のまま木製台上に置かれていた(2)。

 特に腸とそけい部が腐敗していた(5)。

 死後変化は、寒かったり、空気が乾燥しているとミイラ化してくるが、暑い場合や湿気があったりすると腐敗膨大してくる。血管が膨大して青色や赤色になったりする(6)。

 身長は高くないが、横にがっしりした感じで、それが腐敗によってふくらんだ感じであった(7)。

 死体はそのままの状態で解剖台へはこばれたものと思う。死体は比較的新しいものであれば硬直が解容しない。死後、1日から2日ぐらいの間は、解かせば解けるという状態にある(8)。

 夏の腐敗は非常に早く進むので、死後経過時間の判断はむずかしい。蛆の発生、体温の下降、角膜の混濁等多角的、総合的にみて判断した(9)。

 死体は、24時間ぐらいたつと外気と同じになる。この場合、体温が27度C室温が25度Cであるが、これは一度外気と同じになってから、腐敗による熱で上昇したものと思う(10)。

 鑑定書の第1、外景検査における「本屍の腐敗の度は人体形成を保つための極に達するものと思考さる」との記述の意味は、「生存時の状態を推測する限度」が限界まできているということであり、腐敗のため判別がつかないということではない(11)。

 蠅卵が頭頂部に付着していた。蠅卵は、早い場合には1日目、通常2日目頃に発生する。1週間後には完全な蛆(うじ)となり、2週間後に蛹(さなぎ)になる。部屋を閉めきっている場合などは、発生が早くなる(12)。

10 左右の眼球の状態の差には、特別の意味はない。死後、左右の眼球が異なった変化を示すことは、しばしば見られるが、両眼球が同じく変化する場合が多い(13)。

11 心臓は、普通はメスで切って心筋などの状態をみるのであるが、ドロドロにはなっていなかったが、形はとどめなかった(22)。

12 両肺とも形は保っていた。出血斑はなかった(23)。

13 腎臓については、ちょっと形があったが、ほとんど腐敗していた(25)。

14 胃の内容物だけで死後時間を判断するのは、危険である。非常に個人差があり、腐敗による変化もある。5.0mlは少量であり、空腹時と同じと考えてよい。ただし、酒の量は量ることはできない(26)。

15 死後経過時間が「約45時間内外」とは、まる2日よりは少し短いという意味をもたせたものである。誤差を考えると、多少のびるかもしれないということで「2日前後」とした(27)。

 

 さて、以上が「聴取書」から抽出列記した死後経過時間推測に対する秦医師の考え方と解剖当時の玉村象天の死体の説明であるが、これを要約すると次のようになる。即ち玉村象天の死体は着衣を着けたまま解剖台の上に置かれており、その状態からは発見時のままの状態で運ばれたものと思われ、身長は高くないが横にがっしりした体格のようで、特に腸とそけい部が腐敗していた。心臓は形をとどめていなかったが、ドロドロではなく、腎臓はちょっと形はあったが腐敗しており、肺は左右とも形を保っていた。胃内容は少量であり、空腹時と考えてよいということである。

 本件では、直腸内の体温が27度C、室温が25度Cであるが、これは直腸内体温が一度外気と同じになってから、腐敗による熱で上昇したものと思われるということである。夏は腐敗が非常に早く進むので死後経過時間の判断はむずかしいが、蛆の発生、体温の下降、角膜の混濁等から多角的、総合的に判断したということであり、死後経過時間を「約45時間内外」としたのは、まる2日よりは少し短いという意味であり、多少の誤差を考慮して「2日前後」と判断したのであるということである。したがって、秦医師は『夏は腐敗が早く進行することを考慮し、蛆の発生や体温の下降、角膜の混濁状態などを資料として総合的に死後経過時間を推測した』ということになる。

 たしかに、このような腐敗している死体の死後経過時間を推測するには、蛆の発生や体温の下降、角膜の混濁度を資料として総合的に判断を下す外はないが、この場合、まず蛆の長さを計測していなかったこと、また体温の下降についても、外気温よりも直腸内体温が高いからこれを腐敗熱による上昇と短絡して考えたことには問題があるので、この点については後で検討を加えることにするが、『夏は腐敗が早く進行する』ということを考慮しながら死体が発見された現場の環境をどうして考慮しなかったのであろうか、それともこれをも考慮した上での判断であり、このことは当然のことであるから特に説明はしなかったというのであろうか。死体解剖鑑定書、秦医師からの聴取書のいずれにも死体発見現場についての記載は見当らない。そこで次には現場の検証調書を検討することとする。

