判決の根拠となった事実の疑問点


   1.自白の任意性について

 布川事件では、物的証拠が一つもなく犯行の目撃者もいなかったため、『 自白の任意性 』が最大の争点になりました。ふたりは、いわゆる別件逮捕により勾留され、取調官によって『 代用監獄 』での連日長時間にわたる自白強要が行われました。当初、身に覚えのない強盗殺人については否認していましたが、取調官の連日の厳しい追求に耐え切れず、遂に桜井さんは10月15日に、杉山さんは10月17日に、玉村さんを殺害して金を奪ったことを認める自白をしてしまいました。

 桜井さん嘘の自白をした経緯について、次のように話しています。「 逮捕されたときの取調で述べたアリバイを『 裏付け捜査で違う 』と言われ、自分の勘違いだと思ってしまい、記憶が甦らなかった。そして『 お前が犯人だ 』『 アリバイが言えないのは犯人の証拠だ 』『 お前と杉山を現場で見た人がいる 』『 お前の母ちゃんも、早く本当のことを言えと言っている 』などと連日言われ続け、犯人にされてしまうと不安になっているときに、嘘発見器にかけられたのです。その時、係官が『 良く話して判って貰いなさい 』と言って帰ったので、無実を判って貰えたと安心したのですが、20〜30分後『 検査の結果、みんな嘘とでた。もうダメだから話せ 』と言われ、何を言っても犯人にされてしまうと自暴自棄になり、『 嘘の自白 』をしてしまったのです。」( 参照:上告趣意書 )

 また杉山さんは、次のように話しています。「 取調官に『 桜井がお前とやったと言っている 』と言われた。そして、桜井さんの署名の入った調書を見せられた。また、『 桜井の兄のアパ−トに泊まったというお前のアリバイは、桜井の兄貴が泊まっていないと言っている 』と責められて、桜井兄弟に対する不信と怒り、憎しみが涌いて来た。そして、『 俺はやってないんだから、後になればきっと判って貰える。やらないと言っているだけでは何時までも調べが終わらない 』という気持ちから嘘の自白をしてしまった。」( 参照:上告趣意書 )

 10月23日には、ふたりに対して強盗殺人容疑で逮捕状が執行され、11月3日までの間にそれぞれ20通近くの自白調書が作成されました。しかし、その後土浦拘置支所に移監されたふたりは、検察官に対して先の自白を撤回、強盗殺人の容疑を否認しました。この時、取調べに当たった有元検事は、ふたりの訴えに真剣に耳を傾け、否認調書を作成しました。

 無実が認められたと喜んだのも束の間、ふたりは再び『 代用監獄 』へ逆送され、又もや取調べの警察官に対して嘘の自白をしてしまいます。その後桜井さんは、警察署に出向いて来た吉田検事に対して、再度「 玉村さん殺しはやっていない 」と訴えましたが、少しも聞き入れてもらえず、絶望のあまり吉田検事に対しても嘘の自白をしてしまいました。

 この時吉田検事は、桜井さんに対して「 あのような詳細な調書は犯人でなければとても作れない。裁判になっても君の言うことぐらいでは裁判官も信じない。このまま否認していたのでは救われないだろう 」と、自白を迫ってきたのだそうです。そして、「 検事の言うように救われないで死刑にでもされたら大変だから認めるしかない 」という気持になって、嘘の自白をしてしまったのでした。

 また杉山さんの方は、この頃には肉体的にも精神的にもすっかりまいっていました。そして、「 否認していたら朝から晩まで、何時までも調べられるし、検察官への信頼が裏切られたことに大きなショックを受け、『 裁判になって桜井と対決すれば、俺がやってないことはどうせ分かることだ 』『 この検事では、何を言ってもダメだ 』と考えて、再び『 自白 』を始めた 」のでした。

 この時の吉田検事の取調べについては、後に杉山さんが「 刑事の取調べより強引で、これが検事かと思うほど非人間的でした 」と上告趣意書に書いているほど酷いものでした。

 

 このようにして作成された自白調書が、果たして自発的になされたものと言えるでしょうか?

