[資料3] 二 審 判 決         

     昭和48年12月20日  東京高裁第12刑事部  

※ 媒体の性質上、縦書きの文章を横書きに改め、漢数字を算用数字に直しましたが、内容はほぼ原文通りです。


昭和45年(う)第2,668号

     判      決

本籍並びに住居 

     茨城県北相馬郡利根町大字中田切395番地

              無   職

                            桜  井    昌  司

                            昭和22年 1月24日生 (23才) 

本籍   茨城県北相馬郡利根町大字押戸1451番地の1

住居   不   定

              無   職

                            杉  山    卓  男

                            昭和21年 8月23日生 (24才)

 右被告人桜井昌司に対する強盗殺人、窃盗、同杉山卓男に対する強盗殺人、暴行、傷害、恐喝、暴力行為等処罰に関する法律違反各被告事件について、昭和45年10月6日水戸地方裁判所土浦支部が言渡した判決に対し、各被告人からそれぞれ控訴の申立があったので当裁判所はつぎのとおり判決する。

     主      文

本件各控訴を棄却する。

被告人両名に対し、当審における未決勾留日数中各600日を、原判決の刑に算入する。

当審における訴訟費用は被告人両名の連帯負担とする。

     理      由

 本件控訴の趣意は、被告人桜井昌司の弁護人石井錦樹名義、被告人杉山卓男名義および同被告人の弁護人柴田五郎、土生照子、佐伯剛連名の各控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官辰巳信夫名義の答弁書に、それぞれ記載のとおりであるから、いずれもこれを引用し、各弁護人および被告人杉山卓男の控訴趣意に対し当裁判所はつぎのとおり判断する。

 被告人桜井昌司の弁護人の控訴趣意は、原判示第3の強盗殺人の事実に関し、

T、証人青山敏恵の供述と、証人伊藤廸稔、同角田七郎の供述は別の機会のことを述べているのに、原裁判所はこれに気付かず、同一機会のことと取違えて、しかも被告人のアリバイに対する反証として採用し、

U被告人の犯行であるとの証拠として掲げられたもののうち、

(1)証人渡辺昭一の供述は、その内容、人物からして信用できず、

(2)証人海老原昇平、同高橋敏雄の供述も、その日時の点については不確実であり、

(3)指紋、足跡等、被告人と犯行とを結付ける証拠はなく、

(4)結局、被告人の自白以外には直接証拠はないのであるが、その自白は、

  (1)捜査官の偽計、誘導、長時間取調の結果なされた内容虚偽のものであり、

  (2)別件逮捕により得られたもの、

 で、適法な証拠とすることができるものではなく、

(5)その他、本件証拠中には疑わしい点が数多あり、

 結局のところ、強盗殺人については、すくなくとも証拠は不十分と見るべきであり、残る原判示第1の窃盗罪の事実のみでは、3年以下の懲役に執行猶予を付する程度の刑が相当と認められるから、原判決には法令違反、事実誤認、審理不尽、ひいては量刑不当の誤りがある、というのである。

 しかしながら、原判示第3の事実は、原判決の掲げる関係証拠により十分に証明されている。以下所論主張の各点につき順次検討を加えることにする。

T原審証人青山敏恵の供述(原審第4回公判調書記載)によると、同女は、常磐線事故(国鉄からの回答書により昭和42年8月27日19時14分柏、我孫子間下り線で発生したことが明らかである)の翌日、朝は成田線経由で東京へ出勤し、帰途はいつもの常磐線経由で、我孫子午後6時47分発の電車に乗換え、布佐駅で降りて、利根川の栄橋に昇る石段に来たとき、降りてきた二人の男と触れたようで桜井昌司が馬鹿野郎と言ったが、伊藤廸稔は知らないし、角田七郎は一緒にいたと思うけど、杉山は見かけなかった。それは桜井昌司に間違いなく、その後は同人を見かけないと思うとの趣旨である。そして、右証言の内容につき、同証人は当審においても、なお誤りはないと述べている(当審第11回公判調書中証人島村敏恵の供述記載、同証人は結婚により改姓)。

