[資料8−1 被告人の上告趣意書  No.1 - 4

  昭和49年(あ)第1067号          被 告 人  桜  井   昌  司

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改めました。さらに、読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、この上告趣意書は非常に長文な為、5分割してあります。


. 各目撃証人の証言の誤り

(1) 二審判決は、各目撃を称する証人に対して

「 青山敏恵、伊藤迪稔、角田七郎、海老原昇平、高橋敏雄の各証言は、目撃月日の違うものを、取調官の誘導等によって、8月28日であるごとく勘違いして(或いはさせられて)述べたものであり、渡辺昭一の証言は、全く信憑性のないもので偽証である。」

と述べた弁護人の主張に対し、

「(青山、伊藤、角田各証人の証言に対する)原判決中の結論に至る経過に誤りは認められず、所論主張のように取調官の誘導に基因する誤った内容のものであるとの疑も存しない(4丁11行以下)。(海老原、高橋両証人の証言も)その年月日の記憶の正確性について、特に疑をさしはさむべきものはない(7丁12行以下)。前記証人は、その各供述内容から判断して、その多くが当該本人から直接あるいは間接に申出のない限り、取調官には判明する筈のない証人達であるから、たとえこのような申出による捜査官の質問が時に執拗
(しつよう)にわたることがあったとしても、直ちに、その供述を、頭から誘導に基づく信用度の極めて弱いものとして排斥し去るわけにはいかない(54丁12行以下)。また、渡辺証人の供述が単なる勘違いだけでなく、記憶に基づかない作出した証言であるとの所論も、その根拠を見出しがたく、これを容認するわけにはいかない(38丁1行以下)。」

と述べ、各目撃証人の勘違い証言を、嘘の自白の結果である調書を補強する証拠として採用しておりますが、この判決は、二審裁判官が、利根町等の住民であった各証人の、当時置かれていた立場の把握が十分でなかったことに起因する間違えた判断なのであります。

 それらの証言は、渡辺昭一証人の偽証を除くと、あくまでも月日を勘違いしただけの事実の体験を述べた証言であるために、その証言の中から明確に誤りを指摘するのが困難な状況にありますが、以下、私の指摘できる範囲で、その証言の誤りと各証人が勘違いをした原因と思われるものに付いて、二審判決文に添って書いてまいります。

 先ず、同一の場所での目撃を言う青山、伊藤、角田証人の証言でありますが、石井弁護人提出の控訴趣意書中、3、4、5項にありますように、青山証人と伊藤及び角田証人の証言の間には、重大な食違いがあって、到底、同一の体験を述べた証言といえるものではないのです。

 青山証人の証言は、

「 8月28日、午後7時5分布佐駅で列車を降り、独りで栄橋に向う石段に来た時、2、3段上を桜井昌司が登って行き、上の方から急いで降りて来た2人の男に触れたようで、桜井は2人の方を振り向いて馬鹿野郎と言った。」

というものであって、これに対した伊藤、角田証人の証言は、それぞれ

「 8月28日かどうかはっきりしないが、午後6時47分発の成田行き列車で、角田と一緒に布佐駅降りて、栄橋の石段を登って行くと、後方から左側を抜いて駈け上がって行った男があり、角田が、あれ
リキあるな、と言ったところ、その男は振り向いて何か言った。」

「 杉山卓男が大宮に行った日の午後6時47分我孫子駅発の列車に乗って伊藤と布佐駅降り、途中、杉山、青山も一緒になり、栄橋の石段を上がりきったところで、男が下から駈け上がって来たので、脚力あるな、と言うと、男は振り向いて、何だ、と言った。」

というものなのであります。

 この3人の証言の間には、それぞれ、微妙な違いがあり、特に、青山証人と伊藤、角田両証人の間の証言の違いには、著しいものがありますが、人間の記憶力などというものは、特に印象的な体験につながるものである場合を除き、それほど正確なものではないようでありますから、記憶力の個人差などもあって、同一の体験を語る何人かの言葉の間に多少の違いが生じるのは、当然なことだと思います。

 しかしながら、その証言の食違いが許される範囲には、自ずから限度がある筈でありまして、無制限に許されるものではない、と思うのであります。

 伊藤証人と角田証人の証言の間にある相違は、僅(わず)かのものでありまして

「 男が左側を駈け上がった時、角田が声を掛けた。」

という点での「 石段の途中 」か、「 石段を上がりきる手前 」か、「 あれ
リキあるな 」と言ったのか、「 脚力あるな 」と言ったものなのか、という程度の違いであり、当然、許されるべき範囲の実質的には違いのない証言といえると思いますが、青山証人の証言となると、

「 石段の先を登って行った桜井が、上から降りて来た2人の男に触れ、2人の男に振り向いて、馬鹿野郎、と言った。」

というものであって、その証言内容は、伊藤、角田証人の証言内容と全く違うものであり、僅
(わず)かに「 振り向いた 」とする点で一致するだけのものでありますから、到底、記憶力の個人差による相違とは言えないものであります。

(1) この青山証言に付いて、論告は、

「 他の証人と多少違う証言をしているが、被告人桜井が振り向いたとする点は一致しており、同証人に記憶違いがあったものということができる。」( 3511丁裏4行以下 )

と述べ、男が振り向いた、とする一点を根拠に、記憶違いによる証言の相違と主張しているのでありますが、その誤りを述べた石井弁護人の弁論に対する二審判決は、

「 たとい細目において多少の食違いはあるにせよ(当審の検証により明らかにされた栄橋の布佐寄りたもと付近の暗さもその一因と考えられるが)、全然日を異にする出来事について述べたものであるとの所論主張は、これを容認することができない。」( 4丁裏6行以下 )

と述べ、青山証人と伊藤、角田証人の食違いを「細目」の名のもとに同一の体験と認定しているのであります。しかしながら、この判決というものは正しくないのであります。

 証言の信憑性の基準となるものは、証言の真実性を示す物証がない場合は証言自体の合理性か、と思いますが、

「 先を登って行った桜井が、降りて来た2人の男に触れて、振り向いて怒鳴った。」

「 左脇を駈け上がった桜井に、角田が声を掛けたら、振り向いて何か言った。」

という2つの証言を同一のものとする判断は、男が振り向いても、先に登って行った男が降りて来た2人の男に触れたのか、駈け上がった男に角田が声を掛けたものか、という全く違った経過を述べたものだけに

「 振り向いたとする点で一致する。」

の一点のみで合理化するのは無理な、誤りなのではないか、と考えます。

 その矛盾について、判決は

「 栄橋の布佐寄り袂付近の暗さも一因 」

と合理化しているのですが、二審での検証調書をご覧戴いてもお判りのように、この栄橋に至る石段というものは、1メートル幅程の極めて狭いものでありまして、3証人が(連れとしてではなくとも)一緒に歩いていたものであるならば、青山証人が、伊藤、角田証言の

「 左脇を駈け上がった男 」

を見るに障害はないのですし、伊藤、角田証人は青山証言の

「 急いで石段を降りて来た2人の男 」

を目撃していなければ(擦れ違うのですから)おかしいのであります。それに、青山証人は、

「 何だか判らないが、桜井が振り向いた。」

と証言するのではなくて、

「 石段の上の方から、凄く急いで降りて来た2人の男に触れたようで、振り向いて怒鳴った。」

と伊藤、角田証人よりも、寧
(むし)ろ細かな状況を証言しているのですから、たとえ暗かったとしても、「 左脇を駈け上がった男 」を、「 先を登って行く男が、降りて来た2人の男に触れた 」などと錯誤して考えるのは、無理なのであります。

 なぜならば、伊藤、角田証言にありますように、この事実は、角田証人が

「 脚力あるな 」

と、声を掛けたことによって、私が振り向いて返答したものですが、その青山証言が、この同じ体験を述べたものならば、

「 角田も一緒であったと思う。」

と言う青山証人が、角田証人の声を聞くのに暗さは何ら障害にならないのですから、

「 石段の暗さも証言の食違いの一因 」

とした判決は、誤りなのです。

 伊藤証人は、角田証人の声を聞いているのですから、そして、角田証人と同一の証言をしているのですから、同じ条件下にあった青山証人のみが、相違のある証言をするということは、その証言は、他の日と混同している(論告のいう、青山証人に記憶違いがあった)と考えるべきであろうか、と思います。

 注目すべきは、その証言の相違は、青山証人と伊藤、角田証人の間にだけ存在し、伊藤証人と角田証人の間にはほとんどないということなのですが、目撃事実に混乱があり、事実に対して正確性のない証言をする青山証人が、その目撃事実を

