[資料8−1 被告人の上告趣意書  No.1 - 5

  昭和49年(あ)第1067号          被 告 人  桜  井   昌  司

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改めました。さらに、読み易さを考慮して適宜スペースを設け、漢数字を算用数字に、漢字表記の単位を記号表記に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。なお、この上告趣意書は非常に長文な為、5分割してあります。


.判 決 の 誤 り

(1)青山敏恵、伊藤迪稔、角田七郎、海老原昇平、高橋敏雄各証人の誤りに付きましては、前述(前記207頁の6の(1)以下に)致しましたが、もう1点に付きまして、述べさせて戴きます。

 二審判決は、前記5証人の証言が捜査官の誘導によるものである1つの証拠として、弁護人が提示した小貫俊明証人の証言に対して

「 小貫俊明の原審証言中に警察の方で決めて言った旨の、警察官による誘導を意味する発言があっても、それから直ちに右伊藤および角田両名の警察官に対する供述が、取調官の押付による虚偽のものであるというわけにはいかない。」( 4丁裏1行以下 )

「 小貫俊明の供述記載として『(警察に)そのような感じかと言われたので、そうだといったのです 』との部分があることをあげて、取調警察官が、予断に満ちた、強制的、誘導的取調をしたものと主張するが、右小貫証人の供述記載中には『(被害者方のところで2人を見たというのは)警察で攻められて言ったのではない 』との趣旨の部分もあるし、警察官から誘導されたがために供述したということについては、寧
(むし)ろ否定的である。」( 55丁裏4行以下 )

という判断をしておりますが、この判断は正しくないように思うのであります。

 小貫証人の証言が、どのような経過で作られたのかは知る由もありませんので、

「 被害者方前で2人の男を見た。」

という証言そのものの信憑性
(しんぴょうせい)に付きましては、小貫証人自身が述べるところの

「 警察で責められて言ったのではない。」

という証言を信じたいと思います。が、たとえそうであったとしても、警察による誘導などの取調べを裏付けるものは、存在するのであります。

 小貫証人が、どのような点に付いて、

「 向うの人が決めて言っちゃったのです。」

と述べ、警察による誘導の事実を訴えるのかと見れば、それは、被害者方前で見たという2人の背たけに関した点であることが判りますが、この点の誘導は、何を意味するのでしょうか。

 これは、私達の嘘の自白調書の中に、杉山が道路にいて私が勝手口にいた旨の話(もともとこの話は、早瀬警部補の誘導で作られたものですが)があることで、その話を小貫証人の方に押付けて、捜査官などは、

「(道路にいた人は)警察の人が、それは自転車の上から見たから大きいのだ、と言ったのです。」( 公判調書がありませんので記録丁数不明 )

と、小貫証人が述べるように、

「 道路にいた人が背の大きい人だった。」

と言わせるべく、そして私達の嘘の自白に合わせるべく、小貫証人に対して誘導証言の押付けをしていることを物語るものなのであります。

 つまり、玉村方にいた2人の男を見たことに付いては、

「 警察で責められて言わされたものではない。」

ものであったとしても、私達の嘘の自白に合わせるために、背の大きさを無理に言わせている(小貫証人は公判廷では、被害者と話していた人が大きい人だった、と述べております)ことを考えれば、私達に会ったような証言をする人々である前記5証人に対する捜査官の尋問は、尚更、その目撃事実の月日を勘違いさせるような誘導的、強制的な聞込みであったろう疑念も大きくなるのであります。

 問題は、杉山と暗示させるような点で証言の押付けが行われているということなのでありますから、

「(被害者方にいた2人を見たのは)警察で責められて言ったのではない。」

という証言だけで、小貫証人の総ての証言において誘導を否定し、伊藤、角田証人らに対する警察官による誘導も否定しようとする判決は、肝腎なところを見落とされた判断であろうか、と思うのであります。

 小貫証人は当時中学2年生であり、少年期特有の感性と正義感を考えれば、その目撃においても事実のみを証言しようとしたものと考えられますが、そのような小貫証人に対しても、警察は嘘の自白に合わせるべく、証言の誘導を行ない、その目的を果たしているのですから、前記5証人に対する尋問にも誘導の疑いは大いに残るものでありましょう。

 そもそも、小貫証人は、玉村方前で見た2人の男のうち、道路にいた人については、

「 杉山ではなかった。」

と述べているのですから、この証言は、青山敏恵証人の証言から考えましても、真実と考えるべきなのではなかろうか、と考えるのであります。

 小貫証人は、小学生の頃から杉山を知っていると述べておりますが、裁判官各位にもご経験がおありかと思いますが、子供の頃から知っている人の場合は、後ろ姿だけ見ても(それも同じ町内で見るのですから)容易に認識し得るものであります。

 事実、私の同級生である青山証人は、9月1日の誤認で

「 後ろ姿で桜井昌司と判った。」

と述べている通りでありまして、私自身も、その9月1日には、後ろ姿だけで青山敏恵さんと判ったのですから、小貫証人もその時に見た人が杉山卓男である限り、すぐに認識できた筈なのであります。

 子供の頃から杉山を知る小貫証人が、

「 道路にいた人は杉山でない。」

と断言しているということは、杉山は玉村さんの家の前にいた人ではないということを示しているのです。これは、私の体験による確信であります。

(2)警察官証言に対した判決への意見は、前述させて戴きました(前記134頁の5以下の)通りでありますが、ここでは私の逮捕に関する不法捜査であります別件逮捕に付きまして、法律に全く無知な私でありますが、私見を述べさせて戴きます。

 その違法性を追求した弁護人の弁論に対する判決は、

「 被告人桜井は、昭和42年10月10日、窃盗罪(千葉県柏市内において、ズボン1着、わに革バンド1本を窃取した事実)により逮捕され、その後、引き続き、同年8月28日前後の行動等につき取調を受けている中、同月15日に至り、本件強盗殺人を自白するに至ったものであるが、当時窃盗余罪につき嫌疑もあり、これら余罪に関する取調を考慮しても前記ズボン等の被疑事実につき身柄を拘束して置く必要があったのであり、所論主張のように、現実には本件強盗殺人事件の犯人として取調べるためでありながら、名目を前記窃盗事件に借り、同事件の逮捕状により逮捕し、かつ勾留されたものとは認められない。」( 12丁1行以下 )

と述べられております。要するに、その判決は、

「 現実には強盗殺人の犯人として取調べる目的で、名目を前記窃盗事件に借りて逮捕、勾留したものではない。」

と判断し、その理由として

「 本件捜査線上に浮かんだ他の多数の者と同様に、本件犯行日を挟む前後の行動を取調べる含みをもって、窃盗の被疑事実につき逮捕されたもの 」

「 当時、窃盗余罪の嫌疑もあり、その取調を考慮してもズボンの窃盗につき身柄を拘束して置く必要があったのであり、些細な事件のみを取上げたものではない。」

と述べているのでありますが、私には、どうしても、この判断が正しいものとは思えないのです。

 なぜかと申し上げれば、その判決は、あくまでも

「 逮捕は強殺事件取調べが目的ではない。」

という判断に立ったものであるからであります。

 それに、私自身、嘘の自白をさせられるまでの間、現実に強盗殺人事件での自白ばかり強要される調べをされていたのでありますから、その事実を排斥された上にある判決は、違法捜査をこの身で知る者としてはどうしてもなっとくできないのであります。

 私は法律的なことは判りませんが、問題というのは

「 逮捕が強殺事件で調べる目的だったのか、そうでないのか。」

ということだと思うのですが、そうであるならば、私の逮捕が強殺事件の取調べが目的であったろうことは、早瀬警部補の証言や他の証拠をご覧戴ければ、お判り戴ける筈なのであります。

 現在法廷にあります前証拠をご覧戴いても判りますように、私を窃盗で逮捕した時点で、警察が私に対して持っていた強殺事件の疑いは、単にアリバイが明確でないというだけのことでありますから、

「 本件犯行日を挟む前後の行動を取調べる含み 」

というのは、そのアリバイ調べを指すのでありましょうが、早瀬警部補の二審公判での証言に

「 28日のアリバイがたたないから、窃盗の余罪で逮捕して調べようということでした。」( 第11回公判13枚目裏7行以下 )

とあり、渡辺警部の二審証言にも

「 他にアリバイを究明する方法がない者は、やむを得ず逮捕して調べた。桜井もその1人として逮捕した。」( 公判調書が手許にありませんので、記録丁数等不明 )

という旨の言葉があることでも判りますように、
「 余罪で逮捕しようということでした 」「 やむを得ず逮捕して調べた 」というそれぞれの証言は、私の逮捕の主眼が強殺事件の取調べにあったことを率直に認める証言以外の何ものでもないのでありまして、

「 名目を窃盗事件に借りて逮捕した。」

ものであることは、余りにも明白なのではないだろうか、と思うのであります。

 この点は、前述致しました(前記150頁の(1)の)ように、他県管轄のズボン1本の窃盗事件を、県警捜査本部から強殺事件捜査のために来た警部補達が、東京まで追いかけて何日も張込んで逮捕するのが

「 強殺事件の取調べが目的ではない。」

とする判決は、いかにも、事実に立脚した判断とは思いようがありません。

 勿論、犯人として調べたのか調べないのか、という点では証拠はありませんので、その点は、早瀬警部補の偽り多い証言によりまして、裁判官の良識で真偽のご判断を戴くよりありませんが、早瀬警部補は、

「 28日のアリバイがたたないから、窃盗の余罪で逮捕して調べようということでした。」

というのですし、同じ二審公判では

「 この頃はもう容疑者を洗いつくし、残っているのは桜井しかいないという状態でした。」( 第11回公判12枚目裏8行以下 )

とも、私の逮捕に際する状況を述べているのですから、記憶の失念でアリバイが成立しなかった後の取調べがどんなものであったかは、お判り戴けると信じております。

 その判決が、窃盗の余罪をあげて、逮捕の違法性を否定する点も、私の窃盗事件には取手警察署管内のものは全くないのですから、その余罪が不法逮捕の弁明にならない筈なのであります。

 なぜならば、余罪に関しては、私が進んで話さなければ取手警察署には判りようがないものですから、私を逮捕する時の名目はズボンの件の窃盗だけであれば、その余罪が別件逮捕の違法性を否定する材料にはならない筈と思うからであります。

 また、その違法性を否定する判決には、

「 ただ、前記捜査線上に浮んだ多数の者のうち、他の犯罪の嫌疑により逮捕され、併せて本件当時の行動につき追及を受けた他の数名と異なるところは、被告人桜井はその間に本件犯行を自白したということであり、同被告人が別件による拘束中に新たな犯行を自白しても、それをもって直ちに違法な自白というわけにはいかない。」( 12丁裏6行以下 )

と述べられた部分がありますが、確かに私もこの判決文の述べるところには同感でありまして、

「 被告人が別件の拘束中に新たな犯行を自白しても、それをもって直ちに違法な自白というわけにはいかない。」

という通りであろうと思います。しかしながら、この判決には、前提において誤りがあるのですから、正しい判断ではないと思います。

 その前提は、

「 強盗殺人事件の犯人として取調べるために逮捕したものではない。」

「 早瀬警部補が、桜井を強盗殺人事件の犯人として取調べたことを否定する証言をしても、必ずしも偽りではない。」( 8丁裏9行以下 )

