思いついたこと    2005年9月はここ

2005年11月29日(火)
朝青龍のこと

■朝青龍
 大相撲11月場所で朝青龍が前人未踏の7場所連続優勝、年間84勝という新記録を樹立して優勝した。
「外人だから」「態度がふてぶてしいから」と応援しない人も多いと聞くが、ある雑誌で彼についての記事を読み、彼を見直した。
遊牧生活であった彼の家族はソ連崩壊によるモンゴル経済の悪化、3年連続の大寒波襲来で家畜に壊滅的な打撃を受け、遊牧生活に見切りをつけ、首都ウランバートルに移転して両親が職についたものの、貧しかった。
高知県の高校の相撲部監督にスカウトされ、「飛行機に乗せてやる」の言葉で日本行きを決めた。高校では特訓を受け、竹刀で容赦なく叩かれ、「いじめ」と受け取るようになったが、スクールバスの停留所のところにある商店のおばあさんに可愛がられ、特訓に耐えた。
彼は「チンギス・ハーンのようになるために日本に来た。将来は僕の力で貧しいモンゴルをもう一回、世界一の国に発展させたい」と来日の豊富を語ったそうだ。
大相撲に入り、心の脆さから批判が続出したが、部屋付きの床山さんの諺説法により相撲界への理解を深め、映画「ラスト・サムライ」を観た日から朝青龍は「優勝を続けることが、横綱の使命だ。品格は、勝ち続けるなかで自然についてくる」と考えることにした。
9月場所千秋楽、「みんなの声援が、耳の奥の奥の奥の奥まで届いたから、勝てた」と言ったきり、泣き伏せてしまったという。そして今場所。勝ち名乗りをあげ、懸賞金を受け取った時の涙。
また、11月場所の千秋楽、相撲を取り終えた彼は、表彰式に出るための髪の手入れをしなければいけないのに、花道の奥で待機していた。そこへやってきたのは立行司の木村庄之助。彼はこの日で長い行司生活に別れを告げたのだが、土俵で深く一礼して、花道に戻る前にまた一礼。花道を歩きながら観客からのねぎらいの拍手は感じられず。しかし花道を引き揚げてきて待っていたのは朝青龍であり、朝青龍は花束と懸賞金の一部を木村庄之助に渡し、労いの言葉をかけて感謝の意を表した。このことがインタビューで紹介されるかと思ったが、何もなく新聞にも掲載されなかったが、私は彼の記事を読んだ後でもあり、彼の成長振りを裏付ける行為であったような気がした。
彼はまだしばらく一人横綱を続けねばならない。その重責は大変なものであると思う。「低迷する現在の相撲人気を盛り上げるには、貴乃花関がいて、ライバルの曙関がいるといった、日本人と外国人の対決というのが理想だ。早くオレのライバルとなる日本人横綱が生れてほしい」と語っている。
他力本願でしかないが、そうなってくれる日本人が待ち遠しい。

2005年11月21日(月)
認知症チェックリスト

あるところで「認知症」チェックリストを入手したので公開してしまう。
まず、次の15項目のうち、「出来ること」に○をつける。

□自分で電話番号を調べて、電話をかけることが出来る。
□リーダーとして、何かの行事の企画・運営を行うことが出来る。
□何かの会の世話係や会計係を務めることが出来る。
□ひとりでバスや電車を利用して、あるいは車を運転して出かけることが出来る。
□見知らぬ場所へ、ひとりで計画を立てて旅行することが出来る。
□薬を決まった分量、決まった時間にのむことが出来る。
□貯金の出し入れや家賃・公共料金の支払い、お金のやりくりなど、家計を管理することが出来る。
□日用品を買いに行くことが出来る。
□請求書の支払いをすることが出来る。
□郵便貯金・銀行預金の出し入れをすることができる。
□年金や税金の申告書をひとりで作成することが出来る。
□食事の用意をすることが出来る。
□掃除をすることが出来る。
□洗濯物・食器を整理整頓することが出来る。
□手紙や文書を書くことが出来る。

