■朝青龍
大相撲11月場所で朝青龍が前人未踏の7場所連続優勝、年間84勝という新記録を樹立して優勝した。
「外人だから」「態度がふてぶてしいから」と応援しない人も多いと聞くが、ある雑誌で彼についての記事を読み、彼を見直した。
遊牧生活であった彼の家族はソ連崩壊によるモンゴル経済の悪化、3年連続の大寒波襲来で家畜に壊滅的な打撃を受け、遊牧生活に見切りをつけ、首都ウランバートルに移転して両親が職についたものの、貧しかった。
高知県の高校の相撲部監督にスカウトされ、「飛行機に乗せてやる」の言葉で日本行きを決めた。高校では特訓を受け、竹刀で容赦なく叩かれ、「いじめ」と受け取るようになったが、スクールバスの停留所のところにある商店のおばあさんに可愛がられ、特訓に耐えた。
彼は「チンギス・ハーンのようになるために日本に来た。将来は僕の力で貧しいモンゴルをもう一回、世界一の国に発展させたい」と来日の豊富を語ったそうだ。
大相撲に入り、心の脆さから批判が続出したが、部屋付きの床山さんの諺説法により相撲界への理解を深め、映画「ラスト・サムライ」を観た日から朝青龍は「優勝を続けることが、横綱の使命だ。品格は、勝ち続けるなかで自然についてくる」と考えることにした。
9月場所千秋楽、「みんなの声援が、耳の奥の奥の奥の奥まで届いたから、勝てた」と言ったきり、泣き伏せてしまったという。そして今場所。勝ち名乗りをあげ、懸賞金を受け取った時の涙。
また、11月場所の千秋楽、相撲を取り終えた彼は、表彰式に出るための髪の手入れをしなければいけないのに、花道の奥で待機していた。そこへやってきたのは立行司の木村庄之助。彼はこの日で長い行司生活に別れを告げたのだが、土俵で深く一礼して、花道に戻る前にまた一礼。花道を歩きながら観客からのねぎらいの拍手は感じられず。しかし花道を引き揚げてきて待っていたのは朝青龍であり、朝青龍は花束と懸賞金の一部を木村庄之助に渡し、労いの言葉をかけて感謝の意を表した。このことがインタビューで紹介されるかと思ったが、何もなく新聞にも掲載されなかったが、私は彼の記事を読んだ後でもあり、彼の成長振りを裏付ける行為であったような気がした。
彼はまだしばらく一人横綱を続けねばならない。その重責は大変なものであると思う。「低迷する現在の相撲人気を盛り上げるには、貴乃花関がいて、ライバルの曙関がいるといった、日本人と外国人の対決というのが理想だ。早くオレのライバルとなる日本人横綱が生れてほしい」と語っている。
他力本願でしかないが、そうなってくれる日本人が待ち遠しい。
|