風雨来記‐A

 ここのところやけに疲れ気味で、取材にも身が入らない日が続いている。

 釧路に上陸してから毎日バイクで100キロ前後走って取材しているせいかも知
れない。

 毎日テントと寝袋では、やはり気づかぬうちに疲れも溜まるんだろう。

 そう思った俺は、今日一日温泉でゆっくりする事に決めた。


−決戦、コタン温泉−



 ドルルン…。

 駐車場の一角にバイクを留め、エンジンを止めた。

 コタン温泉。

 和琴半島からほど近い、屈斜路湖のほとりにある温泉だ。

 湖のほとりに構える露天風呂の風情が気に入って、何度か訪れている。

 決して女湯との仕切りが一枚岩一つだからというワケではない。

 手ぬぐいと着替え、バスタオルを持って露天風呂に行くと、時間が早いのか、
まだ誰も入っている気配が無かった。

 脱衣所で服を脱いで、タオル一枚腰に巻いて、いざエントリーだ。

 誰も居ない露天風呂では湯船にザブンと飛びこみたい衝動に駆られてしまう
が、ここでそれをやるのは自殺行為であると言わざるを得ない。

 熱いのだ、お湯が。

 飛びこんだ途端に屈斜路湖に2度目のダイブをするのがオチである。

 備え付けの洗面器で湯船のお湯を汲み、洗うトコちゃんと洗った後、そろりと
脚から湯船に入る。

 ジンと湯の熱が沁みていく。

 熱いのを少し我慢してザブザブと湯船を渡り、湖の見晴らしの良い所を確保し
て、ゆっくりと肩まで湯につかった。

 この熱さも、なれれば心地よさに変わる。

「くはー、めっちゃ気持ちエー〜」

 温泉はヒトをオヤジに変える魔力を持っているに違いない。

 大きく息を吐くと、全身の緊張がほぐれていくようだ。

 さっきまで誰か背負っていたんじゃないかと思うくらいズシリと重く凝り固まって
いた肩や背中が、今はウソのように軽くなっていた。

 しかし、静かだ。

 岩が組まれて出来た湯船の真ん中にあぐらをかいて座り、ゆっくりと目を閉じる。

 チョロチョロと湯の流れる音と、風に揺れる木々の葉の音しかしない。

 湖面を渡って来る風が顔に当たり心地よい。
 まるで俺自身も周囲と同化しているような、そんな錯覚さえ感じてしまう。いつま
でもこうしていたい気分だった。

 が、

「温泉〜、温泉〜〜♪」

 唐突に聞き覚えのある女性の声と共に、ペチペチと駆けて来る足音が聞こえた。

「とうっ」

 ザブーーン

「あっっつーーーーいいいい」

 女湯から屈斜路湖にダイブする女子のヒトの姿があった。ったく、なんてお約束な
女だ。

「珠恵っ!」

「あれ? 轍じゃない。居たの?」

 バスタオルを身体に巻きなおしながら、珠恵が湖から姿を表した。

 バスタオルを巻いているとは言え、濡れて身体にぴたりと貼りついてるので、ボディ
ラインが丸判りでかなりエッチな光景だ。

 しかしそんなことで怯んではいられない。相手は珠恵なのだ。

「居たの? じゃねーよ。ヒトがせっかくのんびり風呂入ってるっつーのに」

「だって、誰も居ないと思ったんだもん」

「誰も居なけりゃ飛びこむのか、お前は」

「うん」

 即答かよ。

「…いや、聞いた俺が馬鹿だった…」

「なによー」

「わ、コラ、男湯に入ってくるな」

「岩一枚で仕切られてるだけだし、奥でつながってるんだから一緒よ」

 そう言って珠恵はザブザブと湯をかき分けて男湯へ入ってきた。

 他の客が入ってきたらどう言い訳すりゃいいんだよ。

「って、なんだ、他にも女の子居るじゃない」

 珠恵が俺の背後を覗きこみながら、呆れたような声を上げた。

「え?」

 振り向くと、確かにヒトが居た。髪を白いタオルで包み、俺たちに背中を向け
て湯につかっている。白いうなじがきれいだ。

 って、そんなバカな。さっき入った時は確かに俺一人だったし、その後からヒト
が入ってきた気配も無かった。

 俺が気が付かなかっただけかもしれないが、それならあの女性は「男湯」と書
かれた入り口を通って入ったことになる。

 それか、単に間違っただけか…。

「あの、すいません。ここ男湯なんですけど…」

 周囲に聞こえないように、少し声を落として女性に向かって言った。

「ええ、知ってます」

 にこやかに微笑みながら、その女性は振り向いた。

「いっ、樹?」

「はい」

 たおやかに微笑むその表情は、やはり俺の知っている樹だった。

「ど、あ、えーと、いつからここに? ってゆーか、なんで男湯に?」

 やばい、俺なに言ってるんだ?

