Cat a Dash


「ん? 名雪、なに読んでるんだ?」  学校から帰って夕食までのほんのひととき。  2階の部屋からリビングに降りると、名雪がソファに座ってなにやら熱心に読 んでいた。 「名雪?」  呼んでも返事が無い。どうやらものすごい集中力を発揮しているらしい。  俺はテーブル越しの向かいのソファに座り、名雪の読んでいる本の表紙を覗 いてみた。 『世界のねこさん Vol.2』  表紙には可愛らしい字体でそう書かれ、子猫の顔の写真が表紙をうめていた。  ふいに、パタンと本が閉じられた。  はふぅ、と言う熱っぽいため息が聞こえる。 「ねこさん…」  見上げると、名雪がうっとりと放心したように虚空に視線をさまよわせてい た。 (またか…)  名雪のねこ好きは今に始まったことではない。  小さい頃からの筋金入りだ。  それでいて本人はねこアレルギーと言う十字架を背負っているのだから、悲 劇だとしか言いようが無い。 「ふわふわだよ〜、かわいいよ〜」  胸に本を抱きかかえて、ほほを上気させながらつぶやいている。  静かに暴走しているらしい。 「おーい、名雪ー、帰って来ーい」  目の前でパタパタと手を振ると、ようやく俺の存在に気がついたようだ。 「あ、祐一、ねこさんだよ〜、かわいいよ〜」  まるで目の前にイチゴサンデーを7つ置いたような、そんなとろんとした表情 で俺に訴えかけてくる。  訴えかけられても困るんだが。 「大陸の某国ではねこも食べるらしいぞ」 「だ、ダメだよー、ねこさんは食べるものじゃないよー」 「たんぱくな味わいがステキらしい」 「そんなこと言う祐一、きらいだよ」  プイッとすねたようにそっぽを向かれた。  まぁ俺もねこを食べたいとは思っていないけど。 「それにしても、またねこの写真集買ってきたのか」 「だって、ねこさんかわいいんだもん」  もし名雪にアレルギーが無ければ、おそらくこの家はねこ屋敷になっていた に違いない。  秋子さんだって、名雪が次々に拾ってくるねこを片っ端から了承するだろう しな…。 「名雪、ちょっと俺にもその本見せてくれ」 「いいけど…、まゆ毛とか描かないでね」 「描かないよ」 「うー、小さい時、わたしのねこのぬいぐるみにまゆ毛描いた」 「まゆ毛ねこは当事画期的だったんだぞ」 「…ホントに描いたら怒るからね」  そう言いつつも、俺に本を手渡してくれた。  受け取って適当にページを開く。 「なんだ? これ、トラとかヒョウとかも載ってるのか?」  開いたページには、トラやヒョウ、ライオンの写真が大きく載っていた。 「ねこ科だからね」 「でも、ねこじゃないだろう」 「ねこだよー」 「でかいぞ」 「おおきいねこだよ」  俺と名雪の不毛な論争は、秋子さんが夕飯に呼びに来るまで続けられた。  結局、名雪は頑として譲らなかったが、別に俺もそこまで固執していたわけ ではないので、そのままうやむやになってしまった。  翌朝、2階からキッチンに降りると制服姿に着替えた名雪の姿があった。  マグカップのコーヒーに息を吹きかけながらちびちびと飲んでいる。 「今日は遅刻しなくて済みそうだな」 「祐一、ひどいこと言ってるよ」  名雪の抗議を無視して俺も席に座った。  朝食を済ませ、玄関を出たのは、いつもより15分以上も早かった。  玄関を出る時に電話が鳴ったような気がしたが、すぐに秋子さんが出てくれ たので、俺たちは構わず外に出た。 「名雪、時間は?」  念のため聞いてみる。 「大丈夫。ゆっくり歩いても間に合うよ」  久しぶりに歩いて登校できそうだ。  時間が早いのか、いつもより人通りのない通学路を歩いていると、ふいに名 雪が声を上げた。 