[資料8−1 被告人の上告趣意書  No.1 - 2

  昭和49年(あ)第1067号          被 告 人  桜  井   昌  司

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改めました。さらに、読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、この上告趣意書は非常に長文な為、5分割してあります。また、文中の会話は一部<茨城弁>です。


(7) 10月16日の取調べ

(1) 朝9時頃に早瀬警部補と深沢巡査が来て、看守仮眠室に3人だけになると、いきなり

「 ゆうべの泊まりの看守さんに、俺はやってないなんて言ったらしいが、そんなことだから本当のことが話せないんだ。もう1度、2回目に玉村さんの家に行ったところから話してみろ。」

と言われました。

 それで、前夜作った話の2回目に玉村さんの家に行った話を、「 私が象天さんの家の勝手口で声を掛け、杉山が家の中に上がり込んで行った。」と話して行きますと、早瀬警部補は、

「 その時、お前はどうしたんだ。」

と訊いてきましたので、前日の話の通りに「 私は勝手口にいて、道路の方に行った。」と話しますと、

「 いや、違うだろ、違うんじゃねえが、よく考えてみろ。」

と言われました。

「 お前も一緒に家の中に入ったんじゃねえが、じゃねえど、おがしいど。」

と言うので、これは家の中の様子が2人で殺したような状況になってるのだろうか、と思いましたが、なんと言われても知らない家の中に入った話なんか出来ない、と思い「 俺は入らないですよ、杉山だけです。」と言うと、早瀬警部補は、

「 そう拗
(す)ねないで、どうせ判ることだから話してみろ。」

と言うのです。

 とにかく、私としては家の中の様子など判らないから話しようがない、と思ったので、何度も「 家の中に入ってないです。」と言ったら、それ以上に何度も早瀬警部補は、

「 どうせ殺したことに変わりないんだから話してみろ。」

と言うので、その言葉を聞いているうちに、どうせ総てが嘘の話なのだから、早瀬警部補の言う儘に認めて話を作ってやろうか、と考えるようになったのでした。

 しかし、家の中のことが判らないので話の作りようがない、と思ったのですが、玉村さんは8畳間の押入れの前で殺されていたという話、ワイシャツでぐるぐる巻きにされて殺されていたという噂話などを聞き知っておりましたので、ただ漠然と8畳間に入って玉村さんの身体をワイシャツで縛ったという話を作れば、後は家の中などの細かなことを訊かれたら、人を殺したことになるのだから興奮していて判らないと言えば良いだろう、と思って「 実は俺も家の中に入ったのです。」という話にしたのでした。

 私が家の中に入ったと言うと、早瀬警部補は、

「 それじゃ家の中に入ってからのことを話してみろ。」

と言い、家に入った話を作ることになりましたが、初めに「 杉山が家の中に上がった後から家の中に入った。」という話を作りますと、更に、

「 そうが、お前も杉山の後から家の中に入って行った、そしてどうなった。」

と訊いてきたのです。それで、殺人の話なのだから、殺人に至る争いが起こったような話を作らねばならない、と思ったのですが、どの程度のいざこざが、殺人に結付く話として適当なのか判りませんでしたので、先ず、「 杉山と玉村さんで言争いになったのです。」と答えると、

「 どんなふうになったんだ。」

と訊き重ねるので、それ迄作ってあった話に、簡単につなげて、「 杉山が、象ちゃん俺だよ、と言ったら、お前が来ても駄目だ、と言われていざこざになったのです。」ということにすると、

「 杉山はなんだって言ったんだ。」

とも訊かれました。玉村さんを殺す話だから、怒ったとしなくては不自然だろう、と思って、「 強い調子で、お前が来ても駄目だ、と言われたので、杉山が怒って、なんだこの野郎と言った。」と話を作って、その話を尤もらしくするのに「 杉山が玉村さんを殴った。」という話にしたのですが、更に続いた早瀬警部補の訊問では、急に細かな話も作れませんでしたから、「 杉山が殴って、2人が8畳間に入って行ってガタガタしていたのを、勝手口に上がったところで呆然と立って見逃がしていました。」という話を作ったのでした。

 早瀬警部補の

「 それからどうした。」

という言葉には、後は8畳間に入って玉村さんをワイシャツで縛ったことにしても、もし噂話が違っていたり、細かな点を聞かれたら、興奮していたので勘違いもあるかも知れないし、良く覚えていないと言えばいいだろう、と考え、「 8畳間で、人殺しという声がしたので部屋に入った。」話にしたのですが、

「 その時2人はどうなってた。」

とも訊かれ、立った儘で殺された筈もなかろう、と思い、押入れの前で殺されていたという噂話も入れて「 押入れの前で杉山が馬乗りになっていた。」という話を作ったのでした。杉山が馬乗りになっていたという話に作ったために、玉村さんの身体で空いているのは足ということになりましたから、足を縛ったということにするしかない、と思い、足を縛った話が事実に反すれば、興奮していたための勘違いにする心算で「 杉山が足、足というので、私が玉村さんの足を押さえてワイシャツで縛った。」という話を作ったのでしたが、更に

「 その時、杉山は何をしていた。」

と訊くので、殴ってたとした方が自然だろうし、財布を盗ってたような話にすれば良いだろう、と考えて「 象天さんが動くので殴ったりしてましたが、私が足を縛り終って立つと、手に布切れみたいな物を持ってた。」という話に作りました。

 その後の話は予定通りに、「 家の中に何があったのかは興奮していたので判らなかった。」と作り、「 杉山が急に、やばい、やばい、と言ったので、呆然と立っていた私は我に返って、先になって家を飛び出した。」という話を作って、前夜に作られてあった話につなげたのでした。

 これらの他の点でも訊問され、話を作ったところがあるかも知れませんが、前日の調書で「 勝手口から家の中に入らないで道路の方に行く時に大きな音を聞いた。」と作ってあった話は、「 家の中から逃げ出して玄関前に来た時に訊いた音である。」と訂正させられ、「 道路にいると、杉山が家から飛び出して来てドブ川沿いの道を駆けて行ったので、後を追って、車寿司の近く迄駆けた。」と作ってあった話でも、「 私が先に家を飛び出して、ドブ川沿いの道を少し行くと、杉山が追い付き、追い抜いて駆けて行ったので、後を追ったのだ。」という話に訂正させられた他は、どんな調べがあったかの記憶が明確ではありません。

(2) 16日の午前中の調べで、「 私も家の中に入った。」という話を作らされた後は、暫くの間、調べがあったことは確かなのですが、それが調書作りの時間だったのか、藁半紙(わらばんし)に上申書や図面などを書かされたものだったのかは、これも明確な記憶がありません。

 ただ、私も家の中に入ったことになると、図面を書くように要求されたことは確かで、その時は、早瀬警部補の顔色や様子を見ながら、押入れの前で玉村さんが殺されていた話やワイシャツで縛られていたという話が事実らしいから、家の中にロッカーが沢山あったなどという話も事実なのだろう、と思って、「 興奮していたので良くわかりませんよ。」などと良いながら書いたのですが、その図面は、噂話で聞いていた、ロッカー、たんす、死体などだけしか書けなかった雑なものでした。

(3) 午後の調べは、深沢巡査が一足早く留置場に来ると、私を房から出しましたが、看守仮眠室入ろうとした時、早瀬警部補が留置場に入って来ました。その時に早瀬警部補は、爪楊枝みたいなものを使っていて、左腋の下には書類みたいな物を挟んで持っておりました。

 私と深沢巡査の待つ、看守仮眠室に上がって来た早瀬警部補は、その書類のような物を座り机の右袖の小さな抽斗(ひきだし)の上から2番目に入れると、

「 家の様子などを訊くから、良く考えて思い出してくれ。」

と言って、調べが始められました。

 最初は、

「 もう一度、金を借りに行くところから話してくれ。」

と言ったのだと思いました。言われる儘に、佐藤治が家に帰った後、杉山と2人で栄橋袂で借金の相談をして玉村さんの家に行った、と作ってあった通りに話したのですが、この点で、少し記憶の混乱があります。それは、

「 象天さんが金貸ししているのは、どこで聞いたんだ。」

と訊かれて、事件後の噂話で聞いた、と本当のことは言えないので、事件当夜2人の男が、布川の永沢食堂に玉村さんの家を尋ねに寄った事実があると聞いてた噂話をヒントにして、「 何年か前に永沢食堂で見知らぬ2人の人が話しているのを聞いて知った。」という話と、

「 根岸の家の様子はどうだった。」

と訊かれて、私は8月27日に根岸茂が利根川で溺死したこと( 前記11頁の(5) )を知っていたし、その27日夜に根岸の家の前も通っていた( 前記12頁の(9) )ので、その時の様子も入れて、「 人が大勢いたので、通夜だと思った。」と答えることが出来たのですが、これらの訊問が、10月15日の最初の時にあったものかどうかが判然としないのです。

 いずれにしても、それらの話も入れて玉村さんの家に着いた話になると、

「 玉村さんの家の前辺りで誰かと擦れ違わなかったか。」

と訊かれましたので、これは誰かが玉村さんの家の近くで杉山ともう1人の犯人と擦れ違っているのだな、と思って訊かれる儘に「 会ったような気がします。」と答えますと、

「 どの辺りで会った。」

と訊くので、適当に「 矢口煙草屋の前だった。」としたのでした。

「 擦れ違ったものは何だった。」

とも訊かれ、最初は
「 自転車に乗った人のようでした。」と答えると、

「 違うんじゃねえが。」

と言うので、自転車でなければ単車だろう、と思い、
「 単車に乗った人だったかも知れない。」としたのですが、更に、

「 載ってた人はどんな人だった。」

と訊かれたことでは、単車に乗ってた人なら若い人であったろう、と単純に考えて、「 20才ぐらいの若い人だった。」としたのでした。

 単車に会った話が作られると、勝手口で玉村さんと話をした、と作ってあったところで訊かれたのですが、初めに

「 声を掛けると、象天さんはすぐに出て来たのか。」

と訊かれた点で、どのように話を作ったのであったか、記憶に混乱があるのです。私は、すぐ出て来たというよりも、少し間があったと言った方が、尤もらしいだろう、と考えて「 声を掛けてから、ちょっと間があって出て来た。」という話にしたのですが、その理由に付いて、早瀬警部補に

「 ごろ寝してたのを起きて来たようか。」

と言われて、「 そんな感じでした。」と答えてあったものであったか、それとも、「 障子を開けて出て来たので、少し間があった。」と適当に話を作ったものであったのかが、明確でありません。

 玉村さんが勝手口に出て来た話のところでは、座った場所などで細かな話が作られましたが、早瀬警部補からどのような訊問があったかは忘れました。ただ、その時に

「 玉村さんが着てた半袖のシャツには襟が付いてたか、どうだ。」

と訊かれたのが印象に残ってます。前日の調べでは、開襟シャツみたいであった、と誘導されておりましたから、襟の無い開襟シャツなどないだろう、と思って、
「 襟は付いてました。」と答えたのですが、

「 良く考えてみろ。」

と言われ、
「 襟が無い半袖シャツであった。」という話に作られたのでした。ところが、この衣類を見せられた2月3日の取調べの時に

「 やっぱりお前が言った通りに、襟が付いてたな。」

と言われ、小さな襟が付いていたことに再度訂正の調書が作られたので、特に明確に記憶しております。

 1度目の借金が断られて利根川の土手に行き、再度借金に行く話のところでは、

「 どんな話をした。」

と、何度も訊かれましたが、嘘の行動なら、布川は自分が育った町でもあり、その訊問に合わせて話を作るのは簡単でも、やりもしない殺人の犯人としての会話は、訊問に応えて早急に作るのが困難でしたから、「 余り話はしませんでした。」という話で通したのでした。ところが、玉村さんの家に2度目に向った話のところになると、

「 杉山が何とか言わながったが。」

との訊問に、「 別に何も言わなかった。」と言った私の答では納得せずに、何度も

「 そうかあ、忘れてるんじゃねえが、良く考えてみろ。」

「 貸さながったらどうするとが、言わながったが。」

と言ったのでした。それで、これは犯人達が事件を起す現場に赴くという形の話だから、貸さなかったら殺すというような事件の起こる布石の言葉を言わせたいのだな、と判りましたので、どうせ嘘の話だから、
早瀬警部補の言うことに逆らうことないから適当に話を作ろう、と考え「 麦丸屋の近くで、貸さなかったらヤキを入れるとか言った。」という話を作ったのでした。

 2度目に玉村さんの家に着いたところの話になると、

「 お前が先に庭に入って行ったのは、杉山に何が言われたんじゃねえが。」

と言われましたので、その訊問に合わせて、「 尻を押されて、先に行けと言われた。」という話を作ったのですが、杉山が家の中に上がった後から私も上がったというところになると、

「 お前の方が先に上がったのではないか。」

とも言われたのでした。私は、話を作り替えるのが大変だ、と思って、「 杉山の後からだった。」と言ったのですが、

「 どうせ家の中に入ったのは同じなのだから。」

と何度も言うので、それもそうで、嘘の話にはないから、1番簡単に作り替えよう、と思って「 自分が先に勝手口に上がった左脇を、杉山が上がって行った。」という話を作ったのでした。

 私が先に家の中に上がった、という話の作り替えが終わると、今度は、家の中の様子に付いて、細かな訊問が始められたのでした。

 その訊問が始められる前に、早瀬警部補は、座机の右袖抽斗(みぎそでひきだし)に入れた書類のようなものを出して、自分の座った右側に広げて見出したので、その広げたものが現場の図面らしいと判りましたが、初めに、

「 8畳間の電灯は何がついてた。」

と訊かれたのだと思いました。電灯に付いては、事件後に通った時、庭に吊された裸電球があったのが印象に残っておりましたので、「 電球がついてたと思います。」と応えますと、

「 そうかあ、違うんじゃねえが。」

と言われましたので、電球が違うのなら螢光灯しかありませんが、「 螢光灯だったかも知れない。」とすると、早瀬警部補は、

「 螢光灯はどの位の長さだった。」

と訊きました。螢光灯の普通の長さは4、50p だろうと思って、「 4、50p だったと思います。」と答えると、更に、

「 螢光灯は東西に長く付けられてたか、南北に長く付けられてたか。」

と訊くので、適当に、東西、南北と早瀬警部補の訊問の儘に答えると、事実にあった時に、早瀬警部補は、

「 そうか、そうか。」

と言いながら、図面から目を離して、「 螢光灯は4、50p の長さのが、南北に取付けてあった。」と大学ノートに書くといった具合で、その訊問が進んだのでした。螢光灯の次は、

