「北へ。White Bio Hazard」

第1話:出会い −5−

 地下鉄駅から地上に上がると、すでに陽が大きく傾いていた。  もうほんの僅かの時間で、太陽も藻岩山の山肌にかかり始めるだろう。  快晴の空の青さがさらに一層深い青色になり、東の空は夜の闇をまとい始めてい た。 「明日も晴れるかな」  西の空に傾いた太陽を見ながら、めぐみがつぶやく。 「夕焼けの次の日は晴れ、ってのは、迷信らしいぞ」  めぐみの荷物を持っている智哉が、少しだけ不機嫌そうにそう答えた。 「へぇ、そうなんだ」 「聞いた話だから、よくは知らないけどな」  言いながら荷物を右手から左手に持ち替えた。結構重量があるので手のひらに食 い込むらしい。  こんな小さい身体でよくこんな荷物を持ってきたものだと、ちらりと横目でめぐみを 見ながら智哉はヘンに感心していた。 「おじさん、何時頃来るか判る?」  二人の後ろを歩いている琴梨が、めぐみに向かって声をかけた。  めぐみは一旦琴梨の家に行き、その後、夜に父親の愛田耕作がクルマで迎えに来 る手はずになっている。  智哉の横にいためぐみが、跳ねるように後ろに下がって琴梨の横に並んだ。 「お父さん? んーと、遅くても夜8時には迎えに行くって言ってたよ」 「じゃあ、お夕飯、おじさんの分も用意しておこうかな」 「気にしなくても大丈夫だと思うよ」 「だって、仕事場からまっすぐ来るんでしょ? それにみんなで食べたほうが美味しい よ」 「夕飯遅くなっちゃうよ?」 「それこそ気にしなくていいよ。お兄ちゃんも少しお夕飯遅くなっても、大丈夫で しょ?」 「ん? 俺は別に構わないぜ」  首だけ振り返ってそう返す。 「ほら。じゃ、荷物置いたらお夕飯の買い物に行きましょ」  琴梨の家に荷物を置いて一息ついた後、3人は近所のラルズ・ストアに夕飯の買い 物に出かけた。  ラルズ・ストアとは、道内に数多くのチェーン店を置く、大型スーパーマーケットであ る。 「確か今日は、豚ばら肉とジャガイモが安いんだよね」  従兄妹2名を従えて、琴梨の顔は主婦の顔になっていた。  智哉とめぐみは彼女の後ろから、ショッピングカートを押しながらなんとなくついて行 く。  もちろんショッピングカートを押しているのは智哉である。 「…琴梨って時々おばさんくさくないか?」  智哉が琴梨に聞こえないような小声で、隣を歩くめぐみに話しかけた。 「しょうがないよ。家事のほとんど琴梨ちゃんがやってるんだから」 「叔母さんの仕事不規則そうだしな」 「って言うか、陽子おばさんの創作料理、一度でも食べたら納得すると思うよ」  はぁ、とめぐみが小さくため息をついた。 「二人ともー、なにやってるの? こっちだよー」  野菜コーナーの先にある鮮魚のコーナーから、琴梨が智哉たちに向かって片手を 振っていた。  めぐみが小走りに彼女に向かい、智哉は通路の人を避けながらショッピングカート を再び押し始めた。  鮮魚のコーナーで味噌汁の具材のシジミを選びながら、琴梨が追いついた二人に 向かって口を開いた。 「問題です。今日のお夕飯はなんでしょう?」 「降参」 「早っ」  ビシッとめぐみが智哉に突込みをいれる。 「だってオレ、料理とかよく判らんもん」 「材料見ればなんとなく想像つくでしょ」 「材料? ジャガイモ、にんじん、豚バラ肉、シラタキ、キヌサヤ…」 「ヒント、しょうゆで味付けする和風料理です」 「カレーか?」 「なんでだー」  今度のめぐみの突っ込みは後頭部だ。  スパンといい音が店内に響いた。 「ジャガイモにニンジンって言ったら、カレーじゃないのか?」 「カレーには豚バラは、あんまり入れないよー」  ちょっと困った笑顔で琴梨が返す。 「しょうゆで味付けもしないと思う」  じとっと智哉をにらむ、めぐみの目つきはちょっと怖い。 「意外にイケるんだぞ、カレーにしょうゆ」 「そんな異次元の食べ物は無い!」 「めぐみ、お前我が家の食卓をバカにするのか?」 「カレーにはウスターソースでしょ。