「北へ。White Bio Hazard」

第1話:出会い −8 最終章−

 智哉たちの休んでいるフロアに、階下からの銃声が響いた。  まだ数フロア下なので大きくは聞こえなかったが、それでも聞き間違えるような音 ではない。 「2種類聞こえたよね?」  琴梨がいぶかしげに鮎に言う。 「だね。最初の2発はショットガンだったから、たぶんめぐみちゃんだと思うけど……」  立ち上がりながら周囲の気配を探った。  姿は見えないが目標の気配は依然強い。このビルから出るには、まだ相当の数の 目標と戦わねばならないようだった。 「そのあとの銃声は誰だろ。あんな音のサブマシンガンなんて使うスタッフいたっ け?」 「わかんない。でも応援には違いないよ」 「だよね。じゃ、私たちも急ぎましょ」  今度はスガイビルの間取りに慣れてない智哉をしんがりに、鮎が先頭に立った。  鮎のすぐ後ろには琴梨が続き、急な出現に対応する。智哉は背後の気配に気を使 いながら、数歩離れて進んだ。  タタタン、と階下でまた銃声がした。同時にショットガンの音も聞こえる。  銃声はなおも続く。かなりの数と戦っているようだった。 「…下のほうが数多いの?」  ライフルを構えながら階下へと続く階段を眺めやった。階下の様子はわからない。 「わからんっ」  智哉が言うと同時に真後ろに振り返りながら3発発砲した。  3体の目標が額からどす黒い血を流しながら立ちどまっている。 「琴梨!」  マガジンを交換しながら琴梨に向かって叫ぶ。  直後琴梨のマグナム弾が目標の心臓をえぐり、とどめに鮎のライフルが目標の頭 部めがけて弾丸を撃ちこんだ。  さらに右に2体、左から1体現れる。  智哉は左の1体に頭と胸に2発づつ、計4発打ち込み動きを止めた。  一撃の破壊力は琴梨のデザートイーグルに劣るが、9mm弾とは言え弾丸や薬莢 にはターニャ独自の工夫がこらしてあり、正確に撃ちこめば僅かの弾数で目標を止 められた。  鮎と琴梨は右からの目標と向かい合う。  目標の出現は止まらない。倒したその向こうにさらに姿が見えている。  大型筐体の陰にも気配を感じるが、総数は何体いるのか判らない。  階下でも銃声が鳴り止まない。苦戦してるのは明らかだった。 「鮎、降りれるか?」  背後の鮎に声をかける。 「階段にはいないから、多分行ける」  3人無言で頷き合い、一気に階段を降り始めた。  背後からはゆっくりとした動きだが目標が追って来ている。  階段を降りた先にいた2体の目標を琴梨、智哉が倒し、さらに下に続く階段前にい る目標は鮎が狙撃した。 「あの階段降りれば1階よ」  鮎が数発の残弾を残してマガジンを交換しながら言った。  階段まではほんの僅かな距離である。  階段を降りれば1階だが、その階段付近に目標の姿が多い。  後ろからは3体迫っている。  階下からの銃声が近づいてきていた。それと同時に銃声の数も増えていた。応援 が入ったようだが、それに気を留めている余裕は3人には無かった。  階段は途中で2度折れ曲がっているので、1階の様子は見えない。 「鮎、階段には何体だ?」  智哉は琴梨と二人、鮎から少し離れて後方からの目標を警戒している。筐体に 引っかかったりして上手く近づけないのが幸いした。  またさらに1体増えて、今は4体になっている。  このあとどのくらい増えるのか見当もつかないので、必要最小限の弾丸消費に留 めたい。  二人はそう考えて、まだ離れている目標に対しては、狙いをつけるだけで発砲はし ていなかった。 「わかんない。見える範囲では5…6体くらい。1階の状況判らないけど、強行突破し ちゃったほうがいいかも」 「琴梨」 「なに? お兄ちゃん」  返事はしても視線は目標から離さない。 「怖くないか?」 「3人一緒だから、平気」 「あたしには聞いてくれないの?」 「…怖いか?」 「微妙に疑問系なのがムカつくわね…」  3人が階段に向かって駆け出した時だった。  1体の目標が真横から琴梨めがけて襲いかかった。 「3人とも、2階まで辿りついたみたいだね」  天井を仰ぎ見ながら、めぐみが言った。  銃声が3種類聞こえている。3人ともとりあえずは無事のようだった。 「早く降りて来いってんだ。