「 8畳間に入る前の部屋は、板の間だったが、何が敷いてあったが。」

と訊問され、勝手口から8畳間に入るのには、1部屋を通るのだな、と判りましたが、既に作ってあった話の中で、漠然と8畳間に入った、と言っても何も言われなかったのだから、その8畳間に入る前の部屋には、障子などの仕切りは無いのだろう、と思いました。しかし、どうなってるのか判りませんので「 さあ覚えてませんね。」と答えますと、

「 足の裏に柔らかくデコボコした感じだったとが、硬がったとがぐらい覚えてるだろう。」

と言うので、二者択一だし、勝手口は板の間というのだから、それに続く部屋がもし板の間なら、わざわざ訊き重ねることもないだろう、と思い、「 そういえば、柔らかい感じもしました。」と言うと、早瀬警部補の方から、

「 そうか、それはどんな感じだった、畳のようなんじゃながったが。」

と言ったのでした。私が言われる儘に「 そうですね、そんな感じがしました。」と答えると、次に

「 その部屋の8畳間に入る辺りに何か置いてながったが。」

と訊かれました。「 何か 」などと訊かれても、家の中に入ったことがないのですから判りませんし、いちいち訊問を窺
(うかが)いながら事実に合う答を捜すのが大変だ、と思って「 覚えてませんよ。」と強い口調で言うと、

「 そりゃ、お前も慌てていたろうけどな。よく考えてみろ。」

と言いました。しかし、「 何か 」では判りようがありませんでしたから、「 判らなかったです。」と答えておりますと、

「 夏に使う物で、首振る奴があったろ。」

と言ったので、ああ、これは扇風機のことを言ってるのだな、と判りましたから、思い出したように「 扇風機だったかな。」と答えたのでした。

「 その扇風機はどんな色だった。」

とも訊かれましたが、今時、黒い色の扇風機もないだろう、と思って、「 白だった。」と答えました。

 扇風機の次は、8畳間のガラス障子に付いて訊かれたのだと思いますが、少し記憶が混乱しておりまして、この時に初めてガラス障子があった、と判ったようにも、ガラス障子の大きさとか、ガラスの枚数だけを訊かれたようにも思えて、その訊問内容とも明確な記憶がありません。

(4) 8畳間の中の様子を訊かれた時は、種々と細かな訊問がありましたので、早瀬警部補の訊問、誘導、それに対して考えたことなどを、記憶に残っている点だけを書きますと、それは次のような訊問でありました。

「早」 押入れはどこにあったんだ。

「私」(南側が出入口らしくて、西側は窓があるのだから、8畳間の北か東にあるのだろう、それなら出入口から見て右の方だったと言えば当たらずとも遠からずだろう、と考え)右の方でした。

「早」 右というと、南の出入口から向って右だから東になる訳だな。

「私」 そうです。

「早」 どうだ、出入口に近く作ってあったんじゃねえが。

「私」(そう言うのならそうだろうと)はい、そうです。

( 押入に襖があったか、とも訊かれ、それがカーテンみたいなものだったと判る迄訊問があったと思うのですが、明確な記憶がありません。)

「早」 出入口の左側に何かながったが。

「私」(噂で聞いていたタンスでもあったのかと思って)タンスだったかなあ。

「早」 それじゃあ、違うだろ、似たような物があったろう。

「私」(それでは、ロッカーが沢山あったという噂話の方か、と)ロッカーだったっけかな。

「早」 そうか、ロッカーだな。そのロッカーはどの位の高さだった。

「私」(ロッカーは、概ね人の背丈ぐらいだと、ビル清掃の時に見ていたので)人の高さ位でした。

「早」 それは1つの高さだったのが、それとも2つ積んでそれ位になってたのが。

「私」(1つならわざわざ訊かないだろうから、これは2つ積んであったのだな、と思い)そう言えば、2つ積んであった感じです。

「早」 ロッカーの窓寄りには、何か置いてながったが。

「私」(見当も付かないので)さあ、覚えてないですね。

「早」 覚えてるだろ、考えてみろ。

「私」(答えようがないので、考えるような振りをして)判らないですよ。

「早」 なんか、台のような物があった筈だな。

「私」(家の中にある台のような物は何か、と何度か考えているうちに、机でもあるのではないか、と思い)机だったかな。

「早」 そうが、うん、机だな。その机には抽斗
(ひきだし)はあったが。

「私」(あったが、と訊くのでは無かったのだろう、と)無かったみたいですね。

「早」 そうがあ、もう一度考えてみろ。

「私」(無かったという話が駄目ならあったのだろう、と)そういえば、あったのかも知れません。

「早」 そうが、抽斗
(ひきだし)はあったんだな。それは右に付いてたが、左に付いてたが。

「私」(自分の家の机が右だから、同じように言え、と思い)右のようでした。

「早」 右側な、その抽斗は幾つ位あった。

「私」(普通は4つか5つだろう、と思い)4つか、5つ位でした。

( 更に、この机の件では、真ん中の大きな抽斗、各抽斗の特徴も訊かれた筈なのですが、どのような訊問に、どう考えて答えたものか、記憶がありません。)

「早」 机の上に何が置いてながったが。

「私」(何かでは答えようがなく)さあ、覚えてませんね。

「早」 四角い大きな箱のようなものだったけど、判らないが。

「私」(何か箱があったようだから、適当に調子を合わせておこう、と)あったような気もしますね。

「早」 それはどんな箱だ。

「私」 はっきりしませんね。

「早」 木が、ダンボールが。

「私」(家の中の机の上に大きな木の箱も置かないだろう、と思って)ダンボールみたいだったかなあ。

「早」 そのダンボールの中には何が入ってたようだった。

「私」(中身など判らないので)判りません。

「早」 何が入れられてあったようなものだったが判らないが。

「私」(何か、では何度言われても答えようがないので考えるような振りをして)さあ、はっきりしないですね。

「早」 電気製品の箱のようじゃながったが。

「私」(図面を見ながら言うのだから、そうなのだろう、と思って)そういえば、そんな感じの物でしたね。

「早」 どんな電気製品が入ってた物のようだった。

「私」(机の上に乗る電気製品の箱で適当な物は、扇風機かテレビと思ったのですが、大きいのではテレビの箱だろう、と思い)テレビの箱みたいな気がします。

「早」 それは箱のマークで判ったんじゃねえが。

「私」(言うことに間違いはあるまい、と)そうですね。

「早」 他に8畳間にあった物で気付いた物はないが。

「私」(噂話で聞いてたタンスもあったろう、と思って)タンスもあったようですね。

「早」 どこにあった。

「私」(西が窓で、東が押入れ、南は出入口とロッカー、机があったと言うのだから、北側だろう、と思って)北側にあったような気がします。

「早」 北側な、北側っても西寄りの方じゃねえが。

「私」(これは言われた儘に)はい、そんな感じでした。

「早」 そのタンスは幾つ位あった。

「私」(訊く以上は1つではないようだが、3つも4つもないだろう、と思って)2つ位だったと思いますが、はっきりしません。

「早」 他には、どうだ。

「私」(あとは噂で聞いてたことも無かったので)別に気が付きませんでしたね。

「早」 部屋の中はどうだった、綺麗だったが、散らがってだが。

「私」(玉村さんは1人暮らしだから、綺麗ということはないだろう、と思って)散らかってました。

(この後、布団に付いて訊かれ、それが万年床であったことなどが判ったのですが、どのような訊問に、どう考えて答えたものだったかの記憶がありません。)

「早」 布団の頭の方に何が置いてながったが。

「私」(何か、と言われても判りようがありませんが、当推量で、本でもあったのか、と)本だったっけかな。

「早」 いや、違うだろ、よく考えてみろ。

(この訊問の時は、誘導らしいものも全くありませんので、「 箱のようなものがあった。」と正解の当推量が出る迄、かなりの時間がかかりましたが、途中、「そんな細かなことは覚えてませんよ。」と言うと「 そりゃ、お前も興奮してたろうけどな、よく思い出してみろ。」と言われたこともありました。)

「早」 玄関の方には何がながったが。

「私」(早瀬警部補が取調べの時に「 大きな金庫を開ければ、もっと金があったのにおしかったなあ 」( 前記37頁の16行以下 )と言った金庫が8畳間に無いようだから、それがあったのだろう、と思って )金庫みたいなものがあったようです。

「早」 それはどの辺にあった。

「私」(8畳間のロッカーや机があったという反対側にあったのではないか、と思い)玄関口に向き合ってたように思います。

「早」 その他にはながったが。

「私」(訊く以上はあるのか、と思って)あったような気がします。

「早」 それはどこにあった。

「私」(玄関の向いの1つがあったものなら、残るのは道路側寄りだろう、と思って)玄関の奥の方にあったようです。

 右のような問答(私の考えたこと以外の言葉は、総て正確というものではありません)で、早瀬警部補が図面を見ながら訊問を重ね、事実に合う答えが出来ると、その言葉を大学ノートに書くといった取調べで、部屋の中の様子が判ったのでした。

(5) 8畳間の状況の訊問が終った後は、

「 杉山が8畳間に入って行ってからのことを話してみろ。」

と言われ、再び、既に作ってあった通りに、「 私が勝手口に上がると、その左脇を杉山が上がって8畳間に入った。」と話しますと、

「 杉山が象ちゃん俺だよ、と言ってたのは、昔から知ってたようが。」

と、訊かれたのでした。杉山は東文間
(ひがしもんま)部落の人であるから知らないだろう、と思ったのですが、象ちゃん俺だよと言ったと話を作った関係もあったので、「 知ってたようです。」と答えると、次に、杉山と玉村さんが8畳間に入ったところを訊かれたのですが、この時に初めて「 玉村さんの顔を杉山が殴った。」という話を作ったような覚えもあって、少し記憶が混乱しております。

 杉山と玉村さんが8畳間に入って行った話の後は、既に作ってあった話の通りに、「 勝手口に上がったところにいると、8畳間から騒ぎが聞こえ、人殺しという声がしたので、私も8畳間に入った。」と言いますと、早瀬警部補は、

「 その時の2人の様子はどうだった。」

と訊くので、殺す話なのだから、暴れていたと言った方が尤もらしいだろう、と思って、「 杉山は馬乗りになっていて、玉村さんは足をバタバタやって暴れていた。」という話に作り加えて、「 足、足と言われたので、玉村さんの足を押えてワイシャツで縛った。」という話につなげて話を続けたのでした。私がワイシャツで縛った話をすると、そのワイシャツの件で種々と訊問されたのですが、その記憶に混乱があります。

 最初は簡単に「 傍にあったワイシャツで縛った。」と作ったのですが、早瀬警部補の

「 傍にあったものではないのではないか。」

という訊問で、玉村さんを縛ってあったワイシャツは畳の上にあったものではない形跡があったのか、それではどこかに掛けてでもあったのだろう、と思って、言われる儘に、「 どこかに掛けてあったのを取ったような気がします。」と作り替えたことがあり、最後には「 8畳間入口の柱に掛かってたのを取って縛った。」という話に作らされたのでした。

 このように3段階でワイシャツで縛った話が出来たのは確かなのですが、その3つの話全部が調書にされたものだったか、という点が、8畳間入口の柱に掛かってたワイシャツを取った、と話を作らされた際の早瀬警部補の訊問内容ともども明確な記憶がありません。

 ワイシャツで縛った話を改めて作ると、次に、早瀬警部補は、

「 もう1つ何かで縛ったろ。」

と言ったのでした。訊く以上は、そのような事実があるのだな、と判りましたが、その縛ってあったらしい物が何であるか判らないので、「 興奮してたのではっきりしませんが、布切れのようなもので縛ったかも知れません。」とだけ答えると、

「 それは何だった、よく考えろ。」

と何度も言われ、考えさせられたのでした。この訊問の時は全く誘導がなくて、私の感覚では正解が言える迄10分位の時間がかかったと思うのですが、私が、当推量で、「 シャツだったかな。」「 ズボンみたいなものだったかな。」と答えている時に、

「 何か細長い物があったろ。」

と言われ、細長いというのでは紐のようなものか、と考え、「 帯紐のようなものだったかな。」と答えたこともありました。そして、種々考えて、足を縛る細長い布地とはなんだろうか、と思っているうちに、ひょいと、手拭
(てぬぐい)なのではないだろうか、と思い付いて、「 手拭だったかな。」と言いますと、更に

「 それに似たような物があったろ。」

と言われたので、それでやっと、手拭に似たものではタオルでもあるのだろう、と判ったのですが、「 タオルだったかな。」と答えますと、早瀬警部補は、

「 そのタオルは普通と較べてどうだった。」

とも言ったのです。普通の物と違うような言い方では、バスタオルでもあるのだろう、と思って「 大きいタオルでした。」と答えたのですが、更に、そのタオルとワイシャツに付いて、

「 どのように縛った。」

という旨の訊問が続いて、事実に合う縛り方を答えさせられたものの、それが、どんな訊問であったかは忘れました。

 足を縛った話が終わると、

「 縛った時の象天さんの足は素足だったか。」

と訊かれたのでした。この時は、真夏の家の中で何か履いていたという事実は無いのではないか、と思って「 素足でした。」と答えると

「 そうかあ、良く考えてみろ。」

と言うので、何か履いていたことが判ったのですが、まさか足袋もないだろう、と思い「 靴下を履いていたかも知れません。」と答えたのですが、更に、

「 その靴下はどんな色だった。」

と言われました。この訊問も誘導と感じたものはありませんでしたが、靴下の色など限定されてありますし、当推量で適当な色を言うと「 青っぽかったかな。」と答えた時に、早瀬警部補はその答を大学ノートに書き、

「 それは青一色だったか、それとも、色が混じってたか。」

とも言ったのです。それで、これは柄もの靴下なのだな、と思い、青色に柄というなら明るい色だろう、と考えて思い付く儘に答え、簡単に「 黄色が混じったものだったかな。」と答えたのでした。

 これらの話が終わりますと、

「 お前が足を縛っている時に、杉山は何をしてた。」

という旨の訊問をされたと思いますが、私が、それ迄に作ってあった通りの話に「 馬乗りになって顔の辺りを殴ってたりしました。」と言うと、

「 手に持った布切れで、口の辺りに何かしてながったが。」

とも言われたと思いました。この訊問が確実にこの時のものであるのかは確信がないのですが、この点に関する訊問は、何度も

「 何かしてたろ。」

「 象天さんは何も言わながったのが。」

と言われたりしまして、これは猿ぐつわでもやってあったのだろうか、と考え、「 口の辺りに布切れをやってたようだが、足を縛るのに一所懸命だったから良く判らなかった。」と言ったことがあるのです。ただ、この杉山が口に布切れをやった、という話を作った期日がいつの時点であったのかは、記憶がありません。