 

 さて、昭和42年9月22日付、取手警察署警部補小圷正夫作成の本件現場の検証調書の中から、被害者玉村象天がどのような状態で発見されたかを検討するに必要な資料を抽出して要約すると次のようになる。( )内の数字は、同調書左上隅に符されているページ数である。

 被害者玉村象天の死体が発見された現場は、茨城県北相馬郡利根町大字布川である。利根川沿いの堤防と台地との間に発達した布川の市街地東端の道路に沿った南向きのトタン葺平屋建の家屋内である。現場付近は道路に沿って商店、住宅等がやや密集している(489)。

 現場は、利根川堤防と布川台地にはさまれて、ほぼ三角形に人家が立ちならんでいるが、その東方は一面の水田である(490)。

 現場の北側は、東西に通じている幅 2.7mの農道および排水路をへだてて住宅がならんでいる(491)。

 東側一帯に水田があり、南側は玉村方の材料置場をへだてて住宅がならんでいる(491)。

 西側は、幅 4.9mの舗装道路をへだてて住宅がならんでいる。住宅の北側には農道に沿って軒下に高さ 1.9mの板塀が建ててあり、板塀ぎわの農道には、30〜80pの雑草が密生している。蔓草は、板塀の上まで伸びている(493)。

 居宅の西側は、居宅に向って右側は幅 3.2mにわたって波形トタン張りで、窓はない。向って左側は、鎧張りに板が張ってある。地上から1.05mの高さに60pの間隔をおいて幅 1.2mの窓が2つあり、ガラス戸が2枚ずつ閉めてあって、戸は開かない(494)。

 居宅南側には玄関があって、ガラスの入った格子戸2枚が閉めてあり、戸は開かない。玄関の右側には踏石があり、その上方には出入口がある。出入口の幅は約1.72mで、ガラス戸2枚が入っている。左側のガラス戸には、幅 2.8pの隙間がある。出入口の東側には、幅90pにわたって青色のビニール波形トタンが張ってある。東側には便所があり、ガラス戸は向って左側に開けてある(494〜495)。

 居宅の間取りは、南側より見て向って左側が玄関、右側が勝手場で、その奥に4畳間があって、その左側は玄関である(503〜504)。

 4畳間の北側には、向って右側に廊下つづきの畳2枚位の広さの屋内物置があり、その左側は8畳間である(503〜504)。

10 8畳間の東南隅には、丸めた緑色の蚊帳、格子模様の敷布団、緑色毛布、黒皮バンドを通してあるカーキ色ズボン、カーキ色作業衣等があり、座敷の西方には掛布団、中央部にはラクダ色メリヤスシャツ、股引等が雑然と投げ出してあり、東南隅の畳は、頂点を下にした三角形に落ち窪んでいて、この中に玉村象天が頭部を北東方に、足を西南方に向けて死亡していて、腐敗のため悪臭を発散していた(516〜517)。

11 (死体の模様) 玉村象天は、木綿の半袖シャツ、カーキ色ズボン、緑色地に濃い黄色の縞模様ある靴下をはいて、頭部を北東方向に、足を逆「く」の字形に曲げて西南方向に向け、左側を下にして体を南東方向に横に向けて死亡していた。右腰の上にチョコレート色地に黄色の縞模様ある敷布団の一端を折り曲げ、三角形の頂点が背部となるような形で無雑作に載せてあり、右肩の上には背部から白開襟シャツがかけてある(529〜533)。

12 死体の前方で、8畳間の東南隅の敷布団の下には、緑色の蚊帳と緑色地に白の模様の入った毛布が投げ出したように置いてあり、毛布の一部は左肩の下に入っていた。死体の尻の部分には、薄茶色と黄色の模様つき毛布、ラクダ色メリヤスシャツ、白色敷布が北西方に長く伸ばしてあって、その先端で8畳間のほぼ中央にラクダ色メリヤスシャツ、同サルマタ、カーキ色ジャンパー、白開襟シャツ、白パンツが投げ出したように散乱していた(529〜533)。