これに対し、原審証人伊藤廸稔の供述(原審第4回公判調書記載)によると、同人は、前記事故の翌日、東京からの帰りに角田七郎と一緒になり、午後6時47分我孫子発成田行列車に乗ったところ、前から2輌目にいたとき杉山が来たことを覚えており(この点につき、所論は同証人が警察官に押しつけられてそのような供述をしているように主張し、同証人も警察官から杉山に会っていると言われたと所論主張に副うような供述をもしているが、同証人は同証言中で改めて、これを記憶している旨を述べている)、布佐駅で降りて栄橋の石段を角田と登っていたとき、後ろから登ってきた男がいて、角田が、あれ力あるな、といったところ、その男は振向いて何か言ったが、その際、青山敏恵は一緒であったし、杉山も後方にいた、その男は顔を知っていたが、桜井という名のことは、一週間程度後に杉山から聞いたとのことであり、また、原審証人角田七郎の述べるところ(原審第6回公判調書記載)は、前記事故の翌日、帰りに布佐駅で降りて栄橋へ行くとき、杉山も青山も一緒になり、栄橋の石段を上りきったところで男が下から駈けて来たので、「脚力あるな」というと、その男は「何だ」と言ったが、栄橋を渡りながら青山に聞いてみると、あれは、桜井賢司の弟だといわれたとの趣旨のものである。

ただ伊藤、角田両証人は、反対尋問に遭うや、その日は9月1日であるかも知れぬ如き趣旨の、被告人杉山の主張に副うような供述をしたりして、公判においては、その日についての記憶が定かでないようにも受取れるので、原審は、刑事訴訟法第321条第1項第2号により証拠に採用された右両名の検察官に対する各供述調書に、右の日が原判示の昭和42年8月28日である旨の各記載のあるのを採用し、前記青山敏恵の証言内容と併せて判断して、原判決中の(訴訟関係人の主張に対する判断)2の前半の結論を導き出しているのであって、右の結論に至る経過に誤りはみとめられず、所論主張のように右両名の検察官に対する各供述が、取調官の誘導に基因する誤った内容のものであるとの疑も存しない(所論の挙げる小貫俊明の原審証言中に警察の方で決めて言った旨の、警察官による誘導を意味する発言があっても、それから直ちに右伊藤および角田両名の警察官に対する供述が、取調官の押しつけによる虚偽のものであるというわけにはいかない)。

従って、青山敏恵の証言するところと、伊藤廸稔、角田七郎の各証言するところは、たとい細目において多少のくいちがいはあるにせよ(当審の検証により明らかにされた栄橋の布佐寄りたもと付近の暗さもその一因と考えられるが)、全然日を異にする出来事について述べたものであるとの所論主張は、これを容認することができない。

U(1)原審証人渡辺昭一の供述(原審第13回公判調書記載)によると、同人は事件当夜とされている昭和42年8月28日午後7時半過ぎに、単車に乗り、被害者方前道路を(被害者方を左に見て)北から南へ、時速約30キロメートルで進行した際、被告人杉山卓男が被害者方を背にして道路の方を向き、溝を挟んで被告人桜井昌司がこれと向合っていて、2メートルくらい前で被告人桜井昌司がこちらを向き、又顔を元へ戻したというのである。(なお、当審において提出された同証人の昭和43年3月13日検察官に対する供述調書にもほぼ同趣旨の供述がある)。

そして、当審における検証の結果(昭和46年9月30日付検証調書記載)によっても、本件現場において当時の状況を再現した状況下で、単車のライトがあれば2ないし4メートルの距離から被害者方の門口付近に立っている者を認識し得ることもまた明らかとなっている。所論は証人渡辺昭一の素行等をあげて、その証言の信用性を攻撃するが、根拠あるものとは認められず、単車、ヤマハ50CCでは立っている人の顔は分からないとの所論主張は前記検証の結果からして容認できず、さらに、所論主張の、当時、時速30キロメートルで走る単車に乗っていた同証人が被告人桜井昌司の顔を見たときの同人との距離2メートルを走る時間0.24秒では、その識別は不可能であるとの点も、経験則に照らし、この時間は知っている顔を、殊に相手の位置が移動しない場合には、認識するに十分であると認められるので、当裁判所の採用しないところである。