退路確保って言っても、結構おおごとだぞ、これ」  二人は目標のあまりの多さに、進んで合流は諦めて、退路の確保に専念する作戦 に切り替えていた。  めぐみと葉野香の周囲には、ザッと数えるだけで15体の目標が取り囲んでいる。  さっきから倒しつづけているが、その数はなかなか減っていかない。一斉に襲いか かって来ないのだけが幸いだった。  既に葉野香は4本目のマガジンを使いきるところだ。  倒した目標の数は、もう覚えていなかった。  倒れた目標が積み重なっているため、数えるのも容易ではない。  目標の気配による精神的な磨耗と、襲いかかる目標の攻撃を避けながらの応戦 に、すでに疲労もピークだった。  めぐみも肩で息をしている。 「上も気配が濃いよ。進路切り開くのに手間取ってるんじゃない?」 「だと良いんだけどな!」  近づいてきた目標に向けて発砲を続ける。  どす黒い血飛沫を上げて倒れていくが、ねらい所を誤ると再び起きあがってくる。集 中力すら途切れがちな今となっては、もうキリが無かった。 「ダメだ、そろそろ弾切れだ」  葉野香の残りマガジンは後2本。めぐみがカートリッジを再装填する時間が必要な ため、葉野香は休むひまが無い。  もちろん葉野香がマガジン交換する間はめぐみがそのカバーに回るが、ショットガ ンの方が装填に時間がかかる。  めぐみも残弾は残り少なかった。 「ターニャちゃん、私も葉野香さんも、もう弾切れ寸前だよ。どうしよう」  めぐみが無線でターニャに連絡をいれた。 「弾の代えは全員分用意してあります。もう少しだけ持ちこたえてください」 「無茶言うな。こっちはもうギリギリだぞ」  今度は葉野香がレシーバに向かって怒鳴った。 「間もなくスタッフの応援が入るはずです。ちょっと待ってて下さい」  少しの間の後、再び無線が入った。今度はターニャではなく別のスタッフだ。 「これから4人のスタッフが入り口近くに応戦に入ります。お二人は階段下エリアの 確保に専念して下さい。10分後にさらに増員が駆けつけます。もうしばらくの辛抱で す」  現場の指揮を取っている女性スタッフである。ターニャとの間に上下関係は無い が、現場ではターニャには指揮権は無いため彼女に委ねたのだ。  彼女らがめぐみたちと一緒に入らなかったのは、常勤ではなく通常は道警の警察 官として勤務している者もいるからだ。それでも召集命令から最大限急いで集まって いた。 「うん、そっちは任せるね」  めぐみが言うと、入り口近くから発砲音が聞こえ始めた。  新たに応戦に入ったスタッフは男女2名づつの4名で、装備はH&KのMP5。折り畳 みのストックとレーザーサイトが装着されている。服装はめぐみたちと同じSTARSの 制服だった。  琴梨たちのような特殊スタッフ以外の現場スタッフたちは、通常はMP5で装備は統 一されている。きちんと訓練を受けているため、同じ武装でも充分な結果を出せるか らだ。  めぐみと葉野香は階段下付近に移動し、周囲の目標の排除に取りかかった。  近いモノから順に排除していく。弾が残り少ない以上、無駄に撃つ事は出来ない。  気力を振り絞っての集中力だった。  階段にいる目標の排除も必要だった。  途中で折り返している先は無理だが、それより下なら充分に可能な範囲である。  階段上の見える範囲の目標をほとんど排除しかけた、その時だった。  階段を転げ落ちてきた者がいた。  階段の手すりに叩きつけられ、明らかに吹き飛ばされるようにして落ちてきていた。 「お兄ちゃんっ!!」  続けざまに叫び声がする。 「琴梨、待ちなさい! 危ない!!」  別な声が制するように怒鳴っていた。この声に葉野香は聞き覚えがあった。  つい1時間ほど前に言い争った相手だ。 「琴梨ちゃん?」  名前に反応してめぐみが階段を見上げた。  踊り場付近で倒れている男に琴梨が駆け寄っている。男はめぐみも知っている相 手、智哉だった。  意識は失っていないようで、激痛に歯を食いしばりながら、その場にうずくまってい た。  左腕が、あり得ないところから曲がっていた。骨が皮膚を突き破ってかなりの出血 もあった。 「お兄ちゃ……、腕折…れてる! お兄ちゃん! お兄ちゃん!」  半ばパニックになって智哉にしがみついている。  