百歩譲ってもお好み焼きソースまでよ」 「邪道だ」 「どっちがっ」 「二人とも、遅くならないうちに買い物済まそうよ…」  ポツリとそう言い残して、琴梨はすたすたと惣菜のコーナーへ足早に歩いて行って しまった。  呆然とその後姿を見送る二人。 「琴梨、怒ってるのか?…」 「…メチャクチャ怒ってるよ…」  無言で買い物を続ける琴梨の後ろから、二人が平謝りに謝りつづけたのは、言うま でも無い。  夕刻の喫茶店の中、椎名薫と長い髪の女の子が、窓際の席で向かい合って座っ ていた。 「ごめんなさいね、こんなところに呼び出したりしてしまって」  薫はそう言いながらも悪びれた風でなく、手もとのティーカップを持ち上げて、一口 すすった。  肩にかかった髪の毛を少し、鬱陶しそうに掻き揚げる。 「いえ…」  長い髪の女の子は、左目で彼女の顔を見据えていた。  右目は眼帯で塞がれているので、見ることが出来ないためだ。  端整な顔立ちに不釣合いの白い眼帯が、妙に目立って見える。年齢は高校生くら いだろうか。  長い髪は黒髪のストレートで、前髪はまゆ毛辺りできれいに切り揃えられていた。  椅子の背もたれに背をあずけ、腕と脚を組んで座っている。口調こそそこそこ丁寧 だが、態度は結構大柄だ。 「左京葉野香さん、だったわね。左京さんでいいかしら」 「構わないよ」  葉野香の目の前にも、薫と同じティーカップが置かれているが、彼女はまだ手をつ けていない。  深いオレンジ色の紅茶からは、ゆったりと湯気がくゆっていた。 「早速だけど用件を言うわ。大方予想はついていると思うけど、あなたにS.T.A.R.S.へ 来て欲しいの」  カチャン、と小さな音を立てて薫がカップを皿の上に置いた。 「ふうん…」  興味がなさそうに葉野香がつぶやいた。  目線を斜め下の床に落とし、くちびるを噛み締める。  小さく息をついてもう一度薫を見返した。 「私みたいなのも勧誘するなんて、S.T.A.R.S.も、よっぽどヒトがいないみたいだな」  小馬鹿にするように顔を歪めて笑う。 「そんなことは無いわ。私たちは使える程度の能力者じゃないと、勧誘はしないわ よ」  葉野香の挑発を受け流し、薫は静かに微笑む。 「そうやって、私たちを危険な目に遭わせて、自分達大人は安全なところから見てい るだけなんだろ?」 「そうね、私にも能力があれば直接戦うんだけど、残念ながらあなたたちにしか能力 が無いから、サポートに徹するより仕方が無いのよ」 「はっきり言うんだな、あんた」 「本当の事だもの。でも、私たちの代わりはいるけど、あなたたちの代わりはいない のよ」  夕刻の店内に静かにクラシックのBGMが流れている。  窓の外には、家路へ向かう人たちが足早に通りすぎて行く。  薫は目の前に置かれたカップを持ち上げ、くちびるを湿らせるように一口、口をつけ るとまた皿の上に戻した。  口をつけたところにうっすらと赤い口紅の跡が残っている。 「今、あんたのところには、何人くらい私みたいのがいるんだ?」  葉野香が沈黙に耐えきれないように口を開く。 「4人よ、女の子が3人、男の子が1人。女の子のほうが、この能力を持ちやすいみた いね」 「…」  葉野香は沈黙で答えると、思案するような表情で窓の外を見た。  夕陽が灰色の街に強いコントラストを与えている。  通り過ぎる人達の横顔は、夕陽の作る影でその表情はわからない。  葉野香の目には、それが何故か遠い日常のように見えていた。 「結論を急ぐ必要は無いし、強制もしないわ。やりたくなければ、首を横に振ってくれ ればいい。最大限安全を確保するけれど、それでも危険な仕事には変わりないか ら」 「あんたの前にも、1人私に同じ事を言ってきたヒトがいるのよ。男の人で名前は忘れ たけど、戦わないと同じ能力を持った他のヒトが、それだけ危険にさらされるって言っ てた」  窓の外を見ていた葉野香が薫のほうを向いて続ける。 「私だってこの変な能力が役に立つなら協力したいさ。それで1人でも助けられるな ら。今あんたたちがやってることは、あの変な…化け物を殺すことだけだろ。私はあ の変な化け物も助けたい。犠牲者は出したくないんだ」  最後のほう、少し語調が荒くなってしまったのに気がついたのか、葉野香は少し居 心地悪そうに顔を赤らめて、視線を逸らした。  