なお、同証人が帰途再び同所を通行した際は、100メートル以上の距離から現場付近に人影を見たのであって、当審における前記検証の結果からも明らかなように、それが何人なりやの識別は不可能と認められ、同証人がそのように述べているからといって、往路に見かけた被告人らに対する同証人の認識まで疑う所論主張は相当といえない(所論のあげる証人小貫俊明の供述は、被告人桜井昌司は知らない人であり、被告人杉山卓男が、当時現場付近で見かけた二人のうちの一人であるかどうかは分からないとの趣旨であり、証人渡辺昭一の供述とそごする内容のものではない)。

その他渡辺昭一が鶏を絞殺すような音(被害者がそのような声を出せるはずがないとの所論主張も弁護人独自の見解であるが)を聞いたのみであると述べているのをとって、犯行はこの時間に行われたものでないと主張する所論は、原判決は右証人が帰路被害者方前を通過したちょうどその時刻にすべての犯行が行われたと想定しているわけではなく、その音をもって、被害者が殺害された際の音と認めたわけでもないのであるから、これまた相当でない。

同証人は、犯行後すでに4年半近くを経た昭和47年1月29日の当審第7回公判およびまる5年に近い同年6月20日の同第9回公判において、証人として尋問された際は、すでに記憶が定かでなく(それでも、往路に被告人両名を被害者方付近で見掛けたことは肯定している)、殊に帰路、前記のように100メートル余り手前から被害者方付近を見た前後の自己の行動についての説明には、相当に混乱した部分がある。しかし、その故に直ちに同証人の往路に被告人らを見かけた旨の終始一貫した供述部分の信用性まで否定し去るわけにはいかない。

同証人は、事件直後、聞込の捜査員に対し、自己が見かけた両名の氏名を告げず、そのためにその内容が捜査本部の情報として利用されなかったと見られ、被告人両名の逮捕後、日時を経過した後に、右両名の名を捜査官に対し明らかにした事実同証人が本件事件前後ころから引続きノイローゼ気味であったと推測されること等は、同証人の供述の信用性を判断するうえにおいて特に注意を払わなければならぬ点であるが、これらを念頭に置き、所論主張を参酌して慎重に検討してみても、帰途に見かけた人影が何人なりや等に関する供述部分は明確を欠くものが多くこれを全面的に採用することはできないものの、同証人が往路に被害者方前で見かけた2名の者が被告人両名であるとの供述は十分信用することができるものと言わざるを得ない。

  (2) 原審証人海老原昇平の供述(原審第4回公判調書記載)は、同人が前記事故の翌日布佐駅で勤務中、夕方被告人杉山卓男が駅の外のベンチに腰掛けているのを見かけたとの趣旨であり、同人の出勤表も証拠として提出されていて、特にその日時についての供述が疑わしいと思われるものはなく、さらに原審証人高橋敏雄のいうところ(原審第4回公判調書記載)によれば、同人は、前記事故の翌日、北千住から電車で来て午後6時47分我孫子発成田行の列車に乗りこんだが、我孫子駅で桜井が後から3両目くらいの車両のホーム側の後の方に、杉山はホームで右車両の中の桜井と向合っていて、同証人が二人に「今晩は」というと、杉山が「おお」といった、それは8月28日に間違いなく、31日ではないとの趣旨であって、その年月日の記憶の正確性について特に疑をさしはさむべきものはない。また、かような証拠は単に被告人のアリバイへの反証であるのみでなく、本件犯行日時と目される日時に接着した日時に、被告人らが犯行場所から余り距っていない場所にいたことを示す有力ないわゆる状況証拠の一種というべきものである。