と、早瀬警部補の真実を述べたものではない、強殺事件での取調べの否定を、その儘に認め、強殺事件での取調べ、自白の強要が全くなかったことを前提にした判断なのでありますから、正しくないと思います。

 別件逮捕の違法性を否定する判決は、最後に

「 10月23日に強盗殺人罪で逮捕状が執行されるまでの間に作成された供述調書6通のうち、冒頭自白の同月15日付のもの1通を除くと、直接犯行につき供述しているのは同月18日付のもの1通のみで、他は前後の模様につき述べたものであり、必ずしも窃盗による勾留期間を利用して、強盗殺人事件を捜査しようとの捜査当局の意図を窺
(うかが)わしめるものはない。」( 12丁裏11行以下 )

と述べて、その逮捕、勾留の正当性を認めておりますが、

「 窃盗による勾留期間を利用した 」

ことは明白でありまして、その判断も誤りと申し上げざるを得ないのです。

 警察、検察の取調べ、の中(前記39頁の(6)以下)でも述べましたように、10月15日の嘘の自白以後も連日犯行についての尋問を受け、それによって日々に詳しい調書が作成されているのです。

 つまり、連日犯行に触れる調書は作られているのに、警察が提出しない(或いはできない)だけなのでありまして、そこに不正も存在するのですが、何れにしても、10月15日付調書から逮捕状執行の日までの6通の警察調書を引用した判決の誤りは、警察官の証言によっても明らかなのであります。

 富田巡査の一審公判での証言によれば、

「(窃盗の余罪が出たということは)10月20日に取調べが始まる時、聞きました。その前には全然聞きませんでした。」( 2313丁裏1行以下 )

と述べておりますが、二審判決も

「 窃盗の係員である富田刑事 」( 8丁裏3行 )

と認める富田巡査が、10月20日以前に窃盗の余罪を聞いてすらいないというのは、その時までに、全く窃盗に関する捜査は行われていなかったことを示すのであります。

 窃盗の捜査を全くしない窃盗の勾留期間は、強殺事件の取調べに使われていたことに説明も不必要かと思うのですが、取手警察署提出の「 桜井昌司に対する出入状況調査表 」(尚、引用時間は昭和47年2月9日付のもののみ)を見て戴ければ、10月15日および18日付調書以外にも、直接犯行につき供述させられた調書があることは、お判り戴ける筈なのであります。

 その「 出入状況調査表 」によれば、

 10月16日      計 11時間

 10月17日      計  9時間45分

 10月18日      計  5時間50分

 10月20日      計  5時間

 10月21日      計  6時間25分

 10月22日      計  5時間05分

というのが、10月16日以後の取調時間ですが、早瀬警部補の一審証言である

「 私は、調べをした時に調書を取るというのが自分のやり方ですから、調べをやって、あの時には、ほとんど毎日と言ってもいいぐらい調書を取りました。」( 2171丁7行以下 )

という言葉と合わせて考えて戴けますれば、強殺事件の逮捕状執行の日である10月23日以前で、調べ時間だけが記録され、調書の提出されていない日である10月16日、同17日、同22日にも調書が作られていることもお判り戴ける筈であり、現在法廷にあります6通のみの調書を前提に行なわれる判断の誤りも、お判り戴けるかと思うのであります。

 そして、私がその判決文の中で、特に著しい誤りと感じますのは、

「 10月18日付を除く他の調書は、前後の模様を述べたものであり、窃盗の勾留期間を利用して、強殺事件を捜査しようという意図を窺
(うかが)わしめるものはない。」

と述べられている点であります。

 早瀬警部補の一審証言である

「 8月25日、26日、27日、29日、30日、31日というのについては、はっきりどこで何をやっていましたと、それに基づいて裏を取ってみると、やはり、確かにそういうことなんです。」( 2158丁4行以下 )

という言葉を見て戴ければ判りますように、私の8月28日夜を除く行動に付いては、警察は、10月15日以前に裏付けを取ってあったのですから、嘘の自白以後には、わざわざ「 前後の模様につき 」何時間も使った調べをする必要がないのであります。

 そうである以上、

「 他は前後の模様につき述べたものである。」

という調書については、それらの調書が提出されている日にも、それの取調べのみに時間が使われた筈がないのであり、それらの日にも、犯行についての取調べと調書作りが(私が主張致しますように)行われたことを物語るのであります。

 10月18日の計5時間50分の調べ時間で、2通の調書(1通は犯行に触れるもの)が作られているのですから、他の日の調書に、既に裏付けの必要のない前後の模様を述べた調書があるだけで、直接犯行に触れるものがないということは、その日々の取調時間から考えましても、不自然というものでありましょう。

 それに、

「 直接犯行につき供述した調書が1通だけである。」

ということが、なぜ

「 窃盗の勾留期間を利用して、強殺事件を捜査しようとの捜査当局の意図を窺(うかが)わしめるものはない。」

という判断につながるのかも、不思議で、犯行につき述べる調書でも、前後の模様を述べる調書でも、強殺事件の捜査であることに変わりはないのですから、それが違った種類の調書であるごとく説く判断は、正しくないと思うのであります。

 以上の事実をご覧戴けますれば、その違法性に付きましての真実(法律的なことはわかりません)が、ご理解戴けると確信しております。

(3)次に、この点は述べさせて戴く順が違ったと思うのですが、二審判決が

「 不当な偽計と誘導により得られた任意性のない内容虚偽のものと疑わせるものは見出しがたく、これは同被告人の検察官に対する各供述調書についても同様である。」( 8丁10行以下 )

と判断します、検察官の調書に付きまして、述べさせて戴きます。

 吉田検事の取調経過に付きましては、前述致しました(前記125頁の(3)以下の)ように、時間的に不当なものなどはありませんでした。

 私としましては、

「( 証人は、たとえ裏付けというものがなくても、真実を言っていれば人の心を打つ響きがあるものだ、君の言う言葉にはそれがないというようなことは )、そういう趣旨のことは話した記憶あります。」( 2075丁裏6行以下 )

「( とても君の言ってるようなことでは、救われないだろうということは )、そういう趣旨のことは言いました。本当のことを話さなければ、救いようがないだろうと言いました。」( 2076丁裏3行以下 )

「 警察官がさもロッカーの番号を教えるような調べ方をすることは、到底、考えられない、そういうことはありえないということで、大分追及したんです。( 2082丁2行以下 )

「( 警察で作られた調書を見たが、あの調書は犯人でなくちゃ出来ないぞ、と私に言ったことを )ええ、記憶してますね。」( 2084丁5行以下 )

「 とにかく、真実を話しなさいということを強調しましたね、それを一貫して言ったと記憶してます。」( 2076丁8行以下 )

と述べる、吉田検事の調べに対して、もう犯人にされるのだから、真実を言ってもどうにもならない、という気持にされてしまい、嘘の自白をしてしまったのです。

 その時の心理状態は前述した通りでございますが、その時の嘘の自白というものは、何度も繰り返された警察の取調べで覚えたことを、述べたものなのであります。その話では、(どの点などかは忘れましたが)吉田検事の尋問によって適当に話を作り替えたこともありますが、

「( 証人がお調になっている時に、今までに出て来なくて、被告人の口から新たな具体的な事実が出て来たことはありましたか )それはロッカーの鍵のナンバーです。」( 2080丁裏4行以下 )

と、吉田検事が述べる点は、嘘であること、つまり、吉田検事が発見したことを私の言葉として調書に記録したものであることが、吉田検事自身の証言で明らかなのであります。

 吉田検事は、私がロッカーの番号を

「 ロッカーを中心に盗みを働いておったと、こういうことから、番号を刻みこんであることの知識があって、その番号を、そういう経験上、本件の場合にも記憶しておったんだという趣旨で述べた。」( 2080丁裏10行以下 )

と、私が進んで述べたように証言しますが、これが嘘なのです。

 公判検事との問答にあります

「 その点について、果してそういうことがあったかどうかという点については、証人はお確かめになりましたか。」

「 ええ、現場に行きました。」( 2081丁裏2行以下 )

と述べられた部分から考えますと、私が供述した後に現場に確認に行ったようですが、

「 確認に行ったのは、いつ行ったんでしょうか。」

「 警察官がロッカーの番号を教えるような調べ方をすることはあり得ないということで、大分追及したんです。しかし、どうしても被告人が荷札が付いていたと言ってきかなかったので、その疑問を晴らすために現場に見に行ったのです。」( 2081丁裏8行以下 )

という証言部分から考えて戴けますれば、吉田検事がロッカーの番号を見に行ったのも、私が

「 ロッカーの鍵であるという表示の荷札が付けてあったので、それを見て、俺は番号を記憶してたんだというような申立をしてたのです。」( 2081丁裏9行以下 )

と述べていた時、つまり、未だアリバイを訴えていた頃ということになることもお判り戴ける筈であります。そして、

「 現場へ行ってみて、鍵穴の上に番号が刻みこんであることが判ったのです。それで引き返してきて、被告人に尋ねたわけです。その結果、先程説明したように、被告人にそういう知識があって、記憶してたんだという説明があったんで、納得がいった。」( 2082丁7行以下 )

と述べられた証言を見て戴ければ、私がロッカーの鍵穴の番号に付いて言わされたのが、吉田検事が、

「 現場へ行ってみて判った、その結果 」

であることもお判り戴ける筈と思うのであります。

 吉田検事が、現場に行って確認した後に、私にその理由づけをさせた「 ロッカーの鍵穴番号 」は、それが検事の述べる

「 新たな具体的事実 」

となるものではないことは歴然としておりましょうが、吉田検事自身が、

「( それは調書を取る前に見に行かれたわけですね )そうです。」( 2082丁裏4行以下 )

と認めておりますように、この件に関した真実というものは、私の主張致します取調経過(前記130頁の5以下)の通りなのであります。

 尚、一審論告の中には、

「 被告人桜井によって、初めて明らかにされた事実もみとめられる。」( 3509丁7行以下 )

と述べられた部分がありますが、これが、このロッカーの番号を示すものであるならば、吉田検事自身が確認したことを、私に理由づけさせたものなのでありますから、

「 桜井によって初めて明らかにされた 」

という判断は、誤りであります。

(4)最後に、自白調書の疑問に対する判決の誤りと思われる点に付いて述べさせて戴くつもりですが、私は、犯行現場を早瀬警部補の誘導などで知るのみであり、捜査報告書なども見る機会がありませんでしたから、具体的な調書内容と現場の相違に付きましては、判りません。が、犯人に作られた者として判ります判決の誤りと思われる点に付きまして、私に判る範囲で順に述べさせて戴きます。

