「北へ。White Bio Hazared」

第1話:出会い −1−

「なに着て行こうかなぁ」  まだあどけなさの残る少女が、クロゼットを開けて難しい顔をしながら思案にふけて いた。  頭の中は今日着ていく服のことを考えているだけなのだが、その表情は真剣その ものである。  うーーんと首をひねりながら髪を掻き揚げた。  肩よりも少し伸びたくらいの、ウェーブの入った栗色の髪の毛がふわりと舞って、 ゆっくりと落ちた。 「琴梨、そろそろ行ないと間に合わないよ」  ドアの外から快活な声が聞こえて、ガチャリと勢いよくドアが開いた。 「あ、お母さん。あのね、この組み合わせってどうかな…」  琴梨はそう言うと、クロゼットの中から白い袖なしのワンピースと薄水色のサマーベ ストを取り出した。  時間が無いのは彼女にも判っていたので、声が少し焦りの色を含んでいる。 「そうね、いいんじゃないかい」  彼女の母親、春野陽子はそう言うとニヤッと笑い、琴梨の顔を覗きこんだ。 「従兄弟の智哉クン迎えに行くだけなのに、そうかいそうかい、琴梨ももう高校生だも んね。そうやって成長して行くんだねぇ」 「ち、違うよ、そんなじゃないよ。もう、変なこといわないでよ、お母さん」  慌てたように顔の前で手を振って否定する琴梨だが、その顔は耳まで朱に染まっていた。 「冗談よ。しっかり出迎えておいで」  柔らかく微笑む陽子の顔が母親の顔になっていた。 「うん」  はにかんだ琴梨は少女の笑顔だった。 「それと、はい、これ」  陽子の手から琴梨の手に、白い小さ目のリュックが渡された。  ズシリとした重量がある。 「預かってきたわ。…、智哉クンをお願いね」 「うん、大丈夫。お兄ちゃんは私が…」  リュックを抱く琴梨の笑顔を、陽子は少し辛そうな表情で眺めた。 「お客様にご案内申し上げます。10時ちょうど発、千歳空港行き1021便は、あと15 分後にお客様を機内にご案内いたします予定です。今しばらく、お待ち願います」  羽田空港の待合室に放送が流れた。  北嶋智哉は今から乗る旅客機の正面の待合席で静かに雑誌を読んでいた。  空港内の本屋で先ほど買ったものだ。  傍らの席には赤いバックパックが1つ置かれている。それ以外の手荷物やお土産 などは搭乗手続きの時に預けてしまっていた。  ラフな服が好みなのか、濃紺のジーンズにグリーンと白のツートンのTシャツ、黒と 赤と白が複雑に絡み合ったデザインのハイカットのスニーカ、といった出で立ちだ。髪 は短めに刈り上げられている。やや筋肉質な体つきをしているが、特にスポーツをし ているわけではないらしい。  ふと視線を雑誌から上げ、ちらりとこれから乗る旅客機のほうを見た。ボーイング 747。国内で運用されている旅客機では最大級のものだ。  その背後を離陸していく飛行機がかすめていく。  離陸していく飛行機を見えなくなるまでぼんやりと目で追った後、再び雑誌に目を 戻した。肩が小刻みに振るえている。どうやら笑いたいのをこらえているらしい。  そのくらい雑誌に熱中していたために、近づいてくる人物にはまったく気が付かな かった。 「あの、すみません」  落ち着いた感じの女性の声だった。  気が付いて顔を上げると、智哉よりは少し年上な感じの女性が目の前に立ってい た。  美人、といっても差し支えはないだろう。ウェーブのかかった髪を掻き上げながら緩 やかに微笑んでいる。 「えーと、なにか…?」  智哉の心臓がいつもよりも早くビートを刻んだ。声が少し上ずったかもしれないと、 思わず変な気を回してしまったが、その女性は何事もなかったように、口を開いた。 「あなたの椅子の下にペンが転がってしまって」  智哉が自分の椅子の下を覗き込むと、確かに緑の蛍光インクが詰まったペンが転 がっていた。  それほど奥でもないので、手を伸ばしてペンを取り、女性に手渡した。 「どうもすみません。…あなたも、次の便で千歳に?」 「え? あ、はあ、そうですけど」 「そう、この時期に物好きなものね。それとも…」  女性が旅客機のほうを向いて言った。横顔に憂いの表情が浮かんでいた。 「は…?」  智哉はワケがわからず、呆然とするだけだ。  このヒトは何を言っているんだろうか。  彼女の言った言葉を頭の中で反芻してみても、やはりワケがわからない。 