あなたは 名探偵  ― 布川事件を推理しよう!


第4回 ・・・ <謎の死亡推定時刻

 前回の好評(?)に気を良くして、またまた勝手に始めてしまいました ・・・。新春第1弾で今回取りあげるテーマは、玉村さんの<死亡推定時刻>についてです。

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 まず、この点について一審判決ではどのように記載されているのか見てみましょう。

 これによると、「 被告人両名は、・・・共謀をとげ、同日午後9時ごろ、同人方八畳間において、・・・ 同人を気管閉鎖による窒息死に至らしめてこれを殺害し、・・・ 」 となっていて、<死亡推定時刻>は8月28日の「 午後9時ごろ 」としています。

 また、二審の東京高裁判決はこの原判決を支持し、次のように認定しています。

 「 ・・・ 前記8月30日午後5時1分から正確に45時間遡れば、 死亡時刻は同月28日午後8時1分となり、他方、原判決認定の殺害時刻は 午後9時ころであるし、犯行時刻は、警察官による被告人両名や他の関係者の取調から判明してきたものであって、所論のように 警察が前記死後経過時間から正確に逆算して犯行時刻を定め、関係者の供述をこれに合わせたとの主張は、これを認めるに足る客観的な根拠がない。」

 この二審判決で言っている「 8月30日午後5時1分から・・・45時間 」というのは、茨城県警の嘱託医・秦医師による鑑定書(昭和42年12月1日作成)の次の記載を受けたものです。

 「 本屍の死後経過時間は、これを明言することは至難であるが、死後変化の程度並びに本屍の直腸内体温等により判断するに、約45時間内外すなわち約2日前後経過したるものと推測さる。(昭和42年8月30日午後5時01分現在) 」

(1) ここに言う『 死後変化の程度 』とは、腐敗の進捗度(しんちょくど)および死後硬直とその緩解(かんかい)の程度並びに死斑(しはん)の状態等を指しているのでしょう。秦鑑定書には、次のように記載されています。

 「 死体の硬直は、身体各部諸関節に中等度に存するも、その緩解は容易なり。本屍の腐敗の度は、人体形成を保つための極に達するものと思考さる。・・・ 」

 しかし、この<腐敗>については次のような指摘もあります。

「 死後変化は食べ物が腐るのと同じで、死後置かれた環境、たとえば気温、通風、死因、体格、個体差などにより大きく左右され、変動するので一様ではない。・・・死後変化も環境やいろいろな条件によって千差万別で、数学の方程式のように一括して論ずることはできない。」( 上野正彦著『 死体は知っている 』角川書店 )

 上記指摘のとおり、<被害者の死体>は複雑に絡まり合った幾つかの<環境要因>の影響を<生体>よりもビビッドに受ける為、ちょっとした違いが思わぬ結果をもたらすことがあります。以下は、『 死体は語る 』( 上野正彦著/時事通信社 )という本に書かれていた実際にあったケースです。

@ 高校生の孫が祖父母を日本手ぬぐいで絞殺後、押入の上段に祖父を、下段に祖母を押し込めて逃走したというケース。 ・・・「 3日後、その絞殺死体が発見されたとき、祖父は ・・・ 腐敗していたので死後3日くらい、祖母は ・・・ あまり腐敗していなかったので死後1日くらいと推定 」されましたが、「 父親につれられ自首した高校生の話では、5分くらいの間に祖父母を絞殺しているので、死後経過時間に差 」はない筈で、「 閉めきった押し入れ(の中では)、温かい空気は上に行く(ので)、このわずかな温度差が、死後変化に大きな影響を及ぼしていた 」のでした。

A 中年の男女が、同じ布団の中で青酸カリ心中をしていたというケース。  ・・・ 当初「 女よりも男の死体の腐敗が進行しているということから、もしかすると心中ではない 」のではないかと思われましたが、もう一度「 現場を見直すと、窓から西日がさして(いて)、男には直射(日光)が当たり、窓ぎわの女は壁で日は遮られていた 」という違いがあり、さらに「掛け布団が男(の方)に余計かかって 」いました。「 たとえ、同じ部屋で1つの布団の中で死亡していても、ちょっとした条件の違いで、腐敗に大きな差 」が生じてしまったのでした。