 初めに、犯行現場に至る経路と、2回目の借金申込を相談した場所に付いての私と杉山の各供述の食違いに対する判決を見ますと、

「 被告人両名が、利根川に架けられた栄橋の東袂
(ひがしたもと)付近で、最初に被害者から借金をする相談をしてから、ともに被害者方に赴(おもむ)き、借金の交渉をして断られ、再び、栄橋東袂(たもと)付近まで戻ってくるまでの道順について、各供述調書の記載内容を見ると、いずれも首尾一貫して、桜井は、往路は横町通りを通って行き、帰路は渡辺和夫宅および麦丸屋前を通って栄橋の方へ戻った、と述べているのに対し、杉山は、往路は相被告人桜井のいうところと同じであるが、帰路は往路と同じ道を通った、と述べていることは、所論主張のとおりである。しかし、さらに進んで検討してみると、第2回目(すなわち、犯行直前および直後)にも、被告人両名は栄橋東袂(たもと)付近と被害者方との間を往復しているのであるが、その経路に関しては両者の間に供述の食違いはない。これによってみると、1回目の帰路については、被告人両名のうちいずれか1名の記憶違いにより供述の食違いを生じているが、犯行に接着する2回目の経路については、往復とも両名の供述が一致していることになる。」( 24丁裏14行以下 )

「 次に、論旨のいう2回目の相談の場所は、桜井の供述調書においては、土手を降りて川原を往復しながら話がされた趣旨に記載され、他方杉山の供述調書の場合は、それが栄橋の東の袂(たもと)付近とされていることは、おおむね所論主張のとおりである。しかし、桜井の供述中にも、土手に立っていて、暗がりの中で約10分ぐらい話をして、土手を降り、川原の方に行った旨の部分(10月24日付警察調書)がある反面、杉山の供述中には、その話をした場所として、栄橋袂(たもと)のバス停付近広場をぶらぶらしていたのであるから、土手の下へも降りたかも知れないとの部分(10月24日付調書)があって、双方はその内容に実質的に大した差異があるものとは認められない。」( 25丁裏8行以下 )

と、それぞれに対して述べられておりますが、その話の食違いを

「 いずれかの記憶違い。」

「 実質的に大した差異がない。」

と述べて合理化する判決は、あらゆる事実関係を正確に把握されない判断であろうか、と思うのであります。

 本件が私達の犯行である場合、この様な犯行に至る原因は、玉村さんの家に行ったことになる訳ですから、実際に行ったのであるならば、その原因に直接つながる自分の行動を、布川町を熟知する私達が忘れたり、勘違いしたりする筈はないのです。

 特に、その警察調書を見て戴ければお判り戴けるように、人を殺すという異常な状況下であったにもかかわらず、現場の様子は、机の抽斗(ひきだし)の形状、数がどうの、ロッカーの内部が何段に区切ってあったの、天井に下った蛍光灯の形がこうのとほとんど誤りなく、正確に記憶していたように記載されておりますが、この事実と対比して戴けますれば、道順の食違いの不自然さはご理解戴ける筈でありまして、この捜査当局が知っていた事実に対する詳細さと、知り得ぬ点での食違いという対する2つの事実が、自白というものが作り上げられた虚偽のものである証拠の1つなのであります。

 また、2度目の借金の相談をしたとされる場所も、杉山の話のバス停広場付近と私の話の土手上暗がりは、100メートル余りも離れているのですから、これも実際の体験を話したものであるならば、利根町に住む私達が間違えるものではないのです。

 実地検証に参加されず、布川を記録の上だけで知る裁判官には、100メートルも離れた場所も同じ利根川堤防上を理由に

「 大差ない。」

と感じられるかも知れませんが、杉山の話の場所と私の話の場所は、布川を熟知する者には間違えようのない、感覚的に違った場所なのであります。

 検証調書をご覧戴ければ判りますが、布川堤防上は、栄橋を境にして上流西側の土手は自動車道路であり、下流東側の土手は自転車などが通れるだけの道路であります。

 そして、杉山の話にあるバス停広場とは、栄橋から上流に面してあるもので、私の作った話の土手上暗がりは、そのバス停広場から100メートル以上も離れたところなのでありますが、なぜ、この2つの場所が、布川に住んでた者などに感覚的に違う場所なのか、といいますと、それは栄橋から20メートル程下流のところにあります石の棒材があることによるのであります。

 栄橋下流の土手を20メートル程行きますと、そこには自動車止の目的で石の棒材が立てられてあって、私達が友人などと話す場合もその棒材の栄橋寄りでありまして、それより下流(つまり、暗がりで話をしたとされる辺り)には、余り行かないものなのです。どういう具合かは判りませんが、その石の棒材が境界線のようなものになっているのでありまして、この心理は、利根町に住み、栄橋近辺で同級生などと話をした体験がある人でしたら、必ず理解できるものなのです。

 もし、私と杉山が、事件の犯行に際してその場所に行ったものであるならば、それが普通は行かないところであるだけに一致した話になる筈で、2度目の借金の相談の場所も食違う筈はないのであります。

 私達が利根町に住む者であり、布川を熟知する者であるという現実を軽視され、それぞれの話の食違いに対して

「 いずれかの記憶違い。」

「 実質的に大した差異がない。」

とする判決は、その食違いの本質を見誤られたものであろうか、と思います。

 その食違いに対して判決は、最後に

「 結局のところ、所論の指摘する2点についての両者の各供述の相違は、その程度、内容、重要性等から判断して、本件犯行の各自白の信用性に影響を与える程の重要なものということはできない。」( 26丁の10行以下 )

と述べておりますが、この判断をされた裁判官は重要性の基準を間違われたのではないでしょうか。

 二審判決も

「 犯行を直接に立証するものは、供述以外にない。」

と認める本件なのでありますから、調書内容の食違いに重要とか、重要でないと区別することが許される筈はないでしょうし、その調書内容は総てが重要でありましょう。

 そして、特に、重要性の度合を量りますならば、玉村さんの家の中に机があって、その抽斗(ひきだし)には把手がなかったとか、タンスがあったとか、ロッカーがあったとかなどの現場の状況の、既に捜査当局の知っている点に付いて述べられる調書内容よりも、捜査当局に判り得ない点に付いて述べられる調書内容の方が重要性が高いということになる筈であります。

 申し上げる迄もなく、借金の相談の場所、その経路等は、捜査当局の知り得ない点の供述となるのでありますから、それらの点で食違う供述が

「 その程度、内容、重要性等から判断して、自白の信用性に影響を与えるほどのものではない。」

と合理化できる筈はないでしょうし、裁判官は、その重要性の判断を誤られたものではないでしょうか、と思うのであります。

 次に、侵入口の疑問に対する判決ですが、私は玉村さんの家がどうなっているかは知りませんので、その客観的事実と供述の不一致に付いては判りませんが、1点だけ、作られた自白を示すものと判るところがあります。

 私の警察調書を見れば、

「 玉村方勝手口石段に上がり、今晩は、と言ったら、象天さんが8畳間西側ガラス戸を開けて顔を出した。」

という旨の供述がありますが、この

「 被害者がガラス戸を開けて出て来た。」

という話は、不自然であり、作られた話であることを示すものなのであります。

 その実況見分調書にもありますように、玉村さん方現場の8畳間は、西側の窓と南側のガラス障子戸の出入口が侵入口となり得るもので、西側の窓は発覚時にも閉ざされておりましたのですから、8畳間南の出入口が侵入口でありましょう。

 が、真夏の夜7時過ぎに、8畳間を完全に閉め切るように、西側道路に面する窓も、ガラス障子戸も閉めておいてあったごとき、

「 ガラス戸を開けて顔を出した。」

という話は、全く不自然なのです。

 私が逮捕され、嘘の自白をさせられたのが、10月であるために、早瀬警部補の誘導によって、このような形の話になったのですが、10月の話であれば、

「 ガラス戸を開けて顔を出した。」

という話も自然ですが、真夏の8月28日ではおかしいのでありまして、この事実は、話が10月に作られたものであることを物語るものであります。

 それに、8畳間入口の長4畳間には、扇風機が倒れていたというのですから、その扇風機が使用可能な状態であるのかなどは判らないにしても、そこに扇風機があったということは、使用していたものであろうことは確かで、当然、8畳間のガラス戸が開いていなければ、その使用も不可能なのであり、それらの事情を考えて戴ければ、

「 ガラス戸を開けて、被害者が顔を出した。」

という話の不自然さも、明確にお判り戴けるものと思います。

 次は、8畳間ガラス戸に関する供述の疑問に対する判決ですが、

(1) 先ず、逃走を急ぐ筈の犯人が、わざわざガラス戸を外ずしたり、ガラス戸を壊して騒音をたてる筈がない、という弁護人の弁論に対する判決を見ますと、

「 被告人らが捜査段階で最終的に説明するところによれば、被告人らの意図は単にガラス戸を外ずして、他の者の犯行のように見せかけようとしたものであって、ガラスを割ることまで予め意識していたとは認められず、従って所論主張のように、故意にかような騒音を立てたものではない。また、かような方法が犯行を晦
(くら)ますのにどの程度有効かは別問題として、被告人らが急いでいたにせよ、さような考えを持ったこと自体は異とするに足らず、かようなことがらから、所論主張のように被告人らの所為としては不自然であるとか、同人らの自白を、現場に符合させるための警察の述作によるものであるという結論を導き出せるものでもない。」( 17丁の(1)以下 )

と述べられておりますが、この解釈は不自然であるように思うのです。

「 他の者の犯行と見せかけようとした 」

目的でガラス戸を外ずしたというのであるならば、その行動が、他の者の犯行と見せかける上で、どのような効果を期待して行なったものであるとか、という合理的な説明が、そして、その説明が誰にでも納得できるものである必要があるのではないでしょうか。

「 他の者の犯行と見せかけようとした 」

「 さような考えを持ったこと自体は、異とするに足りない 」


ものであり、犯行を晦
(くら)まそうという考えに付随して起こされた行動としては、全く不自然な理由づけというものなのであります。

(2) 警察が、現場の状況に私達の自白を合わせるために

「 他の者の犯行と見せるためにした 」

という理由の元に、私達にガラス戸を現場の状況に合うように言わせたものであることは、

「 この点に関する杉山の供述は、被告人両名でガラス戸を外ずそうとして、東側の1枚がなかなか外ずれないので、自分は足で蹴とばしたら、上のガラス2枚が割れて落ちたが、その間、昌司はもう1枚のガラス戸を外ずして横に立てかけて便所の方へ行き、自分はガラス戸から手をはなしたら、ガラス戸は倒れて大きな音がしたとの趣旨になっている。」( 36丁の2 )

と説かれた判決文の中にも現われているのであります。

 二審判決は、

「 ガラス戸を割ることまで予め意識していたとは認められず、故意にかような騒音を立てたものではない。」( 18丁の12行以下 )

と述べておりますが、故意にガラス戸を壊したというような話は不自然なのですから、取調官がそのような理由づけをした調書を作る筈はないのであって、調書に

「 ガラス戸を割るつもりはなかった。」

と記載されてあっとしても、その言葉がその儘
(まま)、ガラス戸を割った件に関する理由とはならないと思います。

 問題は、

「 故意にかような騒音を立てたものではない。」

という調書上の説明が、誰にも納得できる合理的なものかどうかということでありましょう。

 それでは、

「 東側のガラス戸がなかなか外ずれないので、足で蹴とばしたら、ガラス2枚が割れた。」

という説明が合理的なものかと考えてみますと、そのガラス戸は、

「 東側ガラス戸の上框
(うえかまち)の西寄りの端が割れている。」( 二審判決36丁裏の7行 )