周囲にいる目標が二人に近づいていくのを、階上から鮎が狙撃して阻止した。 「琴梨、なにやってるの! まだ相手が周りにいるのよ!!」  叱咤するように鮎が駆け降りてくる。 「でも、だって、お兄ちゃんが、お兄ちゃんがっ」 「−−−琴梨、俺は、大丈夫だから、自分の仕事をしろ」  激痛にあえぎながら智哉が言う。 「だ、大丈夫なんかじゃないよ、腕が…」 「やれるな?」  琴梨の目を見つめて言った。  しばしの躊躇の後、コクリ、と琴梨が頷いた。 「智哉、あとは何とかするから」  鮎が智哉の元へ駆けつけ、また一体、目標を倒す。 「悪い」 「任せなさいって」  笑っているが、目は笑えなかった。とっさに琴梨をかばって、智哉が目標に殴り飛 ばされたのだ。琴梨のすぐ前には鮎も居たから、智哉がかばわなければ鮎もただで は済まなかった。  左腕の骨折は、その時左腕でガードしたからだろう。その他は階段に激突した時 の衝撃であばら骨にもヒビが入ったようだった。  鮎は次の目標の気配を探りながら踊り場から階下を覗きこむと、見知った顔が目に 入った。 「めぐみちゃん、……と、なんであんたがここにいるのよ?」  葉野香の姿を見て、一瞬むっとする。 「なんでもなにも、見て判らないのか?」 「…まさかあなたも同じとは思わなかったわ」  葉野香に向かってライフルを構えて、引き金を引いた。  弾丸は葉野香のすぐ真後ろにいた目標をつらぬいた。  葉野香は正確に急所を貫かれた目標をちらりと見やり、再び鮎の方を見た。 「そりゃどうも。私も同じ事思ったよ。でも言い争いはあとだ。退路は確保しているか ら、そいつ連れて一旦出るぞ」  めぐみが小走りで駆け寄ってくる。葉野香は退路に近づいた目標を1体始末した 後、入り口付近で応戦しているスタッフに頷くとやや速い歩調で智哉たちに近づい た。 「智ちゃん、立てる?」 「っつ、智ちゃん言うな。左腕が折れただけだ」  痛くないわけではなかったが、感覚が麻痺してきたのか、今は我慢出来ない痛み とは感じなかった。指先は動くが、腕自体はヒジから先を上げられない。  左腕の折れたあたりに灼熱感があるのと、生暖かいものが腕をつたっている感触 が、感じられた。 「言い返せるなら大丈夫だな。ほら、肩貸してやるから、さっさと立ちな」  葉野香が言いながら智哉の右腕を取って肩に回した。右手に握っていた銃は鮎に 手渡した。  左脇は琴梨が支えるようにして、腕の付け根をハンカチで止血しながら階段を降り 始めた。  前と後ろはめぐみと鮎が固めた。 「琴梨、あまりくっつくと血がつくぞ」  琴梨が止血しているとは言え、まだいくらかの出血は続いていた。 「大丈夫だよ。お兄ちゃんの血なら平気」  歩き始めて間もなく、応援のスタッフたちも駆けつけた。  退路はしっかりと確保されている。 「一旦外に出て補給した後、再度突入します。掃討に入りますから、私たちも同行し ます」  正面口からスタッフと共に外に出て、入れ替わるように別のスタッフ達が10名、中 に入った。  琴梨たちは、普段の生活の中で目標を倒す事に関しては、他のスタッフたちの追 随を許さない能力を持っている。だが、現在のような明らかに目標と判るものに対す る戦闘の場合は、STARSスタッフでも劣る事は無い。  正面口の外では、STARSと道警の車両が入り口を包囲するように停められ、その 向こうにヒトの姿が数人見えた。非常線のさらに向こうなので顔の判別までは出来な い距離だ。道路は区域一帯が閉鎖されているようだった。  ほとんどのヒトたちはSTARSや所轄警察により、銃撃戦が始まる前に避難させら れていた。野次馬たちも、銃撃戦での流れ弾を恐れてその場からほとんどが立ち 去っている。  琴梨たちは右手に止めてあるワンボックスに案内された。  スライドドアは開いており、中からターニャが心配そうな顔でみんなを待っていた。  負傷している智哉はそこから別のクルマに乗せられて、すぐに救急病院へと向かっ た。  琴梨が一緒に行くと言ってきかなかったが、鮎とターニャに説得され、渋々、終わっ たら真っ先に見舞いに行くことを条件に、その場に留まった。  掃討戦は意外なほど呆気なくカタがついた。  