 玉村さんが殺害されたのは昭和42年8月28日で、この日は時折小雨がパラつく愚図ついた天気でしたが、それでも日中の最高気温は30度Cを超えていました。その翌日も似たような天気で、玉村さんの死体は高温・高湿度の閉め切られた室内に<敷布団等>を被せられた状態で長時間放置されていました。これらを考慮すると、玉村さんの死体の<死後変化>の進行が通常よりかなり速かったのではないかと容易に想像がつきます。

押入付近

 左の写真は、玉村さんが殺害されていた現場の押入前付近を斜め左方向から撮影したものです。

 写真が不鮮明で、ちょっと分かりづらいですが、畳が床下に落ち込んでいます。この落ち窪んだところに、
玉村さんが足を縛られた状態で倒れていました。

 右端にあるチェック模様の布団が玉村さんの背中に掛けられていた
<敷布団>です。
 白いのは、肩に掛けられていた
<開襟シャツ>でしょうか ・・・?

※ 上の写真で、畳が床下に落ち込んだ部分に隙間があるのが分かります。玉村さんは、その隙間の方に頭を向けて、尚かつ<敷布団><白開襟シャツ>を被せられた状態で倒れていました。その為に、その床下の湿気が、玉村さんの死体の<腐敗の進行>を通常よりも速めた可能性も考えられます。

 なお、布川事件には秦鑑定書のほかに、千葉大学医学部の木村康教授(作成時、現名誉教授)が、昭和57年12月15日に作成した<意見書(旧)があり、同教授は、この中で死体発見現場の状況をも踏まえた上で、玉村さんの死体の腐敗状態を詳細に検討して死後経過時間を推定しています。

 その詳細は木村意見書(旧)をご覧頂くとしてその要点だけを言いますと、死後経過時間「 死体現象全体からは死後約30時間以上、死体現象のうち瞳孔の透見の度合(角膜の混濁度)からは、死後24時間〜48時間の間、また死後の硬直の状態からは30時間〜40時間の間だとしています。

― やはり、<死後変化の程度>から正確に時間を割り出すのは難しいようです。

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(2) また、『 本屍の直腸内体温等 』とは、秦鑑定書の次の部分を言っているのでしょうか?

 すなわち、「 体温は、直腸内に於て摂氏27.0度、時に外気摂氏25.0度なり。」

 この点については、@「 死ぬとからだの温度発生は止まるので、体温は徐々に下降し、周囲の気温と同じになってくる。一般的には、気温が摂氏20度のとき、はじめの7時間は毎時間1度、以後毎時間0.5度下降すると言われている ・・・ 」( 前掲『 死体は知っている 』)そうです。

 一見したところ、これが客観的な<死後経過時間>の判定法のように思われますが、殺害された季節や死体のあった場所(土中、水中、室内等)、それに被害者の体格等によっても異なる為、あまり確実な判定法とは言えないようです。

 また、もう少し専門的な書物では、<早期死体現象>として次のように説明しています。「 恒温動物のヒトが死亡すると、体温を保持している組織の新陳代謝が停止するので、熱の輻射・伝導ならびに対流及び水分の蒸発にともなう気化熱の発散によって熱放散がおこり、体温は徐々に低下する。この降下について、 数十年前は、成人の場合は1時間に0.7度Cくらい(夏は0.5度、冬は1度)の割合で直線的に低下すると考えられていた 」が、「 その後、死体温の降下度を実測すると直線関係ではなく、指数曲線的に降下することが判明した 」として、ニュートンの法則に従った複雑な方程式を掲げています。( 石山c夫著『 法医学への招待 』ちくまライブラリー63 )

 しかし、「 その後、さらに詳細な死体温の降下についての検討がなされ、死後1〜2時間は直腸内温度に変化がないことが判明 ・・・ (いわゆるプラトー形成期) したとして、同書ではさらに複雑な方程式を提示していますが、これでも<死体の条件>によって定まる<定数>を4つも含んでいるために、確実な算定法とは言い難いようです。

― では、秦鑑定書「 約45時間内外 」というのは何を根拠に算出されたのでしょうか ・・・?