 一審の水戸地裁土浦支部は、「 被告人両名の各供述調書の任意性及び信用性については、本件全記録によっても、捜査段階において両被告人に対し強制、拷問、もしくは脅迫が行われた形跡はまったく認められず、かつ、被告人の各自白は身柄拘束を受けたのち日ならずして行われたものであるから、不当に長く抑留もしくは拘禁された後の自白ということもできない。捜査官による利益誘導が行われた事実も認められない。また、自白調書の内容は具体的かつ詳細であるばかりでなく、犯行前後の模様につき各証人の供述に合致するものであって、いずれも信用するに十分である。」と、判決理由の中で述べています。

 二審の東京高裁も、(両被告人の取調警察官に対する供述は)不当な偽計と誘導により得られた任意性のない内容虚偽のものと疑わせるものは見出しがたく、これは同被告人の検察官に対する各供述調書についても同様である。また、時間的に不当な取調をしたと認むべきものもない。」として、一審判決を支持しました。

 そして最高裁も、この点について「 取調にあたった警察官らは、証人として尋問を受け、被告人に対する強制、誘導や誤導、偽計、長時間にわたる取調をおこなったことを否定する旨の証言をしており、その証言内容に事実を歪曲して作為的に供述したとすべき兆候を見出すことはできないこと 」「 自白を録取した録音テープの内容は、自ら体験しない事実ならばとうてい引続いて整然と供述しえないことを具体的に首尾一貫して供述したものであること 」「 ことと次第によっては極刑も予想される重罪事犯について、取調開始後きわめて早い時期に自白したことは、その自白が任意になされたことを推認させる有力な事情であること 」等を理由として、原判決を支持しました。

 

  2. 被害者宅の勝手口について

 桜井さんは、勝手口で被害者と話をしたことになっています。桜井さんの供述調書によると、「 勝手口左側ガラス戸を右に3分の1程開けて声を掛けた。玉村さんが奥から出て来て板の間に座り、自分も入口の柱にもたれて腰をおろして話した。」「 ガラス戸を右に開けると、奥の8帖間から顔を出した玉村さんの顔が見えた。」となっていますが、勝手口左側ガラス戸の内側には巾90センチメートル、高さ181センチメートル、奥行き43センチメートルの食器戸棚があって、ガラス戸を右に全部開けても約40センチメートルの隙間しかできません。これでは、奥の8帖間から顔を出す被害者を見ることはできないし、柱にもたれて腰を掛けることなど到底不可能です。

 そもそも実際に訪問したのであれば、食器戸棚の影が電灯で写っている左側ガラス戸を開ける筈がないのです。これは、桜井さんが玉村さん方に行っていないことを叙述に物語っています。

 この点について、裁判官は、「 勝手口の踏石の上に立ち、2枚のガラス戸の西側(向って左側)の一枚を右側へ全開した場合でも4畳の間と8畳の間の2枚のガラス戸の西側の1枚を8畳間側から東へ開けた人物を、踏石の上に立ったままの姿勢で見ることは、勝手板間の西壁および茶だんすに遮られてまず不可能である 」として、いかにも弁護側の主張に同意するような姿勢を示しながらも、しかし「 上体を右前の方に屈めて、奥の方を覗きこめば、茶だんすの奥の冷蔵庫の高さはわずかに90センチメートルに過ぎず、その上を通して、8畳間の方の人物を認めることができないわけではなく、まして、被告人桜井昌司はすぐに靴を脱いで勝手板間に上がっているのであるから、8畳間から顔を出した被害者を認めることは容易 」( 二審判決 )だと論じています。