「 8月28日のことであった。」

と明言しても、その月日の点でも混乱がないとは言えない筈なのでありまして、その月日を証言の儘
(まま)に認定するのも、正しくないのであります。

(2) それでは、伊藤、角田証人の証言する事実は、何月何日であったのか、といいますと、昭和42年9月1日のこと(前記22頁の(5))なのであります。つまり、伊藤、角田(そして青山証人も)の証人達は、9月1日のことを8月28日であるごとく勘違いした(或いはさせられた)ものなのでありますが、その点で、一審公判において、私達に会った日が9月1日であるように思い出した伊藤、角田証人の証言による弁護人の弁論に対する二審判決は、

「 伊藤、角田両証人は、反対尋問に遭
(あ)うや、その日は9月1日であるかも知れぬ如き趣旨の、被告人杉山の主張に副(そ)うような供述をしたりして、公判においては、その日についての記憶が定かでないようにも受取れるので、原審は、右両名の検察官に対する各供述調書に、右の日が8月28日である旨の各記載のあるのを採用し、青山の証言内容と併(あわ)せて判断しているのであって、右の結論に至る経過に誤りは認められない。」( 4丁3行以下 )

と述べております。

 この判決は、伊藤、角田証人の

「 会ったのは9月1日 」

と述べた証言を失念に結び付けて、青山証言で補強し、検事調書を8月28日である根拠にしているのでありますが、この判断は、法律的に正しく、遺漏
(いろう)ないものでありましても、事実の上にあるものではないのです。

 各目撃を称する証人が、その事実を8月28日と勘違いした(或いはさせられた)と思われる理由に付きましては、後記させて戴きますが、ここでは、裁判官各位に、法律を日常の生活の中に意識しない社会一般の人は、警察の聞込に際して言った(そして、言わされた)ことはその儘(まま)、同じように検事に語られるものであって、警察調書も検事調書も区別ないものであること、警察によって行われた一方的な誘導などの聞込みの結果は、その儘(まま)、検事調書にもなるのだということの現実に対して、ご理解戴けますようにお願い致します。

 伊藤、角田証人ともが、法廷でも

「 杉山に会った。利根川堤防石段で桜井に会った。」

という目撃事実に対しては、明確に証言していることがお判り戴けるでしょうが、青山証人の証言と違って、事実に対して明確、正確な証言をする両証人の

「 会ったのは9月1日であった。」

という言葉は、その月日に関して正しいものなのです。伊藤、角田証人が、法廷での尋問で記憶を喚起させて証言したものなのでありますから、捜査陣の尋問のみの結果である警察、検察調書よりも

「 杉山の恐喝、大宮へ行った日に会った。」

と答えた証言は、信憑性
(しんぴょうせい)があるのではないだろうか、と考えるのですが、警察、検察調書の言葉よりも、宣誓の上で裁判官の前で述べた言葉の方が、信憑性(しんぴょうせい)があるものと信じる私の考えは、間違いでありましょうか。

 たとえ、その日が9月1日であると判って戴けなくても、伊藤、角田証人は、事実に対しては正確な証言をしていても、月日の点では不正確な証言をしていることはお判り戴けるかと思いますが、事実に対しては正確、明確に証言している伊藤、角田証人の月日の点での不明確さを、目撃事実さえも混乱した証言をする青山証人の

「 8月28日だった。」

とする言葉で補強する判決は、正しいものではないと思います。

 青山、伊藤、角田3証人の証言に付きましては、ひとまず措くとしまして、次に、海老原、高橋証人の証言に対する二審判決を見れば、

「 海老原昇平の供述は、同人の出務表も証拠として提出されていて、特にその日付についての供述が疑わしいと思われるものはなく、さらに高橋敏雄のいうところも、それは8月28日に間違いなく、31日ではないとの趣旨であって、その年月日の記憶の正確性について、特に疑をさしはさむべきものはない。」( 7丁1行以下 )

と述べ、その証言を全面的に認めているのですが、この判決も正しくないのです。

 この海老原、高橋証人の証言も、伊藤、角田証人などの証言と同様に、単に目撃年月日を勘違いした(或いはさせられた)だけの事実に付いて述べているものであるために、その証言内容から誤りを指摘することは困難なのでありますが、私なりに、この両証人の証言の誤りと判る点を書かせて戴きます。

(1) 杉山卓男の目撃を称する海老原証人の証言では、杉山の控訴趣意書等に記載されておりますように、杉山は

「 海老原証言は8月25日のことである 」

と言っております。

 この点に関した二審判決は、

「 被告人杉山は、犯行日とされている8月28日の前後にわたっても、再々、本件現場である布川またはその周辺に行っていることは、おおむね所論主張のとおりであると認められる。」( 54丁8行以下 )

と述べ、杉山の8月28日前後の行動を認めておりますが、論告が

「 海老原証人は、8月25日と8月28日しか出勤していない。」( 3511丁10行 )

と述べ、二審判決が、

「 海老原証人の出務表も証拠として提出されている。」

と、杉山の主張を否定するための根拠とするものは、寧
(むし)ろ杉山の主張する「 8月25日のこと 」と訴えることの正しさの裏付けとなるものなのであります。

 海老原証人の公判調書をご覧戴けますれば判りますように、検事の尋問に対して、海老原証人が

「 8月28日の午後7時1分の列車が到着後、駅前のベンチに座っている杉山を見た。」

という旨(尚、前記5証人の公判調書がありませんので、引用は正確でないかも知れません)の証言をした後に、すぐさま、杉山などが反対尋問をして

「 証言は、8月25日の間違いではないか。」

と述べております。その論告にもありますように、海老原証人の昭和42年8月下旬の勤務状況は、

「 8月25日と8月28日しか出勤していない。」

という特殊なものでありますが、海老原証人の出勤状況など知る筈がない杉山ですから、「 海老原証人の証言事実は8月25日のこと 」と、海老原証人の特殊な出勤状況に合致する反論をするのは、杉山の主張こそが正しい十分な証拠となるものではないか、と思うのであります。

 杉山が「 8月25日のこと 」と主張する月日と、当時の海老原証人が8月25日と28日しか出勤していなかった月日が一致するのは、偶然であると考えるのは、余りにも無理な解釈になりましょうが、

「 出務表も証拠として提出されている。」

というその出務表こそ、却
(かえ)って杉山の主張が正しいことを裏付けるものになるものではないのか、と思います。

(2) 高橋証人の証言事実は、8月31日の出来事(前記19頁の(5))なのでありますが、この証言には、海老原証人の「 出務表 」にあたるようなものもないため、却(かえ)ってその間違いを指摘できないのであります。

 また、高橋証人は、1人であるために、青山、伊藤、角田証人などのように比較するものもなく、証言自体の合理性の欠陥として指摘できる点もありませんでした。が、だからと申しまして、決してその証言が正しいものなのではなく、8月31日のことを8月28日であるごとく勘違いしていることには間違いないのです。

 その点に付いては、確かに

「 8月31日ではない。」

と私の尋問に答えておりますが、ご覧戴きたいのは、その証言の前後にある筈の、私と高橋証人の問答なのであります。あの時、私は、

「 8月31日のことを考えたことはありますか。」

「 今迄考えたことはありませんか。」

という尋問をしたと思うのですが、それに対して高橋証人は、

「 考えたことありません。」

と言っているのです。

 これによれば、高橋証人は、事件があった後、50数日後になって、単に8月28日だけのことを考えただけのようですが、人間である限りは、絶対に記憶違いがない筈はないのでありまして、8月31日のことを考えたことがないのでは、その記憶違いがないと言える筈はありません。

 それでは、青山、伊藤、角田、海老原、高橋各証人が、それぞれの体験を8月28日の根拠であるという

「 脱線事故の翌日で、8月28日であった。」

と述べる証言が、どの程度に信憑性
(しんぴょうせい)があるものか、という点について、各証人が勘違いの証言をした(或いはさせられた)と思われる原因を、私に考えられる範囲で追って述べさせて戴きます。

(1) 昭和42年8月30日の朝、玉村さんが何者かに殺されていたのが発見され、捜査員から連日、しらみつぶしの聞込みを受けた利根町や隣町である千葉県布佐町の住民は、人伝(ひとづて)の噂話や新聞の報道等で(私は、詳細な新聞記事を読んだことはありませんが、二審公判で弁護側提出の新聞記事程度の内容の)、事件は8月28日夜のことで、中学生の目撃者があることなどを知ったのです。

 そして、東京に通勤する人達(青山、角田、伊藤、高橋証人など)は、8月30日夜、栄橋の布川側袂(たもと)に検問所を設けた捜査陣から事件についての聞込みと8月28日のアリバイの尋問を受けたのですが、この尋問を受けた利根町の人は誰しもが、

「 8月28日というものは、常磐線の脱線事故のために朝の通勤が混乱した日 」

と考えて記憶を喚起させたと思います。

 その後も、捜査員は家庭の方に聞込みを重ねるのですから、その時であったとしても、聞込みを受けた証人(海老原証人も布佐駅員であるから)は、捜査員から聞込みを受けた時点で、脱線事故と玉村さんの事件との相互の関連性を考えさせられて