 その後は、既に作ってあった話の通りに、「 茫然として立っていると、やばい、やばいという声がしたので逃げ出した。」と言いますと、

「 その時に杉山はどこにいた。」

と訊かれましたので、押入れの前で殺した話なのだから、押入れをガタガタやってたとでもしておこう、と考えて、「 押入れをガタガタやっていました。」という話を作ったのでした。

 また、これはいつの時点で訊かれたのかは忘れましたが、玉村さんの死体の状況に付いて、

「 象天さんの死体のあった辺の畳はどうなってた。」

と訊かれ、町の噂は真実のようだから、畳がぶち抜かれて床下の金を盗られたと聞いてた噂も、きっと真実で、畳も普通ではなかったろう、と考え「 畳が下がってたようです。」と答えたのでした。

 玉村さんの家から逃げ出してからの話に付いては、特別の尋問はされず、柏の旅館に泊まった話の辺りで、夕飯休憩になったのだと思いました。

(6) 夕飯後の調べでは、初めに

「 杉山は、財布の他に何か見せながったが。」

と訊かれたのでした。その尋問が金銭を意味するものであることは判りましたが、どんな話にして良いか判りませんでしたし、話を新たに作るのも面倒だ、と思って「 別に何も見ませんでした。」と答えると、

「 そりゃお前も一遍には言えないだろうけども、どうせ殺したことは同じなんだから話してみろ。」

と、何度も言われたのです。それで最後には、
総てが嘘の話なのに逆らうことないし、犯人側の話だから訊問に合わせて話を作ればいいや、と考えて杉山が金も見せた話も作ったのですが、逃げ出してからの話では、「 車寿司の辺り迄駆けて行った。」と作ってありましたから、車寿司の辺りで見せられたとすれば、話もぴったりするだろう、と考え「 実は、車寿司の辺りで金を見せられました。」と話を作ったのでした。すると、

「 それは、どんなふうに見せた。」

「 いくらぐらいあった。」

と相次いで訊問されたのですが、尤もらしい話に作ってやれ、と考えて「 ポケットから白い紙包を出して、破りながら見せた。」と話を作り、更に、どの位の金額が人を殺して盗ったという金にふさわしいか、と考え、区切りの良いところで10万円位でいいだろう、と思い、「 10万円位の札だと思った。」という話に作ったのでした。

(7) 10月16日の取調べの訊問内容等で、記憶があるのは以上ですが、こうして、新たに付け加えられた話が調書にされ、終ったのは、前日と同じに、12時近くでした。ただ、この日の調書が、どのような内容のところで終ったのかは、記憶がありません。

(8) 10月17日の取調べ

(1) 朝9時頃からの調べで、この日に最初にされた訊問は、

「 もう一度、我孫子で杉山に会ったところがら話してみろ。」

ということでした。私は、言われる儘に、既に作ってあった話の通りに「 成田線ホームにいると、杉山と佐藤治が来た。」と話していきましたが、

「 それは違うだろ、佐藤治はいないだろ。」

と言われたのです。それで、これは佐藤治のところに聞きに行って、作り話が判ったな、と思いました。また、他の部分の作り話の嘘は判らないようだが、この調子でだんだんと、自分の嘘は判るだろうし、早瀬の訊問に合わせておこう、と考えて、「 佐藤治は勘違いで、本当は、杉山が1人で来たのです。」という話に作り替えたのですが、必然的に布川に帰った話も作り替えさせられることになりました。

 この時は、佐藤治のことを抜いて9月1日の行動の通りに話せばいいだろう、と考えて、「 杉山とは我孫子駅で一旦別れ、1人で布佐駅から栄橋を渡ってバスに乗った。」と、ほぼ、9月1日の行動( 前記21頁の(1)以下 )の通りに話したのでしたが、バスに乗った儘で殺人の話につながりませんので、8月中旬に実際にあった経験をこの日にこじつけて、「 バスに乗ってると杉山が来たので降りた。」という話に作り替えたのでした。

 この佐藤治の話が作り替えられた後は、玉村さんの家に借金に行く話などに付いて訊問されたのですが、具体的にどんな調べがあったものだったかは、忘れました。

(2) 午後の調べが始まってから、少しの間雑談した時でしたが、なぜ旅館に嘘は判らないのだろうか、と思って「 柏の旅館はどうだったのですか。」と聞きますと、早瀬警部補は、

「 やっぱり泊まったと判ったぞ、お前、けんちゃん寿司という店のマッチを旅館に置いて来たろ。」

と言いました。そう言われて、その旅館に、実際に泊まった10月初旬の時は、寿司屋に寄ってから泊まったんだっけな、と思い出したのですが、10月に泊まった話が8月に泊まったと判ったなんて、警察の捜査もいいかげんなものだな、と思ったことがありました。

(3) 午後の調べでは、8月29日の話や、それ以後の行動について訊かれたのですが、これは、実際の行動でしたから、ただ、玉村さんを殺した後日の話という意味で、「 見つかるんじゃないかと心配した。」「 それで家に帰れなかった。」などという尤(もっと)もらしい話を、早瀬警部補の訊問に合わせて作った他は、容易に話が進められたのでした。

 これらの訊問の他に、違った調べがあったかどうかは記憶がありません。

(4) この日の調べで特別に印象に残っているのは、夕食後の調書作りが始まってからのことです。時間は正確には判りませんが、何しろ調書作りが始められてから、3、40分した頃でしたが、県警の捜査員( 後日、5ヶ月余りを取手署に拘置され、この人が取手署員ではないと判りました。)が、留置場に入って来て、

「 係長さん、ちょっと。」

と、早瀬警部補だけを呼んで、2人で留置場を出て行きました。それで、私と深沢巡査だけで待っていると、10分位して戻って来た早瀬警部補は、いきなり大声で、

「 桜井、いいかげんに全部話したらどうだ。杉山はとっくに掴まっていて、泣いて両手をついて謝って、桜井が首を絞めて殺したと、とっくに詳しく話してるんだぞ。」

と言ったのです。杉山と誰かが犯人だ、とばかり思い、杉山の調べが終われば俺の無関係は判る、と思っていた私は、その杉山が、桜井が首を絞めて殺したと言ってる、と言われ、暫
(しばら)くその意味が判らないで呆然(ぼうぜん)としましたが、私が呆気(あっけ)に取られて、俺が首を絞めたと杉山が言ってるとはどういうことだろう、と考えている時にも、早瀬警部補は、強い調子で、

「 お前が首を絞めたんだな。」

と言って来ました。私は、犯人じゃないのに冗談じゃない、と思いましたが、すっかり犯人を装い、そして装わされていたこともあり、そう早瀬警部補に言われても、アリバイを思い出せない儘では、「 犯人ではないのです。」と言っても、
さらに厳しい取調べで自白を求められるだけで、どうにもならない立場になってしまった、と感じたのです。

 それで、早瀬警部補の訊問には答えないで、犯人である筈の杉山が、なぜ、俺が首を絞めたなどと言うのだろうか、と考えました。その結果、先ず、早瀬警部補が取調べの時に言った、「 杉山を道路で、桜井を勝手口で見た目撃者がいる。」( 前記35頁の(9)の6行以下 )という話を考え、とにかく、杉山が玉村さんの家に行ってることは確かだ、と思いました。

 その杉山が、一緒に行ったことのない私を共犯だと言うのは、私に見間違われて一緒に行った人の名前が出せない理由があるのだろう、と思ったのです。私が早瀬警部補に「 杉山とお前が犯人だ。」と言われたように、杉山も「 桜井とお前が犯人だ。」と言われ、それを幸いに私のことを言ってるのだろう、と思ったのでした。

 それで、結局、それならば、調べが終われば杉山とも会えるだろう( 当時は、共犯者同士とされる者は会わされないとは知りませんでした。)し、会えば共犯者の名前も言ってくれるだろうから、一緒になれる日迄、私も犯人と認めているしかない、共犯者の名前が判ったら、私の口から言えば良いだろう、と考えて「 私が首を絞めました。」と言われる儘に認めたのでした。

 私が首を絞めたと認めると、

「 どうやって首を絞めたんだ。」

と訊いてきましたが、話が簡単に続けられるように「 足を縛ってから首を絞めた。」という話に作り、その状況を訊く早瀬警部補の訊問に答えて、「 玉村さんの倒れている右側に両膝をついて首を絞めた。」という話などを作ったのでした。

 この点では、

「 首を絞めたら顔色はどうなった。」

「 首を絞める時に、前かがみにならながったが。」

とも訊かれ、それらに付いては、首を絞めれば赤くなるのは確かだろう、と思い、前かがみは、畳がぶち破られていたという噂話だろう、と思いましたから、「 首を絞めると顔が真赤になり、私の身体が前かがみになりました。」という話に作りました。

 それらの話が終わると、早瀬警部補は、

「 お前も金を探したんじゃないが。」

と言ったのです。それ迄の調べでも、何度か、金は探さなかったのか、という訊問をされましたが、話を作るのが大変だ、と思って「 探していません。」と否定すると、それ以上の訊問はされなかったのでした。

 ところが、この時の訊問は、強い調子だったものですから、部屋の様子もある程度判ったから、その判ったところを探したことにすれば良いだろう、訊問に逆らうこともない、と思って「 実は探しました。」と認めたのです。

 そして、どんな話を作ったら良いだろうかと、先ず最初に考えたのは、早瀬警部補が取調べの時に、大きな金庫を開ければもっと金があったと言った( 前記37頁3行以下 )から、玄関の方にあったらしい大きな金庫は開けられていなかったのだろう、ということでした。

 それで、玄関の大きな金庫を開けようとしたが、開かなかったとしよう、と考え「 首を絞めてから、玄関の方に行って大きな金庫を開けようとしたが、開かなかった。」という話を作ると、

「 それはどんなものだった。」

と訊かれました。8畳間にあったというのが、2つ重ねのロッカーであるらしいのに、「 大きな方の金庫。」というのだから、それも大型ロッカーなのではないだろうか、と思って、「 大きなロッカーみたいだった。」と答えますと、

「 それは幾つあった。」

とも訊かれ、訊く以上は複数であると判り、それも3つも4つもあるまい、と思って、簡単に「 2つあった。」と答えることが出来たのでした。

「 それからどこを探した。」

との早瀬警部補の訊問で、更に、お金を探した話を作ることになるのですが、早瀬警部補が「 大きな金庫を開ければ 」と言ったのは、8畳間にあったというロッカーに物色した跡があったからなのだろう、と思って、「 玄関のロッカーが開かないので、8畳間に戻って、2つ重ねのロッカーを探しました。」という話に作ったのでした。

 そして、金を盗ったことにすると、今度は8月29日以後の話で嘘の話を作り加えなければならないから面倒だ、と思って、「 ロッカーを探し出すとすぐに、やばい、やばいと言われたので、金が見つからない儘に逃げ出した。」という話に作ったのですが、2つ重ねのロッカーのどちらを探したと答えたものであったかは、忘れました。

 そのロッカーに付いては、

「 中は何段になってたか。」

「 何が入ってた。」

と訊かれ、ロッカーだから書類と言えば当たらずとも遠からずだろう、と思って、「 書類のような物が入ってた。」と答えましたが、ロッカーの中が何段だと答えたものであったかは記憶がありません。

 早瀬警部補は、

「 本当に金は盗って来なかったが。」

「 絶対に、間違いないが。」

と何度も言って来ましたが、金を盗ったとすると、話を大幅に作り替えなければならないので大変だ、と思って、「 盗ってません。」と否定していると、それ程強く訊きませんでしたから、金は盗って来ていないという話で調書作りが始まったのでした。

(5) 玉村さんの首を絞めた話や、金銭を物色した話などを入れ、改めて調書を作り出した時間が遅かったので、終わったのは午前1時も過ぎましたが、余りに遅かったので、当夜の看守勤務員( 池田巡査、藤木巡査達 )は、刑事宿直室の方で眠っていたのでした。調べが終って房に入ると、深沢巡査が、

「 遅くなって腹が減ったろうから。」

と言って、丼に肉の煮込みを盛った飯を持って来てくれたので、それを食べてから寝たのでした。

(9) 10月18日の取調べ

(1) 前夜の取調べ終了が遅かったので、起床時間もずらされて、調べが始まったのは午前10時過ぎでした。

 この日は、最初に

「 お前も金を盗って来た筈だ。」

と言われたのでしたが、私は、ただ話を作るのが面倒だ、という思いで、「 金は盗って来ていません。」と答えていました。しかし、この時の早瀬警部補は、前夜の調べの時と違って、何度も、

「 言いづらいだろうけど、どうせ同じことなんだがら話してみろ。」

と言って来たのでした。その言い方が、どうしても金を盗ったという話をさせる、という調子がありましたので、どうせ、杉山と会えれば真実が判るのだから訊問に合わせておこう、8畳間のロッカーから盗ったということにしよう、と考えたのですが、その金額に付いては、人を殺して盗ったという金だから余り少ないのはおかしいだろう、杉山の盗った金を10万(円)と作ったことがあったから、それと合う位の金にしよう、と思って「 ロッカーの書類の間あった6万円を盗った。」という話を作ったのでした。

 その後は、逃走に付いての訊問になり、早瀬警部補から

「 お前も杉山に金を見せたそうじゃないか。」

とも言われたのでした。この点では、杉山が私に金を見せたという話が作ってあるのだから、その時に一緒に私も見せたと話を作ればいいだろう、早瀬警部補の訊問に逆らうこともない、と思って「 車寿司の辺りで杉山が金を見せた時に、私もポケットの金を見せた。」と話を作ったのでした。

(2) 私が金を盗った話を作ったことで、更に細かな点での訊問があったのですが、具体的に、どんな訊問があってどのように答えたものだったかは、忘れてしまいました。また、この10月18日は、何時頃からどんな調書が作られて、何時頃に調べが終ったものだったかに付いても記憶がありません。

(10) 10月19日の取調べ

(1) この日は、深沢巡査の立会が最後の日でしたが、午前中の取調べの記憶に混乱があるのです。種々な図面を書かされたり、上申書を書かされたようにも思うのですが、それは、10月16日の午前中であったようにも思えて、判然としないのです。