13 死体の左肩、腰部は着衣が赤褐色にぬれていて、腐敗のため全身膨満し、皮膚は濃い青銅色を呈し、口は血痕で赤褐色にぬれている木綿パンツが半分位押し込んであり、前頸部には白木綿パンツが巻いてあって、右側は耳の下に達している(529〜533)。

14 昭和42年9月22日付、検証調書に添付されている写真を見ると、家屋の外景の写真は8、9、14、25、28、29、30号であり、居宅の西側、居宅の南側の出入口の東側に張ってある「ビニール波形トタン」は、エスロンビニール小波板と呼ばれる半透明のビニール板であって「トタン」ではない。トタン板同様、水、空気を遮断するが、トタン板程は太陽熱によって暑くはならない。また写真22、23は勝手場の写真であるが、「流し」の外側にもこのエスロンビニール小波板が張ってあり、空気の流通は悪い。

15 写真49、55は玉村象天の死体発見現場のものであるが、死体には布団が無雑作にかけてあり、大腿部から下は出ているが、臀部、腰部には布団がかけてあり、背部にはシャツがかけてあり、頭部、顔面は見えない。

16 検証調書に添付されている現場見取図第6号をみると、死体が発見された8畳間の北側には窓が2つあるが、窓の前にはタンスが3棹置かれていて、窓際は塞がれている。外側は板塀で囲まれており、窓のガラス戸は閉っている。

17 写真5号は、居宅西側を撮影したものであるが、2つの窓とその上にある2つの回転窓はいずれも閉まっており、内側にはカーテンが引かれている。

18 玉村象天の死体は、8畳間の東南隅で、押入れのほぼ中央前方の幅広のV字形に落ち窪んだ畳の上で発見されているが、頭を北東方向に向け、逆「く」の字に曲げた足を西南方向に向け、体の左側を下にして南東方向に横に向けており、死体を取り除くとウスベリの下に落ち窪んだ畳が敷いてあり、畳の下の床は、床板7枚が不正形に割れて落ち窪んでいた。(566〜572、写真55、56、57、58、59、63)。

 

 さて、以上は玉村象天の死体が発見された現場の状況であるが、これを要約すると次のようになる。まず死体の発見現場は、南向きのトタン葺平屋建の屋内8畳間である。この家屋の南側には、玄関とこれに続く勝手出入口があり、ともにガラス戸があり、1部 2.8pの隙間があるが閉っている。

勝手出入口の東側には、幅90pにわたってエスロンビニール小波板が張ってあり、玄関と勝手出入口の間にも同様のエスロンビニール小波板が張ってある。家屋の東側には便所があり、便所の窓のガラス戸は向って左側に開けてある。

家屋の西側には、向かって右側はエスロンビニール小波板が張ってあり、左側には2つの窓とその上の回転窓が2つあるが、ともにガラス戸は閉っている。家屋の北側には、軒下に高さ 1.9mの板塀がめぐらされているが、家屋の外側は、板張りで2つの窓と回転窓があり、ともに閉っており、部屋の内からは窓際にタンスが置かれていて塞がれている。

 したがって、この家屋はわずかに便所の窓が開いているだけで、他の窓、出入口は全て閉じられており、外気の流通はほとんどない状態であったと推測される。死体が発見された8畳間の床板は割れて落ちこんでおり、床板との間に隙間がみられるが、ウスベリ、衣類等が散乱しているので、この部分からの外気の流通もわずかなものであったろうと思料される。

 ところで、トタン屋根の家屋は屋内がかなり高温になるものであり、しかも屋内がほとんど密閉されたような状態であった場合は、はなはだしい。玉村象天の死体解剖時(8月30日、午後3時30分より午後5時1分の間)外気温は、25.0度と測定されているが、この温度は屋外の温度であり、しかもこの家屋の東側には水田があり、北側、西側には道路、南側には材料置場として使用されていた空地があるので、かなり風通しの良い環境の外気温であったと思料されるので、死体発見現場である屋内の温度はこれを上まわるものであったろうと推測される。したがって、玉村象天の死体は25.0度以上の環境下にあったと推測されるわけである。

 