という状態であれば、単に足で蹴ることで框(それも下を蹴って上框)のホゾが折れるというのも不思議ですし、それほど強烈に打撃を加えることが、

「 ガラスの割れることを意識しない。」

という説明も不自然でありましょう。

 そして、もし、その調書に記載されました通りに、足で蹴ってガラスを割ったものだとしても、犯罪を終えた犯人であるならば、浮足立っていたであろう時のそのガラスの割れる音には驚き、当然もう物音は立てないようにしよう、と思わなければおかしいのです。

 であれば、

「 手をはなしたら、ガラス戸は倒れて大きな音がした。」

などという説明も、ガラス戸が倒れたら大きな音のすることは判りきったことなのですから、その倒れるガラス戸を止めようともしない話は、これまた不自然でありましょう。

 ガラス戸の倒れ方などというものは、どのように倒れるにしても、自然に倒れるものは一定の速さ以上ではないのですから、足で框(かまち)が割れるほどに蹴って物音をたてた犯人が、倒れんとするガラス戸に手も出さず、漫然と見送って倒れる儘(まま)にしたなどという話は、不自然極まる話ではないでしょうか。

 そのような状態の犯人であるならば、身を挺(てい)しても物音の立つようなことは防がない筈(はず)がないのでありまして、

「 故意に騒音を立てたものではない。」

とする判断も、正しくないものでありましょう、と思うのであります。

 結局、このガラス戸の件も、ガラス戸が敷居から直接倒れたように現場の状態として残されていたことで、その状態に話を合わせるために、ガラス戸を足で蹴り(割れたガラスは、ガラス戸が立っていた時に割れた状況にあるために)、その後は倒れる儘にしたという話に作ったものでありましょう。

 が、ガラス戸、障子などは、外ずすのであったのならば、ガラス戸と平面的に向い合って、戸の両端を両手で持ち上げて浮かせば容易なことは、人間生活を20年も続けていれば誰で知っていることなのですから(杉山の調書を見ていませんので、そのように行なったかどうか知りませんので、間違いがあるかも知れません)、そして、警察の捜査報告書によっても、そのガラス戸が特に外ずれにくい状況にあったものとは認められないようなのですから、ガラス戸のガラスが割れるほどに強烈に

「 外ずれないので、外ずそうとして蹴った。」」

などという話は、不自然な話というものなのであります。

 次に、便所の窓の件で、便所窓枠を擦(こす)った形跡がないのに、この窓から逃走したというのは客観的事実とは矛盾する、と述べた弁論に対する判決を見ますと、

「 検証調書によれば、窓枠を擦
(こす)った形跡の認められないことは所論主張のとおりであるが、同所に埃(ほこり)(雨や風によって容易に消失することはいう迄もない)がたまっていた等、擦った跡の残り易い状態にあった旨の記載もなく、また、そのような状態にあった形跡も存しない(写真30号参照)ので、擦った形跡がないからといって、所論のように、桜井がここから外へ出たということと、客観的事実が矛盾するということはできない。」( 35丁の13行以下 )

と述べられておりますが、

「 埃が雨や風で消失する。」

と、窓の框に埃がなかったことを前提にされる判決は、実生活と玉村さんが1人暮しであったということを無視されたものであろうか、と思います。

 どんなに密封した部屋であっても、木造家屋である限りは、土埃の積もるのは防げないものであることは、ご存知下さるかと思いますが、框に積もる埃も同じなのでありまして、1度積もった埃というものは、たとえ、かぜや雨があっても、薄埃まで完全に消えさることは絶対にないのです。

 これはビルのガラス拭きなどをしていた私の経験による確信なのですが、たとえ、1センチメートルの框の上でも埃は積もるものでありますから、

「 埃の残り易い状態にあった形跡も存しない。」

とする判決は、土埃というものはどんな細い框の上でもたまり、どんな雨風があっても完全に消え去るものではない、という事実を軽視したものであります。

 玉村さんは1人暮しであり、部屋の中も乱雑であったと聞きますから、便所の窓を掃除していたとは考えられませんところであれば、框の上に埃があったことに疑念を挟む余地はないと思います。

 そもそも、犯人の侵入口と思われるものは、勝手口と便所の窓だけというのでありますから、あらゆる可能性を探る意味でも、窓全体の状況として埃の具合がどのようであったのか、などを調べなくては、検証の意味もなさない筈ですから、その埃の状況に全く記載のない警察による検証調書は、不手際な捜査を示すもの、と申し上げましても、非難されるものではないのではないか、と思うのですが、肝腎な埃の状態の記録がない検証調書によって、框に埃がなかったような前提において判断されます判決も、正しくないのであります。

 次に、玉村さんを殺して盗って来たとされる金銭の変遷、その使道の変遷などの疑問に対する判決部分です。

(1) 先ず、私が取ったとされた金銭の変遷についての疑問を述べた弁論に対した判決を見ますと、

「 原審記録中の桜井の警察員に対する各供述調書の記載によると、同被告人が自らとったという金員および犯行後杉山から貰った金員は、かなりの変化を見せている。しかしながら、杉山は、すくなくとも金額に関しては、自分が押入れの中あるいは畳の下からとったのは約10万円であると述べていて終始変るところはないし、桜井に分けた金についても、千円札10枚束3束と1万円札1枚の計4万円であると一貫した額を述べているのである。

 そして、供述内容の浮動する桜井でさえ、自己がロッカーから千円札7枚をとったことを一旦認めた後は、これを維持していることも明らかである。これらを通観すると、桜井がロッカーから現金7000円を、杉山が押入れの中から約10万円を、それぞれ取り、右10万円のうち約4万円を杉山から桜井に渡したものであるということは、ほぼ動かし難いところというべく、その旨の各供述は十分に信用できるものと考えられる。」( 31丁裏7行以下 )

と述べられておりますが、私に関する点を要約すれば、

「 7千円取ったとの自白が、6万円から変更されてから一貫しているので十分信用できる。」

と述べていることが判ります。

 しかしながら、この金に関しては何ら裏付けもないことでありますから、警察での取調べも、尤(もっと)もらしく話が合いさえすれば、それ以上に訂正の訊問や調書の変更が行なわれる筈(はず)がないのですから、供述の変遷の後に一貫した言葉があるからといって、そのことだけで信憑性(しんぴょうせい)の判断をするのは、無理な判断というものであろうか、と思うのであります。

 むしろ問題は、その盗った金となったものの供述の変遷の理由が、誰にでも納得できる合理的なものかどうかということでありましょうが、その変遷の理由づけによってこそ、金銭に関する供述が作り話による必然的な変遷であるものか、それとも犯人であった私が嘘を(調書にあるような理由で)述べたものかが判ろうというものなのであります。

 それでは、警察調書に記された金銭の変遷に関する理由は、最終的にどのようなことになっているか、と見れば、

「 杉山と食違った話をしていれば、裁判で無罪になる、助かると思ったから。」

ということが、11月1日付の調書などに記されておりますが、このような理由としたところに、却って、その供述が取調官によって作られた話である、証拠を見ることができるのであります。

 その自白の変遷の理由である

「 食違った自白は無罪になる。」

という言葉は、
裁判所の判断にまで立入った法律的に充分に裁判を知った者の言葉であるということに説明は不要でしょうが、私の学歴、また、それ以前には逮捕されたことがないという経歴を考えて戴ければ、私にそのような法律的な知識が無かったということがお判り戴ける筈であります。

 私には、そのような知識がないのですから、

「 食違ったことを言えば、裁判で無罪になると思った。」

などという、その理由も、単に変遷の辻褄
(つじつま)を合わせるだけのために、取調官自身の知識を私に押付けて言わせたものであることが、お判り戴けるのではないかと思うのです。

 このような、私の言葉としてはあり得ない理由づけをしただけの供述の変遷を、単に

「 7千円取ったとの自白が、6万円から変更されてから一貫しているので十分に信用できる。」

という一点のみで無視される判決は、肝腎な点を見落されたと思うのでありますが、この金銭に関する嘘の話を作らされた経過に、前述致しました(前記88頁の(5)以下)ように、その時、その時で理由があるのです。

 10月18日付調書で、なぜ6万円をとったとされたのかといえば、早瀬警部補に

「 お前も杉山に金を見せたそうじゃないか。」

と言われて私も金を取った話を作ることになり、それまでに「 杉山は10万円ぐらい取った 」という話を作ってあった関係から、釣り合いのとれる金額ということで

「 私は6万円を取った。」

という話に作った訳なのです。

 その6万円が、なぜ7千円に変わったのかといえば、早瀬警部補に

「 杉山がお前に金を分けたと言ってるんだがどうなんだ。」

と言われて、杉山に金を貰った話を作らされたのですが、当時の実際の行動で大金は持っていなかった事実と合わせるためもあって、杉山に分けて貰ったことになる金を加えても多過ぎない金額に訂正し、「 7千円が本当 」と変えて、今度は、当時は金を持っていなかった私の行動に合わせて

「 全額競輪で使った。」

という話に作ったのが、10月24日付などの調書だった訳です。

 杉山に貰ったとされた金と合わせても多過ぎない金(7千円)を取ったことに話が出来れば、それ以後は、その金額に付いては追及されることが無かったので、7千円の儘(まま)になった訳なのですから、この話が作られた経過を考えて戴ければ、7千円となった後の調書が一貫していることが、信憑性(しんぴょうせい)の根拠とならないことが、お判り戴けるかと思います。

 11月1日付警察調書の中の6項に

「 6万円とったと嘘を言ったのは、杉山が多いのに俺が少ないのでは信用されないと思ったから。」

という嘘の供述をした理由であるというものがしるされております(尚、10月24日付警察調書31項にも同趣旨の理由が書かれています)が、この理由というものも、全く不自然なものでありましょう。

 もし、この理由というものが本当であるならば、この(6万円取ったという)自白をしていた者は、警察に信用して貰おうとだけ考えて自白したことになりますが、そうであるならば、他の犯行の経過などに付いても、信用して貰おうということだけを考えて自白していたことになる筈(はず)です。

 ところが、その自白の変遷の理由が、現場状況などに関した点になると

「 杉山との約束で、細かい話は喋
(しゃべ)らないことになっていた。」

ということになるのです。片方では、

「 警察に信用して貰おうと思った。」

と、率直、素直に信じて貰おうと自白を重ねたような嘘の供述の理由を述べ、片方では、

「 杉山との約束で嘘を言った。」

と、信じて貰おうと考えて自白をしていた者には、考えられない嘘の供述の理由を述べているのですから、その自白の変遷の各理由というものは、単に、その場その場で話の辻褄
(つじつま)を合わせただけのものであり、それらの変遷が作り話によるための必然的性質のものであることが、お判り戴けるであろうと思います。

(2) 犯行で得たという金を、取手競輪で費消したという話も、盗んで来た金額の増加に応じて変化しているのはおかしい、と述べた弁論に対する判決を見ますと、

「 桜井が、本件犯行により得たとされている金を翌日の取手競輪において費消したと述べているその金額は、やはり高低があるが、自分が6万円とったと自供していたころには車券を19,000円くらい買ったと述べ、自分は7千円とって、共犯者から31,000円貰ったと、前より少ない入手金額を述べているころには、逆に37,500円くらい負けたというのであるから、取調官が入手金額の増加に応じて多い車券消費金額を教えたというわけにはいかない。」( 34丁の1行以下 )