薫は視線をティーカップに落して、重たそうに口を開く。 「少しは実情を知っているようね。でも現状では目標を破壊するより手段は無いの。 もちろん採集したサンプルは徹底的に調査はしているわ」 「だったら…」 「絶望したわ。原因に見当もつかない。いっそ悪魔の仕業だと思ったほうが気が楽 よ」  薫は顔の前で両手を硬く握り、テーブルにヒジをついて額をコツコツと当てていた。  落ち着かない時にでるクセだ。それほど冷静でいられなかったのだ。  葉野香は少し温くなった紅茶にようやく口をつけた。心地よい香りが鼻を抜けるが 気に留めなかった。  一口飲んで熱くないのを確認すると、一気にのどに流し込んだ。 「…悪魔、か」  皿にカップを戻しながら葉野香がつぶやいた。  薫が視線を葉野香に戻す。 「唯一助ける手段が殺すことだって判っただけでも、少し気が楽になった。手伝うよ、 あんたたちの仕事…」 「危険な仕事よ、返事はよく考えてからでいいわ」  薫にしては珍しく、少し感情的な物言いになっている。 「別に何も考えずに決めたわけじゃないさ。これでも前から悩んでいたんだ。私なりに 出した結論だよ」 「…ありがとう」 「お礼言われるスジじゃないよ。…やらなくちゃいけないことなんだ」  つぶやくように言葉を吐き出し、葉野香はテーブルに頬杖をついて外のほうを眺め た。  ビルの造る影が、長く長く引き伸ばされていた。  智哉たち三人が家に帰りついた頃には、太陽も藻岩山の向こうに姿を隠し、空も急 速に深い夜の色に変わりつつあった。 「ただいまぁ」  琴梨が家の中に声をかけると、リビングから陽子が顔を出した。  朝とは違い、トレーナにジーンズと、一応きちんと服を着ている。  智哉たちが買い物をしている間に起き出して来たんだろう。 「おかえり、みんな買い物ご苦労さんだったね」 「お兄ちゃんとめぐみちゃんと一緒だったから、楽しかったよ」 「うん、楽しかった」 「で、結局今日の夕飯はなんなんだ?」 「肉じゃがだよ、お兄ちゃん。それと今日はジャガイモいっぱい買ったから、他にも ジャガイモ料理作るんだ」 「わたし、ポテトフライ!」 「却下」 「なによぉ、智ちゃんが決める事じゃないでしょー?」 「夕飯のおかずにゃならんだろ」 「なるよ。私ポテトフライあれば、ご飯3杯は軽いよ」 「胸焼けしそうなこと言うな」 「二人とも、荷物は台所まで持ってきてね」  琴梨が台所から顔だけ出して言った。 「…なんだか琴梨、機嫌が悪いけど、なにかあったのかい?」  そう言って玄関から台所のほうを振り返る陽子の表情は、心配そうと言うよりは、ど こかしら楽しそうだった。 「いや、めぐみと言い争いになると、なぜか琴梨の機嫌が悪くなるんですよ…」 「はー、ヤキモチだな、こりゃ」  陽子がちょっとあきれた顔でつぶやく。 「はい?」 「ヤキモチ?」 「たぶんね」 「オレとめぐみがケンカしてるのに、ヤキモチもなにもないでしょう」 「そうだよ、こんなに仲悪いのに」 「傍から見たら、兄妹みたいに仲良さそうに見えるわよ」 「誤解です」 「事実誤認よ」 「難しい言葉知ってるんだな、おまえ」 「またそーやってヒト馬鹿にして。これでも来年は高校受験なんだからね」  腰に手を当ててぷうっとふくれ面するめぐみ。  その姿をまじまじと見て、智哉が一言。 「子ども料金で地下鉄乗れそうだな」 「乗るわけないでしょっ」 「二人とも、荷物…」  いつのまにか、智哉たちの背後に琴梨が立っていた。表情こそ普通だが目が座っ ている。 「あ、ゴメン、今持っていく」  智哉は慌てて返事をすると、めぐみの分も持って足早に台所まで運んで行った。  その後ろ姿を見やって琴梨が小さく溜息をつく。視線が遠くを眺めていた。 「琴梨ちゃん…」 「え? ああ、ごめんなさい。なにか用だった?」 「あ、いや、別に用は無いけど」 「じゃ、私晩ご飯のしたくするから」  軽く微笑むと、琴梨は台所へと入って行った。  ぽつりと廊下に取り残されるめぐみと陽子。 