「 玉村さんの事件は脱線事故(8月27日)の翌日であり、脱線事故は玉村さんの事件(8月28日)の前日だった。」

と、その関連性を十分に認識していたのです。

 10月20頃になり、新聞やテレビ、ラジオのニュースなどで

「 犯人は桜井、杉山の利根町に住む者 」

と知らされた利根町や布佐町の住民は、当然、何の疑いもなく

「 桜井、杉山が犯人か。あいつらが玉村さんの家に8月28日に行って殺したのか 」

と信じたでしょうし、各証人達も同じように、私達を犯人と信じ、8月28日、つまり、脱線事故の翌日に玉村さんの家に行ったと思ったろうと思います。

 そのような状況にあった証人達に対して行われるのが、目撃者を求めた捜査員の聞込みなのです。

 当時の捜査本部の状況は、10月19日に強殺事件での逮捕状を得ながらも、その執行に躊躇(ちゅうちょ)していた時期であり、自白をさせた私達に犯人と認定する確証がなくて焦っていた筈なのです(事実、その逮捕に関して証拠の不明をあげて「 捜査陣の黒星 」とまで報道されております)が、真犯人としての動かぬ証拠を掴(つか)み得なかった捜査本部が、その焦った状態で求めたものが、人の言葉であって

「 目撃者を探せ 」

という訳だったのだと思います。

 この時(10月20日前後)は、既に事件から50数日も経っているのですから、田舎町で事件への興味は残っていたとしても、関係のない者は、8月下旬の記憶も薄れた頃でしょうが、

「 犯人は桜井、杉山だった、あいつらか・・・・。」

という噂話で花が咲いていたでしょう地元町等に対して、捜査員の

「 桜井、杉山に8月下旬に会ったことはないか、見たことはないか。」

という聞込みの集中が行われるのですから、私達を犯人と思い、8月28日夜も布川にいて玉村さんの家に行った、と信じていた証人達は、その聞込みに対しても、気楽に私達に会った記憶を話した筈であります。

 その聞込みが、どのような経過で行われたのか、という点が判りませんので、前記5証人全員が、その聞込みで初めて証言の事実を述べたものであり、月日の点でも曖昧(あいまい)だったのが、その尋問で玉村さんの事件の日に結び付けられたものである、とは言えませんし、証人の中には、通勤仲間で、知人、友人であった私達が犯人と知らされた意外さに、各証言事実を「 あれが8月28日だったのだろう 」と積極的に勘違いした人がいなかったとも言えません。

 が、ほとんどの証人は、その聞込みによって各証言事実を述べるようになった筈です。それは伊藤証人の証言の中に

「 前にも何回も会っていますから、その時に来たのかどうか判りません。」

とあることでも判りますように、その頃(昭和42年8月)の通勤往復時には、何度も会っているのですから、捜査員から

「 会ったのは8月28日ではないか。」

と尋問されれば、「 いつ会ったとされても不思議とは思わなかったであろう 」私達を犯人と信じていたろう証人達の証言が

「 8月28日だったかも知れない。」

となるのは、自然であるのです。

 証人達は、「 桜井、杉山自白 」と知らされ、私達を犯人と確信してたでしょうから、成田線の我孫子駅や布佐駅、栄橋で会ったことなどが8月28日とされることを重要だとも考えないで、気軽に答えたでしょう。

 伊藤証人のように

「 警察で行き会っていると言われたので、それでは行き会っているでしょう、と答えたのです。」( 一審公判調書 )

と、捜査員の方から

「 会ったのは8月28日だ。」

と言われれば、事件後50数日も経ち、新聞、テレビ、ラジオ、町の噂で私達を犯人だと思っている証人達の証言が、

「 8月28日のことだった。」

となるのは、当然過ぎる程、当然であるのです。そして、一度

「 会ったのは8月28日だった。」

と思った証人達は、その後に真実を思い出すような特別の記憶(伊藤証人の「 杉山の恐喝の日 」、角田証人の「 杉山が大宮に行った日 」等)がない限り、月日の経過とともに、それが真実であるごとき記憶となって残された訳なのですが、前記5証人が、私達に会った月日を勘違いして

「 8月28日に会った。」

と調書にされたり、証言する原因というものは、目撃者を求める捜査員の焦りによる(伊藤証人のような)証言の押付けと誘導、私達を犯人と信じた証人達の安易な記憶の喚起の2つが交じりあったことにあるのです。

 各証人が私や杉山に会ったと話す内容は、だいたいが事実であっても、その月日の点は違うものなのであり、各証人は勘違いする要素を持っていたのであります。

(2) それでは、前記証人の証言が8月28日である根拠とされている

「 脱線事故の翌日で8月28日 」

と述べられている点の信憑性
(しんぴょうせい)となりますが、この言葉も、それ程の根拠となるものではないのです。

「 会ったのは8月28日だった。」

となれば、当然、捜査員は

「 8月28日である根拠は何かないか。」

と尋ねた筈です。勿論、捜査員はその捜査の過程で、各家庭への聞込みの時に、8月27日に脱線事故があって、8月28日に玉村さんの事件があったという相互の関連を知っているのですから、通勤者や駅員である証人達に

「 8月28日だった根拠は 」

と尋ねる思惑の中には、当然、「 脱線事故の翌日が8月28日 」という言葉があった筈ですが、同じように、利根町などの住民として何度か、アリバイの聞込みを受け、玉村さんの事件と脱線事故の関連性を充分に承知する証人達が、問われる儘
(まま)

「 脱線事故の翌日だった。」

と、8月28日の根拠を語ることに、何ら不思議はないのです。脱線事故と玉村さんの事件の関連を知っている証人が、捜査員に8月28日の根拠を問われれば、

「 8月28日は脱線事故の翌日だった。」

と答えるのは、至極当然なのです。

 この脱線事故というものは、8月27日(日曜日)午後7時14分に常磐線柏、我孫子駅間で発生し、よく8月28日(月曜日)午後12時20分に開通したものです。( 事故関係回答書 )

 つまり、脱線事故は、8月27日の日曜日の夜7時過ぎに起こったものであって、休日である利根町の通勤者が、そして、前記5証人(海老原証人も27日は休日)がこの事故を知るのは、翌28日の月曜日、出勤のために布佐駅に行ってからなのです。記録上(や後日知った捜査陣にとって)は8月27日の事故ですが、28日の朝の通勤時に知った人にとっては(私もその1人ですが)、この事故の記憶は8月28日の出来事として残されているものでありまして、証人達も、その証言の根拠を自分の記憶で語るのであれば、

「 脱線事故の翌日 」

とではなくて、

「 事故の影響で朝の通勤が混乱した日 」

となりましょう。

 脱線事故を8月28日に知った筈の証人達が、50数日後に、私達に会った日を尋問されて、

「 脱線事故の翌日で8月28日だった。」

と語ることは、私自身が体験として、
脱線事故の記憶を8月28日のものとして残していることを思いますと、不自然な答弁であり、その根拠というものは捜査員に尋問されて語られたものであって、事故を記録上で8月27日と知る捜査員が言わせたものでないか、と考えるのであります。

 更に、脱線事故は8月28日の昼頃に開通していて、利根町の通勤者も帰りの電車に影響なく、平常通りの運行状態に戻っていた常磐線を利用して帰れたのですから、証人達も、実際に私達に会った日(8月25日、同31日、9月1日)と同じ状態で言えに帰ったり、勤務していたのです。

 8月28日の帰宅時は、何の異常もなく、いつもと同じ状態であった証人達が、月日を経た後に会った日を尋ねられ、それぞれに月日を混同して、8月28日であったように勘違いした(或いはさせられた)としても、当時の証人達が、私達を犯人と妄信し、8月28日も革に帰ったと思っていたであろうこともあれば、それは無理ないことではないでしょうか。

 たとえ、証人達が、

「 桜井、杉山に会ったのは、事故の影響で混乱した日の夜だった。」

とのみ、8月28日の根拠を語り、その証言が捜査員の誘導などで作られたものではないかという疑問の介在する余地がなかったとしても、8月28日の証人達の帰宅(勤務)時は、脱線事故の影響が全くなくて、他の日と区別され得る特別の事情もないのですから、他の日との勘違いがないとは断言できないものであるのです。

 これらの事実を考察戴けますれば、各証人の証言は、それ程に信憑性(しんぴょうせい)が高いものではないことがお判り戴けるものと思います。

(3) この5証人の証言というものは、

「 捜査官においてこれらの者達が事件に関し、何らかの知識をもっていることを知った日や警察官に対するその供述調書が作成された日等は、記録上必ずしも明らかでない。」( 二審判決54丁3行以下 )

というものであるために、各証人の証言が捜査員によって作り上げられたものである事実を説明するために引用できる資料もありません。

 が、それらの証言が、捜査員の性急な捜査の中で得られたもの、という点では、その事実を窺(うかが)わしめるものがあるのです。それが何であるかといいますと、二審判決の中に