と述べられておりますが、この判断も正しくないのであります。

 入手金額に応じた車券購入額の増加に対する判決は、

「 なお、入手金額に応じて車券購入額のふえた旨の供述は、白布三折財布を自分がとったと供述を変更した際の供述調書(10月31日付)に、財布の中の百円硬貨も車券を買うのに使ったと述べている場合のみのようである。」( 34丁裏1行以下 )

と判断しているのですが、他方では、その判決自身が、

「 費消金額の高低は、19,000円くらい、37,500円、47,500円ないし47,600円、48,500円くらい、48,000円くらいとなっている。」( 34丁の3行以下 )

と述べているのであって、その各費消金額時の入手金額はどうなっているのか、と見れば、

 19,000円の時が、6万円

 37,500円の時が、3万8千円

 47,500円の時が、4万8千円

 48,500円の時が、5万1千円


となっているのですから、最初のものだけを除けば、入手金額に応じて車券購入額もふえているのでありますれば、

「 入手金額に応じて車券購入額のふえた旨の供述は、10月31日付の供述調書の場合のみのようである。」

とする判決の誤りは、明かでありましょう。

 最初、6万円の中から1万9千円使ったとある部分を見れば、

「 入手金に応じて車券代がふえたものではない。」

と言えるかも知れませんが、当時、ほとんど金を持っていなかったという実際の行動に話を合わせるために、ほぼ全額を車券購入に使ったとされてからは、入手金の増加に応じて車券購入代金も増えているのですから、前項の判決の要領でいえば、

「 一旦、全額近くを車券代金に費消したと供述した後は、入手金の増加に応じて多い車券消費になっているので、捜査官の誘導によるものとして、十分に信用できるものと考えられる。」

と言えるのではないでしょうか。

 7千円を取ったと一貫した後は、今度は車券購入代金で変化するのでありまして、この金銭に関する供述が作り話であることは、その作成経過からご覧戴けますれば、ご理解戴ける筈であります。

 この点での判決は、最後にその信憑性(しんぴょうせい)を、

「 証拠上明らかなように、当時しばしば、競輪場に行き車券を買っていた桜井が、本件翌日に車券を買った金額を正確に記憶しないことは寧
(むし)ろ当然のことであり、したがって、その点に関する供述が右に見たとおり変遷しているからといって、前記1の末段の(7千円盗んだという)各自白の信用性を否定すべき根拠とはなし難い。」( 34丁裏の5行以下 )

と述べておりますが、記憶違いが車券購入代金変遷の理由であるごとく説く判決は、どのように考えましても正しくないと思うのであります。

 確かに、人間である限り、私達を目撃したと述べる証人達のように、記憶違いをしたりすることは免れ得ないものであろうと思いますが、それは、あくまでも平凡な市民生活の場合だけなのであります。

 その判決が認定致します通りに、私は当時しばしば競輪場に行っておりますから、そのための記憶の混乱と説けば尤(もっと)もらしくはありますが、もし私が犯人であるならば、人を殺して得た金を使ったことになるのですから、その経験は、単に、しばしば競輪場に行ってるなどということでは記憶の混乱など起こりようがない程の体験でありましょうから、他の競輪場に行った日と同一の次元で論じられる筈はないのです。

 それに、そもそも、犯行に至る理由が競輪の金欲しさとなっているのですから、その金を使った競輪の日を、他の日と同一条件のように、

「 しばしば競輪場に行った桜井が、本件翌日の車券購入を正確に記憶しないのは、寧
(むし)ろ当然。」

と判断する判決が正しい筈はないのです。

 その犯行の動機が、競輪のための金欲しさとされているのですから、自白調書の真偽が問題の本件にありましては、犯行の目的になる競輪場における金の使道などが、供述の真偽を量る最重要点であろうかと思いますが、その点に関する供述は、入手金額によって2転、3転しているのです。

 金欲しさの犯行とされながら、その金銭の入手額や使道に変遷があるという事実が、その自白が作られたものである本件の真実を、その儘(まま)に物語るものなのであります。

 その警察調書を見て戴ければ判りますように、競輪に出場の選手名、購入車券番号などは覚えているようになっているのですから、人を殺した主目的である車券購入代金だけ忘れたごとき前提によって、その供述の変遷を記憶の混乱、失念に結び付けて合理化する判断は、誤りでありましょう。

(3) 自白が作り話である何よりの証拠は、白布三折財布に関する話ですが、その供述の変遷から自白の真実性の疑問を述べた弁論に対する判決は、

「 論旨主張の白布製三折財布というのは、桜井の供述調書によると、当初は、被害者を殺害して栄橋際まで来たとき、杉山がとって来たものとして桜井に見せたというもので、それが途中、桜井自身が被害者のズボンポケットから取ったことに変り、最後に、2人ともそのような財布をとっていないことに落着いたことは所論主張のとおりである。

 これに反し、杉山はその供述調書において、自分のとった黒色二折財布のことを述べるのみで、白色三折財布を自分がとったかどうかにも、桜井がそれを持っていたのを見たことがあるかどうかにも触れるところは全然ない。

 これらによると、古い白色の布製財布に関する被告人両名の各供述は、どの部分を信用してよいか捉(とら)えどころがないが、右財布またはその在中金については原判決も犯行の対象として認定していないところであるし、なお、右財布に関する供述が変遷しあるいは喰い違っているからといって、前記1の末段で述べた(7千円を取ったという)各自白の信用性まで否定すべきことにはならない。」( 33丁の2 )

と述べております。が、判決自身が、

「 どの部分を信用してよいか捉
(とら)えどころがない。」

と認めるように、この財布の話には何ら信憑性
(しんぴょうせい)が無いのでありまして、その供述の変遷にこそ、作られた自白の必然的なきけつが現れているのでありますれば、この事実を軽視および無視された判決は、正しくないのであります。

 一審判決の誤りを訴えました二審公判でありますれば、何よりも、

「 右財布と在中金は原判決も認定していないし、変遷していても問題ではない。」

と、一審判決に何の判断もなく行われる二審判決は、全く理解できないのでありますが、既に再々申し上げましたように、私達は金欲しさのために玉村さんを殺したとされているのですから、金銭に関する供述部分の信憑性
(しんぴょうせい)こそ、最も重要な点である筈であり、この点の判断を疎(おろそ)かにしては正しい判断につながらないのであります。

 判決は、

「 前記1の末段で述べた(7千円を取ったという)自白の信用性まで否定できない。」

と述べますが、その判決が信用性を認める供述部分でさえも、前項で述べさせて戴きましたように重大な変遷があるのですから、変遷後の一貫した点だけを取り上げて、判決でさえも

「 どの部分を信用してよいか捉
(とら)えどころがない。」

と認める。金を取るために人を殺したという者の金銭に関する供述の変転を無視する判断が正しい筈はないのであります。

 何度も申し上げますが、私達は、金を取るために玉村さんを殺したことになっているのでありますから、金に関した供述点こそ、その真偽の最重要点である筈であり、取った金を取らないと述べる気持は理解されても、取らないものを取ったと述べる気持は常識外のことなのでありますから、この白布三折財布に関する

「 どの部分を信用してよいか捉
(とら)えどころがない供述 」

こそ、作られた自白であることを物語る点なのでありますゆえ、改めてのご検討をお願い致します。

(4) なお、判決の中には、

「 捜査官にあらかじめ判明している事項についてのみ被告人らの供述が一貫しているとの所論は、例えば、杉山がとったという金額、杉山が桜井に分け与えた金額等捜査官にあらかじめ分りようのない事項についても一貫した自白のあることからみて、これも容れがたい。」( 40丁裏4行以下 )

と述べられた部分もありますが、杉山の供述がどのようにつくられたものかは知りませんが、その判決のいう

「 杉山がとった金額 」

に付きましては、私が作った話(前記81頁の6)なのでありまして、それぞれが嘘の自白を作らされた経過を考えて戴けますれば、その供述の一貫性がそれほど信用性の根拠となるものではないこともお判り戴ける筈なのであります。

 尚、私の10月16日付と17日付警察調書が隠された儘(まま)でありますので、私が杉山の取った金の話を作ったものであることは、例を引いて述べることができませんが、それでも、杉山の金銭に関する自白が作り出されたものと指摘できる点はあるのであります。

 私自身の早瀬警部補に取調べられた体験によりましても、嘘の自白であっても、まるっきりの作り話などできないものでありまして、体験をこじつけたりして作ったのが、捜査当局の知り得ない部分の嘘の自白なのですが、杉山は、10万円の金を

「 畳の下から取った 」

と言っている部分があるようです。

 一方、杉山自身が、親の遺産である預金通帳をどのような形で保管していたのかと見れば、彼は自分の家の畳の下に入れておいた、と述べておりますが、玉村さんの家の様子を判決文等で見れば、金の隠し場所には事欠かないようであります(現に二審判決は「 被害者方玄関板間にあった2個の金庫の中から1万円札1枚、他に郵便貯金通帳1冊、普通預金通帳1冊が発見されている 」(19丁裏の(2))、と述べているのですから、10万円もの金を押入れの中や、畳の下に隠していたなどという話が、そもそも不自然なのであります)から、わざわざ畳の下などに金を入れておいたとは、考えられませんし、1万円札1枚ですら金庫の中に保管されていた現実をご覧戴ければ、10万円が畳の下などにあったなどという話の不自然さもご理解戴けることと思います。

 結局、杉山が、

「 畳の下から金を取った 」

と述べたのは、杉山自身の生活体験をこじつけて述べたものであり、その話が作り話である証拠でもあるのです。

 それでは、なぜ杉山の金銭に関する供述が一貫したものになったのか、ということになりますが、それは、私の調書をご検討戴ければお判り戴けるものなのであります。

先ず、私の最初の(10月15日付)警察調書を見て戴けば判りますように、非常に雑なものであります(勿論、これは私が犯人でないためにこのようになったのです)が、渡辺警部や早瀬警部補は、

「 10月15日夜、調書の真実性の検討をした。」( 二審12回公判調書、24枚の3行以下 )

と証言するのですから、現場の様子を知る捜査当局員は、その調書は、私が嘘を言っているので雑な内容になっている、と思った筈です。

 ところが、杉山を取調べた久保木警部補は、

「 現場図面も、桜井の供述調書も取調室に持ち込んで必要な時に見ていた。」( 二審公判調書内 )

と証言しているのですから、当然、杉山の逮捕の日である10月16日までに作られた私の調書内容は、久保木警部補も知っていたことになり、私が作った

「 杉山が10万円ぐらい取って来た。」

という話も判っていたのです。

 現場図面まで見ながらの

「 杉山を犯人との自信を持って調べた。」

という久保木警部補の取調べであり、

「 桜井にひきづり込まれたと思って自棄になって、なんでも久保木警部補の言う通りに認めた。」

という杉山の調書は、現在の10月17日付調書となって残された訳なのです。

 私は最初に嘘の自白をさせられ、話を作ったために、自然と私の調書内容は段階的に現場事実に合わされていったのですが、私がある程度話を作ってから逮捕され、現場図面を使い、犯人との確信を持った取調官の調べを受けた杉山は、一遍に詳しい話が作られて、それが10月17日付調書となって残された訳なのです。