 詭弁を弄するとは、正にこのことです。・・・ 弁護側は、あくまでも桜井さんの供述内容の矛盾点を指摘しているに過ぎないのです。つまり、反対側(向って右側)の戸の方が大きく開くのに、何故出入りしにくい側の戸を開けて覗き込まなければならないのか・・・? 誰が考えても、奇妙です。裁判官は、その誰もが抱く疑問に対する回答を(故意に?)避けて、「 その狭い隙間に体を突っ込んで覗き込めば、見えるじゃないか 」と言っているのです。無理が通れば、道理は引っ込んでしまいます。

 図らずも、裁判官の次の言葉の中にヒントが隠されているような気がします。つまり、「 司法警察員作成の検証調書によると、被害者方勝手口のガラス戸は、検証時に、西側(左側)ガラス戸はわずかながら閉めのこしがあり、かつ西側のガラス戸は2枚のうち外付の戸であって、それも外側の戸に付けられたスプリング付外締錠が右側框(かまち)にある関係から、外側の戸は常に左側に閉められていたものと窺われ、また表側からガラス戸を開けるには、特に他の障害がない限り、まず外側のものを動かすのが通常であるから、・・・・・ 」( 二審判決 )

 布川事件の判決文には、至るところに裁判官の思い込みに基づく理論が散見しますが、これもそのひとつではないでしょうか? つまり、出入りするのは、外側(この家の場合は、左側)の戸の方だと決めつけています。しかし、実際そう言い切れるものでしょうか・・・? 因みに私事で誠に恐縮ですが、我が家の玄関の戸は、内側の戸を開け閉めしています。

 捜査官が、この裁判官のした思い込みと同じ思い込みをしていたために、当初作られた供述調書は「 左側(西側)の戸を右(東側)に開けた 」という表現になってしまったような気がします。

 また、桜井さんの供述は、警察段階では一貫して「 左側(西側)の戸を右(東側)に開けた 」ことになっていますが、代用監獄への逆送後の吉田検事に対する供述調書では、「 左側の戸を開けたように覚えています 」(12.19)という曖昧な表現から、「 どうも左側ではなく右側のガラス戸を開けたように思い出しました 」(12.22)というように、それまでの自白内容を訂正するかのような表現へと変化しています。

 これは、現場を視察した吉田検事がこの食器戸棚の存在に気づき、現場の状況に合致するような『 自白 』に作り直したからに相違ありません。

 

  3.謎の三つ折財布について

 桜井さんは、当初(犯行後に)土手に上がる途中で、杉山が手に持っていた(白い布製の三つ折)財布を見せました。 ・・・ (この財布は)吊橋のふたつ目の真ん中あたりで杉山が下流の方に向かって川の中に投げ込んでしまいました。」(10.15)と供述したのが、途中から(自分が)玉村さんの尻の左ポケットから抜き取って、自分のポケットに入れた。 ・・・ こんなものを持っていたんでは証拠になると思ったから、栄橋を渡る時に、橋の左側から下流の方に向かって投げこんでしまいました。」(10.31)と変わり、最後には「 警察の調書では、橋の上から三つ折の財布を投げ捨てたと書いてありますが、あれは違うのです。自分は、象ちゃんが死んだ後のポケットから財布を抜き出していません。」(12.19)という具合に供述が二転、三転していきます。

 この三ツ折り財布に関する自白の変遷について、一審判決は無視し、二審判決は、「 被告人両名の供述は、どの部分を信用してよいかとらえどころがないが、この財布またはその在中金については原判決も犯行の対象として認定していないから、この財布に関する供述が変遷し、あるいは喰い違っているからといって、自白の信用性まで否定すべきことにはならない。」とし、また最高裁もこれを追認しました。

 二人は、金を目当てに人を殺したというのに、こんな自白があるものでしょうか? 実に不思議です。裁判官は、自白の矛盾点から目を逸らし、真実の積極的な解明を放棄したものと糾弾されても反論の余地のないところです。

 

