えん罪事件簿  2001年版


※ 放火未遂被告に無罪判決 (2001.4.24)

 1999年8月に宮城県中田町で民家に放火しようとした等として、現住建造物等放火未遂と器物損壊の罪に問われていた型枠大工の男性(27)に対する判決公判が、24日仙台地裁で開かれ、無罪判決が言い渡されました。以下、4月25日付の読売新聞の記事から ・・・。

 「 畑中英明裁判長は、『 自白を裏付ける客観的証拠はない。(捜査機関による)事件ねつ造の疑念、証拠の偽造の指摘を完全には排斥できない 』などとして、懲役5年の求刑に対し、無罪を言い渡し 」ました。また、この判決の中で同裁判長は、「 放火未遂の自白調書について、『 動機について詳細な検討が無く、生々しい犯行状況も不十分。秘密の暴露や自白の信用性を高める客観的証拠もない 』と指摘。器物損壊事件についても、現場での友人の目撃証言があるが、被告が現場に出掛けたとみられる日と異なることから、『 信用性はない 』とし 」て、宮城県警の捜査についても厳しく批判しています。

 事件は、1999年8月13日未明、藤里直樹被告が灯油の染みこんだ新聞紙にライターで火をつけ、同町民家の軒下にあった廃材に放火しようとしたとして、同県警に現住建造物等放火未遂で逮捕され、その後、この放火未遂と、同県迫町の駐車場で同年4月に乗用車のタイヤにライターで火をつけたとする器物損壊の罪で起訴されたものでした。この事件でも、同被告は取り調べの段階では当初これらの犯行を認めていましたが、公判では一転して無罪を主張していました。

 藤里被告がこの事件の犯人とされた経緯については、週間朝日(2001.6.1)にさらに詳細な記事が載っていましたので、以下同記事から ・・・。

 「 藤里さんが放火未遂の疑いで逮捕されたのは、1999年8月31日のことだった。その日の朝、自宅にやってきた宮城県警佐沼警察署の捜査員に『 ちょっと話があるから 』と言われ、連行された。表向きには器物損壊事件の任意同行だったが、取調室でもっぱら聞かれたのは8月13日未明、近所で起きた不審火事件の事だった。」

 藤里さんは、「 何も記憶になかったので『 覚えていません 』と答えた。これに対して、捜査員は『 酔って覚えてないだろうけど、見た人がいるんだぞ 』『 こういう感じだったんじゃないか 』と言って、ワープロを打ち始めた。それが供述書の作成だと思わなかった 」藤里さんは、「 頭が真っ白になり『 ここにサインしたら今日は終わりだ 』と言うのでサインしたら、『 このまま逮捕だ 』と言われた 」のだそうです。

 「 (この中田町)付近では2年前くらいから不審火が続発していた。藤里さんもある不審火を見つけて消火したこともあり、別の不審火事件では警察から任意の取調べを受けている。警察がマークした人物の一人だったようで、この日の調べでは、『 私が放火した状況は、次のとおりです 』と起訴された1件を含む、7件の放火を自供する上申書も書かされた。」その上申書は、「 (捜査員の一人が)表を持ってきて、『 ここに行ったことがあるか 』と聞かれたので、ハイ、イイエと答えていったところ、最後は鉛筆で下書きされた上申書を渡されて、『 ボールペンでなぞれ 』『 自分の字じゃなくちゃだめだぞ 』と言われ 」て作成したものだった。

 そして、「 不幸中の幸いか、鉛筆の下書きの跡がきちんと消されていなかったため、公判では弁護人による不正捜査の追求の材料の一つになったが、藤里さんは取り調べの間、いっさい反論しなかった。」その時の心境については、『 記憶がないのに、身に覚えのないことを言われ続け、途中から傍観者のような気持ちになってしまった 』と述べています。

 警察の捜査が如何にずさんなものだったかについては、判決で『 事件ねつ造の疑念、証拠の改変をしたのではないかとの疑念入れる余地を完全には排斥できない 』と指摘される程で、当然ながら目撃者も物的証拠もなかった。

 「 通報を受けたときは、火はすでに家人によって鎮火された後だったが、そこから先の捜査は不可解だった。不審火事件の場合、警察はすぐに現場を保存、消防署と共同で捜査することになっているが、その夜は、捜査員は話しを聞くだけで帰った。翌朝来たときも、『 (捜査員が)バケツの水に燃えた廃材を突っ込み『 油は浮いてないな 』― これは起訴事実と矛盾 ―と言っていた 』(家人)と、通常考えられない捜査を行ったばかりか、家人に燃えかすを片づけさせた後、消防署に通報 」したものでした。