「リビングに行こっか、めぐみちゃん」 「あ、うん」  リビングに置いていた茶器でコーヒーを淹れた二人だったが、陽子の淹れたコー ヒーはめぐみには苦かったようだ。 「んー〜、やっぱここはこう変えたほうが…」  ベッドに腰掛け、割と新しいフォークギターを抱えながら、鮎は五線譜にかかれた 音符を消しゴムで消していた。  気に入らないパートを消したところで、気を取り直したように、指先で再び弦を弾き 始める。 「ふんふん、ふふふんふんふん…」  目を閉じて、メロディを口ずさむ。  だが、すぐに弦を弾く指先が止まった。 「はぁ…、なんかノらないな」  小さくため息をついて、ギターをベットに横たえ、立ち上がった。  両腕を大きく上に伸ばし、それに合わせて身体全体を伸ばす。  そのまま柔軟をするように左右に身体を曲げながら、窓まで歩み寄った。  ガラリと半開きの窓を大きく開ける。  涼しい夜気が部屋にゆっくりと流れ込んだ。  北国札幌であっても年に何度か熱帯夜の時もあるが、今夜は湿気も無く心地よい 風が吹いていた。  窓枠に手をかけ、両腕を突っ張るようにして身体を少し窓から外に出して夜空を見 上げる。  街の灯りで漆黒とは言えない夜空だが、それでも明るい星はいくつも見ることが出 来る。  鮎が昔から見ている、変わらない夜空だった。 「…よくわかんないや」  首を2、3度振ってつぶやく。  網戸をしっかり閉めなおし、窓を半分だけ閉じて、カーテンを閉めた。  ギターを机に立てかけ、部屋の明かりを落し、鮎はベッドに大の字に横になった。  視界の隅にギターとそのケースが見える。  ケースの中身は、昨日も使った大型ライフルだ。  鮎はこのライフルで何体もの目標を破壊してきたが、未だに撃つ時の感触には馴 染めないでいた。  発射音、衝撃、硝煙の匂い、目標に弾が当たる時の感触。その時はなにも感じな くても、後から襲ってくる。  決して気持ちの良い感触ではなかった。  最初の頃はその時を夢に見て、全身にじっとりと汗をかきながら何度も夜中に目を 覚ましていた。  今でも時々夢に見る。  鮎はタオルケットを被り、ごろりと机と反対側に寝返りを打って目を閉じた。  思い出さないように、夢で見ないように。そう呟きながら。  S.T.A.R.S.本部のターニャの工房では、ようやっと智哉に渡すための銃の調整が済 んだところだった。  朝から一日中缶詰状態で作業していたので、昼食も摂っていない。 「えーと、今何時かしら…」  ウエスで銃を拭きながら、壁にかかっている時計を見た。午後七時を少し回ったと ころだ。  くーっとお腹が急に鳴った。 「やだ…」  誰に聞かれたわけでもないのに、ほほを赤らめる。朝食べて以来なにも口にしてい ないので無理もないだろう。  手に持っている銃を保管庫にしまい、作業机や工具を片付けて、オイルの染み込 んだ厚手のエプロンを外して椅子の背にかけた。  小さく身体を伸ばすと、背骨や腰骨がぽきぽき鳴った。  肩をとんとんと叩く。 「うーん、なんだか、おばさんくさいな」  自覚はあるようだ。 「あの子は明日智哉さんに渡すとして、じゃ、今日は小樽に帰ろうかな」  壁に掛けてあった小さなリュックを降ろし、回数券を確認した。まだ5枚残っている。  本来なら定期券を使っているのだが、たまたま忙しい合間に定期が切れたため、 本部に言って回数券を貰ったのだ。  札幌−小樽間は結構距離があるので交通費もバカにならない。  洗面台でハンドソープを使って手を洗い、リュックを背負って部屋を出た。 「あの、お先に失礼します」  本部管制室に顔を出して挨拶すると、 「おつかれさまー」 「気いつけてな」 「ごくろうさん」 「また明日ね−」  などなど、にぎやかな返事がその場にいる人数分返って来る。  ターニャは笑顔で軽く頭を下げて管制室を通りぬけ、本部を後にした。  外に出るとすっかり暗く、夜空には星が瞬いていた。 「ちょっと遅くなったけど、エンゼルでご飯にしようかな」  エンゼルとは、小樽にあるターニャ行き付けの喫茶店兼レストランである。  ロシア風料理がメニューに多数あり、しかも手ごろな値段で食べられるので、彼女 もお気に入りの店だ。  