「 10月19日には強盗殺人につき逮捕状が発布され、同月23日にそれが執行されていて、令状請求までには自白の信用性の検討等に多少の日時を要するとしても、逮捕状の執行はややおそきに過ぎるきらいはある。」( 12丁裏11行以下 )

とあります、この逮捕状の執行に対する捜査本部の躊躇
(ちゅうちょ)こそが、前記5証人の証言が捜査本部にもたらされた経過を物語るものなのであります。

 それでは、なぜこの事実が前記5証人の証言が作られた経過を物語るものであるのか、という点を順に述べさせて戴きます。

 嘘の自白の結果である調書が、唯一の証拠である本件にありましては、逮捕状の執行のためらいも、その決断も自白調書野中に理由が隠されているのでありますが、それでは、逮捕状執行の日である10月23日を挟んだ、現在提出されております10月18日付調書と、10月24日付調書からその理由を見つけますと。

 10月18日付調書の内容を見れば、現場の様子等は詳細であっても、それは当時の捜査本部に判っていたことだけでありまして、第三者の証言に関した事実すらないことが判りますが、この調書で見る限り、逮捕状執行の躊躇(ちゅうちょ)は、その自白内容に犯行を裏付けるものが得られなかったことが原因であると判る筈であります。

 そうである以上、捜査本部は、その自白内容の裏付けを求めて懸命に捜査を重ねたであろうことが判りますが、その裏付けというものが、物的な証拠と目撃者の発見しかないのですから、前記5証人は、前記したような捜査官の聞込みによってその証言を語った(或いは語らされた)ものであることも、自白はさせたが逮捕する確証がないという状態での捜査は、大事件であるだけに焦りがあったとしても当然で、各証人の証言が作られた経過というものが私が述べさせて戴いたようなものであることもご理解戴けるかと思います。

 10月18日付調書の内容では逮捕状(の執行)が決断できず、10月23日に逮捕したということは、その間に捜査本部が何かを掴んだことが明白ですが、逮捕状の執行を決断さすような事実は何であったかとなれば、10月24日付調書の2、3、4項であって、その記載内容は明らかに前記5証人の証言部分に言及したものであり、この事実こそ、逮捕状執行の原因なのです。

 18日付調書と24日付調書の内容の相違する部分は、現場の状況などに付いてはほとんど差がないのです(あっても、それは、捜査本部に判明していた点で細かく記載されているだけです)から、24日付調書の2、3、4項の記載部分こそ、逮捕状執行の拠り所であったことがお判り戴けるでしょうが、その経過というものを語れば、10月19日に逮捕状の発布を得るも、何も証拠がないことでその執行をためらったが、その後の捜査で、10月23日までに前記証人の証言を得ることに成功し、それを私に押付けてから、逮捕状の執行をした、というものでありまして、何れにしても、前記証人の証言は、証人を求める捜査員の性急な尋問によって生まれたものであるのです。

(4) 10月18日付調書を比較して、逮捕状執行のためらいと決断の理由を探ると、その事実は、私の主張する早瀬警部補の取調内容(前記99頁の8)の正しさを示すものでもあるのですが、この事実も

「 捜査官において、これらの証人達の証言を知った日や供述調書が作成された日等は記録上必ずしも明らかでない。」( 二審判決54丁3行以下 )

ために、検察側の提出致します資料で明確に裏付けるものはありません。が、なぜ記録上明かでないのか、この点も非常に不明朗であるのです。

「 裏は取りました、栄橋の石段を渡って来るのに、こういう人がおったということから、別な人が裏をやってその事実は、こうだ、ああだということで復命になりますから。」( 2183丁裏7行以下 )

と、早瀬警部補が証言しているものであれば、前記各証人の証言が、私が言ったものを裏付け捜査という形で確認したものか、聞込みで得たものを私に押付けたものであるかという点は、他に証拠がないだけに、捜査本部にとっても重大な意味を持つものでありましょうから、もし早瀬警部補の言うとおりに

「 桜井が言ったから、別な人が裏をやって、復命になります。」

というのであれば、当然、その証言の信憑性
(しんぴょうせい)を更に確かなものとするために、それらの証言を得た月日を記録として明確な形で残した筈なのです。ところが、それらの証言を得た経過が、前述のような捜査員の誘導などが交じった不明朗なものであれば、明確に残しようはないのであります。

 この各証人の証言を得た日などが記録上にないということは、その証言を得た経過に不明朗なものが介在していたことを示すのですが、なぜ記録に残さなかった(或いは残されていても提出されていない)のか、という疑問で1つだけはっきりしているのは、それを残す(か、提出する)と、私達を犯人とするために不都合があったからに他ならないのです。

 このような疑問も介在する各証人の証言は、その作成経過に前述したような勘違いさせられ得る要素があったことを物語るものでありましょう、と思います。

(5) 前記5証人の証言に対して、二審判決は、

「 かような証拠は単に被告人のアリバイへの反証であるのみでなく、本件犯行日時と目される日時に接着した日時に、被告人らが犯行場所から余り距
(へだた)っていない場所にいたことを示す有力ないわゆる状況証拠の一種というべきものである。」( 7丁14行以下 )

と述べて、単にアリバイの反証とした一審判決を、更に進めて種極的な証拠として採用しておりますが、このような解釈は、誤った判決の因を成すものでもあり、最高裁判所の判例にも反するものなのであります。

 最高裁判所第一小法廷は、昭和48年12月13日、放火事件に対する判決で、

「 証明力が薄いか、または十分でない状況証拠を量的に積み重ねても、それによって証明力が質的に増大するものではない。」

と、全員一致で無罪の判決をしております。

 本件においても、利根町に住む者である私達が利根町近辺にいたことを示すに過ぎない前記証人の証言である状況証拠は、二審判決の述べるような「 有力な状況証拠 」となるものではなかろう、とその判例に思うのであります。

 たとえ、各証人の証言を全部信じたとしても、利根町に住む私達が、常磐線我孫子駅や成田線布佐駅および利根町近辺にいるのは、特別不可思議なことではないのですから、その証言をして、犯人桜井、杉山であるを示す

「 有力ないわゆる状況証拠の一種である。」

と論じる二審判決は、正しくないものではないのだろうか、と考えております。

(2) 次に目撃証人としては、被害者宅前で私達を見たと証言する渡辺昭一証人が残っておりますが、この渡辺証言は、被害者宅前での目撃といわれるものでありますだけに、前記5証人の証言とは、その価値において、いささかの違いがあろうかと思います。

 たとえ私達が利根町に住む者であり、利根町布川の被害者方前は当時何度も通っていたとしても、その渡辺証言が真実であるならば、その証言こそ

「 有力ないわゆる状況証拠の一種 」

となって当然のものであろう、と思っております。

 しかしながら、この渡辺証言が偽りであることは、二審の柴田、土生弁護人提出の最終弁論書にも詳述されている通りでありまして、その証言の信用す可(べ)からずものであることは充分に証(あか)されている筈なのであります。

 その渡辺証言がどのように偽りであるのかという点につきましては、詳細な柴田、土生弁護人の最終弁論書に言い尽くされ、私が言葉を重ねましても新たな主張ができるとも思いませんので、渡辺証言の個々の矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)、虚偽性に付いての再説は致しません。

 その点に付きましては、最高裁判所の良心と良識を信じておりますれば、改めて、柴田、土生弁護人の最終弁論書をご検討賜りますように、お願い申し上げまして、ここでは、渡辺証言を証拠とした二審判決の誤りに付きまして、その判決文に添って述べさせて戴きます。

 先ず、最初に私達を見たと称する部分に対する二審判決を見れば

「 渡辺昭一は事件当夜とされている昭和42年8月28日午後7時半過ぎに、単車にのり、被害者方前道路を信仰した際、被告人杉山が被害者方を背にして道路の方を向き、溝を挟んで被告人桜井がこれと向合っていて、2メートルくらい前で桜井がこちらを向き、又顔を元に戻したというのである(なお、同証人の昭和43年3月13日付検察官に対する供述調書にもほぼ同趣旨の供述がある)。」( 4丁11行以下 )

と述べられておりますが、一審公判調書と検事調書を見ると、なる程、ほぼ同趣旨の供述をしています。が、それはあくまでも「 ほぼ 」なのでありまして、その供述の中には、全く違った場当り証言が存在するのであります。

(1) 検事調書によれば

「 ところでこの2人共利根町で杉山の家は大房
(だいぼ)だし、桜井の家は中田切(なかたぎり)でどちらも私の店のお得意先なのです。」

と述べられておりますのに、一審公判では、

「 桜井は利根町中田切ですが、杉山の方は知りません。」( 1559丁の6行以下 )