年齢と合計点と状況の関係
        健常     予備軍        認知症
65〜69歳  11点以上  6点以上10点以下 5点以下
70〜74歳  10点以上  6点以上9点以下  5点以下
75〜79歳     8点以上   6点以上7点以下  5点以下
80〜84歳     7点以上   6点           5点以下
85歳以上   6点以上                5点以下       

尚、体に障害があったり、目や耳の障害が著しいとこの方法では正確に判定できないことがある。
いずれにしても5点以下なら認知症の可能性があるので専門医を受診した方が良いとのこと。
ご参考になれば幸いである。

2005年11月13日(日)
演奏会

このところ自分の参加する演奏会が多い。
11月9日(水)第86回やすらぎコンサートに出演
新横浜にあるラポール・シアターという客席300程のホールがあり、そこで毎月行われているコンサートに混声合唱でゲスト出演した。
合唱団のピアノ伴奏者が主宰し、指揮者が指導/進行している。前半は恒例の会場の方達との四季にまつわる歌を、指揮者のユーモア溢れる司会と指導で6曲ほど歌う。
客席は毎月訪れている人達が多いのか、愛唱曲集を持参して大きな声、正確な音程で実に見事に歌っていた。
後半は我々の出番。8曲を演奏した。最初はア・カペラだったせいか固かったがピアノ伴奏曲になって落ち着いてきた。練習時と同等以上の演奏が出来たかと思う。
その後、会場におられた方からメールが届き、その方のホームページに感想を掲載して頂いたことがわかった。URLはhttp://home.v08.itscom.net/sahsan/omoitsuki-ki.htm
である。

過分な評価をして頂いている。

第11回ヴィサンジョイントコーラスフェスティバルinよこはま
ヴィサンとはVi Centというフランス語で人生百歳を意味し、これはいわばシルバー合唱団による演奏会である。
神奈川県外からも参加し、合計40団体、1400名程が演奏した。私の所属する混声合唱団は女性も多いのでこれに参加するということは抵抗がある、とのことで参加せず、男性が中心で結成している男声合唱団が参加した。
曲は「Heilig」と「富士山」より「作品第肆」の2曲。午前中1時間程別の場所で練習し、さらに演奏前にリハーサルをしたが、最終的には本番が良く出来、指揮者は「練習になかったくらい良い演奏であった」とご満足のようであった。

私はユニフォームが間に合わず、当日参加できない会友から借用したが、胸囲が10センチあまり小さい服で、仕方なく本番のみボタンをなんとかはめ込んで着用した。
人と異なる体型であると、こういう時は不利だなあと実感。

■文化祭出演
本日、いつも男声合唱の練習に使わせてもらっている小学校のコミュニティセンターで文化祭がある。
20分位演奏する。
これが終わると次の演奏会は12月18日のクイーンズクリスマスハーモニー2005がある。

■楽器フェア
これは演奏会ではないが、楽器メーカーが一堂に会して展示会があった。ピアノから電子楽器、和楽器まで幅広い製品が各ブースに展開され、新製品も多かったし、若者は実際に楽器を演奏体験して楽しんでいた。
やはり時代の流れか音楽づくりのソフトや機器も多く、コンピュータ介在の世界もあった。ただ主旨が異なることもあって楽譜作成ソフト関係は数点しかなかった。

2005年11月6日(日)
七五三・結納

このところ身内にいろいろなこと(祝い事になるか)が続いている。
3日に娘のところで7歳の長女、数え5歳の長男の七五三をやるので、とよばれてきた。
娘の旦那のお母さんも同席して祝宴に参加。久々に全員そろって顔を合わせた。計画的に物事を進める娘は、この時期に写真をとると高いから、と夏の間に写真屋へ行き、衣装も借りて既に七五三用の写真を撮影してもらっている。こういったものは結構高いが、安く済ませている。
5日は息子のところに長女の3歳の七五三でよばれ、嫁さんの両親も出て来て、これも久々に話に花を咲かせた。近くの神社はどちらかというとマイナーであるため参拝客も少なく、我々だけが祈祷してもらった。
そして本日弟夫婦と姪が両親のところへやってきた。姪は10月29日に結納を交わしたので、その報告がてら、ということである。
会社で知り合って付き合いをしていたが、彼が退職して地元へ戻り、別の職業についたので、自宅から4時間かかる遠方になるが、来年5月には晴れてお嫁さんになる。
大変うれしそうな姪は、練習も兼ねて積極的に食事づくりを手伝い、やはり専業主婦になりたいという願望がかなった喜びは隠せなかった。
彼女なら将来堪能な英語力を活かす事も出来るし、良い奥さんになるであろう。