目標の出現が頭打ちになったのか、無限に増えてるのでは無いかと思われた目 標はそれ以上増える事も無く、また上階に取り残されていた人達も無事に保護され た。  一応目標ではないかどうか、鮎たちに引き合わされたりもしたが、気配は微塵も感 じることはなかった。  スガイから外に出た目標も無く、倒された全ての目標は二度と動く事も無かった。 「ターニャさん、最上階まで来たけど、目標の気配はもう無いわ」  鮎が無線機でそう告げたのを最後に、作戦は終了した。  地下から最上階まで、倒された目標の数は夥しいものだったが、そのほとんどは 鮎や琴梨、めぐみたちが最初の戦闘時に倒したものだった。  全く気分の良いものではなかった。  あとの処理はいつものようにSTARSの専門隊に任せて、スガイビルから外に出 る。  目標の気配が消えても、陰鬱な感じは消えない。  服を見るとあちこちに返り血が付着していた。  一刻も早く着替えたい。鮎は胸が悪くなるのを抑えながら、ターニャの待つクルマ へと足を向けた。  琴梨は、今は智哉の事が気がかりでそれ所ではないようだった。 「なんか、悪いほうへ悪い方へ進んでる気がするよ…」  ターニャに銃を預けながら、鮎がつぶやいた。 「あまり深刻に考えない方が良いですよ。きっと陽子さんや薫さんたちが解決の道を 開いてくれます」 「だとイイんだけどねぇ」  はぁ、深いため息をついた。 「ねぇターニャさん、お兄ちゃん何処の病院に搬送されたかわかります?」 「この子はさっきからそればっかだね」  鮎が二度目のため息をついたが、今度のため息は呆れたため息だった。 「だって、心配だよ。骨が折れて見えてたんだよ? 血もいっぱい出てたし…」 「立って歩いてたんだから大丈夫でしょ? それより病院行くにしても一旦着替えな いと。服、返り血だらけだよ」  鮎が、服を掃うようにして琴梨に言う。 「この服、買ったばっかなのに」  三度目のため息だった。  琴梨たちが智哉の運ばれた病院に着いたのは、スガイの戦闘終了から三時間ほ ど過ぎた頃だった。  琴梨も鮎も、一旦本部へ行き、そこでシャワーを浴びてクリーニングされた服を待っ ていたのだ。  やっぱり琴梨は一刻も早くと渋ったのだが、返り血が付いた服でお見舞いには行 けない、と鮎に言われて従ったのである。  時間は既に夕方にさしかかっていた。  スタッフの運転するクルマで着いた先は、北海大付属の病院だった。  ここは薫の所属する大学病院でもある。 「全治三ヶ月。左下腕の開放骨折と、肋骨の二本に軽くヒビが入っていますからね」  まだ若く見える医師から診断結果が告げられ、智哉はベッドでうめいた。 「骨折の方はしばらく細菌感染の様子を見ないといけないですが、一応抗生物質投 与で様子を見ましょう」  智哉は病院に担ぎ込まれた後、すぐにレントゲンで確認して緊急手術となった。  骨が皮膚を突き破るほどの骨折ではあったが、折れ方が良かったのか、それほど 大手術とは行かなかったようだ。  今は肩から先はまだ手術時の麻酔が効いているので痛みは感じないが、あばらの 痛みが割とある。  左腕は折れた骨を金具で繋ぎ、樹脂の包帯のようなギプスで固定されている。あ ばらは痛み止めの注射と、湿布が貼られている程度だった。 「本部から労災の手続き取るって聞いてるし、治療費諸々STARSで負担するから安 心して。それに特別に個室を用意してあげたんだからさ、ゆっくり治してちょうだい」  医者の隣にいる薫が、そう付け加えた。 「治すのはいいんだけど、その前に夏休み終わっちまうよ」 「あら、勉強なら私が教えてあげるわよ? これでも教員免許も持ってるんだから」  多才だね、と思いつつ口には出さなかった。  起しかけた体を再びベッドのマットレスに預け、天井を見上げた。 「完治するまでは帰さないからね。兄さんにもそう伝えておくから」  たたみ掛けるように言うのは陽子だ。智哉の父とは兄妹の関係である。 「ん〜、夏休み中ベッドの上ってのは、正直キツイな」  苦い顔をする。 「腕の骨折だから、別に治るまでベッドに寝たきりになる必要は無いですよ。肋骨の 具合が良ければ、そのうち散歩くらいは許可しましょう」  医師が丁寧な口調でそう言った。  隣にいる薫より後輩なので頭が上がらないのと、智哉がSTARSに所属している影 響もあった。 