あなたは 名探偵  ― 布川事件を推理しよう!


第5回 ・・・ <謎の指紋

 お陰様で、このシリーズもどうにか5回目を迎えることができました。皆様の心強いご声援に深く感謝致します!

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 今回は謎の指紋というテーマで、事件現場に残されていた、あるいは残されていなかった指紋そのものにスポットライトを当ててみたいと思います。

 では、まず布川事件の<検証調書(昭和42年8月30日)をご覧下さい。次のように記載されている筈です。

 「 現場において犯人が印象したと認められる指紋掌紋等を次のとおり採取した。

(1) アルミニーム粉末によるもの

居宅東南隅の雨樋              1個

勝 手 場
 一 升 瓶                 1個
 
ガラス戸の桟                2個
 茶ダンス                 1個

4 畳 間
 漬物容器                 2個
 醤 油 瓶                 2個

玄 関 内
 金  庫                 2個
 ロッカー側面               6個
 アイロン                 1個

8 畳 間
 桐タンス                 5個
 洋服タンス                3個
 砂糖入容器                1個
 柱                    1個
 鉛筆削機                 1個
 トランジスターラジオ           1個
 ナゲシ                  2個

(2) ニンヒドリン溶液によるもの
 8畳間の封筒                1個

(3) 黒粉によるもの
 8畳間のナゲシ               2個

(4) ウルトラニームによるもの
 居宅東南隅の雨樋             2個

(5) 写真撮影によるもの
 便所外側の短い竹棹            1個 」

 というように、検証時点では以上38個の指紋が検出されたことになっています。この<指紋の数>が、一般的に言って多いものなのか、それとも少ないものなのかは比較する資料がないのでよく分かりませんが、でもこの家には実際に人が住んで生活していたということを考えると、何となく少ないような気もします。

 ところで余談ですが、<38個>の指紋と聞いて「 あれっ、変だな? 」と思われた方、貴方はかなりの<布川事件通(つう)ですネ!・・・ そう<布川事件>では<43個>の指紋が検出されたことになっています。実は、残りの<5個>は、後日<便所の窓の桟>から検出されました。それも何んと驚いたことに全部<捜査官の指紋>でした。「 開いた口が塞がらない 」と言うのは、きっとこのことなのでしょうネ! ― この<捜査官の指紋>は、桜井さんにそのを見せた後に検出されたそうです。この辺のところに、何となく作為的なものを感じてしまうのは、私の思い過ごしでしょうか・・・?

 実は、この<検証調書>の記載には1ヶ所間違いがあります。では、茨城県警の鑑識課が作成した現場指紋採取一覧表(昭和42年9月20日)をご覧下さい。<検証調書>の記載では、勝手場ガラス戸の桟から2個の指紋が検出されたようになっていますが、<現場指紋採取一覧表>には、 被害現場に倒れていたガラス戸桟と記載されています。つまり4畳間>と<8畳間>の境にあった<ガラス戸>です。 ― それを考慮に入れた上で、もう一度考えてみて下さい。

現場見取図

 左図は、検証調書添付の現場見取図です。

 少し見づらいですが、図面左上が玉村さんが殺害されていた8畳間。押入は、この図の中央右寄りに位置しています。

 この間取り図の下方が居宅南側で、玄関(左)と勝手口(右)があります。

 問題の<ガラス戸>は、玄関と8畳間に挟まれた4畳間側に倒れていた2枚のガラス戸です。

― 検出された指紋の一覧表を見て、何か変な感じがしませんか ・・・ ?

 というのは、毎日開け閉めしているのだから、本来もっと沢山の指紋が付いていても良いはずの勝手場入口の<ガラス戸>からは、1個も指紋が検出されていません。<検証調書>の誤解を招くような上記の記載は、「 それを隠す狙(ねら)いもあったのでは・・・? 」と勘ぐってしまいます。

 また、通常頻繁に使用する便所入口の取っ手電灯のスイッチなどからも沢山の指紋が検出されても良いような気がしますが、それらについては何の記載もありません。ということは、きっと何も検出されなかったのでしょう 。

― 結論を急ぐ前に、ここでちょっと指紋の<検出方法>について考察してみましょう!