 この杉山の10月17日付調書と、私が作らされた10月15日付調書(から10月16日付調書に変化のある内容)を比較すれば、捜査本部などでは、私が嘘を言ってると思ったことでしょうが、私が嘘を言っていると思えば、嘘の自白の結果として生まれる2人の間の話の食違いは、当然私の方に訂正させるようになるのでありますから、杉山の金銭に関する話(や他の点でも2人の食違いを杉山の方で訂正したりする話)に変化がないのは、嘘の自白が作られていった経過から考えて戴ければ、当然であることがご理解戴ける筈なのであります。

 これらの経過をご検討戴けますれば、杉山の金銭に関する供述が一貫していることも、特別に信用性のおけるものではないことがお判り戴けると思いますが、10月16日付(私の)調書が法廷に提出されておりますれば、この金銭の話が作られた経過は更に明確になるのでありまして、この点を明らかに責任は、検察側にある筈であります。

(5) なお、金銭に関した判決の中には、

「 両名とも当時競輪に相当額の金員を費消していたと窺
(うかが)われる状況にある。」( 20丁3行以下 )

と述べられた部分がありますが、これは誤った推測であります。

 確かに、私も杉山も、当時はしばしば競輪場に行ってはおりましたが、私は2、3千円程度のものしか使わず、私にとりましては、映画館に行くのと同じ気持ちで、同じ500円を使うならば、競輪なら1万円になることもあるという気持で、5、6百円しか所持金が無くても行っていたのですから、単に競輪場に行ってることだけから

「 当額の金員を費消していたと窺
(うかが)われる。」

とする判断は、競輪場に行く私達の気持を無視したものであります。

 自白調書の真実性の疑問に対する二審判決の誤りと思われる点に付きまして、犯人と作られた者として判る点などを述べさせて戴きましたが、以上の他にも、3点ほどの疑問があります。

(1) 判決は、二審公判での渡辺警部証言や早瀬警部補証言などを引用して、10月15日付警察調書は不正なものである、と論じた石井弁護人の弁論を全く無視しております。

 そして、その警察調書の不正の前提として述べた弁論に対しましては、

「 なお、同弁護人の『 最終弁論要旨 』中には、昭和47年2月9日付、茨城県取手警察署長の回答書に、桜井が昭和42年12月8日には留置場から出た旨の記載がないのに、同日付司法警察官に対する供述調書が存在するのは、自白調書日付の不正、警察による欺瞞の一例である、との主張があるが、当審第20回公判において証拠として取調べた同48年4月24日付取手警察署長回答書によると、同42年12月8日は午前10時30分から午後0時まで、および午後1時から午後4時までの間、取調のため留置場出入りの記録があり、右主張は論拠を欠くものというほかない。」( 22丁裏の11行以下 )

と述べておりますが、確かに、弁護人が警察の不正の例としてあげた12月8日の取調時間に関するものは、勘違いでありますから、その判決が述べられる通りに、

「 警察の自白調書の不正を示す一例であるとの主張は論拠を欠く 」

弁論であるかも知れません。

 しかしながら、その判決が論拠を欠くものというのは、あくまでも例なのであります。本旨は、私の最初の自白調書といわれる10月15日付調書が、取調官であった早瀬警部補や捜査責任者の渡辺警部の証言および私の取調時間を記載した警察の回答書を総合してみれば、時間的に到底作成不可能なものであって、最初の自白調書すら大きな疑惑のある警察調書は信用できないものである、と述べたものなのでありますから、判決すべき問題は、弁護人弁論の本旨である10月15日付警察調書の不正なのでありまして、前提部分ではない筈でありますれば、弁護人の誤った証拠引用の前提部分だけに、その間違いを反論し、本旨を黙殺される判決は正しくないと思うのであります。

 二審判決自身が、

「 犯行を直接に立証するものは、被告人の供述以外に存しない。」( 8丁の3行以下 )

という本件の審理でありますれば、当然、その調書には一点の疑惑があってもならない筈ですが、判決は、早瀬証言、取手警察署長回答書等の個々に付いては、無条件で証拠と採用しながら、それらの証拠といわれるものを総合した上での調書そのものの疑問は無視されているのですから、公正な判断ではないと思うのです。

 私の10月15日付警察調書こそが、犯人桜井昌司、杉山卓男のはじまりなのですから、その調書に対する疑惑に全く触れない判決は、一番肝腎な点の判断を忘れられたものであろうと思います。

(2) 判決は、取調官による自白の不当な誘導、強制の事実はなかった例として、

「 例えば、すでに司法警察員による検証の際、被害者方8畳間東側押入床下にある金の隠し場所と推測されるものが発見されているのに、杉山はついに1度も、そこから金を取ったとの供述をし、あるいはさせられていない。」( 41丁の4行以下 )

と述べておりますが、この例の正しくないことは、一方の判決文に、

「 被害者方8畳間押入床下に金の隠し場所と思われる箱が検証の際に発見され、それが空であったことは、所論主張のとおりであるが、当夜それに現金が収納されていて、そこから現金が奪われたと推測できるような痕跡は何も発見されていない。」( 21丁の(3) )

と述べられた部分があることによって明らかなのであります。つまり、

「 現金が奪われたと推測できるような痕跡は何も発見されていない。」

という押入床下の箱なのであるならば、杉山がそこから金を取った旨の供述をさせられなかったとしても、それが取調官の誘導を否定する根拠にはならない筈なのであります。

 杉山がどのような調べ方をされたのかは知る由(よし)もありませんが、押入床下の箱には何の痕跡もないのであって、ガラス戸や8畳間の状況のような事実として残されていたものではないのですから、たとえ取調官が、

「 押入床下の何かから金を取ったのではないか。」

と、訊問したとしても、杉山が「 違う 」と言えば、それ以上の訊問は続けようもないのですし、押入床下箱から何かを奪われた痕跡があり、それでも、そこから金を取ったものではない、と杉山の調書が作られているものならともかく、何の痕跡も発見されていない箱から金を取った旨の調書が作られていないのは、寧
(むし)ろ当然のことでもありましょう(何の痕跡もないから誘導もしなかったのでしょう)から、この押入床下箱に関する件が誘導を否定する根拠にはならないと思います。

 杉山が押入の辺りから10万円を取った話は、私が杉山の逮捕前である10月16日に勝手に作った話でありますことは、既に申し上げました通りですが、本来なら、私の10月16日付調書によって、杉山は私の話に合わせていること、つまり、誘導によって調書を作ったものであることがお判り戴ける筈なのです。

 ところが、警、検察がその調書を提出せず、隠しているのでお判り戴けないのですが、私の取調時間を取手警察署提出の回答書で見れば、10月16日、17日にも調書が作成されていることは明らかなのでありますから、自白調書の真偽が問題の本件にありましては、どのような経過で調書が作られたのかを明確にするためにも、検察側は、私の10月16日、17日付調書を提出する義務がある筈と思うのです。

 杉山の調書というものは、私が段階的に作らされた話である上に作り重ねられたために、最初から詳細になっているものである事実をご銘記戴きたく思います。

 なお、自白の誘導を否定する判決の中には、

「 杉山は10月17日の最初の自白から、桜井が犯行後便所の窓から出たことを述べているのに、桜井がそのことを言い出したのは、はるかに後であること等からも言える。」( 41丁の8行以下 )

と述べられた部分がありますが、確かに考えようによりましては、

「 誘導するならば、杉山の10月17日付調書のすぐ後に作れる筈だから、10月26、7頃になって桜井が便所窓から出たと言ってるのは、誘導しなかったもの 」

と言うこともできるだろうと思います。

 しかしながら、この点に関しましては、早瀬警部補の取調べのところでも述べさせて戴きましたように、直接的に

「 お前が裏の便所から出たそうじゃないか。」

と言われるまでは、答えようがなかった、ということなのです。

 この便所の窓の話も、誘導がなかったのでこのような状況になったのか、直接的な誘導があるまで答えられなかったのか、という点は、調書全体のご検討の上に、裁判官の良識あるご判断にお任せするよりありませんものなのであります。

(3) 次に、警察によるとおり一遍のアリバイ捜査を非難したペン論に対する判決を見ますと、

「 所論主張の、桜井が昭和42年8月28日の夜、桜井賢司のアパート2階居室窓から、隣の建物の2階窓に渡って、室内に侵入したとの点につき、右アパートに実況見分に赴
(おもむ)いた警察官久保文夫は、後に原審証人として『 ちょっと神業じゃないとできないような状況に感じました。』と述べている。窓の手摺(てすり)から手摺まででも、154センチメートルもある双方の2階の窓を、常人では渡れないと警察官が判断しても、これをそれ程誤った判断であると非難するわけにはいかない。」( 51丁裏の3行以下 )

と述べられておりますが、この判決も正しい判断ではないのであります。

 なぜならば、私が兄の隣のアパートに侵入した時の状況を考えて戴ければ判る通り、私は、早瀬警部補にアリバイを訴えた時も、有元検事、吉田検事にアリバイを訴えた時にも、

「 兄のアパートの手摺
(てすり)に上がり、廂(ひさし)に掴(つか)まって上半身を廂の上に出し、隣のアパートの廂に両手をつき、次に片足を出し、手摺と手摺の間に両足を渡した状態にして、廂(ひさし)を掴んだ両手の力を頼りに、兄のアパートの方の足を離して、隣のアパートに渡った。」

と、説明したのでありまして、渡れる渡れないの問題は、手摺と手摺の間の距離よりも、廂と廂の間の距離が重要と判る筈であるからなのです。

 その事実に何の注意もなく、手摺と手摺間距離だけを問題にして、

「 神業じゃないとできないと感じました。」

と述べる久保刑事の判断も見当違いであれば、その証言をその儘に採用される判決も正しくないのです。

 今仮に、兄のアパートの廂と隣のアパートの廂が、手摺よりも20センチメートルだけ外に突き出していた(手摺より廂が外に突き出しているものであることは、ご理解戴ける筈です)としたら、両アパートの距離は、たったの114センチメートルになるのですし、30センチメートルであった場合には、僅(わず)か94センチメートルになるのでありますが、実際に、手摺の上に上がって隣のアパートの廂を見ますと、すぐ手を伸ばせば届く距離にあり、この間を渡ることの容易さも判って貰えるものなのであります。

 このような状況を正確に把握(はあく)せずに、手摺と手摺の距離を調べてよしとして、

「 神業じゃないとできないと感じました。」

と述べる久保刑事には、やはり、私達が犯人であるという妄信があったための予断によるいいかげんさがあった、と申し上げるよりないのですが、二審判決が、

「 検証の際には、立会っていた桜井賢司の方が渡って見せているが、これは桜井兄弟が、常人よりは身が軽く、敏捷であることを示しているものである。」

と述べられる点も、その状況を正確に把握
(はあく)されないものでありましょうと思うのであります。

 それに、そもそも、私のアリバイ主張は10月27日(早瀬警部補主張によれば10月15日)でありますのに、久保刑事が検分に赴(おもむ)いたのが、11月中旬であることを考えて戴いても、そのアリバイ捜査に対する警察の真摯(しんし)さが足りなかったことは、ご理解戴ける筈であります。

