[資料8−3 木 村 意 見 書(新)

― いわゆる布川事件の被害者玉村象天に対する殺害行為に関する意見書 ―

  平成13年 8月 6日

※ 読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。


ま え が き

 昭和42年 8月28日(判決認定)、茨城県北相馬郡利根町大字布川2536番地の玉村象天宅にて発生した殺人事件(いわゆる布川事件)に関して、日本弁護士連合会、人権擁護委員会委員長 弁護士加藤良夫殿ならびに布川事件委員会委員長 弁護士小高丑松殿は2000年12月22日、鑑定人に対して下記資料による下記事項の鑑定を委嘱され、その結果は後日、意見書として報告するよう告げられたので、これを了承した。

 

鑑 定 資 料

1. 昭和42年12月1日付け、医師秦資宣作成の鑑定書(写)

2. 秦医師所持の死体解剖時撮影の写真12葉

3. 昭和42年 9月22日付け、取手警察署警部補小圷正夫作成の検証調書(写)

4. 秦医師からの事情説明「聴取書」

5. 昭和57年12月15日付け、鑑定人木村康作成の「被告人桜井昌司及び同杉山卓男に係る強盗殺人事件の被害者玉村象天の死因等に関する意見書」

 

鑑 定 事 項

1. 犯人が被害者玉村象天の頸を絞めた行為の態様及びその根拠

2. 本件で、扼頸の外部所見又は内部所見は認められるか

3. 犯人が被害者玉村象天の口腔内に布様物を挿入した行為と同人の頸を絞めた行為の時間的前後関係及びその根拠

 よって、平成13年 1月20日より、上記資料を精読検討したところ次のような結論を得たので、その検討経過ならびにその理由、結論等を意見書として報告する。

 

鑑 定 経 過

 さて、以上の鑑定事項は要約すると、三項とも被害者玉村象天の死因決定に関するものであるから、まず提示された鑑定資料1〜4の中から、玉村象天の死因を推測し得る所見を抽出して検討し、さらに当鑑定人が昭和57年に提出した鑑定書(鑑定資料5)の死因に関する記載事項をも併せて考察する。

1. 鑑定資料1について

@ この鑑定資料は、鑑定人秦資宣が作成した玉村象天の死体解剖鑑定書である。

A 被害者玉村象天の死体はすでに晩期死体現象である腐敗が高度に進行しており、皮膚の色は概ね腐敗青銅色、前胸部の表皮と左右上肢の表皮は靡爛剥脱(びらんはくだつ)して汚穢暗赤色(おわいあんせきしょく)を呈し、顔面は腐敗膨大して巨人様顔貌を呈し、左右眼球は突出し、角膜は中等度に混濁しているが、左眼は散大せる瞳孔を透見し得、右眼は瞳孔の透見は至難である。右眼球角膜に出血、右眼瞼の上下結膜ならびに眼球結膜全体に出血斑を認めたが、左眼の眼瞼結膜、眼球結膜には充血や溢血点(いっけつてん)を認めない。左右眼球の硬度はやや軟にして、左右の眼球を圧迫すると、腐敗ガスが多量噴出し、鼻翼を圧迫すると、鼻腔内から腐敗ガスを含んだ血性の小気泡漿液(しょうきほうしょうえき)が多量流出し、鼻骨に骨折等の異常はない。

B 小児手拳大の布様物(布製パンツ様物体)を口腔内に硬く挿入し、その残余の一部は口腔外にはみ出している。この布様物の挿入は、口腔内全体に強圧挿入されたもので、上下口唇粘膜は暗紫色、舌尖は挿入された布様物の後方に位し、舌は腐敗膨隆(ふはいぼうりゅう)暗赤色を呈し、上下の歯列は布様物を咬み、歯牙は左下顎第一大臼歯が欠損しているが、他には歯牙の欠損はなく、口腔内には布様物以外に異物はなく、口腔粘膜は全体に暗赤色を呈している。