「来月始業式の始まる頃から、勉強はやってもらいますからね」  薫は白衣のポケットに両手を突っ込んで、何処と無くうれしそうな顔をした。 「じゃあなにかあったら、看護士のほうに言ってください」  医師はそう言うと、お大事にと言い残して病室を出て行った。 「さて、それじゃ私は本部に戻るわ。明日にでも琴梨に着替えとか身の回りの品持っ てこさせるから。それまで少し辛抱しててね」  陽子がそう言って立ち去ろうとした時、琴梨が病室に飛びこんできた。 「お兄ちゃん!」  陽子と薫の間を駆け抜け、智哉の元まで走り、そのまま抱きついた。  智哉の胸元に顔をうずめ、押し倒すような勢いだった。 「あぐっ、こ、琴梨…」  智哉がわき腹の痛みに堪えながら唸った。だが、琴梨は気が付かないのか抱きつ いたままである。 (……親公認?)  止めようともしない陽子に、薫が耳打ちした。 (一応、行き過ぎないうちはね)  陽子が返す。 (それに見てて面白いし)  琴梨からやや遅れて、鮎、ターニャ、めぐみ、葉野香が病室に入ってきた。  さすがに7人も入ると少々手狭である。 「琴梨、ママは本部戻って仕事だから、今日は夕飯いらないわ。智哉君に付いてて あげて」 「うん、わかった」  ものすごくうれしそうな顔で琴梨が首を縦に振った。 「面会時間は、特別にちょっとだけ延長させてもらえるように頼んでみるわ。でもあま り騒いじゃだめよ」  はーい、と鮎とめぐみが答えると、陽子はふっと真剣な顔になった。 「良くやったわね、あなたたち。今日は正直言って私も怖かった。智哉くんには大ケ ガさせちゃったけど…、でもみんなまたこうして顔を会わせられて、なによりだわ」  微笑みながら陽子は薫と共に病室を出て行った。  スライド式の扉が閉められると、しばし病室に静寂が下りる。 「…、腕、痛い?」  最初に静寂を破ったのは、琴梨だった。  抱きついたままの距離で、智哉の顔を覗きこんでいる。 「腕は今は痛くないんだけど、その、わき腹がちょっと…」 「え? あ、あわわ、ごめんなさいお兄ちゃんっ」  慌てたように飛び離れた。 「でも、智哉が私たちかばってくれなかったら、今ごろベッドに寝てたのは私たちだっ たかもね」  鮎がやっぱり智哉の顔を覗きこむように言った。 「俺も細かい事良く覚えてないけどな。とっさに動いたら、気が付いたら階段まで吹っ 飛ばされてたから」 「あれだけ派手に落ちて来て覚えてないなんて、…頭、打った?」  鮎の後ろからめぐみが顔を出す。 「記憶はしっかりしとるわ! …と言いたいけど、ちょっと階段辺りの記憶は怪しい …」 「まぁあいつらに殴られて、骨折だけで済んだんだから、幸運だと思いなよ」  すっと葉野香が姿を表す。  今はもういつもの姿、眼帯にロングヘヤー姿に戻っていた。  胸の前で腕が組まれ、ちょっと智哉を見下ろすように見ている。 「ん? あれ? あんた確か、右京とか言う…」 「左京だ。左京葉野香。その、なんだ、あんたらと同じってやつだ」 「私は不本意なんだけどねぇ」  鮎が葉野香と同じように腕組した。口をへの字にした表情は、たしかに葉野香に好 印象と言ったイメージではない。 「馴れ合う気はないさ。ただ協力はするし、やる以上はきちんとやる。それだけだ」 「もう、二人ともケンカしないでよー。わたしは葉野香ちゃん好きだよ。一緒に戦ったも ん、いい人だってわかるよ」  プリプリと不機嫌顔のめぐみが間に割り込んだ。  どちらかと言うと葉野香寄りの立場らしい。  それに折れたのか、鮎もこわばった表情を崩し、ポリポリと頭を掻きながら諦めるか のように小さく息を吐いた。 「まぁいいわ。仲良くやりましょとは言わないけど、同じ仲間が増えるのは歓迎だわ」  キュポッと、音がした。何処から取り出したのか、鮎の手にはキャップが外された油 性マジックが握られていた。 「さ〜て、それじゃ恒例のお見舞い落書きタイムと行きましょうか」  にぃ、と鮎が笑い、その後ろにいるめぐみの目にも怪しい光が輝いていた。気が付 けばターニャの手にもマジックがあった。 「日本には面白い風習があるんですねぇ」  鮎になにか吹きこまれたらしい。 「琴梨、智哉の腕押さえてて」 「え? うん」 「うん、じゃないー」  麻酔でしびれてて動かない腕を、琴梨が押さえるのは容易だった。  