と答えております。

 渡辺証人は同じ利根町の人なのですから、それも渡辺証人にすれば殺人事件の証言という特異な体験なのですから、検事調書で

「 杉山は大房
(だいぼ)の人 」

と答えたならば、一審公判でも当然同じ答え(少なくても忘れましたという言葉)が出る筈ですのに、渡辺証人は、

「 知りません。」

と言うのです。つまり、初めから知らないものを知っているような話に作っているのです。

(2) この他にも、検事調書には

「 私は、この2人のそばに近づく前には中学生と高校生の2人がいるのかなと思ったのです。」

とあり、背の高い男と低い男の2人連れであったことを強調しながら、一審公判で鈴木弁護人に

「 証人は、被害者方前にいた人影をどの辺で目撃しましたか。」

と尋問されると

「 普通ならば気が付かないで通過してしまうところ、私の単車のライトの方に1人が振り向いたので、2人がそこにいるのに気が付きました。」( 1571丁裏1行 )

と述べているのです。この証言で考えるならば、

「 中学生と高校生の2人がいるのかなと思いながらそばを通りかかった。」

などという検事調書は、嘘以外の何ものでもないのです。

 この点では、同じ一審公判で検察官からの尋問によって

「 駐在所を過ぎて間もなく人のいるのに気が付きましたが、それが被告人等であることは、2メートル位の近くへ来て判ったのです。」( 1581丁裏5行 )

と訂正の証言をしておりますが、前記の鈴木弁護人に対した明確な説明から考えまして、勘違いや間違いで

「 普通ならば気が付かないところ、1人が振り向いたので、2人がそこにいるのに気が付きました。」

と、弁護人に答えたものと考えますのは、いささか無理な解釈でありましょう。何れにしても、この証言は場当り証言を示す1つの例なのです。

(3) また、2人の男がいた場所としても、検事調書では、

「 そこでもう1人の背の高い男は、私の進行方向に向ってその背の低い男の前にいたのです。」

と述べながら、一審公判では、

「 玉村方前にある溝をはさんで、杉山が玉村方の方に、桜井が道路の方にお互いに向い合って立っていました。」( 1564丁7行 )

と変わるのです。その検事調書をご覧下さればお判り戴ける筈ですが、渡辺証人は明確に

「 背の高い(杉山を示す)男は、私の進行方向に向って、背の低い男の前にいた。」

と述べているのであれば、この状態というものは、道路上に並んでいたことを示すのであって、一審公判で述べる

「 溝をはさんで向い合って立っていた。」

などというものではないことが、明白なのです。

(4) これらの相違の他にも、柴田、土生弁護人が指摘致しましたように、検事調書で

「 それで(桜井の)名前が判ったのは、その後、桜井昌司がこの事件で逮捕されて新聞に顔写真が出て名前が載っていたからその時はっきりしたのです。」

と述べながら、同じ検事調書の中で

「 (顔を見た時にすぐ)桜井だと思いました。」

と訂正し、このような事実がありながら、二審公判では、

「 桜井さんの方は(目撃した時)一寸思い出せませんでした。目撃の1週間後に思い出した。」

という旨(公判調書がありませんので引用に不正確があるかも知れません)の証言に変わったのです。

 また、杉山に関した点でも、検事調書で

「 (背の高い)その男は、ふり返らないのでうしろ姿だけ見て通り過ぎたのですが、その姿から杉山卓男だと思ったのは、玉村さんが殺されたことが判って騒ぎになって1週間目頃になって、あの時の髪の毛を短く刈った頭と、大柄な体つきから杉山らしいと思いついたのです。感じが似ていたのです。」

と、後姿だけしか見なかったことを詳細に説明しながら、一審公判になると、、

「 杉山は、道路の方を向いていたので判りました。」( 1563丁裏8行以下 )

と、杉山も顔を見てその場で判ったような話になったのですが、一審公判で言ったことが事実(と二審判決は認定しているのですが)であれば、

「 あの時の髪の毛を短く刈った頭と大柄な体つきから杉山らしいと思いついた。」

と述べた検事調書の話は、誰かが言わせたとなるのでしょうか。

 以上の点で、渡辺証人の最初に私達を見たと述べる(いわゆる往路の)証言には、それぞれに肝腎な点で食違いがあることがお判り戴ける筈であります。

 渡辺証言の欺瞞性(ぎまんせい)を述べた石井弁護人の弁論に対した判決の主な部分は、

「 同証人は、犯行後すでに4年半近くを経た当審公判において証人として尋問された際は、すでに記憶が定かでなく(それでも、往路に被告人両名を見掛けたことは肯定している)、殊
(こと)に帰路の自己の行動についての説明には、相当に混乱した部分がある。しかし、その故に直ちに同証人の往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性まで否定し去るわけにはいかない。」( 6丁7行以下 )

と述べられた部分でありましょうが、この判決文を簡単に言えば、

「 証言の混乱は、4年半も過ぎたことの記憶の失念にあるが、帰路の証言に混乱はあっても、両被告を見たと終始一貫して言う部分の信用性まで否定できない。」

と、渡辺証言を解釈していることになります。が、この解釈は誤りなのです。

 前項で述べさせて戴きましたように、渡辺証人の証言の混乱は帰路の証言部分にあるだけでなく、往路の証言の大部分にも混乱があるのであれば、その往路の証言の混乱を軽視し、一審公判でさえも混乱している事実があるのを失念されてか

「 4年半を経た当審で尋問された際は記憶が定かでなく 」

「 往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述 」

などと説く判決は正しくないのですが、その点では、柴田、土生弁護人の弁論に対する判決に

「 渡辺昭一の原審公判における供述にはある程度の混乱が見られ、それは同証人の当審における供述においても多かれ少なかれ同様な状態にある。」( 57丁裏1行以下 )

と、一審公判でも混乱していることを認めた部分があるのですから、

「 4年半近くを経た当審においては、すでに記憶が定かでなく、殊に帰路の説明には相当混乱した部分がある。」

と、二審公判で初めて混乱したごとく説いた判決の矛盾もはっきりしているのであります。

 それでは、その主な部分の判決も含めて、具体的な判決の誤りに付いて、順に述べますと、前記した

「 犯行後すでに4年半近くを経た当審で尋問された際は、すでに記憶が定かでなく、殊に帰路100メートル余り手前から被害者方前付近を見た前後の自己の行動の説明には、相当に混乱した部分がある。」( 6丁8行以下 )

という判決では、その前段部分の誤りは渡辺証人には一審公判でも混乱があることを二審判決自身が認めている事実を引用して前述した通りですが、後段部分もおかしいのです。

(1) その判決文の

「 殊に帰路・・・・・・自己の行動の説明には相当の混乱がある。」

と述べられた部分を見ますと、渡辺証人自身の行動の説明のみが混乱しているだけのように述べていると感じるのですが、帰路に関する渡辺証言は、自己の行動だけではなく、目撃したという相手の行動の説明も混乱している事実を思うと、この判決文の正しくないことを感じます。

 たとえば、検事調書では、

「 吾妻亭の手前の広場のあたりまで来たところ、前方の丁度玉村方の角になる四ツ角のところに背の高いのと低い2人連れの男が丁度右と左の道端に離れた具合に立っていたのが、別れるように左、右の道に入りこんだのを見ました。」

と述べていながら、一審公判では、

「 紀州屋という酒店の前に来た時、現場に2人の男のいるのを見ました( 1565丁裏10行以下 )。2人の男の背の低い方の1人が道路を横断し、2人は道路の左右に別れた( 1573丁1行以下 )。」

と訂正し、渡辺証人が話したという点では同じでも、その話の内容は大幅に変わるのです(勿論渡辺証人自身の行動にも同じような変遷があります)が、これが、更に二審公判になりますと、

「 紀州屋酒店前に来た時、吾妻亭のあたりの左側に2人と、その一寸先の車の右側にいる1人の計3人を見た。少し単車を動かしてから見た時は、左側の1人はどこに行ったか判らず、吾妻亭のあたりにいた2人は、沢部さんか矢口肥料店のあたりにいて、1人が右側に道路を横断した。」

と、検事調書とも一審公判証言とも違った証言に変った訳なのです。

 その判決も認めるように、単車を止めないか、止めたのか、1回か2回か3回なのか、それとも4回止めたのかなどに関した

「 自己の行動の説明には相当の混乱がある 」

のですが、その自己の行動の説明と同じように、目撃したという相手の状況の説明にも大混乱(話している人が同一人であるというだけで、その証言内容は3つの違った話と言っても過言でないと思います)があるのですから、その判決文にある「 自己の行動の説明 」という注釈は、混乱は証人自身の行動のみにあり、対目撃人物の証言部分には混乱がなく、その信憑性にも問題がないものであるごとき錯覚を起こさしむる点において、誤りがあると思います。

(2) 尚、この帰路の渡辺証言の大混乱を追及し、その証言の信用すべからずものであることを述べた石井弁護人の弁論に対する判決は、

「 なお、同証人が帰途再び同所を通行した際は、100メートル以上の距離から現場付近に人影を見たのであって、当審における検証の結果からも明らかなように、それが何人
(なんぴと)なりやの識別は不可能と認められ、同証人がそのように述べているからといって、往路に見かけた被告人らに対する同証人の認識まで疑う所論主張は相当とは言えない。」( 5丁裏4行以下 )