 ※なお口部の項には概括の所見として「口は圧迫状に硬損」と記載されていたが、これは口部の何を表現したのか、皆目見当が付かないので、省略した。

C 左右胸腔内には薄い血性漿液が多量貯留しているが、肋膜下の溢血点(いっけつてん)や筋肉組織間の出血は腐敗のため、判別は不能、肋骨に骨折はない。

D 左右両肺は腐敗の程度は他の臓器と比べて遅滞しているが、溢血性や充血性を識別し得る程度で、出血斑の判別は不能である。

E 心臓は腐敗のため原型をとどめず、心外膜下の出血や心臓の構造の判別は不能である。

F 右胸鎖乳突筋下に出血あり、左右鎖骨部に出血なく、甲状軟骨、気管軟骨に骨折を認めない。気管内粘膜に暗赤色粘稠液(ねんちゅうえき)が付着し、粘膜は充血性である。

G 前頸部には頤部(おとがいぶ)から下方約5.0pの部に横走する表皮剥脱(ひょうひはくだつ)がある。

H 前頸部の横走する表皮剥脱より約3.0pの左側頸部には、平行して前頸部より項部にかけて三本の表皮剥脱があり、長さは下方より約2.0p、約2.5p、約2.8pである。

I 頸部の右乳様筋下に出血があり、気管内粘膜に暗赤色粘稠液(ねんちゅうえき)付着、粘膜は充血性である(原文に右乳様筋下とあるのは右胸鎖乳突筋下の誤記)。

J 右前胸部に圧迫創と思考せられる皮下出血部を存し、その範囲は径約9.0pである。

K 右上肢手背腕関節部に皮下出血があり、その範囲は径約3.0pである。

L 顔面部の頭部より左右頬部にかけてほぼ水平な約21.0pに弓状の圧迫創と思考される創傷がある。

M 左右下肢足関節直上部に左右下肢を緊縛せる布様物を認め、タオル状の物にて二重に緊縛し、外踝部前面上部にて1回結節をなし、さらに同緊縛上部を白色布様物(白ワイシャツ)にて前記緊縛を補強状に一重に緊縛し、前記緊縛結節とほぼ同一ヶ所において2回の結節をなしている。その緊縛の度合は強度にして両下肢の屈伸のみにて緊縛を排除することは至難なり。

N 項部より左前頸部にかけて圧迫状にほぼ環状をなせる布様物(白色布製パンツ様物体)を認めるも、結節ならびに結節点を認めず。その圧迫の度合は相当強度であり、布様物を除去すると左前頸部には上記Hの損傷を存している。

O しかして、秦鑑定人は死因の項で、F〜Iの絞頸を思考させる創傷の存在と、Bの口腔内に圧迫挿入せる布様物の存在は、そのいずれか1つでも死因として窒息死を惹起せしめるものであったが、何れか1つを重たる死因とするかを敢えて極言するならばとして、口腔内に圧迫挿入された異物によって惹起せしめられた気管閉塞による窒息死が推定される。

 

2. 鑑定資料2について

 この鑑定資料は、秦医師が所持していた解剖時に撮影した遺体のモノクロ写真を複写したもので、台紙の上部には (1-3),(1-5),(1-7),(1-9),(1-12),(1-13),(1-15),(1-17),(1-19),(1-21),(2-3),(2-5)の番号が付してある12葉である。

 しかしこの写真についての検討結果は当鑑定人が昭和57年12月15日付で提出した鑑定資料5に記載してあるので、一部補足して転載すると次のようになる。

(1-3) について

 この写真は、着衣をつけたままの写真である。死体発見現場から運ばれたままの状態であろうと思われるが、写真では顔面は黒色を呈し、左右上肢の表皮は剥離しており、シャツ、ズボンの一部は体表の腐敗による浸出液が浸みてうす黒い斑痕を作っている。