 指紋の検出法は、大きく分けると次の4つに分類できます。

(1) 体から分泌される水分を浮き上がらせるため
アルミニウム粉やカーボン粉を塗布する<粉末法>
(2) 分泌されたアミノ酸や蛋白質と反応する
ニンヒドリン溶液や塩分を検出する為に硝酸銀溶液を吹き付ける<液体法>
(3) デンプンや脂肪分を検出するために
ヨードガスを吹き付ける<気体法>
(4) 油脂分を検出するために
アルゴンレーザーを照射する<レーザー法>

 <検証調書><現場指紋採取一覧表>の記載からも分かるように、<布川事件>では4つの検出薬<指紋採取>が行われています。すなわち、アルミニーム粉末、ニンヒドリン、黒粉、ウルトラニームがそれです。

 では、実際にどのような手順で<指紋検出>が行われているのかを整理してみましょう!

 通常、犯罪現場での指紋採取には、微細なアルミニウムストンパウダーなどの粉末が用いられ、これらの粉末を犯人が触れたと思われる所にうさぎの毛で作られたダスター刷毛(はけ)で少しずつ撒布(さんぷ)した上で、その穂先で軽く払っていきます。 ― テレビドラマなどで鑑識課員が事件現場でやっている、アレです。 ― すると指紋の<隆線>の部分だけに粉が付いて、指紋が浮き上がってきます。

 そして、その浮き上がってきた<遺留指紋>に素通しのゼラチン紙を貼って転写(リフティング)させ、さらにもう一度転写させて黒い台紙に貼ったものが<指紋原紙>と言われるもので、この状態で何年間も保管することができます。

 さらに、血の付いた手で触れた所からは<血痕指紋>を採ることができ、この場合にはベンジンルミノールなどの溶液をふりかけ、化学反応によって<指紋隆線>を浮き出させます。

 どの<検出薬>を使用するかは、検出されるべき<潜在指紋>が付着している検体の種類やその状態に応じて20種以上の薬剤が使い分けられているようです。

 <アルミニウム粉末><黒色粉末>は広く一般的に使われている検出薬で、ガラス製品や陶磁器、家具類などの比較的表面が滑らかで硬い素材からの指紋検出に適していて、その検体の色に応じてそれぞれ使い分けられています。多色性担体の場合には、<蛍光粉末>が用いられることもあります。 ― なお、ここに言う<アルミニウム粉末>とは、アルミニウムを300〜330メッシュ位まで粉末化したものを指しています。また、<黒色粉末>の材質は、黒鉛とカーボンブラックを280〜300メッシュ位まで粉末化したものです。( 布川事件再審『 指紋鑑定書 』 齋藤第一鑑定 )

 さらに、紙や布片、表面処理をしていない木材などの有孔性担体に対しては、<ヨードガス><ニンヒドリン溶液>が用いられています。この<ヨードガス>は、水に濡れた担体に対しても非常に適しています。 ― なお、<ニンヒドリン溶液>には、溶媒として<アセトン><石油ベンジン>がありますが、後者は昭和42年当時は研究段階で、実際には使われていなかったそうなので、ここに言う<ニンヒドリン溶液>とは、「 0.5%のニンヒドリンアセトン溶液 」のことを指しています。( 前掲『 指紋鑑定書 』)

 なお、<布川事件>では、『 居宅東南隅の両樋 』からの指紋検出<ウルトラニーム>という検出薬が使用されています。これは、<アルミニウム粉末>を海面活性剤で帯電防止加工処理してベタつきを抑えた粉末で、付着力は<アルミニウム粉末>の8割程度。主に合成樹脂、新建材、ビニール系などのあらゆる素材に適合します。( 前掲『 指紋鑑定書 』)

 さて、このようにして検出された指紋は、まず被害者やその家族等の<関係者指紋>と照合され、ここで照合されずに最後まで残ったもの( いわゆる『3号指紋』)が、一応は<犯人の指紋>と推定されることになります。

 前掲の<現場指紋採取一覧表>をもう一度ご覧下さい。検出された38個の指紋の内、<関係者指紋>と照合できた5個の指紋を除く33個の指紋対照不能となっています。これは、通常<部分指紋>もしくは<片鱗紋(へんりんもん)とも呼ばれ、その検出された指紋が不完全もしくは不鮮明な為に、おそらく他の指紋と照合することが出来なかったのでしょう。

 現在は、コンピューター利用の照合技術が進歩したことにより、3分の1程度の<部分指紋>であっても照合できるそうですが、当時は全くお手上げでした。また、<レーザー光>を利用することにより、当時は不可能だった<布片>からの指紋検出も現在では可能になっています。

― 余談はこれ位にして、再び<布川事件>の現場に戻ってみましょう!