「あら、轍さんと一緒に入ったんですけど」

「……はい?」

「ですから、轍さんの背中について入って来たんですよ」

 記憶に無い。

「男湯なんて入るの初めてでしたけど、誰も居ないからいいかなぁって」

 ほほを赤らめて照れている仕草が可愛いが、見惚れている余裕は無い。

「轍〜、女の子を男湯に連れこむなんて、なに考えてるのかなぁ?」

 珠恵の声が低い。顔は笑ってるが、目が本気だ。

 温泉で女の子と一緒と言う、傍から見ればとてつもなくおいしいシチュエーション
だが、今、二人の間にいる俺にかかるプレッシャーは、並大抵のものじゃない。

 重圧に耐え兼ねてキリキリと胃が軋みを上げ始めた。この汗は湯が熱いからで
は決して無い。

「だ、だ、だって、3日前に別れてから会ってなかったじゃ…」

 もしかしたら、樹もたまたまここに来てて、それで俺を見つけたのかもしれない。

「あらぁ、夕べだって一緒だったじゃないですか」

「夕べ…」

 珠恵が声を震わせながらうつむいた。心なしか肩が小刻みに振るえて、両の拳
がかなり固く握られている。

「カニが食べたい〜って寝言、言ってましたよね」

 樹は右手を口元に当てて、おかしそうにクスクスと笑っている。

 俺を挟んで反対の位置には、すでに危険な氣を発し始めた珠恵が仁王立ちだ。

 なんかフシュフシュ言ってるし。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺昨日は和琴半島のキャンプ場で、一人だったんだ」

 珠恵に言うが、樹がとどめを差してくれた。

「ふふふ、そんな照れなくてもいいじゃないですか」

 ずぱん、と音がした。

 サンドバッグを素手で殴ったような、そんな音だ。

 その音が聞こえた一瞬後、俺は湯船の中に沈んだ。

「うふふふふ、大人しくしててね、轍」

「乱暴な方ですねぇ」

 俺の惨状を見ながら樹は笑みを崩していない。

 助けてくれても良さそうなもんだけど。

「聞かせて貰いましょうか、轍とあなたの関係を」

「もちろん、あなたが思っているような関係だと思いますよ」

 動じない。珠恵が発する修羅のごとき殺気に全く動じることなく、樹は微笑みと
共に返答した。

 だが、内容がいただけない。これじゃ珠恵の怒りに油をそそぐだけだ。

「な…」

「あら、顔が赤いですよ?」

 珠恵のことだ、照れて赤いわけじゃないだろう。それは恐らく怒りで赤くなって
いるに相違無い。

 そしてその怒りの矛先は、多分俺に向けられる。

 冗談じゃない。

 俺は湯に沈んでいるのを幸いに、その場から離脱する事に決めた。

 気が付かれない様に湯船の中を移動しようとした。

 ぞぶん、と音がした

 水中に勢いよく足を叩きこんだような音だ。

 肺の中の空気が逃げていく。激痛と酸欠で意識まで朦朧とし始めてきた。

「私からもあなたに同じ事を聞きたいんですが、轍さんとはどう言った関係なん
ですか?」

 不意を付かれた質問だったのか、珠恵は気勢をそがれたように少しうろたえ
ながら、

「あ、あたしは、その…、轍の旅行記事のモデルよ…」

「はぁ、轍さんも物好きですね…」

「なんですって!?」

「私というモデルがいながら、どうしてあなたみたいな方もモデルにしたので
しょう…」

「そんなことは、このバカに聞いてよねっ」

 珠恵に首根っこを掴まれて、俺は湯の中から生還した。あはは、やっぱ北海
道は空気が美味いなー…。




 露天風呂の中で、俺は左右を美女と言ってもいいほどの女の子に挟まれて、
湯につかっている。

 他人が見れば、少なからずうらやむような光景だろうと思う。

 ただし、正座で座らされ、左右の女の子から満遍なく殺気を当てつづけられて
いる状況を知らなければ、の話だが。

 俺を挟んで二人が今、ものすごい勢いで口喧嘩を繰り広げている。

 左右から当てつづけられる殺気は、命の危険を感じるほどだ。

 珠恵は頭に血を上らせて口調は激しく、樹は冷静な口調だがその一言一言
が凄まじい。

 二人の喧嘩に俺の口の挟む余地は無かった。

 下手な事を言ったら二人がかりで摩周湖に沈められるのは間違い無い。

 風呂から上がったら、おやじさんに電話を入れよう。

 無理。もう無理。どこに行っても珠恵が居るような気がするし、いくら走っても夜
になると樹がやってくる気がする。



「普通にキタキツネでも撮ってればよかったな…」

 何気ない俺のひとり言は、二人の耳に、しっかりと、届いて、いた……。




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よく判らないけど終わる。





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