「あの…、意味がよくわからないんですケド?」  恐る恐る智哉が聞くと、女性は可笑しそうに微笑んだ。 「いえ、なんでもないわ。でも、………あなたの顔、どこかで見覚えあるわね…」  つぶやくとその女性は何かを思い出そうとしながら、智哉の顔を眉間に僅かにシワ をよせながら凝視した。 「人違い、じゃないですか?」 「もしかして、 …北嶋…くん…?」  椎名がちょっとだけ顔をうかがうような表情になった。 「え? いやその、……なんで知ってるんです?」 「春野さんって方の家に行くんでしょう? 私は彼女とは知り合いなのよ。あなたの話 も聞いてたし、顔は以前に写真で見たことがあったわ」 「あ、そう言う事ですか」  智哉も僅かに警戒の表情を崩した。 「私は椎名薫。いきなり声かけて悪かったわね。それじゃ、また、ね」  背中を向け、振りかえりながら言うと、喫煙コーナーに去っていった。  10分後。予定より5分早く機内への誘導が始まった。  夏休みが始まったばかりのこの時期にしては珍しく客がほとんど居らず、カウンタ 前に並ぶことなく搭乗することができた。  機内に入るとやはり客の姿はまばらで、窓際の席が1/4程度埋まっているくらいだ ろうか。  智哉の席も右舷後方窓際で、その二列前に椎名と名乗る先ほどの女性がやはり 窓際に座っていた。  定刻になり、シートベルト着用のサインと非常時のマニュアルについてのビデオが 機内のモニタに流された。  同時に機体がカクンと動き、プッシュバックが始まった。  客室乗務員が席を一列ずつ回り、シートベルトの確認を行っている。  4つのエンジンが始動し、旅客機がゆっくりと誘導路を走り始めた。  滑走路に到着し、機体がセンターライン上に乗ると、ゼネラル・エレクトリック社製の エンジンがうなりを上げ始めた。最大推力約20t、そのエンジンを4基搭載し総推力 80tを超える力で巨体を推し進めるのだ。  エンジン後方の滑走路脇に生えている芝生の草がバイパスエアに吹かれて千切 れんばかりになびく。  そして轟音と共に離陸滑走が始まった。機が動き出し、わずかの間の後、さらにエ ンジンの轟音が高鳴った。離陸時の数分間だけ使用可能な最大推力に達したので ある。  心地よい加速Gで座席に身体が押し付けられる。羽根が滑走路の凹凸でガタガタ と揺れる。翼端部が速度と共に徐々に持ちあがっていく。フッと一瞬のマイナスG。 窓の景色が斜めに流れる。そして再び押し付けられるようなGを感じた時、機体は軽 やかに宙にその身を浮かせていた。  琴梨が千歳空港に到着したのは、11時半を少し過ぎた時間だった。  JRの改札口を早足で駆け抜け、到着ロビーに向かって小走りで走り出していた。  飛行機が順調であれば、すでに到着時刻を10分ほど過ぎている。  内心焦りながらも、久しぶりの再会に胸を弾ませていた。 「えーと、確か春野さんが迎えに来てる筈なんだけど……」  預けた荷物を受け取って、到着ロビーに智哉が姿を現した。  背中に赤いバックパック、左手に大きめのドラムバックと紙袋を持ち、右手に持った 写真を見ながら辺りをキョロキョロと見まわしていた。  ロビーにヒトの姿ははほとんどない。  じきに来るだろうと、荷物を下に置こうとした時、誰かが駆けて来る足音が聞こえ た。  何気なしにそちらのほうを向くと、白いワンピース姿の女の子が見えた。  左肩にかけられた小さ目のリュックが左右に小さく揺れている。  智哉はもう一度写真を見直した。写真に写る春野さんと似てるけど、来るのは叔母 である陽子さんのはずである。  叔母さんの横に小さな女の子が一緒に写っているが、なにせ5年前の写真でその 子も小学生くらいの年齢なので、似てるようにも見えるがあまり参考にはならない。  しかし、その女の子はまっすぐに智哉に向かって駆けて来ている。 「お兄ちゃん!」  彼女がこちらに向かって手を振った。  智哉は後ろを振り返ったが誰もいない。 「…オレ?」  いぶかしげに思ったところで、その子が目の前まで来て、止まった。 「ごめんね、お兄ちゃん、遅くなっちゃって」 「えーと…」 「…忘れちゃったの? 私だよ、春野琴梨」 「琴…あっ、春野さんとこの」 「思い出した?」 「ああ、悪い。もう何年も会ってないし、写真より見違えてたから判らなかった」 「へ? や、やだなぁ、お兄ちゃん」  耳まで赤くして智哉の肩をバシバシ叩いている。 