 結局のところ、秦医師の<経験則>に基づいているとしか言いようがありません。<死後変化の程度>というのは数値化するのが難しいので、試みに<直腸内体温>をもとに前掲の@説 ― 気温の違いには、この際目をつぶります ― によって計算してみると・・・。( なお、健康な人の平均的な直腸内温度は、37.2度Cだそうです。)

( 37.2度C−27.0度C−7度C )÷ 0.5度C + 7時間 = 13.4時間

となります。前記<プラトー形成期>を考慮に入れても最大限15.4時間です。

 ただし、玉村さんの死体には<敷布団 >と<白開襟シャツ>が掛けてありました。このような場合には、直腸内温度の降下度が通常よりも緩やかなのだそうです。つまり、A死体が「 蒲団のなかにあった(場合には)、冷却率は3分の1くらい小さくなる。・・・ 経験的に蒲団のなかの死体の直腸内温度の降下度は、夏冬にかかわらず栄養状態のよい人では毎時0.4度C、やせた人では0.7度Cという値を用いると死後時間はかなり正確に算出できる 」( 前掲『 法医学への招待 』)のだそうで、これを用いると次のようになります。( 因みに玉村さんは栄養状態が良い方だと思われます。)

( 37.2度C−27.0度C )÷ 0.4度C + 2時間(プラトー形成期) = 27.5時間

― しかし、これでも「 約45時間内外 」には程遠いとしか言えません ・・・!

 <直腸内体温>の降下度を用いて<死後経過時間>を推定する場合に、その<推定値>が有効なのは<死亡時>から比較的短時間 ― 直腸内体温が外気温と同じになるまでで、おそらく最長でも24時間以内 ― の場合に限られるようです。<布川事件>のように<殺害時>から約2日も経過してしまったようなケースについては、ほとんど<計測不能>と言わざるを得ません。

 そして、さらに<死亡時>から比較的短時間の場合においても、その<推定値>を確実なものにする為には、通常同じ温度計を使って2回以上 ― できれば同じ環境で一定時間ごとに3回 ( 三点法:前掲『 法医学への招待 』) ― 測定すべきだと言われています。
( 参照:『 97法医学講義ノート 死体現象 』 http://forensic.iwata-med.ac.jp/lectures/notes2.html )

― 秦鑑定書では、残念ながら1回しか測定していないようです。

 <死後経過時間>の判定が如何(いか)に困難かということが、これでお分かり頂けたかと思います。これは、法医学の専門家をして「 死体以外の資料による死後経過時間推定 」が「 しばしば死体所見による推定よりも正確(だ) 」( 前掲『 97法医学講義ノート 死体現象 』)と言わしめている所以(ゆえん)です。

 なお、この<直腸内体温>の降下度についても、前記木村意見書(旧)では、死体発見現場の室温が玉村さんの直腸内温度と同じ 大凡(おおよそ)27.0度ではなかったかと推測した上で、その室温での多数死体の体温降下度の平均値を基に、より詳細な計算をしています。そして、その計算結果から玉村さんの死体は、少なくとも死後30時間は経過していると推測しています。また、同教授はこの中で「 死体の温度が環境の温度と同じになれば、以後はその温度が持続するわけであるから、この30時間は、死後経過時間の短い方の限界ということになる。」と付け加えています。

― やはり<直腸内体温>の降下度を用いて<死後経過時間>を推定するのにも限界があるようです。

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(3) では、ここで視点を変えて、玉村さんの<胃の内容物>に焦点を当ててみたいと思います。

 前述の秦鑑定書には、次のように記載されています。 ― 「胃内には、約5.0ml の泥様内容を容れているのみにして、小腸、大腸と共に腐敗ガス多量に充満膨大し、出血等の異常を認めず。」

 ただし秦医師は、次のようなことも<事情説明聴取書>の中で指摘していて、この点についても充分に考慮する必要があります。「 胃の内容物だけで死後時間を判断するのは、危険である。非常に個人差があり、腐敗による変化もある。 5.0mlは少量であり、空腹時と同じと考えてよい。」

 それに<食物>によっても<胃の消化時間>に違いが生じてきます。たとえば、「 @ 野菜(米、果物を含む)・・・2〜3時間、A お肉(ハム等も含む)・・・4〜5時間 」だそうです。
( 参照 :『死亡の推定時間の判定について』 http://www.ne.jp/asahi/seya/nitta/michi/hoigaku/suitei.html )

 また、次のような指摘もあります。「 胃の内容量は、平均、日本人成人男子でごはん7杯分、女子で6杯分と言われている。一度の食事の平均消化時間は、3時間〜5時間で、食べ物を腸へと送り出していく。」
( 参照 :『発掘!あるある大事典 第60回・胃』 http://www.ktv.co,jp/ARUARU/search/arui/i1.htm )

 その他幾つかの書物をあたってみましたが、平均的な<胃の消化時間>は3時間〜4時間位のようです。以下、いくつか列挙しますと、次のようになります。

@「 普通の食事は、食後3〜4時間で胃から十二指腸へ移っていくが、脂肪食や肉類などは5時間以上残ることもある。」( 渡辺淳一著『 新釈・からだ事典 』集英社 )