と述べているのですが、この判断は、検証の結果を一方的に使用した公正でないものであります。

 確かに、帰路に100メートル以上の距離をおいて見た2人の男が誰だったか判らないからといって、往路に擦(す)れ違って見たという2人の男に対する認識まで疑うのは正しくない所論であり、その判決の通りだと思います。が、たとえその点に関しては、弁護人の認識不足で判決の通りであったとしても、だからといって、渡辺証言が正しいものであることにはならないのであります。

 この判決文では、二審での検証の結果、「 100メートル以上から見た人物は何人なりやの識別は不可能と認められる 」と判明したことが、渡辺証人が「 そのように(誰だか判らないと)述べている 」正しさだけの立証に使われているのですが、

「 それが何人なりやの識別は不可能と認められる。」

という検証の結果というのは、紀州屋酒店前から玉村方前路上に立つ人間を見ても、その男女別も、背の大小も判らないし、木村方のブロック塀も見えないという事実なのです。

 つまり、一審公判での渡辺証言を引用すれば、

「 1人は背の高い人で、他の1人は低い人でした。」( 1566丁2行以下 )

「 何か話をしている様子でした。それから、背の低い方の1人が道路を横断し、2人は道路の両方に別れました。」( 1573丁5行以下 )

「 玉村の反対側の木村方のブロック塀から2人の背の高さを判断しました。」( 1576丁裏7行以下 )

などと述べる証言は、検証によってあり得ないのです。あり得ない事実を述べるのが、混乱でしょうか。

 100メートル前方からでは、渡辺証人が証言するような事実を認識することは不可能なのですから、その欺瞞(ぎまん)に対しては殊更論及するまでもないのではないか、と考えるのですが、何れにしても、検証結果を、石井弁護人の誤った認識による弁論の弁駁(べんばく)のみに使用し、肝腎な渡辺証言の信憑性(しんぴょうせい)に対する判断に使用せず、そのあり得ない証言を、「 混乱 」なる言葉で合理化する判決は、公正さを欠く判断ではなかろうか、と思うのであります。

 前3項で述べた判決文の

「 自己の行動の説明には、相当に混乱した部分がある。」

という部分につながる判決は、

「 しかし、その故に直ちに同証人の往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性まで否定し去るわけにはいかない。」( 6丁14行以下 )

と述べて、弁護人の弁論を斥けて、渡辺証言の信憑性を説いているのでありますが、この判断部分にも、疑問を感じずには、おれません。

 渡辺証人の述べる往路の2人の男の目撃も、帰路の2人の男の目撃も、渡辺証人自身が述べる言葉なのでありまして、便宜的な手段として往路、帰路と区別してはありますが、同一人の言葉なのでありますから、その信憑性の判断まで区別して考えられているような判決は、まず理解に苦しむところであります。

 帰路の証言が検証の事実にも全く反し、判決自身も

「 全面的に採用することはできない。」( 6丁裏12行 )

と認める証人の往路の証言部分だけが、どうして、まるで別人による証言であるごとく証拠とされるのか、不思議なのであります。

 判決は、

「 往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性 」

と述べておりますが、前述しました(前記228頁の1、以下(1)、(2)、(3)、(4)の)ように、渡辺証人の往路証言部分にも、重大な変遷があるのですから、「 終始一貫した供述 」と述べる判決は正しくないと思うのであります。

 その証言部分をご覧戴きましても判りますように、杉山を識別したとする点や、2人の男がいたという一の点などでは、検事調書と一審公判の証言に違いがある上に、二審公判では、

「( 玉村象天方の前で見た2人が誰であるかを判ったか ) 一寸見ただけですから判りませんでしたが、何か印象に残りました。」

「( それが誰であるかは判らなかったのか ) はい。」

「( しかし、証人は法廷で被告人達と言っているが、どうゆう所からそう思い始めたのか ) それは判りません。」( 第7回公判 )

と、往路で見た人は誰か判らないとも言っているのです。尤
(もっと)も、その同じ公判の中で、再び私達を見た旨の証言に変っていますが、一旦、明確に

「 一寸見ただけですから判りませんでした、なぜ被告人達と思い始めたのかも判らない。」

と証言していることは明らかで、往路の証言にも、判決が

「 往路に被告人らを見た旨の終始一貫した供述部分 」

という終始一貫したものなどはないことは、明白なのではないかと思うのであります。

 強いて終始一貫した部分を探すならば、

「 桜井、杉山を見た。」

と述べる部分でしょう(それでも、二審公判で誰か判らないと言っているのですから、一貫してるとは言えない筈です)が、

「 往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性まで否定できない。」

と述べる判決が、その「 桜井、杉山を見た 」という1点だけを捕えて

「 終始一貫した供述部分の信用性 」

と述べているというのであるならば、渡辺証人の往路証言に「 終始一貫した供述部分 」があることを認めるに吝
(やぶさ)かではありません。

 しかしながら、判決の揚げ足を取るつもりはありませんが、単に

「 桜井、杉山を見た。」

と証人が証言すれば、他の矛盾、不合理な大半の証言部分を無視して、その1点だけを捕えて証拠であるとする判決が正しいと言えるのでしょうか。

 証言が真実とされる基準となりますものは、証言自体の合理性、正確性でありましょうが、渡辺証人は、事件後6ヶ月余りの間、目撃を隠していて一審公判が始まってから証言を行うようになった者である、という特殊な証人なのであれば、その証言には、特別厳格な合理性と正確性が要求される筈でありましょう。

 が、渡辺証人には、その大部分の説明に一貫性と正確性がなくて、判決でさえも採用できない部分のあることを認めながら、渡辺証人の特殊性を無視して、わずかに

「 桜井、杉山を見た。」

という1点だけを理由に

「 往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性まで否定し去るわけにはいかない。」

とする判決を思いますと、裁判所というところは被告側に不利な証人の証言であれば、大きな矛盾、不合理を含んだ証言でも証拠に採用するところなのだろうか、という思いで、裁判所の公正無比を信頼し、真実のみが許される裁判を求める者として落胆の思いを禁じ得ないのであります。

 渡辺証人の往路証言の信憑性に関した判決には、

「 証言の混乱は主として同証人が帰途に現場付近を通りかかった際の事柄につき見られるのであって、その前の往路に両被告人を見た旨の供述は信用できるものである。」( 57丁裏5行以下 )

と、柴田、土生弁護人の弁論に対して述べた部分がありますが、往路証言にも混乱がありますことは、すでに再々申し上げているいる通りであります。

 この判決文にしても

「 証言の混乱は主として帰途の事柄につき見られる。」

とあるのでありまして、あくまでも「 主として 」なのでありまして、

「 証言の混乱は帰途の事柄だけにある。」

というものではないのですから、当然、その判決も、往路の証言部分にも混乱した点があることを認めている筈なのです。

 事実、往路の証言の中にも前述しました(前記228頁の1の、(1)、(2)、(3)、(4)および236頁の4以下の)ように混乱はあるのですから、渡辺証人の証言に至る特殊性を考えれば、混乱の大、小で「 主として 」と述べ、その信憑性を論じる判決というものは、肝腎なものを見落としているのではないか、と考えるのであります。

 渡辺証人の往路、帰路の証言内容を見て戴けますれば判りますように、いわゆる往路の証言というものは、

「 玉村さんの家の前に2人が立っているのを見た。」

というものであって、その証言内容には、証人自身にも対象人物にもほとんど動きがありませんので、問題は2人が立っていた位置などだけという簡単な内容であります。

 それに比較して、帰路の証言というものは、

「 紀州屋酒店前で玉村方前にいる2人を見た。1人が道路を横断した。単車を止めてUターンし、豆腐屋の前でタバコを吸った。再び発進して被害者宅前で悲鳴らしきものを聞いた。再び、単車を止めた。」

という具合に、その証言内容には、証人自身にも対象人物にも大きな動きがあるのですから、簡単な話よりも、複雑な話に混乱が多くなることは(勿論、真実の話である限り、簡単な話でも複雑な話でも、証言に混乱が生じる筈はないと思います)むしろ当然なのであります。

 これらの事実をお考え戴けますれば、渡辺証言の混乱を、

「 主として帰路の証言に見られる 」

と述べ、渡辺証人の往路に関した証言が信用性あるものであるごとく説く判決は、往路証言にもあります混乱を看過したものであることもお判り戴けるかと思いますが、

「 ひとたび嘘をつくと、いい記憶が必要になる。」

「 嘘をついてしまったら、2度嘘をつけ、3度嘘をつけ、しかし、いつも同じ嘘でなければならない。」

というフランスの詩人の言葉と、オリエントの諺
(ことわざ)がありますように、渡辺証人の証言はこれらの言葉がぴったりと当てはまるものなのであります。

 順が逆になりましたが、往路の渡辺証言の欺瞞(ぎまん)を追及した弁論に対する判決には、

「 時速30キロメートルで走る単車に乗っていた同証人が被告人桜井の顔を見たときの同人との距離2メートルを走る時間0.24秒では、その識別は不可能であるとの点も、経験則に照らし、この時間は知っている顔を、殊に相手の位置が移動しない場合には、認識するに十分であると認められるので、当裁判所の採用しないところである。」( 5丁13行以下、57丁裏10行以下 )