あっという間に三本の油性マジックペンで、智哉のギプスは落書きだらけになっ た。  もちろん鮎と交代で琴梨も書いているのは言うまでもない。  女の子の落書きなので下品な類のものは無かったが、似顔絵だの色々な記号だ のとそれなりに智哉にとっては恥ずかしい。 「ほら、葉野香ちゃんも」  めぐみからマジックが渡される。 「私はいいよ」 「いいからいいから」  緑のマジックを渡されて、智哉のギプスの前に連れてこられて途方にくれる葉野香 だったが、 「ほら、こう言うのは縁起モノなんだから、遠慮しないで書いていいの」  鮎に促されて、 「あ、ああ、そう言うものなのか…」  じっと智哉の顔を見る。 「……、遠慮しなくていいっす」  まな板の上の鯉だった。  ギプスに何を書こうかと数瞬の躊躇の後、無難に「回復祈願」と書いた。 「さてっと、それじゃ、みんな書き終わったところで」  鮎がくるりとみなの方に向き直った。 「とりあえず、せっかくみんな集まってる事だし、自己紹介でもしよっか」 「仲良くやるつもりは無いんじゃなかったのか?」  マジックのキャップを閉めながら葉野香が言うが、 「それとは別よ。同じ目的持ったもの同志なんだもの、名前くらいは知っておいて損 は無いでしょう?」 「まぁ、それもそうだな」  鮎に逆らう理由も無いので、それ以上言及はしなかった。 「じゃ、私からいくね。私は川原鮎。大里高校の1年」 「私は、春野琴梨。同じく大里高校の1年です」 「わたしは、愛田めぐみ。さっきも言ったけど、今年中学3年生。美瑛に住んでて、定 期的に札幌に来て手伝ってるんだよ」 「私はターニャ・リピンスキーと言います。能力はありませんが、皆さんの使っていま す銃をメンテしてます。本職はガラス職人です」 「えーっと、俺は北嶋智哉。高2だ。東京に住んでるけど夏休み利用して手伝いに来 てる。ま、色々複雑な事情ってのもあるんだけどな」  琴梨がちょっとだけすまなそうな表情を浮かべたが、それを察したのか、智哉は琴 梨の頭に手を置いて、くしゃくしゃとかき回した。 「あー、私は左京葉野香。猪狩商業の2年だ。見ての通りこんな性格だからな、何か につけ気を悪くさせるかも知れないが、あまり悪気は無いんだ」  照れたようにほほを掻いている。意外に性格はシャイなのだ。 「そこにも負けてないのがいるから大丈夫だろ」  智哉がギプスの巻かれた腕とは反対の腕を突き出した。  突き出された先には鮎がいる。 「……ほほう。琴梨、智哉のわき腹、どっちが痛いって?」 「えーと確か…」 「うわ、琴梨、言わなくてイイ!」 「そう言えば、あんたと、その、春野は兄妹なのか? 名字が違うようだが…」  思い出したかのように葉野香が智哉に言う。 「いや、別に兄妹ってワケじゃないんだけど、従兄妹同志なんだ」 「なるほど。でもそれでも普通『お兄ちゃん』とは呼ばせないだろ」 「……それに付いては私が説明します……」  諦め顔の琴梨が、4回目の説明を始めるのだった。 「じゃ、智哉、また明日もお見舞い来るから」  病室のドアを横にひきながら、鮎が振り返りながら手を振った。 「ああ、うん、まぁヒマな時でいいぞ。あんまり気は使わなくてもいいからな」 「あはは、退屈してるヒトへのボランティアよ」  言いながらドアの向こうに姿を消した。 「私も時々お見舞いに来ますね」  ターニャが一礼して部屋を出る。 「じゃあ、またね」  めぐみが手を振りながら出て行った。 「お大事にな。早く戦力復帰してくれよ」  葉野香が微笑を残しながらドアから出て行き、そしてドアを閉めた。  部屋には、琴梨と智哉が残された。  窓の外には、僅かに夕焼の朱が残るだけの夜空が見えていた。  部屋の中は、暮れ残る夕陽で薄暗く、そろそろ照明がないと辛くなってきている。 「電気点けるね」  琴梨が病室入り口の電灯のスイッチを入れると、部屋の中が白っぽい明るさに包 まれた。  今度は窓辺に寄り、ブラインドを閉める。 「お兄ちゃん、明日身の回りのものとか持ってくるけど、なにか他に必要なものあ る?」 「今のところは特に無いかな。着替えと洗面道具くらいしか持ってきてないし」 「3ヶ月、長いね。