「北へ。White Bio Hazard」

第1話:出会い −3−

「こんばんわ」  午後8時。智哉、琴梨、鮎の3人がちょうど食後のひとときを過ごしていた時だった。  玄関チャイムが鳴り、透き通った女性の声が玄関から聞こえてきた。 「あれ? この声…」  番茶を飲もうとした鮎の手が止まった。 「この声、ターニャ、だよね? こんな時間にどうしたんだろ」  テーブルに湯呑を置いて、琴梨が玄関へパタパタと急いで出た。 「たーにゃ?」  顔面に「?」マークをつけた智哉が鮎に向かって言った。  今まさに湯呑を口につけて茶を飲もうとしている鮎は 「うん。わたし達と同じSTARSのメンバー」  とだけ言うと、ずずずっと茶をすすった。 「んー、やっぱ暑い日も熱いお茶に限るね」  ぷはーっと満足そうに息を吐く。 「おっさんクサイ事言ってるなぁ」 「そう? おっさんだろうと美少女だろうと、美味しいものは美味しいのよ」 「……だれが美少女だって?」 「さーてね」  ずずずっと、鮎が茶をすすった。  ややして、パタパタと玄関から二人分のスリッパの音が聞こえてきた。  琴梨がリビングに姿を現し、続いて金髪の子がリビングに姿を現した。  両手で大きなキャスター付きハードケースのトランクカバンを重そうに持っている。 「あ、鮎さんもいらしてたんですか。どうもこんばんわ」  鮎の姿を見つけると、深々と頭を下げて挨拶した。 「こんばんわ、ターニャ。ってさ、わたしの方が年下なんだから、いいかげん敬語使う のやめようよ」  鮎が苦笑しながら言うと、 「すみません、自分では意識してないんですが、まだ慣れていなくて」  困った顔で笑っている。 「ほら、ターニャさんも座って。番茶で大丈夫かな?」  琴梨がキッチンから急須と湯呑を持ってきた。  お茶っ葉の入った茶筒と湯沸しポットは智哉たちのついているテーブルの上に乗っ ている。 「はい、大丈夫です」  そう返事をしながらターニャはテーブル脇にカバンを置き、智哉のそばまでトタトタと 歩み寄って彼の横で膝をついて座った。 「北嶋智哉さんですね?」  智哉の顔をまっすぐに見つめて言った。  秋の空のように澄んだ青い二つの瞳が智哉の瞳に向けられている。 「えと、そうです、けど」  陶磁器のように白く透き通った肌。金色に光を反射する髪の毛。「人形のよう」とい う表現がこれほどあてはまるヒトがいるだろうかと、智哉は内心思っていた。 「初めまして。ターニャ・リピンスキーと申します」  先ほど同様、深々と頭を下げた。 「あ、どうも、北嶋智哉と言います」  智哉もつられて深々と頭を下げる。 「っていうか、オレを知ってるんですか?」 「はい。一ヶ月ほど前から、琴梨さんにいろいろと教わっています」  ニコリと微笑む。  優しい笑顔だ。思わずその笑顔に智哉が見とれていると、 「ターニャ、お茶入ったよ」  と琴梨が湯呑を智哉の隣の空いている席に置いた。  去り際にちらっと智哉の顔を見て行ったのだが、智哉は気づいていない。 「ありがとうございます」  ターニャはそう言うとテーブルに向き直り、両手で湯のみを持って、ふぅ、と息を吹い て冷ましながらゆっくりとした動作でお茶を一口飲んだ。  鮎と違ってほとんど音を立てない。  湯呑から口を離し、はふっと息を吐いて、うれしそうに微笑んだ。 「やっぱり夏でも熱いお茶がいいですね」 「だよねぇ。でもそこにいる約一名は、オッサンくさい、なんて言うんだよ」 「別にお茶がオッサンくさいなんて言ってないじゃないか。鮎のしぐさがオッサンくさ いって言ったんだよ」 「鮎って、時々鮎のおじさんそっくりの仕草するよね」 「あー、琴梨裏切ったなぁ」 「いいじゃありませんか。お父様を尊敬している証拠ですよ」 「うちの父さんなんてそんな『お父様』なんてがらじゃないよ」 「そうかなぁ、結構頼り甲斐ありそうなおじさんだと思うけど」 「威勢だけはいいからね、一応寿司屋の大将だし」 「寿司か、北海道の新鮮な海産物、カニ、ウニ、イクラ…」 「あー、残念、どれもちょっと時期外しちゃってるよ」 「でも、お兄ちゃんがいるあいだに手巻き寿司しようね」 「お兄ちゃん?」  ターニャの疑問の一言で、座が一瞬静まった。  