 腹部は膨隆して、シャツの間からわずかに見える胸骨部も黒色を呈している。

(1-5) について

 この写真は、顔面左側の写真である。顔面は黒色を呈し、左前額部には腐敗水疱が発現し、眼球は突出、鼻孔内、口部よりは黒色(写真の上では)の腐敗による浸出液が鼻部の周囲から眼部にかけて流出している。口腔内には浸出液の染みた布片(パンツらしい)が挿入され、一部は左頬部を被っており、顔面の腐敗は高度で、所謂巨人様顔貌を呈している。

(1-7) について

 この写真は、衣類を脱がせた上半身前面を右側から撮影した写真である。写真では顔は黒色を呈し、腐敗水泡あるいは腐敗気疱が多数発現しており、胸部は写真ではうす黒く変色しているが、右前胸部には黒色に写っている部分があり、これが圧迫創(前項Jの皮下出血)であろうと思われる。胸腹部ならびに右上肢の表皮は広く剥離している。左上肢についてはこの写真では不明である。腹部も膨隆し、陰嚢も膨隆している。口腔内には写真で黒色を呈している布片が挿入されており、頸部には写真で白色を呈している布片が纏絡(てんらく)している。一重かあるいはそれ以上かは写真では不明。しかし、この布片は頸部を緊(きびし)く圧迫しているようには見えない。

(1-9) について

 この写真は、 (1-7)写真の顔面部より胸部にかけて拡大したものである。顔面の腐敗気疱は明瞭、胸部にも大きな腐敗気疱が発現している。顔面は膨隆し、眼球の突出は明瞭である。頸部に纏絡(てんらく)する布片の圧迫の状態はやはり緊くはないようである。

(1-10) について

 この写真は、頸部を纏絡(てんらく)する布片を除去し、口腔に挿入してあった布片も除去して、顔面の表面を洗い流した後の写真のように見える。顔面に付着していた多数の流下状の付着物はなく、腐敗気疱の発現が明瞭に識別される。おそらく、これは頭部を洗った後の写真であろうと考えられるが、頭髪は脱落していないようである。頸部を纏絡していた布片の跡は、この写真の左側頸部、またオトガイ下部では不明であり、圧迫痕の発現は明らかではない。鼻部、左頬部、上下口唇の黒色に見える斑痕はおそらく表皮や粘膜の剥離部が乾燥して革皮様化した部分であろうと思われる。

(1-13) について

 衣類を脱がせた後の下半身の写真である。この写真では下半身の変色は明らかではない。陰嚢の膨隆は著明であり、陰嚢の表皮、大腿の表皮は剥離して、肛門周囲に付着しているようである。

(1-15) について

 この写真は、 (1-13)以前の写真である。(1-9)の写真の後で、口腔内の布片と頸部の布片を除去した際の写真で、体表を洗う前の写真のようである。

(1-17) について

 この写真は、頸部の布片を除去した後の圧痕の状態を示したものと思われるが、顔面の変色部とは異なって、写真ではやや白く写っている。しかし、陥凹部(かんおうぶ)は見られない。この部分は、腐敗による体の膨隆が起こると、オトガイ部と接しているために変色し難い部分である。したがって、やや白色を帯びた蒼白帯のみでは圧痕と判断することはできない。

 ただ前頸部の正中に黒色の斑痕がみられるが、これが前頸部の横走する表皮剥脱だろうか。

(1-19) について

 これは、項部と背部の写真である。項部の布片による圧痕は、はっきりしない。項部から背部にかけての表皮は、広く剥離している。

(1-21) について

 これは、背部から下肢後面を示した写真である。表皮は広く剥離し、肛門周囲は膨隆しており、剥離した表皮は腰部や臀部に付着している。

(2-3) について

 この写真は、気管内膜の写真である。気管内膜は、写真では黒く写っているが、この変色は鬱血によるものか、死後変化としての血色素浸潤によるものかは識別し得ない。一端に声門部分が写っているが、水腫の有無は明らかではない。

(2-5) について

 これは、肺の写真である。右肺のように見えるが断定はできない。表面は膨隆して気腫状を呈しているが、表面の色は淡く、鬱血(うっけつ)は著明ではないように見える。写真ではむしろ貧血のようにも見えるが、白黒の写真であるから断定はできない。