 ところで、これまでに検討した玉村象天の死体の所見は、かなり高度の腐敗が進行した死体であったことを示すものであるが、前項においては腐敗進行の要因の1つである死体の置かれていた環境について検討を加え、その環境がかなり高温で外気の流通のほとんど無い屋内であったことを指摘し得た。そこで、もう1つの要因である玉村象天の死因について、死体解剖鑑定書および死体解剖時撮影の写真12葉の所見から検討を加えることとする。

.   死体解剖時撮影の写真12葉の検討

 各写真の右上隅には番号が符してあり、1−3、1−5、1−7,1−9,1−10、1−13、1−15、1−17、1−19、1−21、2−3,2−5と記載されているので、この番号に従って観察検討することとする。

( 写真1−3について )

 この写真は、着衣を着けたままの写真である。死体発見現場から運ばれたままの状態であろうと思われるが、顔面は黒色、左右上肢の表皮は一部剥離しており、シャツ、ズボンの一部は体表の腐敗による浸出液が浸みてうす黒い斑痕を作っており、腹部は膨隆し、シャツの間からわずかに見える胸骨部も黒色を呈している。

( 写真1−5について )

 この写真は、顔面の写真である。顔面は黒色を呈し、左前額部には腐敗水疱が発現し、眼球は突出、鼻孔内、口部よりは黒色の(写真の上では)腐敗による浸出液が、鼻部の周囲から眼部にかけて流出している。口腔内には布片(パンツらしい)が挿入されている。顔面の腐敗は高度で、所謂巨人様顔貌を呈している。

( 写真1−7について )

 この写真は、衣類を脱がせた上半身前面の写真である。顔面は黒色を呈し、腐敗水泡あるいは腐敗気疱が多数発現しており、胸部は写真ではうす黒く変色し、胸腹部ならびに右上肢の表皮は広く剥離している。左上肢についてはこの写真では不明である。腹部も膨隆し、陰嚢も膨隆している。口腔内には写真で黒色を呈している布片が挿入されており、頸部には写真で白色を呈している布片が纏絡(てんらく)している。一重かあるいはそれ以上かは写真では不明。しかし、この布片は頸部を緊(きびし)く圧迫しているようには見えない。

( 写真1−9について )

 この写真は、 (1−7)写真の顔面部より胸部にかけて拡大したものである。顔面の腐敗気疱は明瞭、胸部にも大きな腐敗気疱が発現している。顔面は膨隆し、眼球の突出は明瞭である。頸部に纏絡(てんらく)する布片の圧迫の状態はやはり緊(きびし)くはないようである。

( 写真1−10について )

 この写真は、頸部を纏絡(てんらく)する布片を除去し、口腔に挿入してあった布片も除去して、顔面の表面を洗い流した後の写真のように見える。顔面に付着していた多数の流下状の付着物はなく、腐敗気疱の発現が明瞭に識別される。おそらく、この際は頭部も洗ったであろうと考えられるが、頭髪は脱落していないようである。頸部を纏絡(てんらく)していた布片の跡は、この写真の左側頸部、またオトガイ下部では不明であり、圧迫痕の発現はないようである。鼻部、左頬部、上下口唇の黒色に見える斑痕は、おそらく表皮や粘膜の剥離部が乾燥して革皮様化した部分であろうと思われる。

( 写真1−13について )

 衣類を脱がせた後の下半身の写真である。この写真では下半身の変色は明らかではない。陰嚢の膨隆は著明であり、陰嚢の表皮、大腿の表皮は剥離して、肛門周囲に付着しているようである。

( 写真1−15について )

 この写真は、 (1−13)以前の写真である。(1−9)の写真の後で、口腔内の布片と頸部の布片を除去した写真で、まだ体表を洗う前の写真のようである。

( 写真1−17について )

 この写真は、頸部の布片を除去した後の圧痕の状態を示したものと思われるが、顔面と胸部の変色部とは異なって、写真ではやや白く写っている。しかし、陥凹(かんおう)はみられない。この部分は、腐敗による体の膨隆が起ると、オトガイ下部と接しているために変色しない、あるいは変色し難い部分である。したがって、やや白色を帯びた蒼白帯のみでは圧痕と判断することは出来ない。ただ、前頸部の正中に黒色の斑痕があるが、これが表皮剥脱であれば、圧痕と判断することも出来る。

( 写真1−19について )

 これは、項部と背部の写真である。項部の布片による圧痕は、はっきりしない。項部から背部にかけての表皮は、広く剥離している。

( 写真1−21について )