顔を赤らめながら、観念したように、琴梨が本日3度目の「智哉をお兄ちゃんと呼ぶ 経緯」についてターニャに説明した。 「そうでしたか。私はてっきり、最近そう言う呼び方が流行っているからかと思いまし た」 「なぜ??」  鮎が飲みかけた湯呑を口から離した。 「いえ、先日寮でお借りして読んだ本、ゲーム関係の雑誌だったと思いますが、確か そういう内容が書かれていたと…」 「……、ターニャ、日本語勉強用の雑誌はよく選んだほうがいいよ……」  湯呑を持って脱力している鮎の姿がそこにあった 「ところで、ターニャ、何か用事があって来たんでしょ? もしかしてお兄……智哉さ ん関係?」 「あ、忘れるところでした」  パチンと手を叩くと、トタトタと持ってきた荷物に駆け寄った。 「陽子さんに言われて、いくつか持ってきたんですが」  カバン上部の2つの留め金にカギを挿し込んでロックを外し、バチン、バチンと留め 金を起こしてカバンを開けた。  カバンの中に入っていたものは、 「………銃…?」  だった。  左右に別れたカバンの中に、しっかり固定された銃が計8丁。重いはずである。 「陽子さんから聞く限り、智哉さんはハンドガン系統の愛称がよさそうなので、とりあ えずすぐ用意できる分を持ってきました」 「ちょ、ちょっと待て。オレいつの間にそのSTARSとか言うのに協力することになったんだ?」  慌てる智哉に対し、ターニャは何かを思い出すようなそぶりで口を開いた。 「えーと、危険な仕事になるので、協力するしないは、智哉さんの意思を尊重しま す。また正式にSTARSの一員になれば東京にいつ戻れるか保証はありません。し かしわたし達は智哉さんの協力がぜひ欲しいのです。琴梨さんや鮎さんよりも強い その能力を貸してもらえれば、わたし達はずいぶん助かります。今すぐ返事が欲しい とは言いませんが、一度琴梨さん達と共にやってみてはくれませんか? …と陽子 さんが言ってました」  聞き終わって智哉が大きくため息をついた。 「要するに、本当にやるやらないは別にして、武器を持って一度ヤツラの相手してみ ろ、と?」 「たぶん、そういうことだと思います」  もうひとつ、智哉がため息をつく。  ちらりと琴梨と鮎の方を見た。  琴梨は口元をキュッと引き締めた表情でうつむいている。  鮎は両手で湯呑を持って上っていく湯気を追っていたが、智哉の視線に気がつくと 軽く微笑みを返した。 「わたしは、智哉の好きにすればいいと思うよ」  ずずずっとお茶を飲む。 「鮎と琴梨とターニャさんとオレ以外に、その妙な能力持ってるヒトいるのか?」 「今のところ、あと一人いるけど、ターニャは能力持ってないよ」 「え? だってSTARSの一員なんだろ?」 「ターニャはガンスミスなんだよ」 「本職はガラス職人なんですけどぉ…」  ターニャは普段は札幌の隣街、小樽市内のガラス工房で、ガラス職人の仕事をし ている。  ガンスミス、つまり銃職人のスキルは今は亡き父親から受け継いだものだった。  父親は旧ソ連で軍事関係の仕事に就いていた。  銃の扱いは軍時代に覚えたものだ。手先が器用だったこともあって、次第に銃の 調整や改造なども覚え、軍においては戦闘よりも銃器などの管理調整業務について いた。  その後ターニャが生まれたと同時に軍を辞め、彼の妻の実家で家業としていたガラ ス職人の仕事に没頭していった。  ガラス職人といっても単にガラスボールやグラスなどを作るに留まらず、装飾品や 小物類なども造ることが多い。  彼が作る小物類はどこかしら優しく温かみを感じさせ、幼少時のターニャはそんな 父が作る小物類を一日中飽きることなく眺めていた。  ガンスミスの技術をターニャに教えたのは、彼が亡くなる一年ほど前のことだ。自 分の死期を予感してのコトだったのかもしれない。  父親が亡くなったあと母親の再婚を機に、父親の親しい知人でもある今居るガラス 工房の店長の勧めで小樽にやってきて、父親と同じガラス職人への道を歩み始め た。  難しい顔をしていた智哉が、大きく息を吐きながら肩の力を抜いた。 「まぁ、そうだな、3人じゃ大変そうだから、夏休み中はオレも手伝ってもいいか…」  ポリポリとほほを掻きながら、そっぽを向いて智哉が言った。 