2005年10月30日(日)
父の誕生日と孫

今日は私の父の誕生日で、89歳になった。あまり動けないと言いつつも車を運転して何処へでも出かけるし、以前にも書いたことがあるが、町内老人会を対象とした機関紙を毎月パソコンで作っている。
恐らく車の運転をやめさせ、機関紙も後継者が全部作ってくれることになったら、やる気がなくなってしまうのではないだろうか。
いつまでも元気でいてもらうためには、出来るところまでは継続してやってもらうことが一番と考えている。

その誕生祝いに息子一家が来てくれた。父にとってはひ孫になる私の孫は10月17日に3歳になったが、息子の多忙さもあり誕生祝いをしていなかったので、二人の誕生祝を一緒に行った。
父にとってもひ孫に会えるのは一番うれしいことらしい。しばしば会っているわけではないので、最初は遠慮気味であった孫も思い出したのか、慣れるに従って声が大きくなり、ずいぶんしゃべるようになった。いつもなら昼食を食べて2時近くになると眠くなって昼寝をするのが今までのパターンであったが、今回は父の膝の上に乗って、パソコンに現れる自分の写真を次々に指示して大きな画面にしてすっかり父と仲良くなり、「まだお家に帰りたくない」と言ったので父も大満足だったらしい。
感受性が強い子で、特に音に敏感で、スーパーでのBGMやテレビの音等、いやがる音もあるが、最近は大分慣れてきたような感じを受けた。

こうした幼児は特に孫やひ孫になると大人にとって、大変可愛いものである。世間には自分達さえ良ければ、と両親や周囲の意見に耳を貸さず結婚してしまう人もいるが、「子はかすがい」というように幼児のためにも親にとっても時々会って親しみを感じるのがベストであると思う。例え何かで気まずいことがあったとしても子や孫を通じて関係を復帰させることもあるのに、と思うことがある。
やはり皆に祝福されてすべき結婚であるべきだと思う。

2005年10月26日(水)
バスツアー 他

■23日(日)〜24日(月)にわたって合唱団のバスツアーがあり、家内と共に初参加した。
行き先は混声合唱とピアノのための組曲「美しい星に」(作曲:佐藤 眞 作詩 林 望)のふるさとともいえる那須と裏磐梯であった。
この曲は那須野が原ハーモニーホールが2004年12月に創立10周年を迎え、その記念コンサートで演奏するために委嘱された作品で、2004年12月26日に地域の合唱団とオーケストラにより初演された。
那須では新しい施設が増えつつあり、建物の色も調和のとれた感じで、通常赤や緑を使っっている看板は建物にあわせた茶系に統一されていた。
自然の多いこのあたりのイメージにぴったりの曲だなあと認識しながら夜は飯坂温泉の由緒ある旅館へ。
ロビーにあるグランドピアノを中心にミニコンサートを行う。偶然にも合唱団創設者の指導を受けた人が福島で築き上げた兄弟合唱団ともいえる著名な合唱団のメンバーで宿泊している人がいて、飛び入り参加し、一緒に合唱を楽しんだ。
翌日は裏磐梯へ。曇天で色の鮮やかさには少し欠ける面があったが、赤・黄・緑の色合いを楽しみ、冷たい強風の中、吾妻小富士にも登り、ひとときを楽しんだ。
このような催しに参加することにより、普段話しの出来ない人たちと親睦を深めることも出来、新人としては良い機会であった。