 これは、背部から下肢後面を示している写真である。表皮は広く剥離し、肛門周囲は膨隆しており、剥離した表皮は腰部や臀部に付着している。

( 写真2−3について )

 この写真は、気管内膜の写真である。気管内膜は、写真では黒く写っているが、この変色は鬱血によるものか、死後変化としての血色素浸潤によるものかは識別し得ない。一端に声門部分が写っているが、水腫の有無は明らかではない。

( 写真2−5について )

 これは、肺の写真である。右肺のように見えるが断定はできない。表面は膨隆して気腫状を呈しているが、表面の色は淡く、鬱血(うっけつ)はないように見える。写真の状態からは、むしろ貧血時の肺のように見えるが、黒白の写真であるから断定はできない。

 

 さて、玉村象天の死体解剖鑑定書の説明の項「3. 死因について」には、玉村象天の前頸部に存する創傷ならびに口腔内に圧迫挿入されている布様物の存在を以て、絞頸あるいは気管閉鎖による窒息死と推定しているが、前述の写真から判断すると、そのいずれかを区別することは至難であるが、右乳様筋下に出血があること、また口腔内に挿入された布様物が舌の先端を強く圧迫していたとしても、腐敗高度な死体においては、腐敗ガスによる膨隆により2次的に死後圧痕を形成することがあることなどを考えあわせると、玉村象天の死因は、むしろ絞頸による窒息死と考えるのが妥当なようである。

鑑定人秦医師は、窒息の原因たり得る2つのうち、いずれか1つを重な死因とするかについては、むしろ気管閉鎖による窒息死を推定しているが、いずれにせよ死因としては窒息死である可能性が強い。玉村象天の死因については、項を改めて検討するが、この項ではひとはず「窒息死」を死因と推測して死後経過時間の検討を進めたい。

 窒息死が死因である死体においては、一般に腐敗の進行が速く、また窒息の原因によっては局所的に腐敗が特に進行するものである。絞頸による窒息死の場合は、顔面の鬱血(うっけつ)が高度なため、顔面を含む頭部の腐敗が他の部分に比べて速く、高度に発現する。

玉村象天の死体の顔面の状態は、写真で見ても他の部分に比べて腐敗が高度に発現しているようである。そこでこの点を考慮すると、玉村象天の死体は、死体全体としては前述のような秦医師が判断した「人体形成を保つための極に達したもの」という程の腐敗ではないように思料される。

 

.   本件玉村象天の死体の死後経過時間の推測

 以上の項において、玉村象天の死後経過時間を推測する資料について検討を加えてきたが、各資料の検討結果を総括すると次のようになる。

(1) 死体は全身膨大して巨人様を呈し、特に顔面は眼球突出して巨人様顔貌を呈し、左大腿後面、右大腿前面、左右下腿後面は蒼白であるが、その他は広く腐敗色が発現し、特に顔面は変色が高度である。

(2) 腐敗ガスのため胸腹部には皮下気腫発生し、顔面、胸部等には腐敗水疱、気疱発生し、表皮は広く剥離して真皮を露出している。

(3) 胸腹腔内には腐敗ガスが充満し、胸腔内には血性の漿液が多量貯留し、左右両肺、肝臓は原型をとどめているが、その他の胸腹腔内臓器は腐敗融解して原型をとどめていない。

(4) 脳も腐敗融解し、頭腔開検の際流出してきている。

(5) 角膜は混濁しているが、左瞳孔はかろうじて透見出来た。

(6) 死後硬直は、各関節において中等度に存在し、容易に緩解出来た。

(7) 直腸内温度は 27.0度、外気温は 25.0度であった。

(8) 玉村象天の死体が発見された現場は、南向きのトタン葺平屋建の屋内8畳間で、わずかに便所の小窓が開いているだけの外気の流通の悪いところである。

(9) 玉村象天の死体には布団がかけてあり、その布団の下にも臀部、腰部には布団が、背部にはシャツがかけてあった。

(10) 玉村象天の死因は窒息死、とくに絞頸窒息死の可能性が強い。

(11) 玉村象天の死体が解剖されたのは昭和42年8月30日の午後である。

 そこで、これらの各資料を検討しながら死後経過時間を推測してゆくこととする。まず第1に玉村象天の死体の発見された時期についてである。昭和42年の夏の気候がどうであったか不明であるが、周囲が水田で囲まれた風通しの良い田園地帯で、気温が25.0度であったとなっているので、通常一般の夏の気候ではなかったかと思われる。