「…ところで、そのお兄ちゃんって…」 「あ、小さいころ、智哉さんのことずっとそう呼んでたから、…なんかつい…。イヤ、か なぁ?」 「そう言えばそんなこともあったなぁ。別にイヤじゃないよ。琴梨の言いやすいように呼んでくれればいいよ」 「うん、ありがとう、お兄ちゃん」  琴梨の明るい笑顔に、照れたように智哉はほほを掻いた。  その後琴梨の案内で、二人は千歳空港の地下にあるJRの改札口へ向かった。 「今日は確か叔母さんが来るって聞いてたんだけど」 「うん、お母さんちょっと用があって」 「そっか」 「うん。あ、荷物重くない? 私持つよ」 「んーと、じゃあこれ持ってもらおうかな」  そう言って智哉が琴梨に紙袋を手渡した。 「琴梨ん家のお土産」 「そんな気を使わなくてもいいのに」 「空港で買ったものだからあんまし大した物じゃないんだけど。あと母さんから預かっ たお土産も入ってるから」 「おばさんから? もしかしてアレ?」 「たぶんソレ」 「やったぁ、私アレ大好きなんだ」 「母さん毎年今ぐらいの時期に送ってるもんな」 「うん、帰ったら早速今日の晩御飯に出すね」  ニコニコ顔の琴梨。よほどうれしいのか、鼻歌まで歌い始めた。  改札脇で切符を買い、改札を通ってエスカレータでホームに下りると、電車が発車 時間を待っていた。  車内を見ると、ほとんど客が乗っていない。 「座って行けるね」  智哉が言うと 「うん」  と琴梨が頷いた。  ニコニコと笑ってはいたが、その笑顔が無理に作られたものだとは、智哉には気が 付かなかった。  札幌市内某所。ローカル放送局の地下にある薄暗い廊下を、渋い表情で陽子が歩 いていた。  途中にある倉庫や部屋に目もくれず、廊下の突き当たりの壁に向かって歩を進め ている。  廊下の終端の壁に突き当たると、壁が一段へこんでいる部分に右手を添えた。  ピンッという音とともに壁が左へスライドする。壁の向こうに廊下よりは少し明るい 程度の明るさの部屋が現れた。  小さなため息をひとつついて、中に入る。 「北嶋智哉君は、到着したのかい?」  男の声がした。 「愛田さん、もう来ていたんですか」  声の主のほうに、陽子は足を向けた。  部屋の広さは20m四方。ほぼ正方形をしていた。壁のうち1面は大型のモニタに占 領され、その左右の壁2面はオペレータが各5名づつ、モニタがいくつも並ぶコンソー ルに向かって座り、なにがしかの操作を続けていた。  オペレータのいる壁の中央には、両壁ともヒトが二人は並んで出入りできるくらい の大きさの扉が張りついていた。ノブなどが無いので、恐らく入り口同様、自動ドア になっているのだろう。  先ほどの声の主は部屋中央の、周囲より2段ほど高くなったコンソールに座ってい た。  コンソールに両肘をついて顔の前で両手を組みながら、正面の大型モニタを眺めて いる。 「琴梨が出迎えに行ったわ。公共交通機関を使うことになるけど、琴梨が一緒なので 問題は無いと思うわ」  それにそのほうが都合が良い。口の中で小さくつぶやいた。  コンソールに寄り掛かり、腕組みしながら陽子も正面のモニタを眺めた。  モニタには衛星から映された札幌市とその近郊が映し出されている。 「まだ感染体もそう多くは無いとは言え、このままだと時間の問題だな」 「ええ。でも汚染源と原因物質がまだ完全に特定出来ていないわ」 「今日にも椎名くんが解析結果を抱えて帰ってくるはずだが」 「相変わらず耳が早いのね。午前の便の飛行機だって言っていたけど、それにして も、相変わらず連絡をよこさない子ね」  入り口を見つめながら、陽子が今日2度目のため息をついた。 「お兄ちゃん、こっちにはどのくらい居られるの?」  札幌市内に向かう快速エアポートの中で、二人は何気ない会話を楽しんでいた。 「まぁ夏休み中ヒマだから、居ようと思えば8月の終わりまで居られるんだけど。でも いくらなんでもそりゃ迷惑だしな。まぁ一週間くらいかな」 「全然迷惑じゃないよ。居れるだけ居てもいいのに」  ちょっとだけ琴梨が残念そうな顔をする。 「そう言ってくれるのはうれしいけど、着る物だってそんなに持って来てないし」 「大丈夫だよ、私が洗ってあげるから」  そう言う琴梨の顔は、なんだかちょっとうれしそうだ。 