山本元帥がみてる


「貴様、ちょっと待て」  とある月曜日。  銀杏並木の先にある二股の分かれ道で、祐実は背後から呼び止められた。  山本元帥の銅像の前であったから、一瞬元帥に呼び止められたのかと思った。 そんな錯覚を与えるほど、凛とした、よく通る声だった。  声をかけられたらまず立ち止まり、そうして「はっ!」と返事をしながら、 身体全体で振り返り敬礼する。不意のことでも、あわてた様子を見せてはいけない。 ましてや顔だけで「振り向く」なんて行為、帝国軍人としては失格。  あくまで規律正しく、そして力強く。少しでも、上級士官たち方に近づける ように。  だから振り返って相手の顔を真っ直ぐとらえたら、まずはなにをおいても直 立不動で最敬礼−−−。  しかし残念ながら、祐実の右腕は最敬礼をすることはなかった。 「−−−」  その声の主を認識したとたん絶句してしまったから。  辛うじて跳び上がらなかったのは、帝国海軍士官学校の士官候補生としてはし たない行為をしないように日頃から心がけていた成果、……というわけでは決 してない。響きの度合いが激しすぎて、行動が追いつかないまま瞬間冷却されて しまっただけなのだ。 「あの……。自分に用でありますか」  どうにか自力で半生解凍し、祐実は半信半疑で尋ねてみた。もちろん、彼の視 線の先に自分がいることと、その延長線上に人がいないことはすでに確認済み。 それでもやっぱり、疑わずにはいられない。 「呼び止めたのは自分で、その相手は貴様だ。間違いない」  間違いない、と言われても、はいいいえお間違いのようであります、と答えて 逃げ出してしまいたい心境だった。声をかけられる理由に心当たりがない以上、 頭の中はパニック寸前だった。  そんなことを知る由もないその人は、いっそう眉間のしわを深め、真っ直ぐに 祐実に向かって近づいてきた。  階級と所属が違うので、このように間近でお顔を拝見することなど無い。ちゃ んとお声を拝聴したのも今回が初めてだった。 「持て」  彼は、手にしていた書類入れを祐実に差し出す。訳も分からず受け取ると、 空になった両手を祐実の首の後ろに回した。 (!−)  何が起こったか一瞬わからず、祐実は目を閉じて固く首をすくめた。 「タイが曲がっているぞ」 「え?」  目を開けると、そこには依然として厳しい顔があった。何と彼は、祐実のタイ を直していたのだ。 「身だしなみは、いつも正しくして居なければならん。山本元帥が見ておられる」  そう言って、その人は祐実から書類入れを取り戻すと、軽く笑みを浮かべなが ら敬礼をして先に営舎に向かって歩いていった。 (あれは…あのお姿は…)  後に残された祐実は、状況がわかってくるに従って徐々に頭に血が上っていった。  間違いない。  海軍諜報部、小笠原中佐。通称「紅薔薇のつぼみ」  ここまで書いて、なんかある意味凄いことになりそうなので、止めました。  お帰りはウインドウを閉じてください。