「ほんとう? お兄ちゃん」  琴梨の表情はさっきまでとは打って変わったように明るい。  鮎はちょっと驚いたような顔で智哉を見ていた。 「やらない、って言うと思ったよ」 「せっかく期待されてるんだ、ここで首縦に振らなきゃ男じゃねえよ。ま、ちょっとばか しはめられたような気もしないでもないけど、細かいこと気にしてもしょうがないしな」  智哉のそういう物言いに鮎は素直に感心した。 「詳しいことは明日にでも叔母さんに聞くとして、じゃあ早速ターニャさんの用を済ま せてしまおうぜ」 「あ、はい。ではひとつずつ持ってみてください」  ターニャがそう言ってカバンから一丁ずつ、銃を智哉に手渡した。  銃には弾が装填されてはいるが、薬莢に火薬と信管はついておらず、弾も薬莢に 接着してあるダミーのものである。  智哉は順番に銃を手渡され、ターニャの指示する通りに構えたり操作したりを繰り 返した。  やっぱり想像以上に重い、と言うのが智哉の感想だ。銃自体の重さもあるが、やは り本物の殺傷兵器であるということも、重く感じさせている一因なのかもしれない。  また銃はひとつひとつていねいに整備されているのか、汚れも傷もほとんどなく、 パッと見は模型店に飾っているモデルガンのようにも見えた。  8丁全てを智哉が持ち、今またカバンの中に固定されている銃をターニャが難しい 顔で眺めていた。  ぶつぶつと小声で何かつぶやいている。 「ガバメントだと弾数がちょっと少ないし、同じ45口径ならソーコムあたりがいいんで しょうけど、あまり相性がよくなさそうだし、リボルバーはやっぱり弾数が……」  真剣な表情で一丁ずつ出しては戻し、出しては戻しを繰り返し、最終的に3丁の銃 をカバンから出して、テーブルに並べた。  ベレッタM92FS、シグ・サワーP226、CZ75。 「もう一度、この3つをそれぞれ持っていただけますか?」  智哉は言われるままに銃を手に取って、またターニャの指示通りに構えたり操作し たりを繰り返した。 「でもさ」  3つ目を手にしたところで智哉が口を開いた。 「オレ、射撃経験とかそういうの全くないんだけど、そんなんでいざって時役に立つの か?」  CZ75を構えながら言う。ベレッタやシグに比べてスリム軽量だが、なんとなく脆弱 な感を与える。  持ちやすさではベレッタやシグとさほど変わらないが、軽い分ちょっと安定感がない 感じだ。 「智哉さんは、ご自分ではどの子が一番持ちやすくて構えやすいと思いましたか?」  ターニャがアゴに手を当てながら尋ねる。 「んー、まぁどれも持ちやすいけど、強いて言えばこれが好きだな」  智哉が指差したのは、シグ・サワーP226。他の2つに比べるとやや大きめではある が、信頼性や射撃精度も高い銃だ。銃全体のデザインも比較的バランスが取れてい ると言える。 「わかりました。ではこの子を2つ、きちんと調整してお渡しします」  テーブルの上にあるベレッタとCZをカバンに収めながら、ターニャが言った。 「射撃経験や、銃所持に関する事務手続きはご心配なく。琴梨さんや鮎さんもまった く経験がなかったんですから」  残ったシグもカバンに収めて、左右に別れたカバンをバタンと閉めた。バチンバチン と留め金を降ろし、開けた時と逆の手順でカギを閉めた。 「さて、私の用はこれで済みましたし、もう遅いのでそろそろ帰ります」  ターニャが来てから3時間。すでに時計の針は午後11時を回っていた。 「あー、もうそんな時間なんだ」  そう言いつつも、鮎の手はテーブルの上のせんべいに伸びている。 「もう帰っちゃうの? 明日も小樽でお仕事?」 「いえ、明日は本部のほうに行きます。この子の調整もありますし」 「じゃあ、泊まっていけば? 今から小樽帰ったら日が変わっちゃうよ」 「へぇ、小樽で仕事しているんだ」 「はい、一応本職はガラス職人ですので」 「さっきも言ってたよな、そういえば。ガラス職人ってどんなの作るんだ?」 「あ、ターニャが造ったの、あるよ」  琴梨がポンと手を叩いて、台所に向かった。 「わたしも持ってるよ。ペンダントだけど。ほら」  鮎が首に下げているペンダントを外してテーブルに置いた。  