 さらに週間朝日の記事は、起訴されたもう一件の<器物損壊事件>については、事件そのものがデッチあげられたものだと感じさせるような事実も指摘しています。

 これら一連の記事を読んで、布川事件から30年以上たった現在も「 警察のやることは相変わらず変わっていないな 」という思いがしました。ただ、その当時と異なるのは、さすがの裁判官も<警察の捜査>に対しては、遅ればせながら不信感を抱き始めたということではないでしょうか。しかしながら、<えん罪事件>の被害者となった方の<社会生活>に与える影響 ― 藤里さんの場合は、逮捕後に離婚し2人の子供とも別れ、体調も崩してしまった ― を考えると、このような事件が起訴される前段階で篩(ふるい)にかけられるシステムの構築が急務です。

 なお検察側は、一審の無罪判決を不服として、5月8日仙台高裁に控訴しました。


※ 広島港フェリー甲板長事件、控訴審でも無罪判決 (2001.4.24)

 1994年1月に同僚の男性を広島港に突き落として殺害し、預金通帳から現金を引き出したとして、強盗殺人と詐欺の罪などに問われていた広島県大柿町の元船員、二間高男被告(34)に対する控訴審判決が、24日に広島高裁でありました。以下、4月25日付の毎日新聞の記事から ・・・。

 この判決で「 重吉孝一郎裁判長は、『 自白の信用性に疑問がある 』として、強盗殺人罪は無罪、詐欺罪などについて懲役2年、執行猶予3年(求刑 無期懲役)とした1審判決を支持し、検察側、被告側双方の控訴を棄却 」しました。

 事件は、1994年1月4日朝、『 広島港1万トンバース沖合 』で瀬戸内海汽船鰹椛ョのフェリー『 石手川丸 』の甲板長Yさんの溺死体が発見された ― この死体は、岸壁下の窪みから突然浮上した ― ことから、広島県警は、「二間さんがYさんを殺害し、預金通帳と印鑑を奪った 」ものとして、強盗殺人罪等で起訴したものでした。以下、守る会の資料から ・・・。

 このYさんは、前年の12月20日深夜に友人らと養老の瀧で飲食をし、『 宇品第二公園 』でその友人と別れてから行方不明となっていました。発見された時の服装は、その行方不明になった時のままでした。検死解剖の結果からは、他殺と断定するような状況は一切現れておらず、Yさんの当時の状況からは、事故・自殺のいずれの線も否定できないものでした。

 強盗殺人の容疑者とされた二間さんは、Yさんとは同僚で、同社フェリーの売店勤務員。自宅は、結婚のため借りた県営桟橋近くのビルの一室で、この部屋には居候を決めたYさんが同居していました。二間さんは、Yさんが荷物を置いたまま帰宅しないために、「 借金はこれで払う 」といって預けられたYさんの預金通帳と印鑑を使い、12月20日の午後と27日の2回にわたり、合計35万6000円を引き出しました。

 このことを知った警察は、二間さんを「 Yさん殺しの犯人 」と断定し、取り調べの段階で「 目撃者がいる 」と脅して、警察の筋書き通りの自白をさせたのでした。

 この事件でも、唯一の直接証拠は拘留中の<二間さんの自白>のみで、客観的証拠は何もありませんでした。その自白も警察の誘導により変遷して行き、しかもそれが警察に対しては自白、検察・裁判官および面会弁護人に対しては否認というような状態が長期にわたって繰り返され、また客観的事実とは符合していないという特異なものでした。

 1審判決は、「 (被告人の)供述のうちに、本件強盗殺人の真犯人のみが知り得る事実であって、かつ、客観的証拠によって裏付けられたものの存在は何一つないと言っても過言ではない。したがって、被告人の本件の自白には、その信用性ないし真実性に対する重大な疑問があると言わざるを得ず、直ちにこれを有罪の証拠とすることはできない 」として、無罪を言い渡しました。

 なお、広島高検は5月8日、期限ぎりぎりで上告を断念し、二間さんの無罪が確定しました。


※ 痴漢冤罪事件に無罪判決 (2001.6.12)

 昨年は、痴漢冤罪事件に対して相次いで無罪判決が言い渡されましたが、今年も同様の判決が、12日に東京簡裁でありました。以下、6月13日付朝日新聞(asahi.com)の記事から ・・・。

 この事件は、水戸市内のアルバイトの男性(28)が「 昨年2月にJR常磐線の車内で女子高生の体に触るなどしたとして、東京都迷惑防止条例違反の罪に問われ 」ていたもので、この男性に対し「 東京簡裁は12日までに無罪(求刑罰金5万円)を言い渡し 」ました。この判決の中で、「 内田正之裁判官は、『 この男性が触った 』とする女子高生の証言が変遷していて、信用できない 」とした。そして、この判決に対し「 検察側は控訴せず、同日までに無罪判決が確定 」しました。