 では、下の写真(検証調書添付写真)をご覧下さい。

玄関付近

 左の写真は、玉村さん宅の南側・玄関付近を撮影したものです。手前が<玄関>で、奥のガラス戸が<勝手場入口>です。

 玄関内は器具置場のようになっていて、玄関のガラス戸はいつも閉め切られていました。

 その為、玉村さんは、もっぱら奥の<勝手場入口>から出入りしていました。

 次の写真は、現場8畳間に置かれていた机及びロッカーの写真です。ご覧のように、かなり物色された様子がみられます。

desk

locker

 話を元に戻しますが、なんとも不思議なのは玉村さんが毎日頻繁に出入りしていた勝手場入口の<ガラス戸>や現場8畳間の<机>及び<ロッカー>からは唯の1つも<指紋>が検出されていないことです。唯一、おそらく下側のロッカーに入っていたと思われる<常陽銀行の金銭袋>から銀行員の指紋が1個検出されているだけです。

 犯人が、全く物色していないと思われる<玄関内><金庫>及び<ロッカー側面>から合計8個の<指紋>が検出されているのとは余りにも対照的です。

― この事実をどう捉(とら)えれば良いのでしょうか ・・・ ?

 私が思うに、勝手場入口の<ガラス戸>8畳間の<机>及び<ロッカー>の表面からは、明らかに<指紋>が拭き取られたと考えた方が筋が通ります。しかし、犯人が物色中に触った物すべてから<指紋>を拭き取ったとするのは、余りにも非現実的です。かといって、手を触れないように物色したとか、手にハンカチのような布片を巻き付けて物色したと考えるのもちょっとムリがあります。

 理由は不明ですが、犯人は<手袋>をしていたけれど、勝手場入口の<ガラス戸>8畳間の<机>及び<ロッカー>の表面の<指紋>は犯人が拭き取ったと考えるのが最も合理的です。

 その<手袋>は、犯人が最初から用意していた物だということも否定は出来ませんが、私は現場にあった玉村さん所有の手袋だったと考えています。玉村さんは、仕事柄、日頃から建設作業などにも従事していましたので、当然<作業用手袋> = <軍手>なども必需品だった筈です。一般的に<軍手>の1組や2組持っているのが常識です。

 前掲の<検証調書>によると、8畳間の机の下には「 トースター、袋に入った新しい朝日ゴム長靴、板に巻いたビニールコード、ロープ、箱に入ったチョコレート色の古い皮短靴・・・ 」が雑然と押し込んであったと記載されているので、この中に真新しい<軍手>があったとも考えられます。

 また玉村さんは、事件当日には吉岡さん宅の鶏小屋を作っていました( 第1回参照 )。勝手場に置いてあった<地下足袋>と一緒に<軍手>があったとしても何の不思議もありません。そこで、犯人が勝手場入口から侵入した時( 第2回参照 )に、その入口横に置いてあった<軍手>に気付き、それをはめて8畳間を物色したと考えることも出来ます。

― しかし、この場合には1つ問題が生じます。

 つまり、その<軍手>が油脂や埃等で汚れていた場合には、通常<手袋痕>が検出されるからです。現に、平成4(1992)年に東京都下で起きた『 白昼主婦殺人事件 』では、湯呑みから採取された<手袋痕>から内装職人が容疑者として浮かび上がり、最終的には<DNA鑑定>が決め手となって逮捕されています。(『 指紋捜査官 』 堀ノ内雅一著/角川書店 )

 <布川事件>の場合、その当時の茨城県警の<鑑識能力>にも依(よ)りますが、もし<手袋痕>が検出されていれば<検証調書>に何らかの記載があって然るべきです。

― では、もう1つの場合について検討してみましょう!

 犯人は、勝手場入口から侵入するとそのまま8畳間<ロッカー>へと向かいます。以前訪ねた時、玉村さんが何度か8畳間<ロッカー>から現金を出して来るのを目撃していたので、玄関内の<金庫>と<ロッカー>には最初から目もくれませんでした。

 その<ロッカー>には鍵が掛かっていなかったので、まず上の<ロッカー>の扉を開けますが、この時<指紋>のことが気になり出します。以前にテレビで刑事ドラマを見て、<指紋>から足がつくのを知っていたからです。そこで、ふと横の<机の下>を見ると、長靴と一緒に真新しい<軍手>が目に付きました。そこで、・・・ 。

― と、こんなところでしょうか ・・・ ?