と述べられた部分がありますので、この判決部分にも、私見を述べさせて戴きます。

 この判決は、

「 2メートルを走る時間0.24秒が経験則に照らし、認識に十分 」

と述べているのですが、2メートルを走る時間は0.24秒でありましても、その総ての時間(0.24秒)を見ていられるものではないのでありますから、厳密に言えば、2メートル前から前方を見た目の死角に入る迄の間の時間となり、擦れ違う50センチメートル手前辺りではすでに死角に入る(尚、擦れ違う対象物との擦れ違う時の距離がある程死角の距離も長くなります)のであれば、渡辺証人が見られた時間は0.18秒になるのであります。

 ましてや、

「 桜井は、私のライトの方に向いて、すぐ顔をもとに戻してしまいました。」( 1564丁裏の5行以下 )

「 杉山は、道路の方を向いていたので判りました。」( 1563丁裏の10行以下 )

と述べ、杉山の認識もした上で、私の顔を見たというのですから、両方を認識する時間を公平に割り振っても、約0.1秒余りとなるのでありまして、0.24秒、2メートルの間の総てを見る行為の可能な時間であるごとく説く判決は、正しい判断でないと思うのであります。

 これは、私自身が自転車で、夜間布川の大通り(玉村さんの家の前などの私の家に帰る道路)を通った時に経験した道路上、もしくは道路際に立つ人の認識程度ですが、たとえば、ある家の前で人の立っているのに会った場合は、一瞬間の擦れ違いではその人がその家に関係ある人である時に認識できるだけでありまして、バス停の前に立つ人などの場合は、知人である場合を除き、その人を識別すべき意志を持って擦れ違わなければ、その認識は不可能なのが普通なのです。

 でありますから、私の経験則から申し上げれば、時速約30キロメートルの単車で玉村さんの家の前を通り、その家の道路際に立つ人を見ても、識別すべき意志を持って擦れ違うのでない限り(渡辺証人の話では)は、真夏の7時半頃に道路に立つ人が特別に注意を引く存在でもなく、一瞬間の擦れ違いで顔を見ても、その人が誰であるかを識別することは、先ず、不可能でありましょうと思います。これは確信です。

 更に、人間としましての、もう1つの経験則を申し上げれば、真実、実際の体験を語るのであれば、時間などの観念的な認識を除いては、何度証言しても変遷はあり得ないし、証言のたびに変転を重ねるような証言は嘘以外の何ものでもない、ということであります。

 渡辺証言が真実であるとする判決の中には、

「 渡辺昭一は当日の印象に残る体験と当夜に見たテレビ番組との関係等で右8月28日のことと記憶しているであってこれも肯定するに足りる。」( 55丁14行以下 )

と述べられた部分がありますが、私達は、渡辺証人が8月28日の夜に配達をするために、午後7時半前後に玉村さんの家の前を通ったのであろうことを否定するつもりは全くありません。

 私達としては、渡辺証言が8月28日であるかどうかではなくて、目撃と称する証言部分が信じられるものかどうかに付いてだけ、その証言内容からご判断戴きたいのであります。その変転極まる証言が、真実を語ったものといえるものかに付いてだけをご判断戴きたいのでありますから、改めてご確認戴きたく思います。

 最後に、渡辺証人の証言に至るまでの特殊性に付いての判決を見れば、

「 同証人は、事件直後、聞込みの捜査員に対し、自己が見かけた両名の氏名を告げず、被告人両名の逮捕後、日時を経過した後に、右両名の名を捜査員に対し明らかにした事実、同証人が本件事件前後から引続きノイローゼ気味であったと推測されること等は、同証人の供述の信用性を判断するうえにおいて特に注意を払わなければならぬ点であるが、これらを念頭に置き、慎重に検討してみても、帰途に関する供述部分は明確を欠くものが多く、これを全面的に採用することはできないものの、同証人が往路に被害者方前で見かけた2名の者が被告人両名であるとの供述は十分信用することができるものと言わざるを得ない。」( 6丁裏2行以下 )

と述べられ、渡辺証言の信用性が説かれているのですが、この判断にも、不可思議な論理を感じるのです。

(1) 先ず、その判決文の誤りと指摘せざるを得ない点から述べさせて戴きますと、その判決の

「 同証人は、事件直後、聞込みの捜査員に対し、自己が見かけた両名の氏名を告げず、そのためにその内容が捜査本部の情報として利用されなかった。」( 6丁裏2行以下 )

と述べられた部分は、同じく判決の

「 渡辺昭一は、事件当時の聞込みに対し、すでに犯行当夜現場付近で大小2人連れの男を見た旨述べていたものの、被告人らが逮捕された前後には未だ捜査資料として利用されていなかった模様 」( 10丁裏12行以下 )

と述べられた部分から判断しましても、渡辺証人が事件後6ヶ月後になって初めてその目撃を言い出した者であるという特殊性を否定した判断であるように思いますが、この判決は正しくないと思います。

 渡辺証人が、

「 事件当時の聞込みに対し、すでに犯行当夜現場付近で大小2人連れの男を見た旨述べていた。」

という事実を裏付ける資料がなんであるかは知りませんが、渡辺証言の裏付けのために警察が取ったと思われる坂巻カツ子証人の警察調書の日付が昭和43年3月9日であること、また、渡辺証人自身が二審公判で、

「(警察の聞込みには)鶏が締め殺されるような音を一瞬聞いたような気がする、と言ったように思うがはっきりしない。」

と証言していることなどを思えば、渡辺証人が大小2人の男を見たと言い出したのは、一審の第1回公判後であることは明白であろうか、と思うのであります。

 そのことは、渡辺証人の検事調書(昭和43年3月13日付)に

「(事件発生当時警察官に話さず、今回打明ける気になったのは)杉山と桜井の2人共犯行を否認したということを先月(2月)の中旬頃、外交にまわった布川の得意先の何軒かの家で聞いたので、それなら私が知っていることを話そうという気になったからです。」

と記載されていることからでも、お判り戴ける筈であります。

 二審判決で見れば、渡辺証人は事件当時の聞込みに

「 大小2人連れの男を見た 」

と述べていたのに警察の方で捜査資料に利用していなかったもの、と判断しているようですが、そのような判断が過ちであることは、他の証人に対する捜査状況を見て戴ければお判り戴けるのです。

 たとえば、沢部証人は、

「(玉村さんの家の前)入口のどぶ板のあたりに人がいたような気がするんです。」( 二審判決55丁裏14行 )

と述べるだけに過ぎない証人であるのに、警察、検察調書が昭和42年のうちに作られている筈なのです。

 尤(もっと)も、沢部証人の調書を見ていませんので明言はできませんが、昭和43年3月11日付の一審の裁判所の決定通知書(検察官請求の証人調べ決定書)を見れば、小貫、伊藤、角田、青山各証人と並んで沢部証人の名前も記載されているのです(渡辺証人の名前はありません)から、当然、小貫、伊藤各証人達と同じ頃に、その警察、検察調書が作られていることになります。沢部証人は、

「 警察の人から、何度も(玉村さんの家の前に人が)いたんではないかと言われた。」( 二審判決55丁裏7行以下 )

とも証言しておりますが、単に

「 入口の辺りに人がいたような気がする 」

と述べるに過ぎない沢部証人でさえも、警察は何度も聞込みを重ね、その調書を残しているのですから、もし、渡辺証人が事件当時の聞込みに対して、

「 大小2人連れの男を見た 」

と述べたのであるならば、沢部証人とは比較にならない、ある程度の犯人像を作ることさえ可能な重要な内容であることから考えても、警察が放置する筈はないのです。

 たとえ一時的に放置したとしても、私と杉山が嘘の自白をした後は、まるで私と杉山であると暗示するような

「 大小2人連れの男を見た 」

という証言内容から考えても当時の警察がそのような聞込みを得ていたのであるならば、それを捜査資料に利用せず、調書も取らないということはあり得ないのです。

 渡辺証言の裏付けである坂巻カツ子証人の警察調書が3月9日付であり、前記、昭和43年3月11日付、一審裁判所の証人喚問決定書(検察官請求)には、渡辺証人の名前がないことを思えば、渡辺証人が、大小2人連れの男や私と杉山を見たと言い出した時期も、昭和43年3月初旬であることが明白であろうと思います。