 この事件で「 男性は現行犯で逮捕されたが、一貫して否認 」していました。問題は、「 起訴された後も3日間、勾留(こうりゅう)が続いた 」ことで、この点について、「 男性の弁護人は『 否認したからといって、最高刑が罰金5万円の事案で20日以上も勾留したのはおかしい 』と批判して 」います。

 この批判は全くその通りで、常識ではとても理解し難い事です。この事件ような軽微な犯罪に対して、重罪事犯と同様な勾留・取調べが行われていること自体に問題があります。何故に、この被疑者に対して過剰とも言える身体拘束の苦痛を与える必要性があったのか ・・・、非常に疑問の残るところです。むしろ、これが<自白強要の手段>として使われている節さえあります。 ― 早急に改善されてしかるべきです。

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 この痴漢冤罪事件については、最近急速に関心が高まっているのか、これまでに何冊かの書籍が出版されていますし、6月17日(日)には、フジテレビ系でこの問題を取り扱ったドラマが放映されました。三田村邦彦主演の『運命の日−ラッシュアワーの悪夢』という題名のドラマ(東海テレビ制作)で、まさに痴漢冤罪そのものに焦点を当てています。 ― このコーナーの趣旨とは若干ズレますが、<痴漢冤罪事件>を分かり易くドラマ化していると思われますので、敢えてここで取り上げてみたいと思います。

 物語は、大手建設会社の営業部長に昇進したばかりの榎本脩平(三田村邦彦)が、20回目の結婚記念日を迎えたその朝、満員の通勤電車内で乗り合わせたOL(山口香緒里)痴漢行為をはたらいたと疑われたところから始まります。身に覚えがない脩平は、事情を説明しようと駅の事務室に行くが、かえって罪を認めたものとみなされ、警察署に連行されてしまいます。

 警察署では完全に<犯人>扱いで、否認を続けるといつまでも留置すると刑事に言われた彼は、表沙汰にしないという条件で罪を認めてしまいます。 ― この辺が、立場の弱いサラリーマンが陥りやすい罠でしょうか? なお、このドラマでは被疑者が罪を認めたために、その日のうちに<釈放>されています。認めれば<釈放>、否認すれば20日以上の<勾留>。何か釈然としないものを感じます。 ― ところが、翌日の新聞にその事件の記事が掲載されてしまったことから、彼の身辺に様々な問題が降りかかって来ます。

 このドラマの脚本が、実際に<冤罪被害>にあった人たちに取材し、実話をもとに作られているだけにとても説得力があります。特に痴漢事件の裁判は、<物的証拠>などは勿論あるはずが無く、実行行為の<直接の目撃者>もいない場合が多いために、被害を受けた<女性の証言>が全面的に採用されてしまい、有罪になるケースが圧倒的に多くて、本来なら検察官側に<立証責任>があるにも拘わらず、無罪を勝ち取るためには、被告が痴漢行為をしていないことを立証するために涙ぐましいまでの努力を要するのだそうです。

 ドラマの中では、三田村演じる脩平が「(被害者の)お尻に押しつけられていたものが『勃起した男性器』であることは、温かさと硬さで分かった」とする女性の証言に反論するために、大学病院の先生の協力を得て、笑うに笑えないような実験までします。それは、実際に陰茎に注射(とても痛そう!)をして勃起状態にし、コートの上から表面温度を計るという実験で、本当にここまでしなくてはならないのか、と深く考えさせられてしまいました。

 そして、やっとのことで勝ち取った無罪判決! ― しかし、その道のりは長く険しく、たとえ<無罪>を勝ち取ったと言えども、<冤罪被害者>には過酷な試練が余りにも多過ぎます。このドラマの主人公も、結局出世コースから外された上に退職を余儀なくされてしまいます。

 この試練を通して<家族の絆>がいっそう強まったかのように感じられる最後のシーンだけが、せめてもの救いでした。


※ 覚醒剤密輸事件 再審で無罪判決 (2001.7.17)

 1981年7月に覚醒剤取締法違反と傷害容疑で逮捕され、1985年の最高裁の上告棄却決定で懲役16年の有罪判決が確定し、服役後も無実を訴え続けていた福岡県飯塚市の元金融業金洙元(日本名:天道浩太郎)さん(62)に対する再審で、福岡地裁は17日、覚醒剤取締法違反については無罪、傷害罪については1年6カ月の判決を改めて言い渡しました。以下、7月17日付朝日新聞(asahi.com)及び日経新聞(NIKKEI NET)の記事から ・・・。