 この想定なら、勝手場入口の<ガラス戸>8畳間の<机>と<ロッカー>の表面の<指紋>を拭き取られていた事も説明がつきます。途中から<軍手>をはめたので、それ以前に<素手>で触れた場所を拭き取っておく必要があったからです。

 また、こうも考えられます。つまり、犯人はそれ以前に何度か玉村さん宅を訪ねていたので、その時付いた<指紋>も拭き取っておく必要があった。もしかしたら、その時に下見も兼ねて<トイレ>を借りたのかもしれません。その為、<便所の扉>周辺の<指紋>も拭き取っておく必要もあった。勿論、ついでに偽装工作も ・・・ 。

 余談ですが、<手袋>をした犯人が唯一その<手袋>を外した可能性があるのが、玉村さんの手足を縛った時ではないでしょうか ・・・? 試しにちょっとやってみれば分かることですが、<手袋>をはめた状態でワイシャツやタオルをきつく縛るのはかなり難しい筈です。<検証調書>には、次のように記載されています。 ― 「 足首には、・・・黒い斑点のついている白ワイシャツを1巻き巻いて、こま結びに結んであり、その下に長さ1.05mのタオルを2巻き巻いて、一重結びに結んである。」

 余談ついでに、もうひとつ。さらに<検証調書>には、次のような面白い記載があります。8畳間の部屋の様子を記載している部分で、次のように記載されています。 ― 「 ・・・ミシンの上にはゴム雨カッパ、ビニールズボン、デコラの見本、その他ゴム手袋、皮手袋各1双が雑然と載せてあって、一面に埃がついていた。」

― さて、これをどう解釈したら良いのでしょうか ・・・ ?

 ミシンの置いてあった場所は、8畳間北側の整理ダンスの前で、犯人が物色した机やロッカーがあった場所とはちょうど反対側になりますから、ミシンの上に置いてあった手袋には全く気付かなかったとも言えなくはないのですが、別な見方をすれば、犯人は、その時既に<軍手>をはめていたので、その手袋は全く必要がなかったと考えることも出来ます。少なくとも、このことは<軍手>の存在がそれ程突飛な推測ではなく、かなり現実味を増して来たと言えます。

― ところで、犯人は本当に<指紋>を拭き取っていたのでしょうか ・・・ ?

 面白いことに<布川事件>の発生した同じ年、つまり昭和42(1967)年10月にこんな偽装事件が東京の大井町で発生しています。ホテルの一室で起きた女性の<変死事件>で、現場に遺書が残されていたことや死亡者が別の横領事件で全国指名手配されていたことなどから捜査方針が一時<自殺>の線に傾き掛けたけれど、実は自殺を装った<殺人事件>だったというものです。

 この時主犯格の男は、共犯の女性に指図して<指紋>が付いていると思われる場所を<ハンカチ>で拭き取らせています(『完全犯罪と闘う』 芹沢常行著/中公文庫 )が、中廊下の洗面所備え付けのコップに残されていた<指紋>から他殺と断定され、結局その拭き忘れた<指紋>が決め手になって2人の容疑者が逮捕されました。( 前掲『 指紋捜査官 』)

 この事件は、昭和42(1967)年当時すでに<指紋>が逮捕の決め手になること、そしてそれを拭き取ることによって逮捕を免れ得ることが一般的に知られていたことを示す、とても興味深い事件です。

― では、再び話を<布川事件>に戻しましょう ・・・ !

 私は、これまで何回か申し上げましたとおり、玉村さんが犯人の物色中に突然帰宅した為に現場での<乱闘>が起こったものと考えています。ふたりが遭遇して後の事件の展開については、このシリーズの第3回『 謎の殺害方法 』第4回『 謎の死亡推定時刻 』で推理していますので、詳しくはそちらをご覧頂くとして、これからは玉村さん殺害後の犯人の行動を推理してみましょう・・・!