(3) 指紋、足跡等、現場に遺されたものに被告人らと犯行を直接結付けるものの発見されていないことは所論主張のとおりであるが、当審第4回公判において提出された現場採取指紋は、現場において採取されたもの合計43点のうち、被害者、捜査関係者、本件の第一発見者および被害者の取引先銀行員のものであることがあきらかなもの合計9点を除いては、すべて対照不可能なもののみであり、足跡は採取された形跡がないのであって、いずれにせよ、被告人ら以外に本件犯行の犯人がいるのではないかと疑わせるものはなく、指紋、足跡等により犯人を特定することができないからといって、そのことだけで直ちに被告人らの犯行を否定し、原判決第3事実の認定を不能とするわけにはいかない。

(4) 被告人両名による原判示第3の事実として掲げられた犯行を直接に立証するものとしては、両被告人の供述以外には存しないのであるが、

  (1) 被告人桜井昌司の取調べに当った警察官である早瀬四郎、深沢武、富田直七の原審証人としての各供述(第23、第24および第26各回公判調書記載)によっても、また被告人桜井昌司の取調警察官に対する各供述調書の内容によっても、同被告人の自白が論旨の主張するような、不当な偽計と誘導により得られた任意性のない内容虚偽のものと疑わせるものは見出しがたく、これは同被告人の検察官に対する各供述調書についても同様である。

所論がその例として挙げる早瀬四郎の偽証というのも、同人は当時茨城県警察本部刑事部における強行犯担当者の一員であるから、同人が窃盗の係じゃないと答えたのは当然であり、またそのいうとおり、窃盗(余罪に該当するもの)の調書は窃盗の係員である富田刑事において作成しているのである。また、右早瀬四郎は被告人桜井昌司を取調べるに当り、後出(逮捕状記載の)窃盗事実と、昭和42年8月20日から同月末日までの同被告人の行動を取調べるように上司から命ぜられたというのであるから、捜査本部は本件強盗殺人事件の捜査のために設けられたものにせよ、早瀬証人が被告人桜井昌司を本件強盗殺人事件の犯人として取調を始めたことを否定する証言をしても、同証人が同被告人を右強盗殺人の犯人と未だ知らされていなかった取調当初の段階を基準とする限り寧ろ慎重正確な供述とも考えられるのであって、必ずしもそれが偽りであるとするのは当たらない。

本件捜査の総括者の一人である当審証人渡辺忠治の述べるところ(当審第13回公判)によっても、被疑者等の取調にあたる個個の取調官にすべての捜査情報を知らせていたわけではないのであるし、また被告人桜井昌司、同杉山卓男の取調以前にも、事件当初の行動を取調べられた者が何人かいたのであって、この両被告人の取調に先立ち、これを真犯人であるとの予断をもっていたと窺わせるに足る形跡は見当たらないところであり、捜査官が犯人であるとの自信をもって取調に当ったとの所論主張は、もしそれが取調当初からの意味であるとすれば、すでに被告人桜井昌司が自白した後に相被告人杉山卓男の取調に当った久保木警部補の場合は別として、早瀬警部補については、単なる推測の域を出ないものである(なお、久保木警部補が原審証人として所論主張の相被告人杉山の足どりが事件当夜現場にあったことの判明していた旨述べたのは、同被告人が何か事件に関係があるのではなかろうかという意味のものに過ぎぬことは、同証人の供述自体から明らかである)。