(5)私の自白が作られたものであり、嘘である証拠は、早瀬警部補の偽証でありますが、それと同程度に、私達を犯人と仕立てるために行なった警察の不法行為を示し、私達が犯人でないことを物語るものには、警察による指紋対照依頼書に関した証言などの疑惑と、取手警察署長回答書の偽りの2つがあるのです。

 先ず、指紋に関する件で、その判決を見ますと、

「 指紋等、現場に遺されたものに被告人らと犯行を直接結付けるものの発見されていないことは所論主張のとおりであるが、当審第4回公判において提出された現場採取指紋対照依頼書およびこれに対する回答書各2通によれば、指紋は、現場において採取されたもの合計43点のうち、被害者、捜査関係者等のものであることが明らかなもの合計9点を除いては、すべて対照不可能なもののみであり、被告人ら以外に本件犯行の犯人がいるのではないかと疑わせるものはない。」( 7丁裏の(3) )

と認定しておりますが、これを要約しますと、

「 現場の合計43点の指紋のうち、無関係な者と合致した9点の指紋を除いた34点の指紋は、全部対照不可能なもので、他に犯人がいると疑わせるものはない。」

と述べていることになります。

 そして、この判決の根拠とされていると思われるものは、現場で指紋を採取し、その照合をした沼田繁雄鑑識課員の、二審公判での

「 現場で採取した計43点の指紋のうち、犯行と無関係である者と合致した9点だけが指紋で、残りは、ただ指をついた跡としか判らない、指の指紋が崩れた指痕と呼ばれるもので、対照不可能なものだった。」( 公判調書が手許にありませんので、引用に不明確な点があるかも知れません )

という旨の証言と、

「 現場採取指紋対照依頼書および回答書各2通 」

であるかと思われますが、これらの証言、証拠には偽りがあり、その儘に採用する判決は、警察官による偽証と書類上の事実の隠蔽工作
(いんぺいこうさく)を看過(かんか)したものであるのです。

 私は、指紋の採取がどのように行なわれるのかを知りませんが、本件現場で指紋の採取を行なった時点で、採取されたものが、対照可能な指紋であるか、対照不可能な指痕でしかないのかなどの区別は可能なのではないだろうか、と思うのです。

 たとえ、現場で採取した時点(8月30日)には、指紋と指痕の区別ができないものであったとしても、その整理を行ない、現場採取指紋対照依頼書として県警察本部鑑識課に退出する時点(9月10日)には、その採取した38点の指紋が対照可能なものか不可能なものか、などは、専門の係であるものに判らない筈がないのであります。

 沼田鑑識課員の証言にあります通りに、指痕というものは、単に指をついた跡としか判らないものというのですから、そのような対照することに何の役にも立たないものを、整理を行なった「 対照依頼書 」の中に記録として残されることは不思議なのです。

 それというのも、爆発物事件などの捜査を見ても判りますように、指紋というものは、小指の先程の僅(わず)かなものでも対照が可能だというのですから、その事実から本件のことを考えますと、対照不可能なことが判りきった31点もの指痕を「 対照依頼書 」に記録したことになるのですが、対照不可能と判りきった指痕を対照依頼書に記録するなどという話は、不自然な話なのであります。

 しかしながら、以上の思いは私の推測でしかありませんので、「 間違いだ 」と言われましたら一言もありません。

 それでは、犯行現場から採取された指紋が、対照不可能な指痕などでなく、その総てが指紋(勿論、対照可能なもの)であったことは何によって判るのか、といえば、それは二審判決文にあります、

「 現場採取指紋対照依頼書および回答書各2通 」

の記載を比較ご検討戴ければ、お判り戴けるものなのであります。

 昭和42年9月10日付の現場採取指紋対照依頼書によれば、採取指紋一覧表の対照結果欄に「 対照不能 」と記載された指紋が31点あり、これを指して沼田鑑識課員は、

「 対照不能というのは、指痕で対照不可能という意味である。」

という旨の証言をするのですが、同依頼書末尾の回答欄を見れば、

 
対照不能指掌紋   31個

の記載があるのですから、対照不能だった31個が、指紋であり掌紋であることに疑念を挟む余地はないのであります。

 このことは、昭和42年12月8日付回答書に、

 
1 1本には2個指痕で対照不能

と記載されているのをご覧戴けばお判り戴けるのですが、一方の回答書の中には、明確に

「 指痕で対照不能 」

と記載されているのですから、それと対比しましても

「 対照不能指掌紋 31個 」

という記載が、対照可能な指紋と掌紋が31個存在することを示したものであることがお判り戴ける筈であります。

 尚、9月10日付対照依頼書には、

「 被害者、関係人など41名の関係者指紋とともに送付した・・・・。

 3、送付関係者指紋

     第一発見者    香 取  末 次 郎
                   他40名 」


という記載がありながら、その住所、氏名記載部分に25名の氏名しか記録されていないという不可思議さもあります。

 特に、別々の罫紙でありますところの、番号23までのインクの色と文字の状態、新しい罫紙となる番号24,25部分のインクの色と文字の状態を比較致しますと、何らかの理由によって、番号24以下41まで氏名を脱落させたものであろう疑惑も生じるのですが、なぜ脱落させる必要があったのかが、全く判りませんので、疑惑部分が他にもあるということだけを申し上げておくことに致します。

 何れに致しましても、対照不能の記載が総て指痕であったごとき沼田繁雄鑑識課員の証言は嘘であり、それを根拠に判断される判決も間違いなのでありますが、なぜ、このような嘘の下に31個もの指掌紋(ししょうもん)の隠蔽(いんぺい)が行われるのか、と考えますと、それは判決の述べられる通り、

「 被告人ら以外に本件犯行の犯人がいるのではないかと疑わせるものはない。」

とするためであろう、とより考えられません。

 玉村象天さんは、1人暮しで親しい近所付合いもないようでありますから、その家の中に大量の持主不明の指紋が残されていれば、それが玉村さんを殺害した犯人のものであろうことは疑う余地がありません。

 が、私達の指紋とその指紋が合致する筈もなく、更に、私達がアリバイを訴える事実もあるので、私達を犯人と妄信する警察は、犯人とすることが正義という誤った信念の下に、その有力な反対証拠となり得る指掌紋の隠蔽(いんぺい)を謀(はか)ったものでありましょう。

 多分、自白させた者が犯人でなかったとなると、権威とメンツに拘(かか)わると思ったりもしたのでしょうが、現場に残された絶対的な事実である指紋さえも、自分達の都合(私達を犯人とする目的)から外れると、あっさりと隠してしまう事実が、警察が私達を犯人とするために行なった不法行為がどんなものであるかを、如実(にょじつ)に物語るものなのであります。

 更に、もう1つ、警、検察提出の証拠の疑惑は、昭和47年2月9日付茨城県取手警察署長の回答書である「 出入状況調査表 」にもあるのです。

 二審判決は、この「 出入状況調査表 」の記載を全面的に認めておられるようですが、早瀬警部補による取調時間に付きましては、前述致しました(前記25頁の4以下などの)ように、この出入状況調査表に記載された取調時間は、修正されたものであって本来のものではないのです。そして、その修正を窺(うかが)わせる事実もあります。

 昭和47年2月9日付の回答書は、4枚の罫紙からなっていて、その取調時間は3枚の罫紙に記載され、合計125項の取調時間が記録されております。その125項の取調時間の中で、ご注目戴きたいのは番号22、23、44、45、68、69、92、93、116、117の記載部分でありますが、罫紙を上下2段に区切った記入方法を見て戴ければ、前記各番号が各列の最後と最初であり、区切り部分であることがお判り戴ける筈であります。

 ところで、この番号22、23、44、45という具合に各列の区切りを見ていきますと、その区切りの両方にわたって記載された同一月日の取調時間が全くないことがお判り戴けると思いますが、全く無作為に、留置人出入簿から、上下2段に区切った罫紙に取調時間を書き写し、それが計ったように、各列の区切りにはまって、同一月日の取調時間が記入されるなどということが、偶然にもあるでしょうか。

 番号22で10月17日が終わり、下に段落が変わると、番号23で10月18日になる。

 番号44で1枚の罫紙が終わるところには10月26日があり、罫紙が変わる番号45では10月27日の取調時間になる。

 番号68で11月5日が書かれ、それが下の段落に変わると、69では11月6日になる。

 番号92が12月8日で、罫紙が変わる93は12月9日。

 番号116が12月25日で、下の段落117に変わると12月26日になるという具合に、その罫紙の使い方から考えて、感覚的に一区切りと思われるところで都合良く書き終わるなどということが、偶然に3つも4つも続く筈はないのです。

 この事実は、この出入状況調査表が作為の上に作られたものであることを示しているのでありますから、この事実は真実をご理解戴く上で、ぜひともご銘記戴かなければならない点なのであります。

 ただ、この不正に付いて、その裏付けを探し出す力のない私でありますれば、残念ながら明確な証拠を呈示することができないのでありますが、それでも、その出入状況調査表に記された取調時間が、第三者の機関にも記録として残されている場合には、その不正も明らかにできるのです。

 例えば、番号125にある昭和43年2月15日の初公判出廷における留置場からの出入時間を見て戴ければ、

 
午後1時00分出、午後4時00分入

の記載がお判り戴けるでしょうが、2月15日の初公判の開廷指定時間は、午後1時なのです。これはどういうことでしょうか。

 取手警察署から土浦市の水戸地方裁判所土浦支部までは、くるまでも30分ほどかかるのですから、取手警察署を午後1時に出る筈もないのです。実際の当日は、天候が雪であり、取手警察署を出たのは午後0時30分頃で、土浦の裁判所に着いたのは午後1時10分頃でしたが、このように、第三者の記録で裏付けるものがありましたら、出入状況調査表の不正は容易に看破できるものなのであります。

 前項の指紋の件にしましても、出入状況調査表にいたしましても、提出されております証拠というものは、早瀬警部補の証言同様に、全く信用のおけないものなのでありますから、改めて、あらゆるものに付きまして、公正な検討を賜りたいのであります。

 

. 最  後  に

 二審判決は、不法な取調べを否定した警察官証言を全面的に採用し、それを基にして、自白は不法な調べによる虚偽のものである、という私達の訴えを

「 警察の偽計等と主張する諸事情は、被告人が公判において主張するのみで、これを裏付けるものがなく、これによって被告人らの自白が捜査官の偽計と誘導により得られたものではないかとの疑惑を生ぜしめるに足りない。」( 9丁裏の6行以下 )

と排斥して、自白調書を根拠に有罪判決をしている訳ですが、私達を犯人ではないかと疑わすものが、

「 両被告人の供述以外にない。」( 8丁の4行 )

ものである以上、その唯一の証拠である供述調書の信憑性
(しんぴょうせい)を論議し、正しい判断をするには、先ず、相対する当事者の異なる主張(取調官は正当な手段で自白を得たと言い、被告は偽計による強要と誘導などの不法な手段で作らされた虚偽のものと言う)、証言内容を公正に比較判断することが、絶対の前提条件であろうと思います。

 その公正な判断が無くしては、真実をご理解戴くことも不可能なのでありますが、申し上げる迄もなく、相対する当事者の主張で、矛盾の多いもの嘘のある証言をする側は信用できないということであり、その当事者側の調書の信用性に関する主張は嘘ということになるのです。