 判決理由の中で「 浜崎裕裁判長は、『 金被告が密輸の首謀者だった 』との確定審の判断根拠となった共犯の自営業者等の証言について『 主要な点で供述が変節するなど信用性に乏しい。金被告が関与した証拠は見いだせず、犯罪の証明がない 』と 」述べた上、「 捜査段階での自営業者等の供述調書の一部についても、『 捜査官の誘導の結果との疑いを否定できない 』など 」と指摘した。

 85年の最高裁判決では、「 暴力団組長だった金さんは、知り合いの自営業者(懲役8年の有罪判決確定、92年に病死)と共謀し、覚醒剤約3キロを運び屋(懲役2年の有罪判決確定)に持たせて、80年10月に福岡空港に持ち込んだほか、同様の手口で3回にわたり覚醒剤を密輸したりした 」とされました。

 その際「 有罪認定の有力な根拠となったのは、共犯とされた自営業者の『 脅されて密輸した 』という証言と『 金さんによる犯行 』とする運び屋の供述など 」でした。

 しかし「 自営業者は病死する直前、金さんの弁護団に対して『 自分の刑を軽くするために、うその証言をした。金さんは関係ない 』と告白 」し、運び屋も虚偽の自白であったことを認めていた。

 「 金さんは、93年7月に第3次再審請求を福岡地裁に行い、自営業者の告白の録音テープなどを新証拠として提出。96年3月に再審開始が決定 」しました。

 「 浜崎裁判長は、2人の旧供述と新供述の信用性を、金さんの渡韓記録や再審で初めて証拠採用された国際電話の通話記録など客観的な証拠に照らして検討し、『 旧供述は金さんから密輸を依頼された経緯など重要な部分で変遷があり、不自然な点が多々ある。新供述は金さんに強要された形跡もなく、信用性は否定しがたい 』と判断 」しました。

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 今月17日に福岡地裁の再審で無罪判決を勝ち取った、福岡県飯塚市の元金融業金洙元(日本名:天道浩太郎)さん(62)に対して、福岡地検は30日控訴を断念する方針を固めたとのことです。以下、7月31日付朝日新聞(asahi.com)の記事から ・・・。

 「 検察側が有罪立証の柱としていた『 共犯者 』の供述の信用性が新証言により再審請求審と再審公判で否定され、無罪判決を覆す新たな証拠もみつからなかった 」ため、「 地検は、控訴審で有罪判決を得られる材料がない、と判断したとみられ 」ています。

 「 判決が確定すれば、金さんは国に対し、81年7月の逮捕以降、身柄を拘束されていた16年半について刑事訴訟法に基づく補償を求める 」とのことです。


※ 調布駅前事件で刑事補償請求認められる (2001.12.12)

 1993年3月に東京都調布市の京王線調布駅前で起きた傷害事件で、公判途中で控訴棄却の決定を受けた男性4人(事件当時は少年)に対して、東京高裁は12日、刑事補償の請求を棄却した一審判決を取り消し、計670万円の補償を認める決定を下しました。以下、12月13日付朝日新聞(asahi.com)及び日経新聞(NIKKEI NET)の記事から ・・・。

 判決理由の中で「 原田国男裁判長は、『 証拠などから有罪とはなしえない事件だった 』と述べた上、『 公判が続いていれば全員が無罪判決を受けた 』との判断を示 」し、これまで宙ぶらりんの状態だった裁判に一応の決着を見ました。

 「 無罪判決が出ていない事件で刑事補償が認められるのは極めて異例 」なことで、刑事補償法の規定では「 無罪判決を受けていない場合は『 無罪の裁判を受けるべきものと認められる十分な事由があるとき 』に限 」られています。

 「 同高裁は、これまでの裁判の証拠などを検討せずに元被告らを補償対象外と判断して申し立てを退けた一審・東京地裁八王子支部決定を『 法律の解釈を誤っている 』と指摘 」した上で、「 改めて証拠を検討して『 十分な事由がある 』と結論づけ 」ました。

 当時、「 4人は家裁の審判でいったん少年院送致の保護処分を受けたが、無実を訴えて高裁で認められた後、家裁による検察官送致(逆送)処分を経て、改めて傷害罪で起訴 」されましたが、その後最高裁が97年に「 うち1人について『 逆送の手続きは違法 』として控訴を棄却する判決を言い渡した 」ことを受けて、検察側が同年10月残る3人について「 公判途中で起訴を取り下げたため事実認定や有罪か無罪かの判断が示されないまま、審理はうち切られ 」ていました。

 この決定について、「 元被告の男性(27)は『 長い時間がたったが、こういう結果が出てうれしく思う。何もやっていないのに逮捕され、身柄を拘束され、警察や裁判所に不信感があった。こういう形になっても、事件は忘れられない。一生、頭の中に残る 』と話 」していたとのことです。

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