A「 消化された食物が粥状になって十二指腸に送られるまでの時間は、2〜3時間 」( 永井明著『 解体新書・ネオ 』集英社 )

B「 胃の重要な働きの1つに、食物を3〜4時間貯蔵するということがあるが、成人の胃には一度に約1.5リットルぐらい入る。」( 川嶋昭司著『 自覚症状の探索 』農山漁村文化協会 )

C「 胃を通過する時間は、食物の種類によって違う。一般に冷たいもの、やわらかいものは速く、温かいもの、固いもの、脂っこいものは遅いといわれる。水やお茶などの液体は数分、普通の食物は1〜2時間で通過するが、脂っこいものなどは3〜4時間以上かかって通過することもある。」( 安藤幸夫監修『 からだのしくみ事典 』日本実業出版社 )

D「 普通われわれが食べる和食の場合、食後10分ごろから胃内容は十二指腸へ移送されはじめ、3〜4時間で移送は終わり、胃は空虚になる 」( 上野正彦著『 死体検死医 』角川文庫 )

 このように、<個人差>やその人の<健康状態>だけではなく、食べ物の<種類や量>によっても胃の消化時間に差異が生じてしまうので、これによっても<死亡推定時刻>を正確に割り出すのは難しいのですが、ひとつの目安にはなります。そして、死体現象や直腸内体温の降下度を含め総合的に判断していく必要があるようです。

 なお木村教授は、先の<意見書(旧)の中でこれらの点を総合的に分析して「 玉村象天の死体の死後経過時間は、30時間乃至40時間の間で、食後約4時間から6時間の間と推測 」しています。ただし、この「食後約4時間から6時間の間」と判断した点については、その根拠を明らかにしていないのでよく分かりませんが、おそらく<一般論>に多少の余裕を持たせたのでしょう。

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― 以上、長々と検討してきましたが、ここからは推理をしていくことにしましょう ・・・!

 ・・・ と、その前に<起訴状>の内容を検討してみましょう。これを簡単に要約すると

「 昭和42年8月28日午後7時20分頃、競輪に興味を覚えた金欠病のふたりが、たまたま利根町・栄橋のたもとで出会って金策の相談をしているうちに、玉村象天さん方に赴いて借金することになり、同人方を訪れたがすげなく断られてしまった。やむなく、一旦は栄橋付近に引き返したものの、諦めきれずに再度同人方を訪れたが、またもや拒絶されてしまった。ふたりは、その時の玉村さんの態度に非常に憤慨して、共謀のうえ同日午後9時頃同家八畳間において玉村さんを殺害し、同人所有の現金合計約10万7千円を強取した。」ということになるかと思います。

当時の栄橋  左は、当時の栄橋の写真です。この当時、既に橋の老朽化が激しく<車両通行止>になっていました。

 布佐駅〜竜ヶ崎駅間を運行していた関東鉄道バスも、この橋の手前での折り返し運転。ここから布佐駅までは徒歩で行かなければなりませんでした。

 私が、ここで何を問題にしているかといいますと、「 第1回目の訪問と第2回目の訪問との間に、どの位の時間差があったのか 」ということです。その理由については後で述べることにして、この点について考察してみたいと思います。

 まず、<栄橋たもと>でふたりが出会ったのが午後7時20分頃だというのだから、小貫少年の目撃証言(第1回参照)からも第1回目の訪問は午後7時30分頃から8時頃の間ということになります。<栄橋たもと>から<玉村さん宅>までは歩いて10分位なので、往復で約20分。そして、栄橋付近に引き返した後、再び金を借りに行く相談をしているので、それにも何十分か時間を要しているはずです。

 次に、<殺害時間>が午後9時頃ということだから、第2回目の訪問は、おそらく午後8時30分頃から午後9時頃の間だったと考えられます。

 これは、玉村さんの立場からすると「 第1回目の訪問と第2回目の訪問との間 」に少なくとも30分〜1時間位の<時間的余裕>があったことになります。

訪問ルート

 左図は、ふたりの自白調書添付図面に描かれていた<第1回目の訪問>の時の<帰りのルート>を1枚の図面にしたものです。

 どういう訳か、
<自白内容>に食い違いが生じていますが、どちらのルートを通っても所要時間はほぼ同じです。

 そして、不思議なことに相談した場所でも、ふたりの
<供述内容>には食い違いが生じているのです・・・?