 これらの事実から考えましても、渡辺証人が6ヶ月余り後になって初めて大小2人連れの男を見た、と言い出したものである特殊性を否定する判決は、正しくないことも明白であろうかと思います。

(2) 次に、前記判決文の、渡辺証言の特殊性を認めた判断部分を見ますと、

「 被告人両名の逮捕後、日時を経過した後に、目撃を明らかにした事実、事件前後ころからノイローゼ気味であったと推測されること等は、同証人の供述の信用性を判断する上において特に注意を払わなければならぬ点である。」

と述べられておりますが、ここに述べられておりますことは、私ごときが殊更、申し上げる迄もなく、目撃を明らかにした経過やノイローゼと思われる点を考慮すれば、渡辺証言には真実以外のものが含まれる可能性が考えられるから注意して判断する必要があるという意味であるか、と思います。

 であります以上、その判決文の趣旨に沿って考えますと、渡辺証人の証言には、普通の証人以上の正確性、一貫性、合理性が求められる筈でありますが、

「 これらを念頭に置き、慎重に検討する。」

という判決の意味も、渡辺証言の一言半句までも嘘や矛盾撞着がないかと厳格に判断する必要性があることを述べたものである筈です。

 そのような心構えでの判断の結果、

「 帰途に関する供述部分は明確を欠くものが多く、全面的に採用できない。」

という渡辺証言であることがはっきりしていながら、同じ渡辺証言がなぜに

「 往路の供述は十分信用できるものと言わざるを得ない。」

という結論につながるのでしょうか。

 再々申し上げますように、往路証言にも混乱があり、一貫したところは全くないと言っても過言でない筈なのであります。その判決文にあります

「 ノイローゼ気味であったと推測されること 」

という点は、証言の正確性などに厳格さを求める言葉ではなくて、ノイローゼであったために証言の混乱はやむを得ない、というように証言の混乱を正当化した言葉であるように感じるのですが、もし、裁判所が

「 同証人の供述の信用性を判断する上において、特に注意を払わなければならぬ点である。」

と述べている分だけ、渡辺証言特殊性を認識されて判断されたものであるならば、ノイローゼだったと自認し、混乱した証言をする渡辺証人の

「 全面的に採用できない 」

証言は、証拠とすることはあり得なかったのではないか、と考えますのは、私の僻目
(ひがめ)でしょうか。

 渡辺証人は、黙っていた目撃を証人として述べるようになった理由に付いて

「 自分をこれ以上、ごまかすことが出来なくなって、真実を述べました。」( 一審記録1576丁1行以下 )

と述べているのですから、その言葉と目撃が事実である限り、「 自分をごまかすことが出来なくなった 」と述べる程良心に悩んだ自分の体験は、何度尋ねられ、何度答えても、同じ証言になる筈なのであります。

 が、渡辺証人の証言には、1度として同じ内容の言葉が理路整然と述べられたことがなくて、4度の証言証言のたびに、まるで人の違った目撃談のような話が続けられているのですから、これが良心に悩んで証言をする人の言葉なのだろうか、と疑わずにはいられないのであります。

 渡辺証人の場当たり証言を示す1つの例として、次のようなものがあります。

 紀州屋酒店前から被害者方前の2人の男を見た時に、

「 この時、私は何か不吉な予感がしたので、単車を止めました。」( 1566丁4行以下 )

と、検事の尋問に答え、その不吉な予感の理由を弁護人から尋ねられては

「 自分がおどかされるのではないかと思ったのです。」( 1568丁4行以下 )

と述べ、自分の見た2人の男は、

「(その2人が誰かは)判りません。」( 1568丁9行 )

と答えたのです。

 ところが、続いて裁判長から尋問されるや

「(帰りに見た2人は、往きに見た2人ではないかなあと)そう思いました。」( 1576丁裏10行以下 )

と、誰か判らなかった2人が私と杉山であったごとくの証言に変わり、当然に

「 証人がその2人を知っているならば、おどかされるおそれはないと思うがどうですか。」

と尋問されては、臆面もなく

「 そうです。」

と認めた上に、今度は不吉な予感がした理由に付いて、

「 私は以前、単車に乗っていて酔払いにぶつかったことがあるので、その時、左様なことを考えました。」( 1577丁裏1行以下 )

と、あっさり話を変更しているのです。

「(紀州屋前で単車を止めて煙草を一服した訳は)その2人からのがれるためです。」( 1568丁11行以下 )

「 自分がおどかされるのではないかと思ったのです。」

などと述べた不吉な予感の理由とは、まるで違う意味の理由であることは、他の渡辺証人の証言内容の変転から考えても驚きではありませんが、そのような違った理由づけを、質問に応じてすぐ様行なえる渡辺証人の弁の巧みさには、驚きを感じるのであります。

 事件発生当時の聞込みには、

「 配達の帰りに悲鳴らしきものを聞いた。」

と述べ、次の検事調書では、

「 往路に桜井の顔と杉山の後ろ姿を見た、その名前は桜井がその場で判り、杉山は1週間後に判った。帰路は吾妻亭の手前の広場の辺りから、玉村方脇の道路に別れて立っている大小2人の男を見た。玉村方前を通る時に同家の方から悲鳴を聞いたが、その儘
(まま)家に帰った。」

という話になり、更に一審公判では、

「 往路に、桜井、杉山の顔は近くで見てはっきり判った。帰路は、紀州屋前から玉村方前の大小2人の男を見て、不吉な予感がしたのでバイクを止め、煙草を一服した、2人の背の大小は、木村方のブロック塀と比較して判断した。煙草を一服後、玉村方前に来ると、悲鳴らしき音を聞いたので、バイクを止めた。」

という話に変わって、最後の二審公判になると

「 往路は、杉山はその場で名前が判って、桜井は1週間後に名前が判った。帰路は、紀州屋前から吾妻亭前の辺りにいた3人の男を見た。」

という話に変わる具合に、渡辺証人の証言は、証言する機会のたびに、内容が変わっているのです。細かな点も入れれば、渡辺証言で変化のない点は全くないと言っても過言でないでしょうが、これが証拠でしょうか、証拠と呼ぶに相応しい証言とお考えになりましょうか。

 渡辺証人は、10年余りも布川町に住んでいる人なのですから、そのような人が、町の大通りで不吉な予感、それもおそわれるとか酔払いにぶつかるというような考えで、県道の真中で単車を止めてタバコを吸うなどということは考えられないのです。

 現実に、その2人の男を見たという前には、

「(帰路)私は、三つ角の所でバスを待っていた役場の山中さんに会った。」( 1565丁裏6行以下 )

と述べ、その人の姿を見ては何も思っていない(この人が山中さんであると気付く前に当然何十メートルか前で人影を認識した筈です)のに、その直後にあった人に対しては、不吉な予感がしたなどというのは、余りにも不自然な話であると思います。

 それに、渡辺証人は、クリーニング店を開いている者であって、言わば、布川の町全体を相手に商売をしているのですから、配達の関係もあれば、布川の町の一軒、一軒の家に対する認識は、一般の布川に住む人よりも何倍も強い筈なのです。

 であれば、もし、その目撃が真実であったならば、

「 吾妻亭の手前の広場(玉村さん方から約70メートル手前)から玉村方前にいた2人の男を見た。」

ものか、それとも

「 紀州屋酒店前(玉村さん方から約130メートル手前)から、玉村方前のあたりにいた2人を見た。」

のであるかなど、その間、4、50メートル以上も離れた両家を混同することは、渡辺証人だから考えられないのであります。

 これらの渡辺証言は、

「 明確性を欠くものが多い。」( 二審判決6丁裏11行 )

という代物ではありませんで、明らかに違った事実を、その場、その場で答えたものであり、社会一般に通じる判断でいえば、嘘としか申し上げようもないものなのであります。

 渡辺証人のノイローゼ気味という特殊性を認識された上で、尚もその証言の一部分だけを取り上げて証拠と採用される判決も誤りでありましょうと、僭越(せんえつ)ながら思うのであります。

 以上の通りでありまして、渡辺証言に対した二審判決の誤りと思われるものに付きまして、私の考え得る範囲で書いてまいりましたが、私は、この渡辺証言こそ、私達を犯人と仕立てるために警察が犯した過ちを如実に示すものであり、嘘の証言であることが、必ずご理解戴けるものと確信しております。

 私は窃盗をした者でありますれば、私の申し上げますことの総ては、自らの罪を逃れんとするざん言である、と裁判官に思われることがありましても、自らの犯した罪を思いまして、ただ、ただ反省あるのみであり、その裁判官のご判断には一言もございません。

 しかしながら、渡辺証言のいかがわしさは、早瀬警部補の証言と同じものでありまして、その矛盾撞着は、覆(おお)う可くもない事実なのであります。

 どうか、私達を犯人とするために警察が犯した不当な手段の一例であります、この渡辺証言に付きまして、その変転極まる証言が真実といえるものかどうかに付きましての、公平なご判断をお願い申し上げます。

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