もちろん普段は寮で自炊している。最近凝っているのは和食のレパートリー増やし らしい。  ターニャは小走りで最寄の地下鉄駅まで向かった。  割と遅くまでやっているレストランとは言え、もたもたしていられるほどの時間は無 い。  地下鉄で札幌駅へ出て、その後JRの快速で小樽へと向かうのだ。乗り継ぎのア クセスが悪いと1時間はかかる。 「こっちのほうが忙しくなったら、本部にお部屋借りないとダメかな…」  地下鉄駅で電車を待っている間、ターニャは独り言のようにそんなことをつぶやい ていた。  春野家は今夜もにぎやかに夕食を囲んでいた。 「琴梨ちゃんも、料理が上手くなったね」  お茶を飲みながらそう言うのは、愛田耕作だ。  その横にはちょこんと座ってポテトフライを食べているめぐみもいる。  結局琴梨がリクエストに答えて作ってあげたらしい。 「ありがとうございます、おじさん」  向かいに座る琴梨はうれしそうに答えた。  琴梨の横に座っているのは、今日は智哉である。  陽子は愛田耕作と琴梨の間の席に座っていた。 「智哉君はもうお代わりはいいのかい?」  陽子が智哉に言う。 「あ、オレはもういいです」  智哉のその声を聞いて、琴梨が心配そうに口を開く。 「お兄ちゃん、口に合わなかった?」 「ご飯4杯もお代わりしてて、それは無いと思うよ」  めぐみが智哉より先に突っ込んだ。  智哉はポリポリと照れたようにほほを掻いている。 「えーと、おいしかったよ」 「ホント? よかったぁ。じゃ、お茶煎れるね」  ポットから急須にお湯を入れて、智哉の湯呑にそそいだ。  コトンと智哉の前に置く。 「さんきゅ」 「うん」  その様子を耕作は笑みを浮かべながら見ていた。  陽子も目を細めて見ていたが、耕作のように笑うことは出来なかった。    深夜2時。  ラーメン横丁にある『北海軒』の暖簾がしまわれた。  このラーメン横丁と呼ばれる通りは、一年ほど前までは通りの両側にラーメン屋が 軒を並べていたものだったが、現在営業しているのは北海軒一軒のみである。  他のラーメン屋はすでに店をたたみ、通りは閑散とした廃墟同然の様相を示してい た。  新しいラーメン屋が開業する気配も無い。  無論、そんなだから客の姿もほとんど全くと言っていいほど見ることも無かった。 「あにき、明日は店休むんだろ?」  言いながら店のドアにカギをかけているのは、葉野香だった。  今日の来店者数は3人。このところ赤字続きだった。  決してまずいわけではないのだが、最近ではラーメン横丁に来て食事するヒトはほ とんどいなくなっていた。旅行のコースからも既に外されていた。 「ああ…」  厨房の奥から、暗く力無い声が響く。 「明日は留守にする」  続けてそう言い、厨房の奥でのそりと男が立ち上がった。  背の高さは葉野香よりずいぶん高いが、どこか不健康そうな体つきだった。  こぎれいな白い仕事着を着ているが、顔には不精ヒゲが生えている。 「またかよ…。いい加減にしろよ、あにき」  葉野香が奥にいる男をにらみつけた。  男は嘲るような顔で葉野香を一瞥した後、身につけたエプロンを外して店の奥の鉄 のドアを開けた。  ドアの向こうに僅かな明かりが灯り、細い路地が奥へと続いているのが見える。 「自分がなにやってるのか、判ってるのか? いい加減にしないと、あたしにだって考 えがあるからな」 「葉野香こそ、俺がなにをやろうとしているのか、判ってない」  男は葉野香のほうを振り向きもせずにそう言うと、ドアの外に出た。扉を閉めようと したその時、葉野香がつぶやくように言う。 「今日、S.T.A.R.S.に協力することにした」 「STARSか。好きにしろ」 「絶対に止めてやるからな」 「今のお前に止められるものならな」  その言葉を最後に二人の間は硬い扉で遮られ、しんとした薄暗い店の中に葉野香 独りが取り残された。  うつむき、両手を固く握り締めて、肩が小刻みに振るえている。 「畜生、ちくしょう、畜生っ、畜生っ!」  足元に雫が落ち、小さな染みがいくつもコンクリートの床に広がった。   つづく