 もし、この時に書かされたものであっても、図面に付いては何度も書かされましたので、どんな図面であったかは判りませんが、上申書というものは、深沢巡査に

「 初めに、私は窃盗をやりました、ということから書いて、続けて強殺をやりました、と書け。最後には、悪かったとがの今の気持を書いて纒
(まと)めてくれ。」

と言われて、その通りを藁半紙
(わらばんし)に書いたのでした。

(2) 午後の調べの時は、深沢巡査だけが早く留置場に来て、看守仮眠室に上がりましたが、手には大型のテープレコーダーを持って来ていて、それを準備しておりました。その準備が出来る前に早瀬警部補が留置場に入って来て、私も房から出されて、1回目の嘘の自白の録音が行われたのでした。

 早瀬警部補は、吹込みを始める前に

「 どうだ、今まで話してくれたことを、続けて話せるか。」

と聞きました。4度も5度も同じ話をさせられておりましたから、自分で作った話は全部覚えていたので、「 話せます。」と答えますと、

「 それじゃ、初めに俺が、今から玉村さんのことで話して貰うから、と言ったら、玉村さんを殺したと言って、杉山と会ったところから順々に、今まで話した通りに喋ってくれ。」

と言って、吹込みが始められたのですが、私も言われる儘に、それ迄に作ってあった話を順々に話して行きました。その再生した録音を聞かせられ、テープを入れる箱の表面に署名押印させられて調べが終わったのは、夜の8時頃でした。

(11) 10月20日の取調べ

(1) 朝9時頃だったと思いますが、今まで見たことのない人が留置場に入って来て、私を房から出しますと、早瀬警部補と深沢巡査が一緒に留置場に入って来たのでした。そして、早瀬警部補が、

「 今日から深沢さんは水戸の方に帰るから。」

と言うと、深沢巡査が

「 俺は帰るけど、今度富田さんが代わることになったから、今迄通りに素直に話して面倒みて貰えるようにしろよ。元気でな。」

と言って留置場から出て行き、今度は、早瀬警部補と取手署の富田巡査に調べられることになりました。

(2) 富田巡査の立会になっての最初の訊問は、8月29日の取手競輪場での車券の購入額に付いてでした。

 富田巡査が取手警察署保管の「 8月29日の取手競輪の選手出走表と結果 」( 出走表は競輪場で無料配布するのと同一の物です ) を持って来て、私にそれを見せた早瀬警部補は、

「 何レースで、どんな車券を買ったのか思い出してみろ。」

と言ったのでした。私が競輪場で最高に車券を買ったのは、( 昭和41年12月末日の奈良競輪場での ) 2万円位でしたから、急に、盗ったことにされた6万円をどんな車券につぎ込んだのか、と訊かれても答えられるものではありませんでしたが、言われる儘に出走表( これには結果、配当金も記載されております ) を見ながら、適当に外れ選手を組合わせた嘘の話を作って行きました。

 ところが、何しろ急な作り話だったものですから、6万円全額を使い切った話が作れずに、残金は8月29日以後も所持していた話になってしまったのですが、この時は、金を持ってた話では、実際の行動を話した29日以後の話に合わないが、辻褄(つじつま)が合わなくなったら、また、その時に話を作ればいいだろう、と考えたことがありました。

(3) 他に富田巡査が立会になった初めの日の調べで記憶にあるのは、早瀬警部補に

「 ( 玉村さんの家から逃げ出して布佐駅に行く時に ) 栄橋の上に何が止まっているのを見ながったが。」

と訊かれたことでした。栄橋の上には、当時、時々建設会社の車が夜通し止まっていることがありましたので、その車なのだろうか、と思って、「 ジープが止まっていたがな。」と言うと、

「 ジープとは違うだろ。」

と言われましたので、大型車は通れない栄橋だから、それでは普通車であろう、と思い「 普通車だったかな。」と答えたのですが、更に

「 その車には屋根が付いてたが。」

と言われ、これはライトバンでもあったのだろう、と判り、「 ライトバンのようだったかも知れません。」と答えたのでした。この点に付いては、更に、

「 車はどっちを向いて止まってた。」

と訊かれ、その方向( どちらを向いて止まってたと答えたのかは忘れました )を、「 布川側 」とか「 布佐側 」と答えたのですが、翌21日の調べの時に、富田巡査に

「 ライトバンは向きが反対だったぞ。」

と言われ、早瀬警部補の訊問によって、その方向を訂正されたこともありました。また、その車にあったらしい追突防止灯に付いても訊かれ、答えたと思うのですが、何日の調べで、どのように訊かれたものであったかは、忘れました。

 これらの他には、どのような点に付いて訊問され、調書の訂正が行われたものであったかは、記憶がありません。

(12) 10月21日から24日迄の取調べ

 10月21日以後の取調べでは、個々の訊問に覚えはあるのですが、月日の記憶がはっきりしませんので、21日から24日の間にあった早瀬警部補の訊問と、その訊問に対して考え、話を作り、答えた経過を一括して書いて行きます。

(1) 富田刑事の立会になってからは、玉村さんの家に行く話や、家の中の様子を何度も訊かれたのですが、その訊問の中で特別に印象に残っているのは、次のような訊問などでした。

「 首を絞めた時に何が喉に当てたろ。」

と言われたのですが、「 何か 」では判りようがありませんので、「 覚えていません。」と答えていると、

「 判んねえが、良く考えてみろ。」

と言ってた早瀬警部補が、

「 杉山が口の中に入れた物と同じ物を当てたんじゃないが。」

と言ったのでした。

 しかし、その時は、杉山が玉村さんの口の中に入れた話の品物が何であるか判っておりませんでしたし、それ以上の誘導もありませんでしたから、「 興奮してたので良く覚えてませんが、何か布切れを当てました。」という話で調書が作られたのです。

 ところが、23日に強盗殺人罪の逮捕状を示された時に、「 口腔に木綿のパンツを押し込んだ。」とあったことで、その首に当てられてあった物も木綿のパンツであることが判り、新たな調書に、「 木綿のパンツを首に当てた。」と記載されたのでした。

 この点については、更に

「 なんでパンツで首を絞めながった。」

とも訊かれ、当ててあったものなら回らなかったものでもあろう、と考えて、「 回そうと思ったが、回らなかったのです。」という話を作ったこともありました。

(2) このパンツの話をしている時に、富田巡査が

「 お前が玉村さんの首を絞めた時に、汗をボタボタかいた、と杉山が言ってたぞ。」

と言ったことがありましたが、それを聞いて、やっぱり杉山は犯人だなあ、リアリティーにあふれた話だな、と思ったことがありました。

(3) 「 象天さんの死体に何が掛けながったが。」

と訊かれ、話を作るのが面倒だ、と思った私は、「 私は掛けた覚えがありません。」と答えたこともありました。しかし、その答えでは満足しなかった早瀬警部補は、何度も考えるように、と言って、

「 杉山が2人で掛けた、と言ってるのとどっちが正しいんだ。」

と言ったのでした。それで、いつ迄も同じことを訊かれるのは面倒だ、と思って、布団でも掛けてあったのだろうから認めて話を作ろう、と考え「 実は、首を絞めた後に布団を掛けました。」という話に作ったのでした。そして、特に印象に残っているのは、

「 その布団はどんな柄だった。」

という訊問です。私は、この時、布団の柄は、田舎の方では格子柄が一般的だから、玉村さんの家もそうだったのではなかろうか、と考えて、「 格子柄だったと思います。」と答え、順序は逆かも知れませんが、

「 どんな色だった。」

と訊かれたので、玉村さんは年寄りだし、派手な色ではないだろうから、茶色あたりではないだろうか、と考えて、「 茶色だったと思います。」と答えたのでした。すると、早瀬警部補は、何の反問もしないで

「 そうか。」

と言って、私の言った通りに調書に記載したのです。

 私は、果たして合っているのだろうか、と思っていたのですが、11月3日に布団を見せられると、私が、何の誘導もなしに、当推量で言った通りの色と柄だったものですから、あれ、あの時に答えた通りの物だ、勘が良かったな、と思ったことがあるのです。このような事実があったものですから、布団の色と柄に付いての訊問は、明確な記憶となって残っているのです。

 この死体に布団を掛けた話の他にも、毛布を掛けた話、死体を持上げる話なども調書になっているようですが、それらの訊問が、いつ、どのように行われたものだったかは、記憶にありません。

(4) 8畳間にあったという机を物色した話を作らされたのが、何日の、どんな調べだったのかは判然としないのですが、机の物色で記憶にある早瀬警部補の訊問は、

「 大きな抽斗
(ひきだし)から何か引張り出したろ。」

と言われたことでした。何か、と言われても判りませんので、「 判りません、覚えてません。」と答えておりますと、

「 2つ折りになる奴で、四角い物を張り出した筈だな。」

とも言われ、2つ折りで四角い奴、という物が何であるか、と考えましたが、どうしても判りませんでした。私の感覚で10分程考え、「 さあ、判りませんでしたね。」などと答えておりますと、

「 杉山が盗って来たのと同じ物があったろ。」

と言ったのでした。それで、杉山が盗った話は財布だから、2つ折りで四角いのは札入れだろう、と判り、「 四角い札入れだった。」と答えることが出来たのですが、更に

「 その財布を持った感じは、普通だったか、それともデコボコした感じだったか。」

とも訊かれました。訊く以上は普通ではないのだろう、と思って、「 そういえばデコボコした感じでした。」と答えると、早瀬警部補の方から

「 それは、何か彫ったような感じじゃながったが。」

と言いましたので、その儘
(まま)認めて、「 そうです。」と答えたのでした。

 この財布の色に付いては、私が、早瀬警部補の訊問に勝手に、「 黒だったかな。」「 青だったかな。」と答えていって、何度か答えた時に、「 茶色だったかな。」と正解が言えたもので、早瀬警部補の誘導はなかったと思います。

 この点に付いては、更に

「 机から財布を取出した時に、何がおっことしたろ。」

と訊かれました。訊くということは、何かが落ちてたのだな、と判りましたが、何であるかが判りませんから、「 確かに、何か落としたと思いますが、何だったか判りませんでした。」と答えると、すぐに、早瀬警部補が、

「 財布の中がらおっこったろ。」

と言ったのです。それで、財布の中から落ちるのでは、バラ銭でもあったのだろうか、と考え、「 バラ銭だったかな。」と、正解を答えることができたのでした。

(5) 8畳間にあったというロッカーについても、

「 鍵を使って開けたんじゃねえが。」

と言われたのでした。この時迄は、鍵に付いて訊かれませんで、ロッカーも、2つ重ねの1つだけを探して6万円盗った、という話に作ってあったのですが、鍵を使ったろ、と訊くということは、そのような痕跡があることが判りました。しかし、話を作るのが大変だ、と思ってましたから、「 もし、鍵が使ってあるなら、それは最初からなっていたものです。私は使いません。」という話にすると、その点では、それ以上の訊問はありませんで

「 その鍵はどんなものだった。」

という点で訊かれたのでした。その鍵の数や形状に関する訊問などは、明確な記憶にありません。

 このロッカーの鍵の点では、後日、更に訊問されて、調書の訂正が行われたのですが、その時の取調べは次のようなものでした。

「 杉山が、桜井が玉村さんのポケットから鍵を取った、と言っているんだが、どうなんだ。」

と言われ、私は、杉山は私が犯人でないことが判っているのに、なぜ、自分の責任で話さないのだろうか、と腹を立てたのですが、もしかすると、杉山の共犯者のしたことは全部私がしたように言ってるのかな、とも思い、杉山がいつ迄も共犯の名前を言わないのは面白くないし、そんな杉山の言う通りに話を合わせることないから、勝手に話を作ってやれ、と考えて、「 本当は、机の中にあった鍵で、ロッカーを開けたのです。」という話に作ったのでした。

 このような話を作ると、更に、早瀬警部補は訊問を重ねて来ましたが、その詳細は忘れました。

 このように、ロッカーの話は3段階で作られたのですが、21日過ぎのロッカーに関した訊問で、特に記憶に残るのは、

「 ロッカーを開けて金を探した時に、したに何がおっことしたろ。」

と訊かれたことでした。勿論、それが何であるかなど判る筈がありませんでしたが、早瀬警部補も、特別に誘導などしてくれませんでしたので、訊問された日には、答えることが出来ませんでした。

 ところが、10月25日に検事調べに行った時に、有元検事に図面を見せられまして、畳の上に手紙などが散乱していることが判ったのでした。検事調べの後に、この手紙のことが調書にされたかどうかは記憶がないのですが、有元検事に図面を見せられた時に、早瀬がロッカーから何か落としたろ、と言ったのは手紙なんだな、と判ったのでした。

(6) 「 杉山が、お前に金を分けた、と言ってるんだが、貰ったんじゃねえが。」

とも言われました。勿論、金を貰ったことにすると、大幅に話を作り替えなければならない、と思ったものですから、「 貰ってないですよ。」と答えたのですが、この時の早瀬警部補の訊問は、
どうしても認めさせる、という強い調子があり、何度も、

「 どうせ、同じなんだがら、話してみたらどうだ。」

と言うので、
面倒くさいから、話を合わして、早く調べを終えて、杉山に会えるようにしよう、と思い「 実は、貰いました。」という話にしたのでした。

 すると、早瀬警部補は

「 どこで分けて貰った。」

と言うので、車寿司の上の土手で杉山が財布を見せたという話だから、それから、少し歩いた栄橋の手前の土手で貰ったとしよう、話が合わなければ、また、直せばいいだろう、と考えて、「 栄橋の手前の土手の上で貰ったのです。」と答えますと、更に

「 いくら貰ったんだ。」

と言われました。それで、杉山がどんな話をしているか知らないが、話が違えば反問してくるだろうから、その時は、訊問に合わせて答えればいいだろう、と考えて、「 3万円です。」と、杉山の盗った金は10万円位になっているのだから、その中の適当な金額を言ってやれ、と思って答えますと、早瀬警部補は、

「 本当に間違いないが。」

と、何度か言いましたが、「 本当です。」と答えると、それ以上の訊問はしないで、それらを調書にしたのでした。

 ところが、杉山から3万円を貰った、という話を作ったために、自分が盗ったことになってた6万円と合わせると、9万円になってしまい、8月29日以後には、そんな大金を持っていなかった実際の話に合わなくなって、自分が盗った、という金額を訂正させられることになったのでした。

 しかし、この金額の訂正に際しては、どんな訊問があって、どのように考えて7千円としたものであったかの記憶が、全く無くて、ただ、漠然と、杉山から金を貰った話にしたので話が合わなくなって金額を訂正させられたのだった、という記憶しかありませんのです。