 

3. 鑑定資料3について

 玉村象天の死体は、鑑定資料1に記載されている所見から判断して、頸部に布片が纏絡(てんらく)し、口腔内に布片が挿入され、左右両下肢も布片で緊縛されていたことは明らかであるが、死体発見時の死体の姿勢や死体の置かれていた環境がどうであったかを検討するため、本件の検証調書である鑑定資料3から、発見時の死体の姿勢等、必要事項を抽出すると次のようになる。

 死体発見場所は八畳間の中央のV字形に落ち窪んだ畳の上であり、足を逆くの字形に曲げて、左側を下にして、体を横に向けた状態であった。死体の腰部には敷布団、肩には半袖シャツが掛けられてあり、死体は半袖シャツを着て、ズボン、靴下を履いていた。

 右肘は曲げて顔の下に向けており、口には血痕で赤褐色に濡れている木綿パンツが半分位押し込んであり、前頸部には白木綿パンツが巻いてあって、右側は耳の下に達していた。

 死体のあった位置の畳は巾広のV字形に落ち窪んでいたが、その畳の下の床板は7枚がほぼ中央から不正形に割れて、その下の根太掛は二つに折れていたと記載されている。

 

4. 鑑定資料4について

 この鑑定資料は玉村象天の死体を解剖鑑定した秦鑑定人から日弁連人権擁護委員会の谷村、柴田両委員が聴取したものであり、この中から玉村象天の死因判断に関するものを抽出すると次のようになる(番号は聴取書に記載されている番号である)。

13. 左右の眼球の状態の差には、特別の意味はない。死後、左右の眼球が異なった変化を示すことはしばしば見られるが、両眼球が同じく変化する場合が多い。

14. 口腔内に挿入されていた布様物は白パンツ様のものだけであったように思う。かなりつめ込んでいるという感じであった。

 つめ込んだのは手ではないか。棒を使った場合、あわてている時など口の中に傷がつくと思うが、傷はなかった。舌が落ち込むと詰め込まなくても窒息する。頸を絞めたのは弱いような気がした。頸部の索条痕(さくじょうこん)は強くなかったように憶えている。推測では、最後にとどめとして口につめ込んだのではないか、口の抵抗がなくなってからつめたのではないかと思う。

15. 舌が落ち込むと気管全部が圧迫される。この場合はその状態であった。普通の人であると舌が落ち込んで2分乃至3分くらいで窒息する。そうすると抵抗はなくなる。

16. 鑑定書第1、4の布様物(頸部のほぼ環状をなせる)ははっきりしないが、ズボン下だったように思う。結び目はなかった。(これは鑑定資料1の抽出事項Nのことである)。

17. 鑑定書第1、8の(左右下肢を緊縛)結び方は、おとこ結びであったと思う。結び目はほどかずそのまま残した。結び方の特徴は特になかったように思う。結び目はかなり強かった。(これは鑑定資料1の抽出事項Mのことである)。

18. 前胸部に皮下出血部はあった。

19. 後で現場をみたが、板が折れていたので、そこに尻がはまり込んで動けなくなったように思った。

24. 胸鎖乳突筋の出血だけでも、絞殺、扼殺ということがいえる。

28. 右胸部の皮下出血部は殴ったか、押したか、はわからない。

30. 鑑定書第1外景検査、4の「環状をなせる」とは、一巻きはしているということである、左側が強く締まっているように巻いてあったと思う、縛ってはいなかった。(これは鑑定資料1の抽出事項Nのことである)。

 