緑と白のガラスを細工して作った花をあしらった小さなペンダントだ。  シャツの中に入れていたので智哉は気がつかなかったのだが、鮎はこのペンダン トが気に入っているらしく、いつも身につけている。 「ほらほら、まだあるんだけど、私が気に入ってるの持ってきたよ」  琴梨がデザインの違うグラスを3つ、トレイに載せて持ってきた。  一つは見た目は普通のタンブラーだが上から下へオレンジ色から透明へのグラ デーションがかかっている。  もうひとつは草色のグラスで表面に網目模様が入っているモノ。  最後は夕焼け色とでも言うのだろうか。形こそシンプルなグラスだが、その色は水 平線に沈みかけた太陽の色そのものと言って良かった。 「きれいだな、これ」  智哉が夕焼け色のグラスを手に取る。 「それは、この間ようやく完成した色なんです。まだお店には並んでないのですが、 試作したグラスを陽子さんが気に入ってくれたので、差し上げたんです」 「私も好きだよ、その色」  琴梨がトレイをテーブルに置いて、智哉の脇からグラスを覗きこんだ。  それに気がついた智哉が琴梨にグラスを渡すと、琴梨は両手で大事そうにグラスを 包んだ。 「暖かい色だよね。じーっと見てると落ち着くんだ」  琴梨の言葉にターニャがうれしそうに微笑んだ。 「いま、この色でなにか小物とかペンダントとか作れないか、思考錯誤中なんです。 折角出せた色ですから、頑張っているんですけど、どうもいいアイデアが浮かばなく て…」 「あ、わたし、楽器のペンダントみたいなの欲しいな。造れない、かな?」  テーブルに両手でほおづえをついている鮎が、ターニャに言う。 「楽器、ですか? うーん、どうでしょう、造れないことはないと思いますが」 「オレだったら、クジラとかペンギンとかもいいんじゃないかって思うけどね」 「え〜? クジラ? なんか色とか合わなくない?」 「そーゆーのを既成概念っつーんだよ。常識にとらわれない発想からアイデアっつー のは膨らませていくもんだ」 「ガラス製のティーカップ、なんていうのも、いいと思わない?」 「悪くないけど、お茶の色とかわからなくなっちゃうよ」 「いい色なんだけど、色活かせるアイデアって思ったより浮かばないもんだね」 「ええ、でも、なんだかアイデアが沸いてきました。明後日は小樽で仕事なので、そ の時また色々と作って見ます」  ターニャが紅いグラスを持って目を細めた。 「ターニャさ、琴梨ん家泊まってくんでしょ? あたしも泊まってこーかな」  ガラスの話から一転、ボリボリとせんべいをかじりながら鮎がのん気に言う。 「鮎も? いいよ、って言いたいけど…」  琴梨がちらりと智哉を見た。  その視線の意味を智哉は理解したのか、鮎と同じようにテーブルのせんべいに手 を伸ばしながら口を開いた。 「オレなら気にしなくていいよ。そこのソファでもどこでも寝られるから」  智哉は客間を与えられていた。  客間とは言えそこそこ広く、ベッドがひとつあるが床にもう一組布団を敷くことが出 来るくらいの余裕は充分にある。  鮎とターニャをそこに寝かせて、智哉自身はリビングのソファーに寝る気なのだ。  夏だから風邪を引くとも思えないし、ソファーもわりと大きめだった。毛布かタオル ケット一枚あれば充分だろう。  しかし、智哉の申し出に琴梨は反対の声を上げた。 「そんなのダメだよお兄ちゃん。ソファじゃ疲れ取れないし、風邪ひいちゃうよ」 「ターニャが琴梨の部屋行ってさ、智哉と私は同じ部屋でいいよ。別に一つの布団で 寝るわけじゃないんだしさ。私は別に気にしないよ。」  鮎が智哉を見た。その顔はなにやら意味深な笑みを浮かべているが、琴梨からは 見えていない。 「え……? そ、それならターニャと鮎が一緒の部屋で、お兄ちゃんは私の部屋で寝 てもらう方が良くないかな…」  智哉としてはどっちにしろ同じコトだ。  女の子と一緒の部屋で寝るなんて小学校低学年の時に、自分の家に琴梨が遊び に来た時以来だった。  あの時は琴梨も智哉のコトを兄として慕っていたし、智哉も琴梨を妹のように思って いたので、一緒に寝ていてもお互い不自然さは全く感じなかった。  