(7) これらの他に、玉村さんの家への往復に付いて、早瀬警部補から、

「 最初に行った時は、舗装道路か。」

「 その帰りは、ドブ川沿いか。」

と何度か念を押されたことがありました。その時に私が考えたことは、杉山と話が違ってるのだろうか、ということでしたが、
何度も訊かれるのは面倒だから合わせてしまえ、と思って、「 杉山の話しに合わせてもいいですよ。」と言ったのです。

 すると、早瀬警部補は、

「 いやそれじゃ駄目だ、俺の方は本当の話を聞かせて貰いたいんだがら、お前の覚えている通りに話してくれ。」

「 本当はどうなんだ。」

と言うので、話を合わせる必要がないのなら、わざわざ話を作るために考えることもないだろう、と思って、「 私が言った通りで間違いないです。」と答えると、それ以上の訊問はありませんでした。

 早瀬警部補の訊問は、どうしても訊問に合う答をさせる、という強いものと、自主的な答をさせる、という弱いものがありまして、その弱い調子の訊問箇所は、私も、無理に訊かないのならば、頭を使って話を合わせるような面倒なことをすることないだろう、と考えて話の訂正をしなかったのですが、結果として、強い訊問の箇所は、「 故意に隠した。」と、訂正の調書が作られ、弱い訊問の箇所は、話の食違いとして残されたということなのです。

(8) 以上が、月日が明確でない10月21日から24日迄の取調内容ですが、1日だけ明確に覚えている取調月日があります。

 10月23日の午後の取調べの時に

「 我孫子駅で杉山と会ったところから話してくれ。」

と言われ、その日迄に作ってあった話の通りに、「 ベンチに座ってると杉山が来た。」と言うと

「 そこで会ったのと違うだろ。」

と言われたのです。それで、これは杉山の話と違うので訂正するのかな、と思って、それでは栄橋で会ったとでもしよう、とだけ考えて、「 実は、1人で汽車に乗って布佐に着いた。」と答えると、

「 我孫子で、列車の表と中になって杉山と話したろ。」

と言われました。私は、そう言われてすぐに、早瀬警部補の言うのは、8月31日( 前記19頁の(5) )にあったことを言ってる、と判りましたので、「 それは8月31日のことですよ。」と言ったのですが、

「 いや、ちゃんと見たと言う人がいるんだから間違いないんだ。」

と私の言うことを相手にしないので、どうせ8月31日のことだと判ってることだから、見たと言う人の勘違いが必ず判る筈だから認めてやれ、あとで真実が判った時には、この勘違いも警察の不当さを思い知らせる1つの証しになるだろう、と思って、「 汽車に乗ってると杉山が来たので呼び止めて話をした。」と、8月31日の話を、その儘に話したのでした。

 そして、布佐駅に着き、布川に行った話になると、今度は

「 栄橋の石段のところで何があったろ。」

と言われたのです。そう言われても、早瀬警部補の言ってることが何を示しているのかが判らなくて、暫
(しばら)く、考えさせられると、いつだったか、栄橋の布佐側石段で誰かに冷やかされ、怒鳴り返したことがあった( 前記22頁の(5) )、と思い出したので、「 石段を駆け上がった時に怒鳴ったことですか。」と聞くと、早瀬警部補は、そうだとも違うとも言わないで、

「 そのことを話してみろ。」

と言いました。言われる儘に話しましたが、杉山の木村重雄に対する恐喝や佐藤治などの記憶から、9月1日の出来事であることが簡単に判りましたので、「 でも、この話は9月1日ですよ。」と言うと、

「 それはお前の勘違いだ。」

と言うのです。私も、杉山の恐喝や佐藤治のむことなどを説明して、何度も「 9月1日です。」と言ったのですが、早瀬警部補も富田巡査も

「 3人が8月28日だ、と言ってんだがら、間違いない。」

「 お前1人が言うことよりも、3人の言うことの方が正しいだろ。」

などと言うので、この青山達に会った日が9月1日であることは確実だし、どうせ自白の全部が嘘なのだから、9月1日のことを8月28日としておけば、その分だけ、私が犯人でないと判る際の力にもなるだろう、と思って、「 石段を駆け上がった時に冷やかされたので、その人に向かって怒鳴った。」と、9月1日の話をその儘に話したのでした。

(9) また、10月23日には、取手警察署の後藤刑事課長に、強盗殺人罪での逮捕状を執行されたのでした。

 留置場に後藤警部が入って来まして、最初に取調べられた接見室と標示された部屋に連れて行かれ、逮捕状を読み聞かせられましたが、その時に

「 否認もできるんだぞ。」

と言われました。私は、杉山と会えれば無実が判るさ、と思いながら、「 否認はしません。」と言って、署名押印させられたと思うのですが、署名の点がはっきりしません。あるいは、その時に、

「 弁護士を頼めるが、頼まなければ、国の方で付けてくれるけど、どうする。」

と言われ、金が無いから頼めない、ということで、弁護人に関した書類に署名押印したものかもしれません。

(13) 10月25日の取調べ

(1) 時間は、明確でありませんが、午前中に1度だけ看守仮眠室に上げられ、早瀬警部補に

「 今日は、土浦の検事さんのところに行くから、素直に話してくるようにな。」

と言われました。その時には、調べがなくて、暫
(しばら)く雑談をしただけでした。

(2) 昼食後、取手署のジープで検察庁に向いましたが、取手署を出発する時になって、早瀬警部補が

「 藤代町のキンセンセーター会社に、セーターを買いに行くので乗せて行ってや。」

と言い、国道6号線傍
(そば)のキンセンセーター会社前迄乗って行ったことがありました。

 土浦の検察庁に着きますと、前庭のところに黒の乗用車が止まっていて、中に取手署の茂垣巡査部長や杉山がおりましたが、私や取手署の中村巡査部長、諸岡巡査(当日の看守勤務)達を乗せたジープは裏庭に入ったのでした。

(3) 杉山が初めに調べられ、その間、私は待合室におりましたが、私の調べが始まったのは、大分遅くなった頃でした。

 その調べでは、何をどのように調べられたり、訊問されたものだったかは、記憶にないのですが、その調べの途中に、現場図面を見せられて訊問されたこと、また、有元検事が

「 こんな物は警察で見せられたか。」

と言って、机の中から取り出したとされた財布、犯人が壊したらしい便所の窓の桟
(さん)2本を見せたことがありました。

 「 便所の窓の桟(さん)では、早瀬が何も言わないのはなぜだろう 」、と考えたり、現場図面を見せられては、「 現場ってのは、想像以上乱雑だったんだな 」、「 早瀬が、『 ロッカーから何が落としたろ 』と訊いたのは、図面にある手紙なのだろう 」、「 ガラス戸が倒れたようになっているのに、早瀬が訊問しないのはなぜだろうか 」などと考えたことがありました。

 そして、時間がなくなって調べが終わる時に、検事が

「 君の方は、まだ良く話してないところが多いようだから、早く話すように。」

と言ったので、「 杉山は犯人なのだから良く話せるのは当たり前じゃないか 」と思ったことがありました。

(4) 取手署に帰ったのは、午後7時前後だったと思いますが、帰ってからは調べがなくて、当日の看守勤務であり、杉山も知ってるという諸岡巡査と、

「 杉山君も元気だった。」

などと話したことがありました。

(14) 10月26日の取調べ

(1) 午前9時頃から始められた調べでは、初めに、前日の検事調べのことを

「 ちゃんと話して来たが。」

と言われたり、早瀬警部補が、前日藤代町のキンセンセーター会社で買ったというセーターを着ていたことで、

「 このセーターも普通の店で買ったら大変だ。」

などと、暫
(しばら)く雑談をしましたが、それが終わると、早瀬警部補が

「 実は、28日は野方のアパートに泊まっていると、お前の兄さんが言ってるけど、どうなんだ。」

と言い出したのでした。

 私は、アリバイを訊かれた時に、兄のアパートに泊まったかも知れない、と言ったら、兄のアパートに泊まったのは違う、とあれだけ言っていたのに何を言ってるんだ、と思ったので、「 今更何を言ってるんですか、兄のアパートは調べてあって違う、と言ったじゃないですか。柏の旅館も、裏付け捜査で間違いない、と言ったじゃないですか。」と言うと、早瀬警部補は、

「 お前の兄さんが勘違いしていたんだから、仕方ないじゃないか。」

と答えるので、自分の兄が勘違いしていたのでは文句も言えない、と思いましたし、どこに泊まったとしても、総ての話が嘘に変わりがないのだからどうでもいいや、と思って、「 実際は、兄のアパートに泊まった。」と認めました。

 そして、早瀬警部補の訊問に応えて、尤もらしく、「 布佐から我孫子、日暮里、高田の馬場駅を経て、野方の兄のアパートに行ったのです。」という話を作ると、今度は、

「 なぜ、今迄兄さんのアパートに泊まったことを隠していたんだ。」

と言いました。

 隠すも何も全部が嘘の話だ、と思いましたが、犯人を装うのを余儀なくされているのですから、その真実は言えませんので、「 早瀬さんが泊まっていない、と言ったからじゃないですか。」と言ったのですが、最後には、

「 そりゃ、お前も兄さんに心配や迷惑を掛けまいと思ったんだろうけどな。」

などと、見当違いのことを言う早瀬警部補の言葉に合わせて、「 兄貴に迷惑を掛けまいと思って嘘を言ったのです。」ということにしたのでした。

(2) 兄のアパートに泊まったと話が訂正された他は、この日にどんな調べがあったのか、調書が何時頃に作られ、何時頃に調べが終わったのかも忘れましたが、8月28日は兄のアパートに泊まった、という話にされると、段々とアリバイが思い出されて来たのでした。

 私が、8月28日の記憶を失念した原因は、早瀬警部補に

「 兄さんは泊まっていないと言ってる。」

と言われたこともありましたが、他にも、日を接して非常に似た体験をしたために記憶を混同したことにあったのでした。

 その記憶の混同に付いては、一審時に提出の上申書にも記載した通りでありますが、8月28日と混同した日(8月21日頃)の行動というものは、次のようなものでした。

「(1) 午後7時前に、当時交際していた服部淑子さんと新宿駅で待合わせました。

 (2) 高田の馬場駅で降り、散歩している時に、駅傍の旅館に入りました。

 (3) 1時間程で旅館を出てから、服部さんを池袋駅迄送って行き、野方に帰りました。

 (4) 兄のアパートに帰ると、杉山が1人でおりまして、近くの食堂から出前を頼んで、2人で食べました。

 (5) 2人で布団に横になっていると、当時、兄のアパートに同棲しておりました女性(田村まずるさん)が、バーじゅん、で働いていて倒れた、といって帰って来ました。

 (6) その晩は、田村さんが苦しんでいて、私達も余り眠れなかったのでした。」

 右のような体験がありましたので、高田の馬場駅のことになりますと、服部さんと初めて旅館に入った記憶につながり、杉山と兄のアパートにいた、という記憶では、田村まずる(通称マサコ)さんが倒れてアパートに帰って来て、大騒ぎになったという記憶につながってしまい、8月28日の記憶が喚起できなかったのでした。

 8月28日には、隣のアパートでの缶詰の窃盗という、特異な行動こそありましたが、私自身に盗みという犯罪に対する罪の意識の欠落もあり、缶詰1個のものでしたし、おまけに、酩酊した状態での行動でしたから、それ程強い印象には残らなかったのだと思います。

(3) これらの記憶の混同が解けて、8月28日の大ざっぱな行動(前記13頁の(10)以下)の記憶が判然としたのは、10月26日の夜に、房の中で考えた結果でした。

(15) 10月27日の取調べ

(1) この日の取調べは明確な記憶がなくて、あるいは、今から書く調べも26日のことだったかも知れませんが、何れにしても、兄のアパートに泊まった、と話の作り替えが行われた後に、

「 お前が裏の便所から出たそうじゃないか。」

と言われて、その話が作られることになったのでした。

 私は、杉山は、なぜ犯人でない私に判らないことを言わせるような話をするのだろうか、という腹立たしい思いで「 そんな覚えはないですよ。」と答えましたが、早瀬警部補と富田巡査は、口を揃(そろ)えて

「 首を絞めたことを話しているんだがら、こんなことは隠す必要ないだろ。」

と言い、どうしても、便所から出た話をさせる、という意志の感じる訊問でもありましたから、どうせ杉山に会う迄の犯人だから話を合わせてやれ、と考えて、「 実は、便所から出ました。」という話にしました。すると、

「 なんで、便所から出ることになったのか、詳しく話してみろ。」

と言われたのだと思いました。

 これは、書き忘れましたが、便所から出た話を作らされる前に、

「 逃げ出す時に、やばい、やばいの他に杉山は何も言わながったのが。」

「 殺しちゃって、どうしようとが、言わなかったのが。」

などと言われて、尤もらしく答えてやれと思い、「 何とがしなくちゃ。」と言ったという話に作ったのですが、

「 何とが、とはどういうことだと思った。」

などとも訊かれ、逃げ出す時の話の作り替えが行われてあったのです。

 それで、便所から出る話をつなげるために、「 杉山が何とかしなくちゃ、と言ったので、後から誰かが入ったようにするから、と答えて便所に行った。」という話に作ると、早瀬警部補が

「 便所に入る右側に何が積んでながったが。」

と言ったのです。勿論
(もちろん)、何か、では判る筈がありませんでしたが、大工殺しの報道を考えて、「 大工道具だったがな。」と答えると、

「 違うだろ。」

と言われました。私は考え付く儘
(まま)に、「 本だったかな。」と答えましたが、なかなか正解が判らず、

「 幾つかに纏
(まと)めて縛(しば)った奴があったろ。」

「 きちっとは積んでないだろ、デコボコしてたの判んながったが。」

と、種々な訊問をされ、今は何が切っ掛けだったか忘れましたが、かなり長い時間の訊問後に、それが古新聞であることが判ったのでした。それで、便所に入った話になり、早瀬警部補の

「 便器はどっち向いてた。」

「 桟
(さん)をどんなふうに外した。」

「 どんなふうに窓から出た。」

などという訊問に応えて、話を作った訳なのですが、1つだけ、記憶に混乱があります。

 それは、初めは漠然と「 便所に入って窓から出た。」と答えたのであって、桟(さん)のことは判っていなかったようにも思えますので、10月25日に有元検事に桟(さん)を見せられた時は、それが便所の桟(さん)であるとは判らなかったのかも知れない、ということです。