5. 鑑定資料1〜4までの総括と考察

 さて、秦鑑定人は玉村象天の死因を鑑定資料1の死体解剖鑑定書・死因の項で、抽出事項の末尾に示したように、Gの前頸部の頤部(おとがいぶ)から下方 約5.0pの部にある横走する表皮剥脱、Hの左側頸部にある平行する3本の表皮剥脱、及びFの頸部の右胸鎖乳突筋下の出血の存在からは、絞死を思料し、またBの口腔内に圧迫挿入された布様物の存在からは気管閉塞による窒息死を思料しているが、何れか1つを重たる死因とするかを敢えて極言するならばとして、後者の口腔内に圧迫挿入された異物によって惹起せしめられた気管閉塞による窒息死と推定している。

 そこで、解剖時に秦鑑定人が撮影したモノクロ写真(鑑定資料2)をみると、その(1-7)には、頸部を纏絡(てんらく)する布様物が、また(1-5)には口腔内に挿入されている布様の物が示されており、頸部や口部内の布様の物の存在は明らかであったが、しかし残念ながらこれらの異物を除去した写真(1-10)、(1-17)では複写のせいか、写真そのものが不明瞭であったためか、圧迫痕の存在は確認し得なかった。

 さらに鑑定資料4の鑑定人からの聴取書をみると、14の項には「口腔内に挿入されていた布様物は白パンツ様のものであったこと、かなりつめ込んでいるという感じであったこと、つめ込んだのは手ではないか、棒を使った場合やあわてている時など口の中に傷がつくと思うが、傷はなかった」、また「頸を絞めたのは弱いような気がした、頸部の索条痕は強くなかったように憶えている、推測では最後にとどめとして口につめ込んだのではないか、口の抵抗がなくなってからつめたのではないかと思う」と述べている。また30の項には「環状をなせるとは一巻きはしているということである。左側が強く締まっているように巻いてあったと思う。縛ってはいなかった」とあり、このことは鑑定資料1の抽出事項Nについての説明である。

 さて、そこで秦鑑定人が玉村象天の死因を推定した経過を整理してみると、以下のようになる。

 まず、前頸部の横走する表皮剥脱Gの存在、左側頸部の3本の平行する表皮剥脱Hの存在、頸部の右乳様筋下(右胸鎖乳突筋下の誤記と思われる)出血Iの存在と、結節はないが頸部を一巻きして纏絡(てんらく)している布様物の存在とから、1つには絞頸窒息死を考え、さらに口腔内に挿入された布様物で、舌が後方に強く圧迫されていたことから、2つには異物による気管閉塞による窒息死を考えたが、いずれか1つを重たる死因とするかを敢えて極言するならばとして、後者の気管閉塞による窒息死を推定している。その理由は明確に記載されてはいないが、鑑定資料1、鑑定資料4に散見される。すなわち、頸部に巻かれていた索条は環状を呈していたが、結び目(結節)がなかったこと、頸部を絞めたのは弱いような気がした、頸部の索条痕(さくじょうこん)は強くなかったように憶えている、さらに口腔内に傷のなかったことなど(鑑定資料4の14項)である。

 しかしながら、F、G、Hの所見は明らかに絞頸のあった所見であり、単に結節がないことや索条の纏絡(てんらく)がゆるいからという理由で絞頸窒息死を排除すべきではない。絞頸、気管閉塞のいずれが先か、行為の時間的前後関係を判断すべきである。その判断が本件の死因を推測する鍵であろう。

 したがって、本件で問題とすべきは口部周辺や口腔粘膜に粘膜剥離や粘膜下出血がないことである。抵抗力のある者の口腔内に暴力的に異物である布片を挿入した場合、口腔粘膜には勿論、口部周辺の皮膚にも表皮剥離や皮下出血、粘膜下出血や粘膜剥離が起こるのは必発の所見であるからである。

 こう考えてくると、本件で口部周辺や口腔粘膜など口腔内に損傷などの異常所見が見られなかったことは、口腔内に布片が挿入された際、玉村象天は、すでに死亡していたか、仮死の状態であったか、あるいは唯々諾々として自ら口を開いて布片の挿入を受け入れたかの何れかであろうと推測されるが、両下肢を縛られて、右前胸部や右上肢手背の腕関節部に皮下出血が存在していたことからも、自ら唯々諾々と開口したとは考え難いので、この場合は省くとして、前二者の何れかということになり、当然のことながら窒息を招来したであろう絞頸、気管閉塞の2つの行為は、絞頸が先に行われ、しかる後、気管閉塞が行われたであろうと推測されることになる。