 犯人は、それまで8畳間のロッカー周辺を念入りに物色していましたが、期待していた程のものは発見出来ずにいました。しかし、玉村さんとの<乱闘>によって開いた床板の隙間から、玉村さんの秘密の隠し場所を偶然発見しました。それは押入の床下に作られた<木箱>で、その中にはかなりの額の現金(?)が仕舞い込まれていました。

床下の箱

4畳間ガラス戸

 犯人は、目的達成の喜びも束(つか)の間、その興奮が冷めてしまった後は、玉村さんを殺害してしまったこともあり、何よりも事件の発覚を怖れました。そこで、自分が犯行現場にいたという<痕跡>を消す必要があります。誰でもまず思いつくのは、自分が<素手>で触れた場所の<指紋>を拭き取ることで、時間を掛けて8畳間の<机>や<ロッカー>の周辺と思い付く限り拭き取っていきました。当然、自分が身につけていた物で、現場に落とした物がないかも確認しました。

 次に、<死体の発見>を少しでも遅らせる為に、そばにあった敷き布団などを玉村さんの死体の上に手当たり次第に掛けました。事件現場から脱出するには、4畳間を通って勝手場に出なければなりませんが、右上の写真でも分かるように、通路を塞ぐように<ガラス戸>が倒れていて、良くみると床には割れた<ガラス>が散乱しています。

 <検証調書>に何の記載もないことから、犯人は<土足>で上がったのではなく、おそらく勝手場入口で靴を脱いでいたのでしょう。その為、割れた<ガラス>で足を怪我しないように脱出する必要があります。その唯一の経路は8畳間の押入側から玉村さんの頭を跨ぐようにして、この写真にも写っている<パイプ椅子>の方に移動することです。もしかしたら椅子の上に乗ったかもしれません。 ― とすれば、その時倒れないように体を支える為に8畳間4畳間の境の柱につかまった可能性があります。

 8畳間から無事に脱出した後は、<便所の扉>周辺と勝手場入口の<ガラス戸><指紋>を拭き取りました。この辺は、犯人も冷静です。時間は、もう既に午前零時をまわっています。誰かが訪ねてくるような心配もありません。ここは絶対にドジを踏まないよう、念入りに痕跡を消すに限ります。

― この点に関しては、あるいは疑問に思われる方もいらっしゃるかと思います。

 私たちのように犯罪には全く無縁な人の常識からすると、「 犯人は偽装工作をする余裕なんかなくて、一刻も早く犯行現場から立ち去りたいのではないか 」と考えてしまうのですが、例えば前掲の大井町の<変死事件>では、犯人は女性を殺害後に<首つり自殺>に見せかける為に部屋の鴨居(かもい)に寝巻の紐で吊り下げようとしたり、遺書2通を用意したりしています。( 前掲『 完全犯罪と闘う 』)

 また、昭和28(1953)年3月に栃木県で発生した<強盗殺人事件>では、就寝中の男女4人が殺害されていますが、犯人は『 流しの悪ぶれ 』の犯行に見せかける為に、茶の間で飲食したように偽装したり、2人の女性を強姦した上に室内を物色したように見せかける工作までした上、最後にその荒らされた室内を見回して、自分の足跡をきれいに雑巾で拭き取り、現金と腕時計を奪って逃走しています。(『 殺人全書 』 岩川隆著/知恵の森文庫 )

 当然のことながら例外はありますが、<犯罪者心理>という点からすると、自分の犯行だと発覚するのを怖れるあまり、どうも<偽装工作>を念入りにやるようです。・・・と、こんな事を書いてしまってから、偶然にある1つの共通点に気付きました。脱線ついでに、その事に簡単に触れてみましょう。

 よく考えてみると、全ての殺人事件で犯人が<偽装工作>をしている訳ではないですよネ! 機会があったらもう少し詳しく調べてみるつもりですが、犯人が<偽装工作>をしているケースを再検討してみると、犯人は被害者のかなり身近な所に居る場合が多いような気がします 。

 先の大井町の<変死事件>の場合では、被害者の交友関係から容易に犯人が割り出せましたし、後の栃木県の<強盗殺人事件>の場合では、犯人は被害者一家のすぐ近所に住んでいて、ちょっとしたトラブルが起きていました。つまり、<偽装工作>をするのは、犯人が被害者の身辺にいて、捜査の手が自分に及び得る可能性が大きい場合と言えないでしょうか?

― それでは、話を<布川事件>に戻しましょう ・・・ !