― 前置きが長くなりましたが、ここから本論に入ります。

 先程、<胃の内容物>のところで秦鑑定書に何んて書いてあったか、覚えてますか・・・? そう、「 胃内には、約5.0ml の泥様内容を容れているのみ・・・ 」となっていましたよネ・・・! もう、お分かりですか・・・?

 この日玉村さんは、朝から大工仕事をして午後7時過ぎに帰宅(第1回参照)しました。玉村さんは、決して病気だった訳ではありません。1日肉体労働をしてきたその玉村さんが、帰宅後、殺害される午後9時頃まで何も食べなかったというのは、本当に不思議ですよネ・・・?

 <第1回では、勝手場の様子から(少なくてもこの日は)自炊していないようなので、おそらく<外食>していたものと推理しました。何らかの理由で外出できなかったとしても、茶ダンスには大好物の<羊羹>が22本もあるし、ズボンのポケットには<明治ゆであずきの缶詰>が1個入っているのだから、当然それを食べない訳がありません! ― 起訴状の内容が、この点でも客観的事実と大きく食い違っていると言わざるを得ません!

 玉村さんの<胃の内容物>の状態から判断すると、「 帰宅直後に殺害された 」 ― この場合の<胃の内容物>は、3時の休憩時間に食べた<茶菓子>でしょうか? ― か、「 夕食後何時間かして ― <木村説>を採ると約4時間から6時間の間に ― 殺害された 」か、の2つしか考えられません。

 そして、帰宅後1歩も外出していないとすると、ズボンの右ポケットに入っていた<明治ゆであずきの缶詰>との接点がないので、玉村さんは一旦帰宅した後に再び外出して食事とパチンコをした、というのが第1回での推理でした。 ― 今更ながらに思うのは、<胃の内容物>の成分分析をして、食べた食品を特定していて欲しかったということですネ〜! ―

― では話を戻して、玉村さんが食事をしたのは、何時頃だったのでしょうか ・・・?

 結論から先に言いますと、私は午後7時30分〜8時頃の間だったのではないかと考えています。ここで1つネックになるのが、先程の小貫少年の<目撃証言>なのですが、それでは次に小貫少年のその日の行動を追ってみたいと思います。

 この日の夕刻、感心なことに小貫少年は、母親が勤め先の鶏肉店で販売する野菜を仕入に行くのに同行しました。家を出たのは、遅くともとも午後7時10分以前だと思われます。というのは、午後7時15分頃になると布川の町中は午後7時05分布佐駅着の列車で帰宅した人で混雑するので、その前に家を出たからです。途中、親戚の家に寄り自転車を借りますが、この時彼は布佐へ行く用事を頼まれます。そこで彼は母親と別れてひとり布佐へ行き、その帰りに「 被害者宅前に2人の男が立っていて、うち1人が被害者と話をしている 」のを目撃しました。

 しかし、この2人の男の姿は、先に野菜の仕入先に向かったこの母親も実は目撃していたのです。被害者の玉村さん宅は、小貫少年宅と仕入先(布佐とは正反対の位置にある)との中間点にあるので、当然、時間的には母親の方が先に目撃することになります。もしそれが事実だとすると、その目撃された<2人の男>は、午後7時05分布佐駅着の列車に乗って布川に帰ってきたことになっている桜井さん杉山さんである筈がありません! そこで検察側は、この母親よりも目撃した時間が遅い小貫少年の方を証人としました。

 9月1日の出来事を8月28日のことに平然とすり替えてしまった捜査当局にとっては、<目撃時間>を30分ずらすことなど、何んの造作もないことだったのです。勿論、捜査当局がそんなことをするのは、桜井さん杉山さんの供述内容と矛盾が生じないようにするためなのですが ・・・。

― ちょっと話が脇道へ逸れてしまいましたので、また元に戻しましょう。

 玉村さんは、午後7時過ぎに仕事を終えて帰宅しました。そして、その直後にふたり連れの若い男達の訪問を受けますが、そのふたりはちょっと立ち話しただけで帰ります。その後玉村さんは、午後7時半過ぎに夕食を摂るために再び自転車で外出します。食後は、いつものように木下(きおろし)駅前のパチンコ店へ ・・・。

― では、玉村さんがパチンコを終えて帰宅したのは、何時頃だったのでしょうか ・・・?