 便所の窓から出た話の後は、「 勝手口迄、靴下で行って、靴を履(は)いた。」という話にすると、

「 石台の上には、他に履物
(はきもの)があったが。」

と訊
(き)かれ、私が先に家を出た話になっているんだから、杉山は家の中にいたような話でないと、新たに作り替えることになるから大変だ、と思って「 家の中に声を掛けても返事がなかったが、石台の上にセッタがあった。」と話を作り、あとは、「 声を掛けたから逃げようと思って玄関前に来た時、大きな音がした。」という、既に作ってあった話につなげて話したのでした。

 これらの調べの他にも、便所から出た話の点で、

「 靴は、杉山に便所の外に回して貰ったんじゃねえが。」

ということや、他の点で

「 8畳間のガラス戸を2人で外したんじゃねえが。」

「 金を貰った場所は間違いないが、金額も大丈夫が。」

とも訊かれたのですが、何れも、「 話に間違いありません。」と否定すると、早瀬警部補も、それ以上に、訊問しませんでしたので、その点での訂正は行われませんでした。

 ただ、金を貰った話の点で、兄のアパートに泊まった、と話を作り替えたために、旅館代の目的で、柏駅で別れる時に千円を貰った、と作ってあった話が不自然になって、作り替えたのですが、その金が無くなると、車券代金の話を作り替えなければならなくなるので、その千円は、杉山に貰った3万円の中に混じってたものだった、という話に作り替えたのでした。

(2) このような調べの間にも、私は、いつアリバイを言い出そうか、と考えておりましたが、その時迄、余りにも犯人を装い過ぎていたために、その切っ掛けを掴(つか)めずに、調べが終わる迄、言い出すことが出来なかったのです。

 この日は、特別早く、午後7時過ぎに取調べが終ったのですが、看守勤務員が留置場に戻り、早瀬警部補と富田巡査が出て行くと、入れ代わりに、取手署刑事課の藤沢巡査が、房内に布団を入れる立会人として来ました。

 この藤沢巡査は、9月6日頃に、私の家に聞込みに来て会ったのですが、とても感じの良い人だったので、この人なら話し易い、と思って、「 藤沢さん、実はアリバイを思い出したのです。」と話したのです。藤沢巡査は、少しの間、私のアリバイ(前記13頁の(10)以下)を聞いておりましたが、かなり慌てて留置場を出て行ったのでした。

(3) 藤沢巡査が出て行って、1,2分すると、再び早瀬警部補と富田巡査が留置場に入って来たのです。早瀬警部補が

「 ちょっと出してみてくれ。」

と看守員に言い、また、仮眠室に3人になると、興奮した調子で

「 アリバイを思い出したってのは、どういうことなんだ。」

と言いました。私が言われる儘に、思い出した通りのアリバイを話しますと、早瀬警部補は、

「 今迄の話はどうなるんだ。」

などと言うだけで、話を真剣に聞いてくれなかったのです。それで、私が、「 本当ですから、大学ノートに書いて調べて下さい。」と、何度も頼んだのですが、30分程した後に、私の言うアリバイを渋々と大学ノートに書いた早瀬警部補が、

「 お前がそんなに言うなら調べてやるが、もし、お前の言うアリバイが無かったら、今迄のことを認めろ。」

と言って、調べが終ったのでした。

(4) 房内に戻って寝てからも、アリバイを思い出して調べて貰うのだから、これで犯人でないことが判って貰える、と思って安心するとともに、嬉しくて良く眠れませんでした。

(16) 10月28日の取調べ

(1) 朝9時頃から調べが始まって、看守仮眠室に3人が揃(そろ)いますと、早々に、

「 お前の言ったことは全部調べてみたが、嘘だったよ。」

と言うのです。私は、その早瀬警部補の言葉を聞いて、
いくら警察でも、前夜7時過ぎに言ったことを、そんなに早く調べられる筈がない、と思いました。

 そして、これは調書が余りにも細かく出来上がったので、犯人でないと判ると調書作成の責任が出てくるので、この儘(まま)犯人にするつもりで調べてくれないのだ、と思ったのです。

 そう思った私は、警察は調べてくれなくても、検事ならば公正に調べてくれるだろう、と思い、「 検事さんに会わして下さい。」と頼んだのですが、早瀬警部補は、

「 会わしてやるが、それには完全に調べが終わらなくちゃ駄目だ。」

などと言うだけで、

「 俺もお前が犯人じゃない方がいいと思ったんだがな。本当のことを話せや。」

と、全く相手にしてくれませんでした。

 私は、そのアリバイを調べてくれる気のないらしい早瀬警部補の態度を見ているうちに、犯人にするつもりの警察に下手にアリバイを言ってると、そのアリバイを握りつぶされたり、判らなくされてしまうのではないか、と心配になったのです。

 それで、思い出したアリバイの記憶に自信があった私は、アリバイさえ調べて貰えれば無実は判るのだし、警察にいる間に下手にアリバイを主張して握りつぶされでもしたら大変だから、警察にいる間は犯人と装って、1日も早く検事に会えるようにして、アリバイを調べて貰えるようにしよう、と考えて、アリバイを撤回して、再び、犯人である、と嘘の自白をしたのでした。

このアリバイの主張をし、再び、認めた時に、杉山も犯人でないぞ、と思ったかどうかの記憶はありませんが、杉山と会えば犯人が判る、と思った記憶もなくて、ただ、アリバイを判らなくされたら大変だから、1日も早く検事に調べて貰えるようにしよう、とだけ考えて、アリバイの主張を撤回したと記憶しております。

(2) アリバイを撤回してからは、早瀬警部補の訊問も、杉山との話でそごのあるらしい点に付いて、率直になりましたが、私も、2度、3度と訊かれることは、何でも認めて行きました。

 まず、初めに訊かれたことは、

「 アリバイとして言ったのは、いつの日のことなんだ。」

ということで、私は、1番簡単に「 8月17、8日の頃のことだ。」という話に作りました。

(3) 「 便所を出る時に靴を回して貰ったんじゃねえが。」

と、何度も訊くので、言われる儘に認めたのでしたが、

「 靴を回して貰うようになった時のことを話せ。」

と言われて、最初に考えたことは、どのような話を作ったら良いか、ということでした。

 それで、杉山がガラス戸を外したことになっているのだから、便所の桟を外している時に音がしたので、部屋を見たら杉山が来た、という話にすれば当然だろう、と思い、「 便所の桟を外している時に部屋の方でガラスの割れるような音がしたので、便所から顔を出すと、杉山が便所の方に来た。」という話に作り、更に、早瀬警部補の訊問に答えて、「 杉山が靴、回そうか、と言ったので、回してくれと頼んで、再び便所の桟を壊した。」という話にしたのでした。

「 それからどうした。」

などという訊問には、「 桟を壊している時に、杉山が便所の外に来て靴を置いて行った。」という話も作りました。

「 靴はどっち向いて置いてあった。」

とも訊かれ、今ではどのように答えたかは忘れましたが、その方向を答えました。そして、勝手口に来た話のところでは、既に作ってあった話のとおりに、「 勝手口の戸を開けて声を掛けた。」と話しますと、

「 石台の上に履き物があったか。」

と訊かれました。私は、この時に初めて、玉村さんの履き物があったのではないだろうか、と考えまして、「 ありました。」と答えると、

「 それは、ちゃんと揃
(そろ)ってたか。」

と訊くので、玉村さんの上がった後から犯人達が上がったのだろうから、揃っている筈はないだろう、と思い、「 ばらばらになってました。」と答えましたが、更に、

「 台の上には幾つあった。」

とも訊くので、これは、石台の上には片方の履き物しか乗っていなかったのではないだろうか、と思い、「 台の上には片方しかなくて、片方は下に落ちていた気がする。」と答えました。

「 なぜ、声を掛けたんだ。」

とも訊かれましたが、私自身が窃盗をした時の体験で、一度現場から離れると見つかるのでは、という恐さが生まれ、すぐに現場に戻れなくなる、という気持を経験してましたので、杉山が靴を持って家の外に出た話になってるのに、家の中に入った、という話では不自然だろう、と思いました。

 それに、早瀬警部補の訊問で、なぜ、声を掛けたか、と訊くのでは、杉山の話が先に逃げ出したことになってるのだろう、と思ったので、台の上にあった履き物が杉山の物かと思ったので声を掛けたとでもしよう、と考えて、「 履き物があったので、家の中にいるのかと思って声を掛けた。」という話に作りました。

 その後の話は、大幅に話の作り替えをしなくて済むように、「 ドブ川のところで待ってた杉山と車寿司の辺り迄駆けて行った。」と話を作ってつなげたのですが、杉山が先に家を出た話になったために、玄関前で音を聞いた話が矛盾したので、「 それは便所の中で聞いたものだった。」と訂正させられたのでした。

(4) この頃に、2回目だったかの8月29日、取手競輪場での車券購入金額を訊かれたのですが、この時は、私の実際の行動では、8月29日以後にほとんど所持金がなかった、という事実に合わせるために、全額車券代に使ったことにされ、ボールペンと紙を与えられて、計算させられたのです。

 そして、その計算がぴったり合った内容が、8月29日の車券使用金等として調書に記載されました。

(5) 正確な期日は忘れましたが、やはり、この頃の取調べが終わる時に、早瀬警部補から、

「 向うは若い人が調べて早く終ってるのに、俺の方が遅く迄掛ったんでは、俺のメンツがないんだよ。お前も言いづらいだろうが、隠してるところがあったら、話してくれや。」

と言われたことがありました。その時は、富田巡査が看守勤務員を呼ぶために部屋を出た時で、仮眠室に2人きりになった時でした。

(17) 10月29日から11月3日迄の取調べ

 10月29日頃からの取調内容に付いては、そのほとんどに期日の記憶がありませんので、早瀬警部補の訊問と、取調状況だけを、10月29日以後の取調べとして一括して書きます。

(1) 杉山が便所の外に靴を持って行った話の点で、

「 お前の方から、靴を持って来てくれ、と頼んだんだろ。」

と言われ、言われる儘
(まま)に話を作り替えたことがありました。また、ガラス障子も2人で外したような話にされたのですが、どんな訊問で話が作られたものであったか、全く記憶がありません。

(2) 「 杉山は成田線の中で金を渡したと言うんだが、どっちが正しいんだ。」

とも訊かれましたが、この時の訊問の調子は強いもので、杉山の話に合わせる、という意志が感じられましたから、言われる儘
(まま)に、「 実は成田線の中でした。」と話を合わせました。すると、

「 どこで貰
(もら)った。」

と訊くので、私は、成田線の中だと言うのなら、布佐駅と我孫子駅の中間辺
(あた)りの湖北駅辺(あた)りと言ったら尤(もっと)もらしいんじゃないか、話が違えば直せばいいんだ、と思って、「 湖北駅の辺りで貰(もら)った。」と答えますと、その点では、それ以上訊かれず、一発で話が合ったのです。

 金を貰(もら)った場所が合うと、

「 貰
(もら)った金額が違うだろ。」

という旨の訊問があったと思うのですが、どういう訊問で4万1千円となり、その札の種類が合わせられたのかは記憶がないのです。

 今、私が覚えているのは、言われる話にばかり合わせられるのは面白くないから、尤(もっと)もらしく話を作ってやれ、と考えて「 分けて貰った千円札の束の1つに11枚あった。」という話を作ったのだった、ということだけです。

(3) 杉山が盗って来たという話の財布に付いては、

「 財布はお前が盗って来たんじゃないか。」

と言われました。この点では、それ迄にも、

「 杉山が財布を見せたのは本当が。」

と何度か言われたのですが、別に強い訊問でもありませんでしたから、「 本当です。」と答えていたのでした。

 しかし、余りに何度も訊くので、別に強い訊問だった訳でもありませんでしたが、何度も訊かれるのは面倒だから、早瀬が納得するような話に変えよう、と思って、「 本当は私が盗って来たものです。」という話に作り替え、それ迄山が行なったと作ってあった話を私がしたような話にしたのでした。

(4) 話の訂正があると、そのたびに、

「 何で今迄黙ってたんだ。」

「 2人で約束があったんじゃねえが。」

と言われ、話の訂正の理由が作られて行ったのですが、その訊問に、「 兄のアパートで約束がありました。」と、尤
(もっと)もらしく答えると、富田巡査が、

「 そうだろうな、なげればおかしいだよ。」

と言ったことがありました。また、

「 細かなことを言わながったのは、裁判でひっくりかえそうと思ったんだろ。」

「 杉山と食違った話をしていれば、裁判でも無罪になると思ってたんじゃねえが。」

などと言われ、早瀬警部補の言う通りに認めて調書がつくられました。

(5) 11月2日には、2度目の嘘の自白の録音が、1度目と同じ形で行われました。

(6) (11月)3日は、犯行現場にあった証拠物を見せられて調書が作られましたが、その時の訊問内容で覚えていることは、次のようなことでした。

 玉村さんの着ていた衣類を見せられた時に、

「 開襟シャツは、お前が言った通りに襟が付いてるんだな。」

と言い、その訂正をしたと思うのですが、同時に見せられた衣類が、薄茶色に変色し、臭いので、殺された人が着てた物なんて気味悪い、と思って、「 嫌な臭いですね。」と言うと、早瀬警部補は、その言葉を捕
(と)らえて調書に、「 その時被疑者はウンヌン 」と書いたこともありました。

 更に、8畳間のロッカーを鍵で開けた、と作ってあった話( 何日の調べの時に、鍵を使って開けたとされたのかは忘れました )のところで、富田巡査が封筒に入った鍵束を出すと、その鍵束を指しながら、早瀬警部補が、

「 どの鍵で開けたのが、その鍵を言ってみろ。」

と言いました。勿論、どんな鍵だったのかなど判る筈
(はず)がありませんが、富田巡査が手にした鍵を見ると、それには、1つ、1つの鍵に、縦2p、横1p程の名札が付けられていて、「 タンス 」「 玄関 」「 金庫 」「 上のロッカー 」「 下のロッカー 」と書かれていたのです。