 本件において、私達と捜査官の相互の主張(取調内容や取調経過など)に付いて、どちらが正しいのかを、その証言内容から判断して戴けますれば、既に詳述致しました通りでありまして、取調官の自白調書に関します証言は、到底信用できないもの(調書の真偽が問題であるだけに尚更)であることがお判り戴ける筈であります。

 この早瀬警部補の場当たり証言の数々は、社会一般に通じる常識で考えれば、偽証として糾弾されるべき性質のものでありますが、二審判決がなされた

「 対立的当事者の立場からなされた発問内容による影響もある、説明不十分なもの 」( 9丁裏3行以下 )

という判断は、誤りと申し上げざるを得ないのであります。

 要するに、早瀬警部補の主張というものは、

「 強殺事件では全く調べないのに、桜井は進んで自白した。」

というものであり、一、二審判決はその主張を全面的に認めて

「 不法な取調べはなかった。」

と認定しているものでありますから、早瀬警部補による強殺事件での取調べ事実が判明すれば、その判決も破綻するのであります。

 そして、既に申し上げましたように、早瀬警部補が強殺事件で調べたことは明らかなのでありまして、唯一の証拠である自白調書の信憑性を争う前提であります、強殺事件で調べたのか調べないのか、という段階においてさえも、早瀬警部補主張の欺瞞性(ぎまんせい)は明らかなのであります。

 警察は、10月10日に私を逮捕した夜から、看守勤務員を1人増員して、特別の勤務体制(前記27頁の9)にしております。看守勤務表がありませんので、引用ができませんのですが、10月10日夜から急に(そして12月1日からも)夜勤員を増員したという事実が、何の証拠もない、単にアリバイが不明確であるという者に過ぎなかった私を、当時の捜査本部が特別視、犯人視していたことを示すのでありますが、捜査本部は、何の証拠もない私を見込捜査で逮捕し、早瀬警部補において、数々の欺瞞(ぎまん)を用いた自白の強要をしたのであります。

 その欺瞞(ぎまん)の強要がどのようなものであったのかに付きましては、警察の取調べ(前記25頁の4以下)の中で申し上げた通りでありますが、その取調経過の不法行為を隠蔽(いんぺい)せんとして、早瀬警部補達が法廷で行なった強殺事件の調べさえも否定する常識を逸脱した証言の数々を思いますと、取調官の主張には真実のかけらもないと申し上げても、決して非難されるものではない筈と思っております。

 一方、私達の主張する不法な調べが事実であるとする明確な証拠、資料の存在しないことは、その判決の述べられる述べられる通りなのでありますが、存在しませんことは、寧(むし)ろ当然なのであります。

 なぜならば、警、検察は、私達を犯人と信じ、犯人と立証するために都合の良い証拠だけを寄せ集めて裁判所に提出しているのですから、その検察が提出致します資料の中に、私達の犯行を否定させる資料や不法行為、不法捜査を裏付ける資料が存する筈がないからであります。

 そのような資料があれば、自白調書のみを証拠に正否の争われる本件は、警、検察の主張が根底から覆(くつがえ)るのですから、たとえ存在しているとしても、法廷に提出されることは絶対にないのであります。

 捜査権力を有するものが、誤った信念の下に不正を行ない、不正、不法な取調事実の隠蔽(いんぺい)を行なえば、私達には、それを証拠だてる手段が全くなくなるのでありますから、私達に自らを防禦(ぼうぎょ)するために捜査陣の不正の証拠を法廷に提出する力が全くないのであることもお考え戴けますれば、私達の主張が真実であるということは、捜査官の偽り多い証言によって反面的、消極的に証(あか)されることで充分なのではないでしょうか。

 私は、裁判における公正さとは、法律的に力を有する立場の者の主張に対して厳正な審理を行なうことのみによって保たれるものなのではなかろうか、と考えておりますが、捜査権力を有する者で、問題の調書を作成した早瀬警部補の矛盾あふれる証言を看過し、その証言の表面だけを取り上げられて、弱い立場の者である被告の何ら矛盾のない証言、主張を排斥される一、二審裁判所の審理には、本件が自白調書の真偽の上に正否の争われる裁判でありますことから考えましても、公正さを求める可(べ)くもないのではなかろうか、と僭越(せんえつ)ながら思うのであります。

 その取調経過に関します取調官の証言に明らかな嘘があります以上、その調書の真偽も明らかなのでありますが、一応順序としてお考え戴くのは、相対する当事者の異なる主張、証言の対比判断の次は、調書そのものの真実性、信憑性(しんぴょうせい)ということになります。

この自白調書によりまして、犯人でなければ(勿論、捜査員でさえ絶対に)判りようのない事実(例えば、自白で盗品の処分が裏付けとなって確認されるとか)が明らかにされておりますならば、取調官の偽り多い証言を度外視して、その自白調書は真実性を備えたものという見方も許されるかと思います。

 が、本件の自白調書の内容というものは、それによって捜査本部が掴(つか)んでいない新たな事実は全く明らかにされていないものに過ぎないのですから、この調書によって取調官の矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)した証言を看過することが許されるものではないのであります。

 一審判決は、調書内容の現場状況に符合する詳細を根拠に、その調書を万能の根拠として取調官の偽り多い証言を許容し、二審判決は、不自然さと変遷の疑惑が証(あか)された調書内容の僅(わず)かな一貫性を強調し、その一部分(それも容易に動かし得る何ら裏付けのない自白内容)を証拠として有罪判決を重ねておりますが、取調官が法廷で主張するように、その自白調書が正しい手段で残されたものであるならば、その調書の信憑性(しんぴょうせい)に関した取調官の証言に、矛盾や常識を逸脱するものが生じる筈がないのでありまして、取調官の証言に矛盾撞着が多いということは、取りも直さず、その自白調書が不法な手段で作られた(私達の主張するような)ものであることを示しているのですから、自白調書の存在によって取調官の主張、証言の偽りを看過するのは、本末を転倒した判断というものでありましょう。

 本件は、取調官の主張する正当な手段が、私達の主張する不法な手段に残された自白調書の真偽の上に正否が問われているのでありますから、その真実性を糺(ただ)すための前提であります取調官と私達相互の主張、証言内容を公正、的確に判断せずしては、真実の結論に至ることは不可能なのであります。

 その、何ら新たな事実の発見されない調書内容の疑問に付きましては、前述致しました(前記264頁の(4)以下)通りでありますが、どの部分を捉(とら)えましても、100パーセント完全無欠の信頼性が認められない、その供述調書が、

「 犯行を直接に立証するものは、被告人の供述以外には存しない。」

という本件の有罪認定の根拠となし得るものなのでしょうか。

 供述以外に証拠が存しないのであるならば、最低限供述内容に100パーセントの完璧な信頼性が望まれる筈であり、そのようなものであってこそ初めて有罪の根拠ともなし得るのではないでしょうか。

 早瀬警部補証言の矛盾撞着、渡辺昭一証人のある可(べ)からざる目撃証言の変遷等の疑惑が明らかにされながら、尚且つ有罪判決が重ねられた原因は、結局のところ、判決公判で裁判長が述べられた

「 被告人両名の自白が大筋で一致する。」

ということにあるようですが、何ら新たな事実の明らかにされない調書内容の、単に現場の状況に符合し、裏付けのない話での大筋の一致が、調書作成経過等に関する取調官証言の矛盾を凌駕
(りょうが)する証拠となり得るものなのだろうか、と考えますと、法律には無知な私でありますが、その判決文に述べられます一言、一言が信じられない思いであります。

 虚偽の自白により犯人と作られる者が、2人でも3人でも、最初に犯人にされる者が虚偽の自白の大筋を作り、後から犯人と作られる者が、何らかの理由によって取調官の自白強要に迎合し、虚偽の話に追随してゆくことになれば(本件の私達のように同じ町に住む者で、事件内容を噂で聞いてる者が犯人に作られる場合には、尚更)、どんな詳細な話でも大筋で一致する話にされることは容易なのであります。

 事実、昭和43年(6、7月頃でしたか)愛知県半田市で起こった警察官殺害事件では、7人余りのチンピラが逮捕されて、7人全員が犯行を認め、誰が犯行をして誰が見張り役であったか等の詳細な話で合致する自白(であったかどうか)をしながら、真犯人の高校生(だったか)が逮捕されることによって事件が解決された、通称「 風天会事件 」なるものさえあるのです。

 本件の供述調書も、この風天会事件と同質のものなのでありますが、最高裁第一小法廷は、昭和48年12月13日の放火事件に対する判決において、

「 高度の蓋然性(がいぜんせい)とは反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの犯罪の証明は十分であるとの確信的な判断に基づくものでなければならない。」

と、全員一致で無罪判決をしております。

 本件の何ら新たな事実の明らかにされていない、そして、その内容に矛盾と変遷の尽きない自白調書が「 反対事実の存在の可能性を許さないほど 」に「 確信的な判断に基づく 」証拠でありましょうか。

 その調書の単なる大筋の一致によって、証拠、証言のあらゆる矛盾を包含した儘(まま)に有罪判決を重ねられる判決は、最高裁判所の判例にも反する誤った判断であることが明白でありましょうと思います。

 既に、繰り返して申し上げてまいりましたように、私達の自白調書というものは、虚偽の自白の結果として残されたものなのでありまして、信用す可(べ)からざるものなのであります。

 そして、その虚偽性に付きましては、取調官証言、取調内容の矛盾などの諸事実をご賢察戴けますれば、必ずお判り戴けると確信致しておりますが、憲法38条の精神は、人間の行使する捜査権力によって起こりえる過ちから、何ら力を持たない者を守ることにあろうか、と存じ、本件も、その証拠と言われますものが、

「 両被告人の供述以外には存しない。」

裁判でありますれば、警、検察側の提示する証拠、証言に厳正な審理を行なわれてこそ、その憲法の精神にも即するものでありましょう、と僭越
(せんえつ)ながら思うのであります。

 前述致しました真実の訴えの数々も、私自身の窃盗という自らの手で犯した犯罪がありますれば、その主張は罪の責任を逃れんとしたざん言であると判断されるかも知れない、と思いまして、私は、今更ながらにその破廉恥罪(はれんちざい)を反省致しておりますが、私が申し上げてまいりました真実が裁判官のお心に訴える力がありませんでした時には、それも自らの犯した破廉恥罪の報いであると、ただ反省と後悔があるのみでございます。

 本上告書を作成し、裁判官各位に真実を訴えるに際して、真実はご理解戴けるという確信を支えますものは、一審公判が始められて以来、自分は嘘を述べたことはない、真実だけを述べて来た、という自分自身への信頼に過ぎません。

 が、破廉恥罪を犯し、多くの友人、知人を裏切ってきた自分自身への信頼感は、最高裁判所への信頼の基でもあり、真実を訴えます私の宝であります。

 私達は無実です。犯人ではありません。嘘は申し上げておりません。どうか、前述致しました証拠、証言の疑惑に対しまして、最高裁の良識ある公正なご検討を賜(たま)わり、真実の上に正しい判決を賜わりますように、本上告書の最後にあたり、心からお願い申し上げる次第であります。

以   上   

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