 何んの根拠もありませんが、玉村さんは閉店まで店に居なかったのではないか、と考えています。敢えて1つ根拠らしいものを上げれば、ズボンの右ポケットに入っていた<戦利品?>でしょうか・・・? 私事で誠に恐縮ですが、はるか昔、お金もないのに毎日のようにパチンコ店に入り浸っていた時代、調子が悪くて玉が出ない時は、取り敢えず<タバコ1個>を確保した上でパチンコを終えていました。あの頃は、私もタバコを吸っていましたので ・・・。

 今思えば、あれは私が独自に編み出したものではなくて、誰かに教わったことのように記憶しています。いわばパチンコ愛好家の間である程度一般化された<生活の知恵>だったのでは、・・・。 そして、<タバコ>を吸わない ― <勝手場>にあった灰皿と吸い殻は、かなりの埃(ほこり)にまみれていたので昔吸っていたものか、来客用のもの ・・・? ― 玉村さんは、それが<タバコ>ではなくて<明治ゆであずきの缶詰>だったのではないでしょうか ・・・?

 さて、この日調子が悪かった玉村さんは、早々にパチンコを切り上げて家路につきます。時間は、おそらく9時過ぎ頃。木下(きおろし)から自宅までは、自転車で約30分。遅くとも、9時半過ぎ頃には自宅に着いたと思います。その為、10時過ぎまでは帰らないだろうと踏んで室内を物色していた<犯人>と、運悪く鉢合わせしてしまったのではないでしょうか ・・・?

 私は、― 前回でも言いましたが ― <真犯人>玉村さんのかなり身近にいた顔見知りの人物だったと考えています。その為、@<勝手口>の錠のスペアキーが敷地内の別の場所に隠されていること ― <第2回・追記>参照 ― 、A玉村さんが、8畳間のどこかに多額の現金を隠し持っていること、そして、B夜には頻繁に木下(きおろし)駅前のパチンコ店に行き、帰宅時間はかなり遅くなること等、を知っていたに違いありません。

※ 上記Aの点について、ちょっと補足させてもらえば、検証調書をよく読んでみると、<玄関内板縁>の所にも小型金庫2個とロッカー2つがあるにも拘わらず、これらは全く荒らされた形跡がなくて、物色は<8畳間>に集中しているのが分かります。これは<犯人>が、事前にある程度は現金の在処(ありか)を知っていたからに相違ありません! ( 下の写真は、何れも物色された<8畳間>の写真です。 )

荒らされたロッカー

荒らされた机

 では、最終的に玉村さん<死亡推定時刻>は、何時頃だったのでしょうか ・・・?

 事件当時、62才だった玉村さん<胃の消化力>は、若い人に比べたら劣っていたでしょうが、だからこそ、尚更消化の悪いものは食べないようにしていた筈です。この点に関して更に言えば、老齢や病気を原因として食べ物の嗜好(しこう)がより味の淡泊な物、そしてより消化の良い物へとシフトしていくというのは一般に知られたところです。

 また秦医師からの<事情説明聴取書>によれば、玉村さん<体型>は横にガッチリしたタイプだそうで、このような筋肉質タイプの人は、概して胃腸の丈夫な人が多いようです。何れにしても、玉村さん<胃の消化力>と他の人のそれとに差をつける理由は見出せません。

 そこで、通常の<胃の消化時間>の3〜4時間というのを採用して、玉村さん<死亡推定時刻>は、午後11時頃〜12時頃の間だったのではないかと私は考えています。これは、第1次再審請求の時に弁護団が木村教授の<鑑定意見>を取り入れて、死亡推定時刻を「同日午後11時30分以降翌29日午前11時01分までの間」としたものに30分のずれはありますが、ほぼ合致します。

 なお、帰宅後の玉村さんと犯人とのその後の<事件の展開>については、前回で推理したとおりです。

 ここまで、かなりのスペースを割いて長々と検証してきましたが、残念ながら非常に多くの<仮説>を含んでいることは否めません。しかし、科学の世界には<オッカムの剃刀(かみそり)の原理というのがあることを、最後に指摘しておきたいと思います。これは、簡単に言うと「 説明のつかないような現象に対しては、最も無理のない単純な理論の方がよい 」とする原理です。その意味で、私の立てた<仮説>の方が、少なくとも起訴状よりは合理性があると思うのですが ・・・。

― さあ、貴方ならどんな推理をされますか ・・・?

 ※ 貴方の名推理をお聞かせ下さい。 →   ポスト

( 2002. 1 T.Mutou )

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