 そうするとこの時期は、死体の保存に関してはもっとも悪い時期で、一昼夜を経過しても腐敗が急速に進行する時期である。したがって、この時期の死体については、死後変化からの死後経過時間推測には慎重を期さなければならない。このことは、秦医師もその「聴取書」の中で「夏は腐敗が速く進むので、死後経過時間の判断はむずかしい」と言及している。

 第2は、死体発見現場についてである。トタン葺の家屋では通常外気温より1〜2度ほど室温が高くなる。本件の場合は、窓がほとんど閉じられた状態であり、日中の室温はさらに上昇したであろうと推測されるが、死体所見からは少なくとも一昼夜を経過した死体であろうと考えられるので、夜間における室温の降下を考慮すると、昼夜の室温を平均して2度位気温より高かったのではあるまいか。

 本件においては、死体の直腸内体温が27.0度であり、これを解剖時の外気温25.0度比較しているが、死体発見後解剖時までの体温降下は、本件の場合無視してもよいと思われるので( 死体発見後解剖時までの時間が短く、気温が高いからである )、直腸内温度は死体発見時の屋内の室温と同じではなかったかと推察されるのである。

 第3は、死体の死後変化についてである。体表の腐敗による変色や腐敗ガス発生による体の膨隆、腐敗水疱、腐敗気疱の発現などは、夏期の死体では死後30時間前後でも見られるものであるから、これらの所見は少なくとも死後死後30時間以上を経過していることを示しているに過ぎない。

 しかし角膜の混濁は、死後の乾燥によって発現する所見であり、全く瞳孔が透見し得なくなるのは大凡48時間前後である。本件では、右瞳孔は透見し得ないが、左瞳孔はかろうじて透見されている。通常左右の所見は、ほとんど同じであるが、死体の位置によっては所見の異なることもあるので、この所見は異常な所見ではない。死後24時間経過すると角膜は混濁し、かろうじて瞳孔を識別し得る状態となる。したがって、本件のこの所見は死後24時間〜48時間の間の所見ということになる。

 死後硬直は、気温が高ければ発現が早く、また持続時間も短くなる。本件では、各関節において中等度に発現しており、しかも簡単に緩解させることが出来たとされているので、すでに硬直の緩解直前の状態ではなかったかと推測される。夏期における硬直持続時間は、死因による長短はあるが、長いものでも30時間〜40時間であるから、本件の場合、死因を絞頸窒息死と考えると、その長い持続時間が当てはまるので、死後硬直の状態からは40時間前後と判断するのが妥当のようである。

第4は、直腸内温度の降下の度合についてである。前述のように、死体発見現場の室温は大凡27.0度ではなかったかと推測し、死体の直腸内温度と室温とは同じではなかったかと推察したが、室温が27.0度の場合の体温降下の度合は、多数死体の平均から計測された表を参照すると次のようになる。

死後経過時間 0〜5 5〜10 10〜15 15〜20 20〜30 30〜40 40〜
室温 27.0 度 0.51 0.35 0.33 0.31 0.26 0.20

 上段は、死後経過時間で0〜5は死直後より5時間の間を指し、その下段の数値は、その時間帯における1時間当りの降下温度である。したがって、室温乃至外気温が27.0度の時、死後5時間を経過したものは 0.51×5、すなわち2.55度降下するということである。

 そこで、この表によって計算すると、本件の直腸内温度は27.0度であったので、37.0 − 27.0 = 10.0 即ち、生前の温度より10.0度降下していたわけであるから、

はじめの5時間では、0.51 × 5 ・・・・・ 2.55度降下

次の5時間では、  0.35 × 5 ・・・・・ 1.75度降下

次の5時間では、  0.33 × 5 ・・・・・ 1.65度降下

次の5時間では、  0.31 × 5 ・・・・・ 1.55度降下

次の10時間では、  0.26 × 10 ・・・・・ 2.60度降下

するので、これを加えると、死後30時間では10.1度降下することになる。この降下の度合は、本件の場合とほぼ同じであるから、玉村象天の死体は、少なくとも死後30時間は経過していると推測される。死体の温度が環境の温度と同じになれば、以後はその温度が持続するわけであるから、この30時間は、死後経過時間の短い方の限界ということになる。