今も琴梨は智哉を「兄」として見ているようだが、智哉自身は琴梨を「妹」と見てい るのかどうか疑問を感じている。  昼間、鮎に変なことを言われたせいもあるかもしれない。 「い、いやオレはだからリビングのソファでも…」 「そだね、琴梨と一緒のほうが自然だよね」 「そうですね」  鮎とターニャのアイコンタクトによる見事な連携プレイだった。 「それで、いいかな? お兄ちゃん」  ほほを紅く染めながら琴梨は上目使いで智哉を見ている。 「あ、う、うん」  智哉にはそれしか選択肢が残されていなかった。  巧妙に鮎にはめられたのだが、まだそれに気づいていない。 「じゃあ、お布団運ぶから手伝ってね」 「オッケー、さっさと終わらせよ」  立ちあがった鮎が琴梨の手を引くようにしてリビングを出ていった。  智哉も続いて出ようとしたが、その前にターニャに呼びとめられた。 「あの、私たちのことはお気になさらずに…」 「…なにが…?」  ここにも一人、なんだかちょっと暴走気味の娘がいた。  そもそもそう言う関係ではないというのをどう言えば判ってもらえるかと考えをめぐら せようとした時、そう言えばと、ふとターニャに聞いてみたいことが思い浮かんだ。 「ターニャさんって、国はどこなの?」 「国…生まれ故郷でしょうか?」 「うん、名字がちょっと聞いたことない感じだったから」 「生まれはロシアです。ナホトカというところなんですが、ご存知ですか?」 「ナホトカ…」  そう言えばロシアっぽい名前かなと智哉は思った。  智哉の頭にいいかげんな世界地図が浮かび、だいぶ昔に地理で習ったようなとこ ろに適当に地名を当てはめた。  確か北海道の上のほう。しかし結局はそんないいかげんなものに過ぎなかった。 「聞いたことはあるかな」  その単語はなんとなく記憶の断片に引っかかっていた。ただ、どこで仕入れた知識 かは判らない。おそらく授業ではなく、ニュースかなにかのはずだった。 「そこでガラス職人の家に生まれたんですが、父が病で亡くなって、母の再婚を機 に、小樽に来たんです」  ターニャの父親が軍事関係の仕事をしていたのは、ターニャは知らない。  ものごころついたときには、父親はすでに腕の良いガラス職人だった。ガンスミス の技術も、そう言うものだろうと特に疑問を持つことは無かった。 「ほんとうは、リピンスカヤって言うんですけど、父の姓を名乗ってるんです」 「え?」 「向こうでは、家族でも名字はちょっと違うんです」  ターニャがいつものように柔らかな微笑を浮かべた。  一応法則性はあるのだが、あえてターニャはそこまで説明はしなかった。  智哉はそれでもなるほどと相槌をうつと、さらにターニャに質問した。 「お母さんは、ターニャさんが小樽で仕事してることについて、なんて言ってるの?」 「…別に、なにも…」  下くちびるをキュッとかみ締めて、沈痛な面持ちでターニャが視線を床に落した。  恐らく帰って来いとか言ってきているんだろうなと、ターニャの表情を見て智哉は感 じた。  帰らないのはターニャ側に理由がありそうだが、それを聞くのもなんだか他人の心 に土足で入りこむように思い、話を少し別方向に切り替えようとした。 「このまま小樽で職人の道をすすむんだ?」 「実は、今いるガラス工房の店長から養子の話が出ているんですが…」 「へえ…」 「そうなると『リピンスキー』を名乗れなくなってしまいます。父との接点がなくなってし まう気がして」  なるほどな、と智哉は思う。  なんとなくだが、ターニャがロシアに帰らない理由の1つが智哉にも理解できた気 がした。 「あ、なになに、ターニャまだ養子の話迷ってるの? 坂本店長良いヒトじゃない」  どこまで話を聞いていたのかは判らないが、鮎がリビングに顔を出しながらそんな ことを言った。  その後ろに琴梨の姿も見える。結局智哉が手伝いに行くこともなく、布団運びは終 わってしまったらしい。 「はい…」 「名前より、お父さんと同じガラス職人の世界にいるっていうことのほうが、大事なん じゃないかな」  これは琴梨だ。今智哉が聞いたような話は、すでに二人とも知っているんだろう。  鮎もうんうん頷いて、また口を開いた。 