■ニューヨークに駐在されている方からメールが届いた。ある曲を探していて私のHPを見つけ、その楽譜が欲しいというもの。
氏は高校・大学で合唱を楽しみ、現在駐在員としての業務をこなしながら、趣味でジュリアード合唱連合に入るべく勉強しており、試験の自由曲に選んだ曲が私のHPに掲載されていることから、そのMIDIを聴いて連絡をされたということであった。
早速楽譜をMIDIと共にメールで送った。昔なら楽譜をコピーして郵便で、ということになるが、今の時代はメールに添付してファイルとして送ることが出来、便利な世の中になったなあとつくづく感じると共に、そういったことが出来る自分であったことも幸いしたと実感している。

今、あるサイトにおいて中学生が校内合唱コンクールで演奏するため、いろいろな質問やアドバイスを求めてきている。時々それに回答して交流している。その掲示板で昨日合唱に関する放映のあることを知った。
「学校へ行こう!MAX」というテレビ番組で、男子高校生が4人しかいないが、コンクールで全国大会へ行きたい、といろいろ努力をして、周囲の協力もあって人数を増やし、猛練習をして混声合唱として九州大会で代表校に選ばれ、念願の全国大会出場の夢を果たしたという内容であった。全国大会は10月29日に行われる。結果が楽しみだ。

こうして若い人たちが一つの目標を立て、それに向かって全員一丸となり、友人達もしっかり応援してくれて、目標を達成する喜びを味わうことは素晴らしいことである。これがこれからの人生に良い思い出として残り、自分の歩む道に貢献していくことを祈念しているし、これらの人達が日本の合唱界を更に発展させてくれればと思う。 

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2005年10月19日(水)
思い出

現役時代に単身赴任先で混声合唱団に入団し、一年ほど歌っていた。
昨年現役引退後に創設5周年記念コンサートがあり、それに参加したのが団員としては最後の出演であったが、今年新春コンサートとして他の団の人達も交えての演奏会があり、誘われて参加した。
その時の写真が届いた。新春らしく指揮者や合唱団も和服を着用したり、琴や尺八の演奏、尺八とピアノによる協演等、目新しい企画に溢れたコンサートで、大変懐かしく写真を眺めた。
来年もおこなわれるようなので参加するか聴衆でいくかは未定であるが、楽しみにしている。

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2005年10月18日(火)
病院と駐車場と

今日は病院へ行く日。都合で中途半端な時間に行ったため、一番近い駐車場は満杯で、10台程列を作って入庫待ちであったため、少し離れたところにある駐車場へ向かった。途中坂道があり、駐車禁止に関わらず面倒がって駐車をしている人が多いのであるが、今日は警察が来ていていっせいに駐車違反を取り締まっていた。
上にある別の駐車場へ止めて病院へ。
採血だけなので短時間で済んだが、この病院はシステムがしっかりしているためか会計の受付をして支払いをするまで5分とかからない。さすが市立だと感心したが、以前は駐車場も一定時間までは無料であったが、今は条件にかかわらず有料である。
市の財政が厳しいため、少しでも収入を増やすための方針転換だそうだ。

さて、駐車場で料金を支払い、出ようとしたら入る車があったため、少し左によけ、動き始めたら左後方で「ガリガリ」。よけすぎてこすってしまったようだ。そのまま走って帰宅してから車を見たら15センチ位のこすり傷が・・・・・。買い換えて4ヶ月しか経っていなかったのに・・・・。残念!!

それにしても病院は患者さんで一杯である。待つための椅子はほぼ満席である。高齢化社会と共に増えているのかもしれない。

2005年10月16日(日)
高齢者のこと 友達・家族のこと

・最近鏡に映る自分の顔を見て「自分も年をとったなあ」と感じることがある。これではしばらくぶりに会った人にもすぐにはわからないことがあるかもしれない、と思う。
今高齢者が増えつつあるが、誰も好きで高齢者になっているわけではなく、人間としての運命なのである。にもかかわらず若者の中には高齢者をバカにしたり、いじめる人が少なくない。先日娘が電車に乗っていて目にした光景であるが、化粧をした若い女性の隣に座ったおばあさんの傘が、その女性の足にあたったら顔に似合わない言葉が聞こえてきたという。「痛−っ」「まったくうざいんだよ」
昔「デカンショ節」という歌を宴会等でよく歌ったことがある。「先生、先生といばるな先生、ヨイヨイ。先生、生徒のなれの果て」。
そう高齢者は自分の後々の姿である。今は気づかなくてもあと数十年経つと自分も同じようになることを特に若者は十分認識しなければならないと思う。