 したがって、以上を要約すると、死体現象全体からは死後約30時間以上、死体現象のうち瞳孔の透見の度合(角膜の混濁度)からは、死後24時間〜48時間の間、また死後の硬直の状態からは30時間〜40時間の間、直腸内体温の降下の度合からは30時間以上ということになる。

 この判断は、死体のおかれていた環境と推測される死体の死因を考慮して推測したものであるが、この他の通常は胃内容の消化状態、蠅の卵あるいは蛆の長さなどを参考として推測するものである。本件においては、胃内容については、約5mlの泥様内容と記載されていて、未消化物の有無については記載がない。しかしながら、肉眼的に識別出来る未消化物があれば、当然それを記載したであろうと思われるので、本件の胃内容は、ほとんど消化されてしまって、胃はほとんど空虚の状態であったと思料される。したがって、この状態からは食後4時間〜6時間の間と考えることが出来る。

 また、頭頂部には蠅の卵が付着していたという記載があるが、鑑定書の記載のみでは卵だけなのか、蛆も混じっているのか明らかでなかったが、「聴取書」の中で、秦医師は蠅の卵と蛆との関係について述べているので、鑑定書中の蠅の卵は、やはり卵だけであったろうと思料される。ところで、8月30日ごろの気温では、蠅の卵は約12時間後には長さ2ミリメートルの蛆となり、約5日後には長さ12ミリメートルの蛆に成長、7日後にはサナギとなるので、本件においては、蠅が卵を生みつけてから12時間以内であったということになる。現場は、ほとんど戸が閉じられていた状態であるから、蠅の侵入が遅れたとも考えられるので、この所見は死後経過時間の推測の資料とはなし得ない。

 したがって、以上の検討結果を基として、本件玉村象天の死体の死後経過時間を推測すると、死後30時間乃至40時間で、食後4時間乃至6時間の間ということになる。

 

.   玉村象天の死亡の原因について

 本件の死体解剖鑑定書の説明の項3の「死因について」には、頸部に存する創傷から絞頸窒息死を、また口腔内に圧迫挿入されている布様物の存在をもって気管閉鎖による窒息死を推測し、そのうちいずれか1つを重な死因とするならば、それは口腔内に圧迫挿入された異物による気管閉鎖による窒息死と推定する旨の記載があり、鑑定主文の「3. 死因について」の項では口腔内に圧迫挿入された異物による気管閉鎖による窒息死を死因と推定している。

 本件においては、死体が腐敗しているため胸腹腔臓器は融解していて窒息の所見は明らかでないが、強いて採りあげるならば左右両肺の溢血性、充血性と気管内粘膜の充血性を指摘することが出来る。窒息死を死因とする肺は鬱血が強く、しかも水腫も著明である。表面、断面の色調は暗赤色を呈し、漿膜下には溢血点が発現している。死後長時間を経過し、腐敗が進行した場合でも表面や断面の色調は変わりない。

 鬱血腫脹した肺は、血様液が胸腔内に漏出するため萎縮し、溢血点の存在も血色素の浸潤により不明となるが、表面や断面の色調は、濃くなることがあっても薄くなることはない。ところが、前述の写真(2−5)では、この所見がない。写真の上では、全く鬱血のない肺のようになる。また写真(2−3)は、気管を切開して粘膜を写した写真であるが、腐敗した場合は色素の浸潤が起り、鬱血の存在も充血の存在も判らなくなる。この写真では、広く血色素浸潤の起っていることは判るが、窒息死体の気管粘膜の鬱血の有無は識別出来ない。

 したがって、かろうじて指摘し得た肺、気管粘膜の解剖時の所見も写真の上からは、はっきりしない所見ということになる。そうすると、玉村象天の死因の根拠とした頸部の創傷、口腔内異物の挿入のみが窒息死を推定した資料となる。

 頸部に纏絡してあった布片については、これが交差していたか、結節が形成されていたかどうかの記載はないが、前頸部には横に走る表皮剥脱があり、またこの表皮剥脱の左後方にも3本の平行して走る表皮剥脱があり、右乳様筋下に出血があるので、頸部の横軸に平行して外力が加わったものと推察される。これによる死は、絞頸窒息死である。窒息死の種類の中で、もっとも鬱血が高度に発現するものである。ところが、肺の所見はこれといささか矛盾するわけである。したがって、玉村象天の死因を絞頸窒息死とすることは、いささか躊躇せざるを得ない。