「そうなると、名字は『坂本』で名は『ターニャ』、『坂本ターニャ』か」  なんかどこかで聞いたような名前だなと智哉は思った。  その後、それぞれ入浴を済ませて、リビングでしばらくわいわいと話が盛り上がっ たりトランプをしたりしていたが、 「そろそろ寝ないと…」  とターニャが言ったころには午前2時になろうとしていた。  琴梨とターニャはすでにパジャマに着替えた格好でリビングにいた。もちろんパジャ マは琴梨のものだ。鮎はTシャツと単パン姿である。これは以前遊びに来た時にその まま置いていったものだった。  智哉は鮎と同じような姿でじゅうたんに座っていた。 「あ、もうそんな時間?」  鮎がターニャの手にあるカードを引きながら振り向いて、リビングの壁にかかってい る時計を見た。 「それ、ババです」  手元の札に鮎がカードを入れようと絵柄を見たときと、ターニャがちょっとうれしそう に話したのはほぼ同時だった。 「あうっ、やってしまった…」  ボリボリと頭を掻いて悔しそうな顔で手札をシャッフルした。 「いまの終わったら寝ようね」  琴梨が言う。 「そうだな、明日もあるし」  言いながら智哉は鮎の差し出すカードを選んでいた。  右手が右に左にとカードを選んでいる。  鮎はそっぽを向きながら時折目線だけを智哉の手元に移していた。 「よし、これだ」  引いた札はババのとなりの札で、鮎は途端にむすっとした顔になる。  その後結局鮎の手元からババが動くことなく、この回は鮎が負けた。  本日通算3敗目である。  ちなみに戦績は琴梨とターニャが2敗、智哉が0敗だった。 「あーー、一人負けって感じ」  ごろりと鮎が両手を上げてあお向けに寝転んだ。  トランプを片付けながら琴梨がそれを見て微笑む。 「ん〜…」  ターニャが両腕を上げて大きな伸びをした。 「明日は早いのか?」  智哉がターニャを見て言った。 「あ、特に時間は決まってないんですが、午前中には作業を始めたいなと思ってま す」 「お兄ちゃんは明日なにか予定あるの?」 「いや、無いよ。オレもそのSTARSとかに行った方が良いのかなって思ってはいるけ ど」 「明日おばさんに聞いてみればいいんじゃない?」  鮎があお向けに寝転がりながら智哉に向かって言う。  両手を頭の後ろで枕のようにしているので、Tシャツのすそが上に上がっておなか が見えている。 「…鮎さ、少しは男の前で恥じらいっつーもんはないのか?」 「んー? なにそれ」 「へそ、見えてる」 「別に見えたって減るもんじゃないっしょ」 「そりゃ減るもんじゃねぇけどさ、男として無防備にそう言われるのは複雑な心境だ ぞ」 「男心ってのも案外複雑なもんよねぇ。ちなみに今はブラもしてなかったりして。琴梨 もターニャもしてないよ」  鮎がちらりと琴梨を見た。 「お風呂上りだもん、その、あんまりしない、かな」  ちょっと恥ずかしげだが、割と当たり前のように言う。 「私も寝る前は外しますねぇ。」  ターニャはのほほんとしている。 「…俺の中の女性像がガラガラ崩れそうだから、それ以上突っ込まないでくれ」  三人寄ればかしましい。そんな言葉が智哉の頭の中に反芻する。 「男性の方が女性に対してロマンチストと言う話も聴いたことありますね」  ターニャがボソリと言った。 「なんか良くわかんないけど、男の子ってのも大変よねぇ」  そう言って鮎は勢いよく起き上がって立ちあがると、口元をおさえながら大きなあく びを一つついて、ペタペタとスリッパもはかずに客間へと行ってしまった。 「では私も休ませていただきます」  ターニャが続いて立ちあがった。  トタトタとリビングを出ようとしたが、何か思い出したように振り返る。 「あの、私たちのことはお気に……」 「だから何が?」  ターニャと智哉の会話に、琴梨は何のコトだかよく判らないと言ったきょとんしとた 表情で、交互に二人の顔を眺めていた。 「智哉ー」  ふいに鮎がドアから顔を覗かせる。 「変なことするんじゃないよ」  ニィと意味深な笑みを浮かべた。 「あ…、だ、大丈夫、だよね? お兄ちゃん」  琴梨が赤い顔であいまいな笑顔を作って智哉を見つめる。 「お、おう、まかしとけ」  平常心。智哉は頭の中でブツブツとその言葉を繰り返していた。 続く