  4.目撃証人について

 二人を現場前の道路上で見たという証人がいます。この証人は、第1回公判で二人が否認をした後、事件発生からは実に6か月を経過した後に突然現れました。証人はクリーニング業を営む人で、「 事件当夜の午後7時30分頃、被害者宅前をバイクで通り過ぎる時に路端に立っている二人を見た。」「そのあと午後9時少し前ころ商用等を終えて帰宅する途中、被害者方から100メートル以上離れた紀州屋酒店付近に至った際、被害者方前に二人の男が立っているのを目撃した 」と供述しています。

 ところが証人の証言内容というのは、「 その場で判った。」「 通り過ぎてから、さっきのは桜井だっけと思った。」「 桜井が判らなくて、杉山が判った。」「 二人が逮捕されて顔写真で思い出した。」と、証言の度に変転しています。見た時の二人の位置についても、証言はクルクル変わっているのですが、裁判官は、「 弁護人の激しい追求で混乱しているが、二人を見たという点は遂に崩れなかった 」から、『 二人が犯人であることの有力な状況証拠だ 』と言っています。

 この証人は、事件直後に警察の聞き込み捜査を何度か受けていて、その時は現場前道路を通ったことは言ってますが、人を見かけたとは一言も言ってません。そのことを申述しなかった理由は、「 後で証人にされたり、関わりを持ちたくなかった 」からで、後に見たと言い出した理由は「 自白しているなら良いが、否認されたら大変だ。二人とも若いから罪にしたくないが、事実を話さなければと思った 」からなのだそうです。

 私たちは、この証人の存在こそ<布川事件>の特質を示すもので、ふたりが無実であり、また、<有罪判決>が間違いである根拠だと思っています。

 

  5.指紋について

 現場から採取された43個の指紋の中には、勿論、桜井さんや杉山さんと合致するものは一つもありませんでした。ふたりの自白は手袋も使わず物色し、また、指紋を拭き消したこともないということになっているのに、ふたりが金を探したという机やロッカー、金庫等からは指紋も掌紋も、何一つ発見されないのは何故なのか。

 裁判官は、「 指紋、足跡等により犯人を特定することができないからといって、そのことだけで直ちに被告人らの犯行を否定するわけにはいかない 」( 二審判決 )と言うのみで、当然あるべき指紋が出ないことについての合理的な説明がなされていないのです。

 私たちは、ふたりが玉村さん宅へ行っていないからだと確信しています。

ある地方には、遺伝的に無指紋の人が少なからず存在するそうですが、ふたりがそれに該当するか否かを検証するために、愛知医科大学で指紋・発汗実験を行いました。その結果、ふたりは通常人と変わらず、指紋が残るタイプであることが判明しました。―

 

  6.第三者の見解

 1978年7月3日、最高裁判所は有罪の決定を下し、二人は下獄しました。その3日後の読売新聞の社説では、次のように論じています。

 『 えん罪の訴えと最高裁の対応 』(7/6日付) 「 布川事件も、えん罪事件の定型的な要素を含んでいる。その上、事実関係でも、アリバイ、目撃証人、物証、供述の矛盾など、疑問に満ち満ちている。一つだけ例示してみよう。被告人が奪ったとされる金のあった場所と額、分配の場所と額など、肝心の金に関する自供は、実にあいまいなのである。それは、捜査官が知らない事実だから、えん罪の被告人には供述させようがなかった、とみるのが自然ではないだろうか。決定は、『 一般に、捜査官が被害金額を確認しえない案件では、故意に金額等についての供述を変転させ、後で犯行を否認する足がかりにする 』という。『 厳しい追及を受けず 』『 自発的に 』事実について自白を始めた、と最高裁が認めているような犯人が、なぜ、うそをつく必要があるのか。しかも、その反面、捜査官があらかじめ知っている事柄については、明確に供述しているのである。こうした場合、捜査官の誘導によって供述調書が作られたと判断する方が、理にかなっていないだろうか。

 このような社説が書かれてから25年にもなりますが、この社説で指摘された疑惑が今も解明されずに放置されていることに、大きな憤りを感じずにはいられません。

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