「…あ」 「どうした?」  何かを見つけたように、わき道のほうをじーーーーっと見つめている。 「…ねこさん…」 「は?」 「ねこさんがいるよ…」  固まっている名雪の視線の先には、…ねこ? 「名雪…」 「…可愛い」  頬を赤く染めて、とろんとした表情で、わき道の先をじっと見ている。  俺は逆に、顔から血の気が引いていくのを感じていた。 「可愛いよ…、抱きしめたいよー」  名雪の暴走が始まりかけている。  いかん、止めなければ。 「名雪、いいかよく聞け。あれはねこじゃない。ヒョウ、と言うんだ」  俺は努めて冷静に言ったつもりだったが、声が少しうわずっていた。  名雪の視線の先には、体長1m以上はあろうかという立派なヒョウ柄のヒョウ が、俺たちをにらんでいる。  なんでこんなところにヒョウがうろついてるんだ?  夢?  夢を見ていた…?  って疑問形で現実逃避してる場合じゃない。 「グルルル…」 「わぁ、のど鳴らしてるよー。可愛いよ、ふわふわだよ〜」  威嚇してるんだよ。  って言うかヒトの話聞いちゃいないし。 「バカ、逃げないと食われるぞ」 「ねこは食べるものじゃないよ」 「食べるんじゃなくて、食べられるんだよ! よく見ろ、アレはねこじゃない だろ」 「なに言ってるんだよ、大きなねこだよっ」  ねこが絡むと、名雪はキャラクターが変わるらしい。  普段は見せない剣幕に、一瞬俺のほうが間違ってるのではないかと錯覚する ほどだ。  しかし、こんなところでひるんでいる場合ではない。 「わたし、行ってくる…。祐一、止めないでね」 「食われるからダメだ」  名雪の手を掴んで、今にも駆け出していきそうな名雪を必死で制止する。 「祐一、離して」 「ダメだ、離したらお前アレのところに行くだろ」 「祐一、嫌い、離してっ」  ブンっと名雪が手を振った反動で、俺の手が名雪の手から離れた。 「ねこーねこー」  身を翻して駆け出して行く名雪。 (疾いっ)  一点の迷いもなく突っ走る名雪。  俺はただ見ていることしか出来なくて  遠くからサイレンの音が聞こえて  ヒョウに飛びかかろうとする名雪の姿がどこか現実味を帯びていなくて… 「ねこーねこー、くちゅん」  名雪のうれしそうな声とくしゃみが、遠くから聞こえた。  バカだな、ねこアレルギーなのにねこなんかに触るからだぞ…  あれは大きなねこなんだ。ヒョウなんていなかったんだ… 「おはよう、二人とも」  校門の前で香里が俺たちに声をかけて来た。 「今朝のニュース見た? 近くの動物園からヒョウが逃げ出したんですってね」 「…知ってる」 「くちゅん、ねこさんだよ」  鼻を赤くしながら、名雪が答える。  涙はだいぶ収まったようだが、くしゃみがまだ止まらない。 「女子高生に取り押さえられているのを捕獲されたんですって」 「…それも知ってる」  香里の目に俺の顔はどう映っただろうか。 「二人とも、チャイム鳴っちゃうよ〜っちゅん」  くしゃみ交じりの名雪の声が、昇降口から聞こえた。 「…どうしたの名雪。またねこでも触ったみたいに…」  言いかけて香里の顔が青くなった。 「大きなねこだったんだ…」  香里にそう言うと共に、自分にもそう言い聞かせた。  そうじゃないと耐えられないから…  色々な意味で。  後日、名雪と動物園に行った時 「かわいいけど、あんまりふわふわじゃないんだよ」  ヒョウの檻の前で、そうつぶやく名雪の姿が、どこか悲しそうに見えた。  そんな名雪の姿を見て、檻の中のヒョウは、おびえにおびえまくっていた。  あれは大きなねこだったんだ。ヒョウなんていなかったんだ… ------ なんでこう、強引なんだろう…。 修行が足りんのか。