でも私は、その間一緒にいられて、ちょっとラッキーかな」  ベッドの脇に置いてあった丸椅子に腰掛けながら、少しうれしそうな表情をした。 「ご飯食べさせてあげたり、身体拭いてあげたり、いっぱいお世話してあげるね」 「いや、大げさだよ琴梨は。片手は無事なんだし、3ヶ月間入院するわけじゃなさそう だから」 「だーめ。お兄ちゃんはケガ人なんだから、言う事聞きなさい」  あはは、と琴梨が悪戯っぽく笑った。 「でも、手伝うって言った矢先にこれだもんな…」  左腕を宙に浮かしてプラプラと振った。まだ肩から先に力は入らないが、ギプスの 重さは伝わってくる。 「おかげで私も鮎も助かったんだよ。鮎もあんな態度だけど、お兄ちゃんには感謝し てるんだよ。もちろん私も…。」  しばし沈黙が部屋に満たされた。  防音と言うほどではないが、ドアは部屋内外の音はかなり遮音しているので、時折 やや騒がしく人が行き交う以外の音は聞こえてこない。 「琴梨、もう外結構暗くなってきたから、そろそろ帰らないと危ないぞ」 「あ、うん、大丈夫。帰りはタクシー使って帰るから。ちゃんとチケットも貰ってあるし」  ほら、と言って白いリュックからチケットを出して見せた。 「そか」 「うん。でも家帰ってもお母さんいないし、それにお兄ちゃんも居ないから…」  消えるような声で言いながらうつむいた。 「琴梨?」  うつむいたままの琴梨が、キュッと智哉の右手を両手で握った。 「ゴメンねお兄ちゃん。私のせいで…」  泣き出しそうな目で智哉を見つめた。 「琴梨のせいじゃないさ」  智哉が琴梨の手を握り返す。 「でも…」 「もうそれ以上気にするな。琴梨にケガが無かった、それだけで俺は充分なんだか ら」 「私の不注意なんだよ? 私がもっとちゃんと周りに気を配ってたら、ちゃんと対処で きたはずなのに、お兄ちゃんにもケガさせずに済んだのに…」  そう言ってうつむく琴梨の頭を、智哉は大げさにため息をつきながらギプスの巻か れている左手で軽くチョップした。 「痛っ、お兄ちゃん?」  智哉の手を離し、両手で小突かれたところを押さえながら、琴梨が顔を上げた。  智哉が身を乗り出して、琴梨の目の前まで迫っている。 「このバカたれ。俺が気にするなと言ったら、もう気にするな。俺は琴梨がケガをする ほうが、何千倍もイヤなんだよ」  ぷに、っと右手で琴梨のほほをつまんだ。 「う〜、ほっぺた引っ張らないでよ〜」  琴梨の顔は半泣きだが、ほほは摘まれるに任せていた。 「いいか琴梨、お前は俺がちゃんと守ってやるって決めたんだ。この腕も琴梨を守っ て折ったけど、琴梨は無傷でここにいる。俺はそれでいいんだ。だからもう、それ以 上思いつめるな」  琴梨のほほから手を離した。琴梨は少し赤くなったほほを軽く指でなぞった。 「…それって、私がお兄ちゃんにとって妹だから?」 「琴梨だからだ」  身体を戻してそっぽを向きながら言った。 「え………」  琴梨が何か言いかけたところで、唐突にドアから声が聞こえた。 「智哉くん、入るわよ」  薫の声だ。  智哉の返事を待たずにドアを開けて、つかつかとベッド脇まで近づいた。 「雑誌、ヒマだろうと思って適当なの持ってきたわ。それと、薬局から薬預かってきた から、ここに置いておくわね」  言いながらベッド脇の小さなテーブルに雑誌と薬を置いた。 「琴梨ちゃんはどうするの、もう外暗いから、タクシー呼ぶにしても帰るなら早くした方 がいいわよ」 「あの、今夜はお兄ちゃんについてていいですか?」 「え? まぁ構わないと思うけど。簡易ベッドくらいしか用意出来ないわよ?」 「はい、お願いします」  ぺこりと頭を下げると、薫もそれ以上なにも言えなかった。 「まさか泊まってく気だったとは思わなかったぞ…」 「だって、一人で家に帰ってご飯食べるの嫌だもん」  ぷう、とほほを膨らませてそっぽを向いた。手は、再び智哉の手を握っている。 「じゃあ夕飯と朝ご飯は琴梨ちゃんの分も用意してもらうわね。病院食とは言え、うち のご飯はそこそこの味よ」  微笑ながら薫がベッド脇からドアまで歩いていく。 「薬はあとで薬局から説明しに来るわ。あと入院だけど、2週間ほどで自宅療養だそ うよ」  単純骨折ではあるものの、折れた骨が皮膚を突き破ってしまったため、細菌感染し ていないか確認するために、2週間ほどの入院が必要だと言う。  