 今では、上、下、どっちのロッカーに鍵を入れたという話だったのかは忘れましたが、その名札を見て答えると、富田巡査が、

「 これ見ちゃ駄目だぞ。」

と言ったことがあります。私が答えると、早瀬警部補は、鍵束を手に取って、

「 これが、この××××番という奴が。」

と、自分で言いながら、その早瀬自身の言ったことを私が言ったように調書に記載したのでした。

(7) これらの調書作成が終わると、早瀬警部補が、

「 今日で俺の調べは終っけども、これがら、検事さんのとこに行っても、素直に話すんだぞ。明日から富田さんが窃盗の方を調べっから、良く話してくれ。」

というようなことを言って、最初の調べが終ったのでした。

(18) 11月4日から7日迄の取調べ

 (11月)4日からの調べは、取手署の薗部巡査の立会で、留置場前の接見室と標示された部屋で行われました。

 早瀬警部補に言った通りに、進んで話しましたが、自白した何件かは、

「 被害がない、って言うんだから、いいや。」

と、放置されました。

 この富田巡査の調書作りが、何日で終ったのかは記憶がありません。

(19) 11月8日から31日迄の取調べ

(1) 11月8日の午後、取手警察署から土浦拘置所に移管になりました。

(2) 拘置所に入り、所持品検査や経歴などの訊問が行われた後に、処遇上のためでしょうか、渋沢係長の前に呼ばれて、

「 罪名は窃盗と強盗殺人だったな。」

と言われましたので、
「 私は犯人ではないんです。」と答えますと、

「 そのことは俺の方には関係ないから、検事さんに話してくれ。」

と言われたことがありました。

 渋沢係長の訊問が終った後に舎房の方に連れて行かれ、一舎の六房に入れられたのでした。

(3) 翌9日の朝の運動時間に、一舎の収容者全員( 17人程 )で庭に出ると、同年7月頃の竜ヶ崎市の祭りに起こった、暴力団同士の喧嘩( 尚、この事件に杉山が関係していたことは、前記17頁の(4)に記載 )による兇器準備集合罪で拘置されていた竜ヶ崎市の旧松葉会系暴力団員で、杉山の知人が2人いて、

「 利根の殺しだな、新聞に出ていたぞ。」

と言われたので、
「 本当は犯人ではないんだけど、警察のデッチ上げで犯人にされたんだ。刑事の話では、杉山が犯人らしいんだ。」というような話をしました。

 15分程の運動時間が終って、舎房に戻ってからも、どうして犯人にされたのか、ということなども話したことがありました。

(4) 拘置所に入って2度目の運動の時に、杉山の知人の中の1人( 原審証人横田清 )から、

「 杉山がやったのか聞いてやろうか。」

と言われ、私も、この頃はアリバイの中で杉山と会っているのを明確に思い出しておりましたので、杉山が犯人かどうかも半信半疑だったものですから、はっきりしたことを知りたい、と思って、「 聞いてくれ。」と頼んだことがありました。

 そして、月日は覚えておりませんが、拘置所に入って最初の検事調べがあった前後に、

「 杉山もやってないということだぞ。」

と、横田から知らされたのでした。

(5) (11月)12日頃に、土浦検察庁に呼ばれて、有元検事に調べられましたので、「 私は犯人ではありません、アリバイがあります。」と、アリバイを主張しました。

 有元検事は、最初、苦笑を浮かべておりまして、信じてくれなかったようですが、その当時に思い出していたアリバイを全部話しますと、かなり真剣な様子で、

「 なぜ、今迄アリバイを黙っていたのか。」

と訊きましたので、警察でアリバイを撤回した時の事情に付いて、
「 アリバイを話したのですが、警察の人が全く調べてくれないので、アリバイを消されたら困ると思って、警察にいる間は黙ってたのです。」と、その理由を話しました。

 しかし、この時に調書が作られたかどうかの点では、全く記憶にありません。

 調べに行ったのは午後でしたが、調べが終ったのは夕方近くで、拘置所の舎房に帰ってから、横田達に、「 検事にアリバイを全部話して、調べて貰えることになったので、もう大丈夫だ。」と言ったことがありました。

(6) 11月13日の午後4時前後に、土浦裁判所に窃盗の起訴状を貰いに行きましたが、杉山は森作刑務官、私は菊地刑務官に連れられて、別々に行き、裁判所の室内で会いました。

(7) (11月)15日頃、大相撲の放送があった時に、有元検事が拘置所に調べに来まして、午後5時頃から7時迄調べがありました。その時も、アリバイの内容に付いて訊かれましたが、その調べが終わる時に、

「 今度はヤケを起こさずに真実だけを言うようにしなさい。」

と言われましたので、やっと真実が判って貰えた、と思ったことがありました。その調べが始まる時に、

「 君は拘置所に入る早々にやっていないと言ったらしいね。」

と言われたこともありました。

(8) 拘置所で調べがあった後は、一度、帳面に書いてた日記を取りに来ただけで調べがありませんでしたが、私は、アリバイを検事さんに話したんだから、無関係であることが判るだろう、と安心して過ごしておりました。

 すると、12月1日の午前10時過ぎ頃になって、突然、取手警察署に戻ることを知らされ、房内の検査をされました。

(20) 12月1日から13日頃迄の取調べ

(1) 房内の検査が終わり、荷物を纏(まと)めて事務室に行くと、取手警察署の長田巡査部長と富田巡査が待っていて、再び、警察に戻されたのでした。

 前回と同じ留置場の房に入れられ、昼食を食べて休んでおりますと、早瀬警部補と富田巡査が留置場に入って来まして、早瀬警部補による看守仮眠室での2度目の取調べが始められたのでした。

(2) 最初に早瀬警部補は、

「 元気が、窃盗で確認できたものがあったがら来て貰ったんだ。」

と言いましたので、強殺事件で無理な自白を求められる取調べがあるのか、と思っていた私は、窃盗の調べだったのか、思い、富田巡査の窃盗の調べの時に、

「 被害がない、というからいいや。」

と放置された( 昭和43年1月10日起訴の )窃盗に付いての訊問に対して、改めての自白を致しますと、富田巡査が、

「 なんでも、そこに置いておいちゃいけない金だったので認めながったらしいよ。」

と言ったことがありました。その調べが簡単に終わると、もう1つ観に覚えのない窃盗に付いて訊かれましたが、

「 認めても構わないけど、それはやってないですよ。」

と答えると、早瀬警部補は、

「 無理に認めることないが、この被害を確認するのに、沖縄迄飛行機で行って来たんだ。」

と言って、一頻
(ひとしき)りその話をしました。

(3) その話が終わると、

「 桜井からの手紙を受け取った。」

と言いながら、背広の内ポケットから手紙(
参照:『 拝啓 早瀬警部補殿 』 )を出した早瀬警部補は、

「 検事様のところで気が変ったのはどうしてなんだ。」

と言って来たのです。私は、検事にアリバイを話したのだから、早瀬警部補に話すことはない、と思って、「 そのことでは、もう早瀬さんに話すことはありませんよ。」と答えますと、

「 お前の言うことなど、検事様は信じてないよ。桜井の気持ちが変わったのを直せるのは早瀬さんしかいないから、どうして気持が変ったのかを良く見てくれ、って検事様に頼まれて身柄を貰って来たんだから、どうして気持が変ったんだが話してみろ。」

と言うのです。

 検事にアリバイを話したのに、なぜ犯人でないことが判らないのだろうか、と思った私は、有元検事は、ヤケを起こさないで真実だけを言え、などと言ってながら、早瀬警部補に調べを再開させてるのだから、検事も一緒になって私を犯人に作り上げる心算なのではないか、と考えては腹を立てましたが、何れにしても検事にアリバイを話したのだから、同じことで早瀬警部補に何度も調べられることはない筈だし、嘘は言わされまい、と思って

「 何も言うことはないですから、調べはやめて下さい。」とだけ答えていると、

「 お前が紙に書いたものを杉山に渡して否認したことも、調べて判ってるんだよ、なんでやってねえ、なんて言ったのが話してみろ。」

と言われました。拘置所で杉山に会ったのは、11月13日に裁判所に行った時だけでしたし、紙に書いて渡した、などという覚えもありませんでしたから、「 そんなことしませんよ。やってないがらやってないと言っただけですよ。」と答えると、

「 竜ヶ崎の松葉会の横田も、桜井に頼まれて杉山に渡した、と言ってるよ。」

と言い、

「 もう杉山も、土浦署でお前から手紙を貰って否認したことも話してるんだよ。」

と言うのです。

 土浦拘置所を出る時に押印させられた領置金簿に、杉山の名前と押印があったので、杉山も警察に戻されたらしい、と判ってたものの、土浦警察署であることは早瀬警部補の言葉で判ったのですが、横田清に杉山が犯人かどうかは聞いて貰ったことがあっても、手紙など頼んだ覚えもないので、

「 横田には、杉山が犯人なのかどうかを聞いて貰ったことはありますが、手紙なんか頼んだことないですよ。」と説明すると、早瀬警部補は私の言うことを全く信用しないで、

「 横田が手紙を渡したと、杉山が貰ったと言ってるんだから、お前1人が頑張っても仕方ないだろ。」

と言い、

「 否認した理由を話せ。」

と、自白を迫って来たのでした。

 私は、その時、杉山の犯行の有無を聞くために、横田が紙に書いて渡してた、ということを知りませんでしたから、なぜ、横田や杉山が手紙の存在を認めるのかが理解できませんでしたが、横田に関しては、これは警察と暴力団との馴合(なれあ)いで、横田自身が杉山に聞いてやる、と言った事実を、手紙を頼まれて渡した、という話に作り上げて、不利な材料にする心算だろう、と考え、杉山は、やっぱり犯人なのではないだろうか、野方の兄のアパートで杉山に会っているのは、事件の起こった時間が間違ってるか、特別早く東京に帰ってくる何かの行動があったのではないか、と思ったのでした。

 この12月1日の取調べも、夜の11時過ぎ間であり、私は、嘘の自白はさせられまい、と思って、早瀬警部補の自白を求める調べに、「 やってないからやってないと言ってるだけですよ。」と答えておりましたが、調べは、「 そんなに遅く迄調べていいんですか。」と言うと、やっと終わりになったのでした。

(4) 12月2日以後も、3日、4日、5日と、連日の取調べで

「 お前1人が否認していても、杉山が認めているんだから駄目だ。この儘じゃ、お前1人が悪者になるぞ。」

「 俺はお前のためを思って言ってやってるんだ、一度認めた調書があるんだがら、否認していても犯人になるんだぞ。」

「 どうせ、犯人だと判ってるんだがら、素直に話してみろ、なんで、やってねえなんて言ったんだ。」

と言われたのでした。

 この取調べ月日ですが、2審公判の早瀬証言調書などによれば、12月4日付の再自白調書があるようですが、当日の私は、暦の月日に対する観念が欠落しておりましたので、私の記憶が絶対に正確なものだとは断言できません。

 ただ、私の明確な記憶の中に、再度嘘の自白をする前日の調べの最後の時に、

「 前には、3日目に話してくれだがら、今度もすぐには話せまいが、それでもこの前と同じ位で話してくれるだろうと思ってだが、今日でもう5日過ぎちゃった。」

と、早瀬警部補が、言ったという覚えがあるのです。ですから、その記憶の、「 今日でもう5日 」という言葉で、再度の嘘の自白は12月6日だったな、と覚えているのですが、それが私の勘違いで、「 今日で3日過ぎた 」と言ったのであったのならば、再度の嘘の自白も12月4日が正しいということになります。

(5) 私は、12月1日以後の早瀬警部補の訊問に対して、嘘は言わされまい、と思っておりましたが、連日の調べで、

「 この儘
(まま)でも犯人になるんだ。」

と言われ続けているうちに、
検事にアリバイを話したのに満足に調べて貰えなかったようだし、この儘(まま)果てし無く調べが続いたのでは、アリバイも本当に判らない儘(まま)で犯人にされてしまうのではないか、と思うと、それがとっても恐ろしくなりました。

 法律に全く無知であり、自分は窃盗を犯しているのだから何日間でも限りなく調べられる、と思った恐怖は、1日中、留置場の中の看守仮眠室での調べを思うと、その時の私には、とても大きく、重く感じたのです。

 また、土浦刑務所にいた11月下旬に、11月13日起訴の窃盗に付き公判期日の通知があった筈(はず)なのに、警察で関係のない強殺事件の調べばかり続いたのでは、自分の罪の決着の付けようがない、と思うと、どのような方法が自分の無実を1日も早く証(あか)すことができるか、ということが、大きな考えとなって来たのでした。

 そして、その時に私が考えた自分の無実を1日も早く証(あか)す方法というのは、次のようなものだったのです。

 警察の人は私を犯人と思っているようだし、1度嘘の自白をさせているのだから、再度嘘の自白を得る迄は何日間でも調べが続くに違いないが、そんな調べには耐えられないし、そんなに調べが続いたのでは、判るアリバイも判らなくなってしまうので困る。

 嘘の自白調書は確かに詳細に作られたが、その調書も10月15日以後の毎日の訊問で、1日、1日詳細にされたものだから、事の真実を判断する裁判官ならば、調書がどのような経過で作られたものであるかは、その全調書を見て貰えれば容易に判るだろうし、真実を話せば判ってくれる筈(はず)だ。

 裁判所で真実が判って貰えるなら、一時、早瀬警部補の言う通りに認めて、1日も早く裁判で真実を言えるようにして、無実を証明して貰うよりない、と考えた私は、12月6日の午後の調べの時に、3度目の嘘の自白をしたのでした。

(6) その調書は、有元検事にアリバイを主張した理由などを訊かれ、総て早瀬警部補の言う通りに認めた調書が作られたのですが、具体的にどのような理由が付けられたのかは、ほとんど記憶がないのです。

 ただ、再度の嘘の自白の調書ができた後に、

「 手紙は横田が勝手に書いて渡したらしいや、お前が書いたんじゃないと判ったよ。」

と、早瀬警部補が言ったので、これは、初めから判ってたのに私に嘘の自白をさせるために嘘を言ったな、横田が勝手に渡したのならば、やっぱり杉山は犯人じゃない、と思ったことを良く覚えております。

 検事に否認した尤(もっと)もらしい理由の書かれた調書が、何通か作られ、12月10日頃迄は、看守仮眠室での調べが続き、連日早瀬警部補から

「 もう、変な気持は起こさないで、誰に調べられても素直に話すようにしろ。」

などと言われておりました。

(21) 12月13日頃から12月末迄の取調べ

(1) 12月10日後、早瀬警部補の取調べが2、3日なく、13日頃の午後になって検事調べが始まったのでした。

 取手署の後藤刑事課長が留置場に入って来て、

「 検事さんが調べに来たから。」

と言うので、有元検事が来たのか、と思い、留置場を出て廊下を挟んだ接見室と標示された部屋に入ると、見知らぬ2人の人がおりました。

 私が鉄格子の窓を背に、検事が入口のドアを背にして大きな机に相対して座り、入口の右の小机に事務官らしい人が座ると、相対して座った人が、いきなり机を拳で叩いて

「 この事実を認めるのか、認めないのか。」

と言いました。

 私は、検事が調べに来たと知らされて、検事の公正な取調べなら真実を判って貰うために本当のことだけを答えなければならないだろう、と考えて調べ室に入ったのですが、その強圧的な言動で、今度の検事は早瀬警部補と同じで犯人に作り上げるための取調べなのか、と思い、悔しさと情け無さで涙が出ました。