 勝手場から外に出ると、東側の<便所の窓>の前に行って窓枠に釘で打ち付けてある<桟>を2本外して足下に捨てます。犯人がこの窓から侵入したように見せる為です。敷地の南東にある<流し場><風呂場>との境の裸電球が点いていたので、薄暗いながらも何とかそこまで光が届いていました。

 この点について、<検証調書>には、次のように記載されています。「 流し場と風呂場の境のトタンの上で、入口の柱から93cm、南側の地上から1.85mの高さの位置に30ワットの裸電球がつけてあって、点灯してあった。」

 さて、ちょっと見え透いてはいますが<偽装工作>もしたので、警察の<捜査>を攪乱(かくらん)する位のことにはなるでしょう! ― 実際に<捜査>は混乱し、全く見当違いのふたりを逮捕してしまったのは、皆さんの良くご存じのとおりです。

 後は、人目に付かないようにこの場を立ち去るだけです。この時間になると、流石(さすが)に人通りも全くありませんが、玉村さん宅から布川・横町丁字路方向に100m程行ったところにある根岸家では、この夜<通夜>が営まれていました。念には念を入れて、そちらの方向は避けたのは言うまでもありません。

― さあ、貴方ならどんな推理をされますか ・・・ ?

 ※ 貴方の名推理をお聞かせ下さい。 →   ポスト

( 2002. 6 T.Mutou )

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 ・・・と、ここまで書き上げてしまってから、まだひとつ未解決の問題が残っていることに気が付きました。それは、第一発見者である香取末次郎さんの<指紋>勝手場入口の<ガラス戸>からは採取されていないということです。

 昭和42(1967)年8月31日付読売新聞の朝刊には、第一発見者の香取末次郎さんの次のような談話が載っています。 ― 「仕事を頼もうと玉村さん方を訪れ、声をかけたが、自転車があるのに返事がないので台所の戸をあけたところ、玉村さんが死んでいた」というものです。

 勿論、勝手場入口横(居宅東南隅)の<雨樋>からは3個の指紋が検出され、その内の1個が香取末次郎さん右手親指の指紋であることが確認されています。

 しかし、先の記事にもあるように、香取末次郎さんは「台所の戸をあけた」と明言しておられます。 ― 雨樋の指紋は、その<ガラス戸>を開けた時に付いたものと思われます。― それなのに、勝手場入口の<ガラス戸>からは、香取さんの<指紋>すら検出されなかったという事実をどう理解すればいいのでしょうか?

― 何とも不合理だとは思いませんか ・・・ ?

 勿論、香取さん<ガラス面>そのものには触れてなくて、またその<ガラス戸の枠>自体も<指紋>の残り難い材質だったということも考えられなくはないのですが・・・。

 また、茨城県警の<鑑識技術>が余りにも拙劣(せつれつ)だったか、あるいは現場検証の際、もしかしたら捜査官自身が<現場破壊>をしてしまったということも充分考えられます。

 さらにちょっと穿(うが)った見方をすれば、茨城県警にとって不都合な<指紋>が出ることを怖れた捜査官が、意図的に証拠隠滅を・・・。昨今の警察及び検察の不祥事報道を聞くにつけ、「そんな馬鹿な!」と頭から否定出来ないところに、現在の日本社会の置かれている危機的状況が窺(うかが)い知れます。

 この翌年、つまり昭和43(1968)年12月には、東京都府中市であの有名な『3億円事件』が発生しています。しかし、このような歴史に残る大事件の捜査ですら、当時は<科学的捜査>よりも<人的捜査>、つまり地取り捜査前歴者に当たるといったことに重点が置かれていたため、充分な<指紋捜査>ができなかったそうです。( 前掲『 指紋捜査官 』)

 そのような警察の旧弊・固陋(きゅうへい・ころう)な体質が、<真犯人逮捕>の足枷(あしかせ)になっていたといっても過言ではありません。そしてその結果が、警察にとっては誠に不名誉な<時効の完成>が成立する一方で、<布川事件>のような<冤罪被害>といった悲劇を生むのです。 ( 注記 : 旧弊・固陋 ・・・ どちらも古い考えや習慣を守って新しいことを嫌うことの意 )

 

<参考文献>

・『 図解・科学捜査マニュアル 』 事件・犯罪研究会=編/同文新書

・『 科学捜査の事件簿 』 瀬田季茂著/中公新書

・『 証拠は語る 』 デイビッド・フィッシャー著 小林宏明翻訳/ソニーマガジンズ

・『 指紋捜査官 』 堀ノ内雅一著/角川書店

・『 完全犯罪と闘う 』 芹沢常行著/中公文庫

・『 殺人全書 』 岩川隆著/知恵の森文庫

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