・よく「誰の世話にもならない。自分には自分のやりたいこと、世界がある。結婚はしたくない」という人がいる。また、最近の若者は「結婚は当事者である二人さえしっかりしておれば、両親や周囲に反対されてもかまわない」という考え方の人が80%以上を占めるという。
本当にそれで良いのか。今は良いかもしれないが、年をとり、仕事をしなくなった時のことを考えているだろうか。自分だけが取り残され、空しさを感じる時代が来てしまう。自分一人では墓の中に入ることが出来ないのだ。必ず人の世話になるのだ。早く結婚して家族を持つことがベストだと思う。そして多くの友人を作っておくことである。また結婚して子供が出来て、すべて二人だけで何事も処理できるのか。必ず両親や兄弟の力が欲しいことが出てくる。両親や周囲とうまくいかないと困ることが出てきてしまう。それを軽視するから子供を虐待したり、この世から葬ってしまうことが起きるのではないか。

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2005年10月14日(金)
両親の故郷

両親を連れて家内と両親の故郷へ行ってきた。
両親は二人とも同じ村の生まれであるため、私にとっては親の田舎はここ一箇所しかない。
母は10人兄弟姉妹の末っ子で、他は全員他界しているので母は故郷へ帰っても一人ぼっちになってしまう。
父も伯父や伯母が他界しているため同じであるが、父の生家は伯父の長男が引き継ぎ、昔の家とほぼ同じ間取りで立て直してくれてある。ただ本人は他の市に住んでいるため、この生家は親戚が自由に使える別荘のようなものである。
この家の道路を挟んだ向こう側に神社があり、そこに写真のような碑が立っている。「皇太子殿下御駐跡」と書かれ、昔からあるので皇太子殿下とは誰かと思っていたら、たまたま今回親戚の人が一冊の小冊子をくれた。
この近辺のいわゆる郷土史である。そこに同じ碑が掲載され、説明を読んでようやく理解できた。
ここでいう皇太子殿下とは大正天皇のことであった。大正天皇が皇太子であった明治時代に軍の演習を視察に来られたことからこの碑が出来たが、場所の関係で後になってここへ移設されたそうだ。

昔はわらぶきの家があり、全体的にのどかなところであったが、田畑が住宅地に変わり、近代的なものすごい数の家々が立ち並び、近くには大手スーパーが出来ていることもあって、通行する車の量もかなり多くなり、また子供の頃遊んだ川も変わり、のどかな風景はどこかへ消えてしまった。
しかし、久々に訪れて気持ちもよかった。自宅から360Km、3時間40分のドライブであった。

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2005年10月4日(火)
訃 報

実家で夕食を済ませて戻ったら男声合唱団からメールが届いていた。
何と、合唱団創設の立役者で団の重鎮であるばかりでなく、市の合唱連盟理事長でもあった彼が逝去された、とのこと。
具合が悪いことは知っていたが、まさかこんなに早いとは・・・・・・。私よりも若いだけに大変残念でしかたがない。
丁度一年前、時間的に余裕が出来た私は第九を歌ってみたい、と彼に話をしたところ、[途中からの参加で大変かもしれないががんばってほしい」、と快く受けてくれてステージに上がることができた。
暗譜が出来ずに悩んでいた時には、「完璧に歌っている人はいませんよ。大丈夫ですよ」と励ましてくれて、私も何とかすることが出来たのである。
本当に惜しい人が逝ってしまった。今は心からご冥福をお祈りしたい。 合掌!

寂しい気持ちを夕焼けの風景にかえて・・・・・