 しかし、検事なら真実を話せば判ってくれるのではないか、という気持が捨てられず、「 私は、本当に犯人じゃないのです。」と答えました。

 はっきりした記憶ではありませんが、私が犯人でないと答えると、暫(しばら)く、私の顔を見てた検事が、

「 水戸地検から来た吉田です。隣の人は村山事務官です。」

と名乗ったのだと思いました。

 吉田検事は、最初に

「 今まで犯人でないことを主張したことがありますか。」

と訊きましたので、「 警察でも、土浦の有元検事にも話したことがあります。」と答えると、私が、アリバイがあると言ったことに対して、

「 君のアリバイというものを話してみなさい。」

と言うので、8月28日夕方( 前記13頁の(10)以下 )からのアリバイに当る行動を話して行ったのです。

 吉田検事は、私の言うアリバイに対して、時々訊問を重ねては、そのアリバイを用紙みたいなものに書いておりましたが、それが終わると、

「 なぜ、自白したのですか。」

と訊きました。私は、アリバイを失念したこと、そして、早瀬警部補の取調べ状況など( 前記27頁の(2)から39頁の(6)迄 )を簡単に話しましたが、

「 どうして調書ができたのか。」

とも訊くので、現場図面を使った連日の調べ( 前記43頁の(7)、以下 )を話しました。

 これらの他には、どのような訊問があったか記憶にありませんが、この日の取調べが終わる時に、吉田検事は、

「 もう1度、君の言うことを調べてみる。」

と言って、帰ったのでした。

(2) 最初の検事調べから2日程経った霙(みぞれ)が降った日の午後、今度は取手区検の方に呼ばれて調べられたのでした。

 茂垣巡査部長のハイゼットで、取手警察署から車で1分程の取手区検に行きましたが、会議室のようなところでの調べでは、初めに

「 アリバイを調べたが、君の言うことは真実として出て来ないのだ。」

と言われ、

「 他に真実があるとしか思えない。」

と言われたのでした。

 私は、吉田検事も早瀬と同じで、真実を言えなんて言いながら結局犯人と認めろと言ってるんじゃないか、と思いましたが、真実を言えと言う以上、嘘の自白をする訳にいかない、と思って、「 アリバイは本当です、犯人ではないんです。」と、何度も言ったのですが、吉田検事は、

「 君が盗みに入ったという窓は、とても渡れない程の距離があるんだ。私は家が東京なので、見てきたんだよ。」

「 君の兄さんも見せに来たのを、はっきり覚えていないといってるんだ。」

「 高田の馬場の養老の滝でも君のことがはっきりしない。」

「 どうもおかしい、他に真実があるのではないか。」

と言って、暗に自白を迫って来ました。

 アリバイを話したのですから、それ以上に真実を訴える方法もなく、私は「 アリバイだけが真実です、犯人ではないのですから信じて下さい。」と何度も訴えました。

 しかし、その訴えに対して、

「 真実というものは、たとえ裏付けがなくても、人の心を打つ響きがあるものだ。でも君の言う言葉にはそれがない。」

と言われますと、主観的な判断だ、とは思っても、心を打つ響きなどという言葉には反論のしようもなく、吉田検事の自白を促す言葉を一方的に聞かされるような調べが続いたのでした。

 この取手区検での調べは、区検建物の真中廊下左側の部屋、廊下突き当りの部屋、右側の宿直室と思える畳の部屋と続いた部屋、と3ヶ所調べられたのですが、それが、1日で調べられたものか、2日で調べられたものかは記憶がありません。

(3) 取手区検での調べの後は、また、2日程調べがありませんでした。私は、1日中留置場に入れられていて、逮捕されてから2ヶ月を過ぎても、あるものは調べばかりだし、窃盗の裁判が決まった筈なのにうやむやになって、この先はいつ迄調べが続いて、どうなるのだろうか、という不安な気持ちで過ごしておりますと、12月17日頃になって、吉田検事が警察署の方に来たのでした。

 留置場前の接見室での、再度の調べでは、この時は初めから

「 君の言うような誘導尋問や、見取図を使った調べを警察の人がする筈がない。」

「 君が使ったとされたロッカーの鍵は、名札が付いていたのでロッカーの鍵と判ったと君は言うが、そんなことはあり得ない。」

「 あのような詳細な調書は、とても犯人でなくては作れないだろうと思う。」

「 君は、28日夜の記憶だけは忘れて、嘘の自白をさせられたと言うが、28日の夜だけ忘れるなんて嘘としか思えない。」

「 たとえ裁判になっても、君の言うこと位では裁判官も信じないだろう。」

「 この儘(まま)否認していたのでは救われないだろう。」

と言って、はっきり自白を迫って来ました。

 私は、アリバイを主張するごとに、2度と嘘は言わされまい、と思うのです。そのたびに、何とか真実を判って貰おう、と考えて、真実だけを主張しよう、と思うのです。しかし、生来の意志の弱さもあり、1度作られた調書を盾に

「 犯人でなくてはできない、本当のことを話しなさい。」

「 犯人としか思えない、真実を話しなさい。」

と、繰り返して犯人と認めるように言われる調べが続くと、誘導でも何でも、1度詳細に調書が作られてある以上、検事さんの言うようにこの儘
(まま)犯人にされてしまうのではないか、という不安な気持ちになり、窃盗を犯しているから限りなく調べが続けられる、という恐怖感と相俟(あいま)って、その不安な気持と恐怖の心から逃避しようという気持が生まれ、その気持が嘘の自白の原因になったのでした。

私は、当時、検察官というものは真実だけを追究するものであり、真実を言いさえすれば判ってくれるのだ、と信頼して真実を訴えました。その検事から

「 君の言うことぐらいでは、裁判官も信じない。」

「 否認していたのでは救われない。」

と言われますと、その言葉の持つ意味が恐ろしくなったのです。裁判官も信じない、否認していては救われない、という立場に迄陥
(おとしい)れられてしまった自分はどうすれば良いのか、と考えると、嘘は言えない、だけど救われないのではどうなるのか、という思いで頭が混乱して考えられなくなったのです。

 それで、午後8時頃になって、

「 調べを今日はやめてくれませんか。」


と、吉田検事に頼みますと、

「 明日になれば心の整理ができるのか、本当のことが話して貰えるのか。」


と訊くので、自分がどうすれば良いのかを考えてみよう、と思って、「 良く考えてみます。」と答えますと、吉田検事は納得したようで

「 それでは、明日を楽しみにしているから。」


と言って、その日の調べが終ったのでした。

(4) その晩、房内で、自分はどうすれば良いのか、と考えた結果、私と杉山が犯人にされた最大の原因は、私が、早瀬警部補の嘘に騙されて嘘の自白をしたことにあるのだ、と思いました。

 そして、一度認めてしまい、誘導であったにせよ詳細に作られた調書がある上に、その調書の誘導が判って貰えないで、裁判官も信じない、救われないというのでは、真実と判らないアリバイを言ってもどうにもならない、ここ迄陥(おとしい)れられたのでは、真実を言い続けて、検事の言うように救われない、というのが死刑につながってはたまらないから、認めるしかない、という考えになったのでした。

 この時は、早瀬警部補に嘘の自白を重ねさせられた時と違って、裁判になったら真実を言って判って貰おうなどという気持は全くなくて、ただ、もうどうにもならない、という気持で、再び、嘘の自白をする気持になったのです。

(5) 翌、12月18日頃の調べでは、早瀬警部補に対する嘘の自白の時と同じように、「 アリバイは1週間程前の日の体験でした。」とアリバイが嘘である尤(もっとも)もらしい理由を話した後、嘘の自白をして検事調書が作られたのですが、その内容は、早瀬警部補に言わされた通りに話したのでした。

 その中で、検事の反問に対して、尤(もっとも)もらしく話を作り替えたところもあった筈なのですが、どんな話をどのように作り替えたものであったかは、ほとんど記憶がありませんので、その原因は、一審以来、嘘の自白が作られた早瀬警部補の取調べばかりを考えて、その早瀬作成自白を繰り返したに過ぎない吉田検事の取調べは、重大ではないと思って、その経過を余り考えなかったからでした。

 ただ、吉田検事の調書作成時の訊問で、ロッカーの鍵に付いて訊かれ、改めて話が作らされた経過は覚えております。

「 鍵束の沢山ある中から、1回や2回差し込んだだけで、合う鍵が見つかった、というのは、不自然だ。」


という趣旨の訊問があったので、初めは、「 形や色など見て、勘で入れたら簡単に開いたのです。」と答えたのですが、それでも納得しないで、同じような訊問が何度か続きました。

 それで、どんな切っ掛けだったかは忘れましたが、清掃会社で働いていた時に使ったり、見たりした経験で、普通のロッカーの鍵には、鍵本体と鍵穴に番号が刻印してあるものであることを知ってましたから、そのことを、「 ロッカーには、鍵と鍵穴に番号が刻んであるんですよね。」と言ったことがあるのです。

 その時は、そのことに対して何も言わなかったのですが、1日か、2日過ぎた時の調べの時になって、

「 現場に行って見てきたんだが、ロッカーの鍵は、番号を確かめて差し込んだのではないか、鍵の穴には番号が刻まれてたよ。」


と、吉田検事がいったのです。それで、どうせ犯人にされるのだから、
少しでも検事の納得するような話にして、救って貰うしかないだろう、などという考えもあって、言われる儘(まま)に、「 鍵は番号を確かめてから差し込んだ。」という話に作り替えたのでした。

 吉田検事の調べは、12月21日頃で終ったと思います。

(6) 検事調べが終わると、今度は、早瀬警部補と深沢巡査が、水戸市から取手署に通って来て、私を看守仮眠室に入れ、

「 もう、変な機を起こすんじゃねえぞ。」


などと言うという、調べとも雑談とも付かない毎日が続いたのでした。

 この調べとも付かない日は、強盗殺人罪で起訴になる前日の12月27日迄続いたのですが、早瀬警部補に

「 裁判になっても本当のことを話すんだぞ。」


などと言われるたびに、裁判では嘘の自白をする訳にはいかない、と思うようになり、「 真実は話しますよ。」と答えておりました。

 また、この頃になると、私が取手署に拘置されてから初めての逮捕者が留置され( それ迄は、「 お前がいる間は1人も入れないようにしている 」と、早瀬警部補が言ってました )、その留置人、相川昌司( 同名で印象に残りました )、根本某ら計4名に、早瀬警部補が買った菓子などを別け与えたこともありました。

(7) 12月28日の午前中に、後藤刑事から、土浦裁判所に行くことを知らされ、富田巡査、根津巡査( 利根町中田切管轄の駐在員で当日の看守勤務 )などに、取手署のライトバン型の車で護送されて行きました。

 裁判所に着き、正面玄関脇の庭で1時間程、車の内にいてから、花岡裁判官の前に連れて行かれたのでした。

 私は、吉田検事の調べに対して、アリバイを訴え、真実を主張してもどうにもならない、という気持になり、嘘の自白をしましたが、身に覚えのない犯罪の自白を強いられる苦痛と、その取調訊問から受ける恐怖感が無くなった、その後のヒビの考えでは、裁判になれば嘘を言う訳にはいかないし、やっぱり、裁判官ならば、真実を述べさえすれば無実を判ってくれるのではないか、と思うようになっておりました。

 しかし、法律的なことに全く無知であった私は、裁判というものは、弁護士、検事が同席し、映画やテレビで見たように行われるものであって、起訴状を貰う時の訊問が裁判の一種だとは知りませんでした。

 それなものですから、警察に拘留されている間に真実を訴えても、そうすれば、また嘘の自白を認める迄調べが続けられるだけだから、警察にいる間は何を訴えても仕方ない、裁判になって真実を訴えればいい、と思って花岡裁判官の訊問に対しては、

「 私がやりました。」


と認めたのです。

 その訊問が終った後も、玄関脇に止められた車の中で1時間程待たされ、裁判所職員の大掃除を見ていると、書記官と思われる人が、接見禁止決定書、と弁護人選任に関する書類を持って来ました。

 その書類に書いたり、押印したりした後、取手署に帰ったのは、午後4時頃だったと思いました。

(8) 起訴後は、当然、土浦拘置所に移されると思っていたのに、その後も続いて取手警察署に拘置され、昭和43年2月15日の初公判を迎えまして、当日は後藤刑事課長らに護送されて行きましたが、降雪の影響で裁判所に着いた時間は、午後1時10分頃でした。

 そして、その公判では、裁判では嘘を言う訳にはいかないし、真実を話せば無実が判って貰える筈だ、と思って、真実を主張したのです。

 以上が、警察、検察官の取調状況であり、私が、その調べに嘘の自白を余儀なくされて、自白調書が嘘の話を基にして作られた経過であります。勿論、私の勘違いで内容が前後している点や、内容に脱落もある筈ですが、その取調内容には間違いありません。

 ただ、残念なことには、この事実を明確に裏付ける証拠がありません。勿論、明確に否定する証拠なども存在する筈がありませんので、あるものは、取調官である早瀬警部補の不当な取調べの事実を否定した証言だけなのであります。

 しかし、二審判決もいうように「 犯行を直接に立証するものは被告人の供述以外にない 」、本件にあっては、自白調書の不正を立証する裏付けがあれば、本件は根底から覆(くつがえ)るのですから、私達を犯人と妄信し、証拠立てんとする警察、検察の提出する証拠の中に、その裏付けのないことは当然であり、また、早瀬警部補が不法、不当な調べを否定することも、当然過ぎる程当然であって、早瀬証言が、その儘(まま)自白調書の正否を決する裏付け、証拠となるものでないことは、殊更(ことさら)申し上げる迄もないことであろう、と思います。

 自白調書が唯一の証拠である本件にあっては、相対する当事者( 私達と取調官 )の異なる主張を公正、公平に比較判断することこそ、その真実を求め得る唯一の手段でありましょうが、私達の主張に明確な裏付けを求められない以上、早瀬警部補ら取調官の証言こそが、真実を量る唯一の証拠、資料となるものです。が、その早瀬証言は、私達の主張する取調べを裏付ける証拠にはなっても、正当な取調べを裏付ける証拠になるものではないのです。

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