 なお、口腔内に布片が挿入されたのが、被害者の死亡した後か仮死の状態の時であったかと区別して想定したのは、玉村象天の死体は発見時すでに腐敗現象が高度に発現していたので、口腔内や口部周辺などの生活反応の有無の識別は困難であろうと考えられたからである。この点に関しては秦鑑定人は絞頸、気管閉塞の両行為とも被害者の生前に実施されたものと判断していたようである。このことは鑑定資料4の14項の「推測では、最後にとどめとして口につめ込んだのではないか、口の抵抗がなくなってからつめたのではないかと思う」の記載事項からも窺われる。

 

 そこで、以上の鑑定資料1〜4の総括から本件今回の鑑定事項について改めて考察することにする。

鑑定事項1について

 鑑定事項1は、被害者玉村象天の頸を絞めた行為の態様およびその根拠であるが、これまで述べてきた「本件の鑑定資料1〜4までの総括」からは前述の理由から絞頸が先で、次いで口腔内への布片の挿入が行われたと推察される。即ち、当初被害者と加害者との間に争いがあったことは、右前胸部と右上肢手背の腕関節部の防衛創とも推察される皮下出血の存在により明らかであり、争いの過程で被害者は倒されてか、自らが転倒したかは明らかにし得ないが、左側臥の姿勢で頸部を布片で絞められ、さらに左右両下肢を2箇所で緊縛されて、仮死状態になったか、または死亡した後に、被害者の口腔内に布片が挿入され、舌は強く後方に圧迫されたものと推測される。

 左側臥の状態で頸を絞められたと推測したのは、鑑定資料3の検証調書に記載されている発見時の姿勢が左側臥であり、索条である布片を前頸部中央で交差させて、上面になっている右側頸部を、布片を握る手の支点として頸部を絞めれば、布片を握る加害者の腕または手拳の圧迫で、右胸鎖乳突筋下に出血が形成され、また下面になっている左側頸部は対側になり、索条の擦過により表皮剥脱が形成され易いからである。

鑑定事項2について

 鑑定事項2は、本件で扼頸の外部所見または内部所見は認められるかであるが、「扼頸」の「扼」という文字が記載されているのは、本件鑑定資料のうち、鑑定資料4の秦医師からの事情説明「聞取り書」に「扼殺」という表現がなされているだけである。

 当鑑定資料からの抽出事項24に「胸鎖乳突筋の出血だけでも、絞殺、扼殺ということがいえる」とあり、これは胸鎖乳突筋という頸部の筋肉に出血の起こる具体的な場合を説明しただけの項である。鑑定資料1の死体解剖鑑定書からの抽出事項Iには、玉村象天の「頸部の右乳様筋下(右胸鎖乳突筋下の誤記)に出血があり・・・」とあるので、この記載についての説明であったのであろう。しかしこの筋肉は右側頸部の内部にある筋肉であるから、この筋肉に出血があっても外部からは識別出来ず、まして「筋下」、つまり皮膚の表面から見れば、筋肉の裏側に当たる部分に出血があるわけであるから、当然外部からは識別出来ない。皮膚を切開していって、はじめて出血のあることが識別出来るわけである。外部からこの筋肉の走っている側頸部に打撲や圧迫などの外力が加われば、出血がおこるので、この部分に出血があったことは、当該外部に外力が加えられたことが分かるだけである。絞殺や扼殺だけに特有な所見ではなく、絞殺や扼殺の場合の数多くの所見の中の1つではあるが、この所見があるから絞殺あるいは扼殺と判断出来るわけではない。この点、秦鑑定人の前述の表現は妥当ではない。いたずらに誤解を招く表現である。