「い、いや、洗濯機貸してもらえれば自分で洗えるから」  智哉の声が少し上ずっている。心なしか、顔も少し赤い。 「なに照れてるの? 変なお兄ちゃん」  くすくすと可笑しそうに琴梨が笑った。  変わってないな、と智哉は思った。  ずっーっと前に会った時から、琴梨の笑顔はいつも同じだったように思う。  邪気の無い笑顔とでも言うのだろうか。見ている方もなんだか楽しい気持ちにさせ てくれる。そんな笑顔だ。  そんなことを考えていると自然と顔がほころんだのか、琴梨が智哉を不思議そうな 顔で覗きこんだ。 「どうしたの?」 「え? あ、いや、なんでもないよ。やっぱり琴梨は変わってないなって、思ってただ けだから」 「そうかなぁ? ちょっとは女らしくなったと思うんだけど…」 「そりゃまぁ。正直可愛くなったと思うけど、言いたいのは性格っていうか中身かな」 「や、やだお兄ちゃんそんな…からかわないでよ…」  どうやら別な部分に反応したらしい。赤い顔でうつむいて、上目使いで智哉を見て いる。 「なんかオッサンくさいこと言っちゃったな」  はははと笑って誤魔化したが、その笑いは乾いていた。 「まもなく、終点、札幌に到着致します。札幌から先は各駅に停車致します。札幌か らの乗り換えは…」  苗穂を通過する辺りで車内アナウンスがまもなく停車であると告げた。 「札幌で降りるんだったよな」  バックパックを持ち上げ、降りる準備をしながら智哉が言うと 「うん。そこから地下鉄なんだけど、私から離れないでね」  琴梨が幾分か緊張の混じった真剣な表情でそう言った。  JR札幌駅から市営地下鉄東豊線に乗り換えるために、琴梨と智哉は地下連絡通 路を歩いていた。  東豊線はその名の通り東区と豊平区を結ぶ路線で、札幌市内を走る3本の地下鉄 線の中では一番新しい路線である。  他の2路線は「東西線」と「南北線」というのだが、こちらは結んでいる地域とは関 係無く、単純に東西、南北に走っているのでその名がつけられているだけである。  東豊線さっぽろ駅はJR札幌駅からは少し離れた地点にあり、地上からも行くこと が出来るが、地下連絡通路を使うのが一般的である。  連絡通路を歩いている間、琴梨は智哉のそばにぴたりとくっついて歩いていた。  会話もあまり無く、琴梨の目線は周囲に神経を張り巡らせているかのように、絶え ず辺りをキョロキョロと見まわしている。 「どうしたんだ?」  琴梨があまりに周囲を気にしているのを見て、智哉が気になって口を開いた。 「う、うん、なんでもないよ」  ちらりと琴梨が上目使いで智哉を見た。口元は笑っているが、目は緊張の色を濃く したままだ。 「なんでもない、って感じには見えないぜ?」 「うん…」  智哉から目をそらした。 「イヤ別に責めてるワケじゃないんだけどさ」 「うん、わかってるよ」  琴梨の口の端がキュッと強く結ばれた。何かを決心したように小さく頷くと、智哉の 腕をつかんでその場に立ち止まり、まっすぐに智哉の目を見据えた。 「あのね、お兄ちゃん。実は…」  言いかけて琴梨の目が大きく見開かれた。  何かに気づいたように周囲に視線をめぐらせ、そして智哉の背後の通路に固定さ れた。  智哉も振り返って見ると、先ほどからまったくと言っていいほど人気の無い連絡通 路の20mほど後方から、フラフラと歩いてくる男の姿が見えた。  年齢は20代前半くらいだろう、薄汚れたダウンジャケットを着て、あちこち破れたG パンをはいている。  夏でも比較的涼しい北海道とはいえ、さすがにこの時期はダウンジャケットなどを 着て歩かなければならないような気温になることは無い。  それだけでも十分に不審な感じが漂うのだが、それだけではない。  まるで酔っているかのように足元がおぼつかない歩き方で、視線を虚空にさまよわ せている。  両腕もだらりと垂れ下がり、一歩歩くたびに首が左右に振られていた。  それでも機械仕掛けのような歩き方で、一歩、また一歩と智哉たちに近づいてい た。 「なんだありゃ、あれじゃまるで…」  琴梨を見ながら言いかけて、息を呑んだ。  彼女の手にはいつのまにか、彼女の手に似つかわしくないものが握られていた。  その直後、連絡通路に大きな炸裂音が反響した。  琴梨の足元に、キンと高い金属音が1つだけ鳴った。   続く