 口腔内には布片が挿入されていたが、通常自分でこのような異物を挿入することは、ほとんどあり得ない。したがって、これは明らかに他為と考えられる。しかしながら、布片挿入時に形成される口部周辺の創傷については、その存在が記載されていない。成人、子供を問わずこのような布片を口腔内に挿入された場合は、口部周辺の皮膚や唇に表皮剥脱が形成されるものである。口部周辺に表皮剥脱形成されていないということは、すでに抵抗を失った状態において布片が挿入されたのではないかとの疑が生じてくる。

 そうすると、口腔内に布片を挿入する前に絞頸があり、その後口腔内へ布片の挿入が行われたと考えれば、この疑は解ける。問題は絞頸により窒息が起こった場合、それが死を招来したか否かである。肺の所見から判断すると、死を招来した程の窒息ではなかったのではないかと思料されるのである。では、真の死因は何かということになるが、もちろん口腔内異物の挿入により気道を閉塞して死に至らしめることは可能である。したがって、絞頸後に行なわれた口腔内への異物挿入による窒息死を来たしたとすることは、もっとも考え易い死因である。

 しかしながら、前述したように腐敗膨隆した死体においては、その死後変化のために2次的に布片がきつく挿入されて圧迫したようになることもあるので、この点についてもが生じてくるのである。気道閉塞による窒息死でも肺の鬱血は高度である。

 絞頸や口腔内への異物挿入が行われたことは疑い得ないが、このような行為が行なわれた際に、心不全の発作を起こしたとしたらどうであろうか。肺の所見は矛盾しない。しかし、残念なことに心臓は腐敗していて、その所見は明らかでない。

 したがって、以上玉村象天の死因について解剖鑑定書の記載事項と臓器の写真から検討を加えたが、玉村象天の死因は、一応は絞頸による窒息死と考えられるが、全く疑念がないわけではなく、むしろ真の死因は心不全などの発作が起ったのではないかとも考えられるということである。

 

.   創傷形成機転について

 解剖鑑定書の説明の項「1. 創傷の部位および程度」には、6個の創傷が列記されている。顔面部の水平に走る弓状の圧迫創、前頸部の横走する表皮剥脱、前頸部の左側に存する平行して前後に走る3本の表皮剥脱、右乳様筋下の出血、前胸部の皮下出血、右上肢の手背腕関節部の皮下出血である。このうち圧迫創とは圧痕のことであり、鈍器による圧迫により形成されるものであるが、この創傷は必ずしも生前の形成とは判断出来ない。とくに本屍のように腐敗した死体の場合は、死後に衣類等の圧迫によって形成されることが多い。表皮剥脱は、鈍器の打撲や擦過によって形成される創傷であり、本屍においては前頸部、左側頸部に形成されているので、絞頸時の索溝の一部と判断された創傷である。皮下出血も鈍器の打撲や擦過によって形成される創傷である。前胸部、右手背腕関節部の皮下出血は、殴打によっても形成される創傷である。

 

鑑    定

 以上の各検討結果に基づいて、次のように鑑定する。

1. 玉村象天の死体の死後経過時間は、30時間乃至40時間の間で、食後約4時間から6時間の間と推測する。

2. 玉村象天の死因は、一応は絞頸による窒息死と推察されるが、肺の所見に矛盾があり、また口腔内異物挿入による窒息死(気道閉塞)と判断するにも矛盾がある。絞頸や異物挿入等の行為がなされたことは推察されるが、このような暴力的行為による心不全など、他の急死を招来する内因的な死因も推測し得る。

3. 玉村象天の体表にある創傷の形成機転は、鈍器による圧迫、鈍器による打撲、擦過と推測されるので、その形成部位から判断すると、前胸部、右手背の腕関節部の皮下出血は殴打によって形成された創傷とも考え得る。

以  上

この鑑定に要した日数は、昭和57年7月26日より同年12月15日に至る 142日間である。

昭和 57 年 12 月 15 日

鑑 定 人   千葉大学 医学部 
法医学講座  

教授・医学博士  木 村   康

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