 ところで扼頸とは手や腕などで頸部を圧迫して窒息に陥れるものであり、いろいろな方法があるが、いずれも前方から前頸部を圧迫するので、喉頭部を掴む作用も加わり、指頭の圧昆や爪痕が形成され、皮下出血、筋肉内出血を伴っている。これが「扼痕」で、扼頸の特徴ある外部所見である。扼頸は絞頸よりも前頸部への圧迫が暴力的にまた断絶的に加わる上、作用力が局所的であるので、皮下出血や軟部組織内の出血が著明であり、喉頭部を形成する舌骨大角や甲状軟骨上角、輪状軟骨の骨折などの内部所見が高頻度に見られる。したがって、司法解剖に際しては、これらの所見と窒息の所見とを総合して「扼頸」と判断するものである。

 さて、本件玉村象天の死体には以上のような「扼頸」の特徴ある外部所見ならびに内部所見は認められない。

鑑定事項3について

 鑑定事項3は、犯人が被害者玉村象天の口腔内に布様物を挿入した行為と同人の頸を絞めた行為の時間的前後関係及びその根拠であるが、このことについては、前述の鑑定事項1についての検討に際して、詳しく触れたので改めて検討はしないが、絞頸が先で口腔内に布様物を挿入した行為は後と推測される。その根拠は被害者の口腔内に損傷(粘膜剥離や粘膜下出血)が認められないからである。

 

6. 鑑定資料5からの考察

 鑑定資料5の27ページには「頸部に纏絡してあった布片については、これが交差していたか、結節が形成していたかどうかの記載はないが、前頸部には横に走る表皮剥脱があり、またこの表皮剥脱の左後方にも3本の平行して走る表皮剥脱があり、右乳様筋下に出血があるので、頸部の横軸に平行して外力が加わったものと推察される。これによる死は、絞頸窒息死である。」とあり、さらに28ページには「口腔内に布片を挿入する以前に絞頸があり、その後口腔内に布片の挿入が行われたと考えれば、この疑いは解ける。問題は絞頸により窒息が起こった場合、それが死を招来したか否かである。肺の所見から判断すると死を招来した程の窒息はなかったのではないかと思料されるのである。したがって絞頸後に行われた口腔内への異物挿入により気道を閉塞して死に至らしめることは可能である。したがって絞頸後に口腔内への異物挿入により窒息死を来したとすることは、もっとも考え易い死因である」と説明してあり、5の鑑定資料1〜4までの総括の検討の項で述べたことと同じ趣旨のことを述べているので、今回の鑑定に際して特に検討を加える必要はない。

 

鑑     定

 鑑定資料1〜4の総括の検討ならびに考察の結果に基づいて次のように鑑定する。

鑑定事項1について

 前項の考察の項に述べたように、玉村象天と加害者との争いがあり、玉村象天はその際右胸部に強打を受けて転倒、次いで加害者は布片を頸部に一巻き纏絡して絞頸し、さらに口腔内に布片をきつく挿入して放置したものと推測する。

 口腔内に布片をきつく挿入したのは所謂とどめの意味からであろう。頸部の表皮剥脱、右胸部の皮下出血、口腔内の布片の存在と口腔周辺や口腔内粘膜に損傷が存在しないこと、右手背の防衛創の存在は、この態様を説明している。

鑑定事項2について

 本件玉村象天の死体には扼頸の所見はない。頸部に布片を巻いて、その上から頸部を手指で強く圧迫した場合は扼痕は形成され難く、本件死体のような細長い表皮剥脱は形成されない。内部所見として右胸鎖骨乳突筋に出血があるが、これは扼頸でも、絞頸でも起こり得る一所見である。

鑑定事項3について

 鑑定事項1に述べた態様のように絞頸が先で、口腔内に布片を挿入したのは後と推測される。死体の口部周辺ならびに口腔内に粘膜剥離や粘膜下出血などの損傷がないからである。

平成 13 年 8 月 6 日 

鑑 定 人  

千葉大名誉教授 

木  村     康

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