骨が固まったら金具を外すために、また1週間ほどの入院もあると、薫から伝えら れた。 「いい? 個室だけど防音とかじゃないから、周りの患者さんに迷惑かかるから騒が ないこと。消灯時間は守ること。それから、琴梨ちゃんは泊まって行くのは許可しても らうけど、毎日はダメよ。明日はちゃんと家に帰ること。わかった?」 「はい」 「わかりました」  薫は二人の返事に笑顔で頷いて、病室から出て行った。 「…えと、さっきの話の続きだけど…」  薫が出て行って、やや間を空けて琴梨がおずおずと話を切り出してきた。 「ん? もう気にするなって話か?」 「そうじゃなくて、その後の、その…」 「あ、…そっちの方、か…」  またしばし訪れる静寂。  やはり静寂を破ったのは、琴梨からだった。 「えと、大事な話だし、今度、もっとゆっくり落ちついたら、続き話そと思うんだけど…」  ちょっぴりほほを染めながら、上目で智哉をちらりと見る。 「ああ、そうだな」  智哉は智哉で照れてるように鼻の頭を掻いていた。  深夜。  遅くまでデータ処理に追われて、家に帰るのを諦めて宿泊室で始発を待とうかと、 あくびをしながら梢がサーバ室から出てきた。  管制室からでもサーバ室のマシンにアクセスは出来るのだが、機密性の高いデー タの場合、端末ではなく直接メインサーバにデータを入力する事になっている。この データは特殊なセキュリティが施されたエリアに格納されるので、どのみち端末から では操作が出来ないのだ。  サーバ室から出てきた梢の手には、空になったコーヒーポットが握られている。  宿泊室に行くついでに洗ってしまおうと思っているらしい。 「まったく、まだ若い乙女がこんな夜更かし続けてたら、美容に悪いわ」  ブツブツ言いながら廊下をエレベータホールに向かって歩く。  サーバ室は管制室より1階地下にあり、宿泊室のあるフロアはさらに下にある。  階段もあるのだが、面倒だし反対方向なので、エレベータで済ませてしまおうと言 うのだ。  ポーン、と言う電子音と共に、下に向かうエレベータがやってきた。  静かにドアが開くと、中から愛田が降りてきた。 「あれ、愛田さんもまだ残って仕事ですか?」 「ん? ああ、里中くんか。きみも遅くまでご苦労だね」  話ながらお互いの場所が入れ替わった。  梢は地下3階のボタンを押し、「開」のボタンを押して話を続ける。  なにか僅かに香水のような香りがした。愛田のコロンかとも思ったが、それにして は香りが妙な気がした。 「私は今終わったところなので、始発まで宿泊室で休ませてもらいます」 「そうか。今日は大変だったからね。まぁ明日からはまたしばらく穏やかな日が続くと 思うよ。それじゃ」  そう言って愛田はサーバ室の方へと歩いて行った。  梢はエレベータのドアを閉め、当直室へと向かったが、なんとなく腑に落ちない気 分だった。  この妙な違和感はなんなのか。  考えようとすれど、耐えがたい眠気が先に立ち、女性スタッフ用の宿泊室に入るや 否や、そのままベッドに倒れこんで夢の中へと入って行った。  愛田は、STARSでも限られた者しか入れないエリア、「目標」の保存エリアに入っ ていた。  STARSの本部は地下に作られているが、増築が繰り返されてその規模はかなり 大きく、一般のスタッフではその半分にも満たないエリアしか知らない。薫や陽子で すら、100%は把握していなかった。  目標保存のエリアはSTARSの地下深くに作られ、エレベータも専用のものを使う。  保存庫内の気温はマイナス40度。巨大な自動倉庫のような構造で、目標の出現 エリアや倒した相手、日にちや時間などによりデータベース化され管理されている。  目標は棺おけのようなプラスチックの箱に収められていた。  今日倒された無数の目標も、既に保存庫に収められている。  IDカードを使って制御室に入ると、専門スタッフたちが数名、保守業務を続けてい た。ここは24時間体制で管理されているためだ。  愛田はスタッフたちに目で合図を送ると、席の一つに座ってモニタ画面を眺め始め た。  両の瞳に反射する画面を眺めながら、愛田は満足そうな笑みを浮かべ続けてい た。 第2章へ続く