要するに早瀬証人の供述中、所論が非難、攻撃する部分は、対立的当事者の立場からなされた発問内容による影響もあるにせよ、説明不十分のそしりを免れない点はあるが、これを偽証をもって論ずべきほどのものではなく、また所論が偽計等と主張する諸事情は、被告人桜井昌司が原審および当審公判において主張するのみで、これを裏付けるものがなく(例えば、所論は、桜井賢司の検察官に対する昭和42年11月17日付供述調書を引用して、右桜井賢司はそのときはじめて取調を受けたのに、被告人桜井昌司の取調官である早瀬四郎は、同被告人の「同年8月28日は兄賢司のアパートに泊まった」旨のアリバイに対し、当時未だ取調を受けたことのない桜井賢司が、すでに取調が済んでいて、「昌司は当夜泊まっていないと言っている」と言って詐術を用いたと主張するが、右賢司の、原審第10回公判調書に記載された証人としての供述によれば、同人はすでに被告人桜井昌司の逮捕前である同年9月末ころ、弟昌司の行動につき警察官に取調べられているのであって、前記11月17日にはじめて取調があったとする所論はすでにその前提において誤っている。所論はさらに、右早瀬四郎は被告人桜井昌司に対し、嘘発見器による検査の結果、「貴公のいうことはすべて嘘と出た、もうだめだから本当のことを話せ」と偽りを告げたと主張するが、当審9回公判において提出された被告人桜井昌司に対するポリグラフ検査鑑定書の記載によると、その検査の結果は、被告人桜井昌司は事件関連の質問に対しある程度の反応を示してはいるものの、いわゆる黒白を決する程度のものとは認められないもののようである。そして、当審第13回公判において取調べられた、本件捜査の総括者の一人である証人渡辺忠治の供述によれば、検査の結果は、同被告人の取調官には知らせていないということであり、前記取調官早瀬四郎も、当審第12回公判における証人として、右検査直後には検査の結果を聞いたこともなく、被告人桜井昌司に対し、検査の結果は、同被告人のいうことはうそと出たからといって自白を要求したことはない旨供述している)、これによって被告人らの自白が所論主張のような捜査官の偽計と誘導により得られたものではないかとの疑惑を生ぜしめるに足りない(なお所論の中には、前記渡辺昭一による、当夜現場付近で両被告人を見た旨の供述を引用して、早瀬証人らが自身をもって被告人らの取調に当ったとのむ所論主張を裏付けようとしている部分があるが、渡辺昭一は、事件当時の聞込に対してすでに犯行当夜現場付近で大小二人連れの男を見た旨述べていたものの、被告人らが逮捕された前後には未だ捜査資料として利用されていなかった模様で、結局、右渡辺の警察官に対する供述調書は当初から作成されず、被告人らが自白を翻したはるか後に至ってはじめて検察官調書が作成されたわけであるから、右所論も容れがたい)。

また、当審(第20回公判)に至って証拠として取調べられた取手警察署長からの回答書によると被告人桜井昌司が自白に至るまでの、同署における同人の取調のための留置場からの出し入れ時刻は、

 10月10日(昭和42年、以下いずれも同じ)午後11時55分入

 10月11日 午前10時30分出  午後 0時入

 (以下10・30 出あるいは 0・ 入と「時」「分」を省略する)

        午後 1・25 出  午後 6・00 入

         〃  8・30 出   〃  9・40 入 

 10月12日 午前 8・35 出  午前10・35 入

 10月13日 午後 0・10 出  午後 6・03 入

         〃  7・05 出   〃 10・15 入 

 10月14日 午前 9・10 出  午後 0・15 入

        午後 1・05 出  午後 6・45 入 

         〃  7・00 出   〃 10・10 入 

 10月15日 午前 9・20 出  午前11・55 入

        午後 1・10 出  午後 4・00 入

         〃  4・20 出   〃  6・20 入 

         〃  7・00 出   〃 10・00 入 

となっていて、所論主張のように長時間に亘ったとの故に、時間的に不当な取調をしたと認むべきものもない。従って、これらを根拠として警察官に対する供述調書の任意性を争い、ひいては検察官に対する供述調書の任意性をも争う所論は理由がない。

  (2) 次に、被告人桜井昌司は昭和42年10月10日、窃盗罪(千葉県柏市内において、ズボン1着、わに革バンド1本を窃取した事実)の逮捕状により逮捕され、同月12日事件は身柄付検察官送致となり、同日勾留状を執行されて、代用監獄としての取手警察署留置場に身柄を拘置され、その後、引続き、同年8月28日前後の行動等につき取調を受けている中、同月15日に至り、本件強盗殺人を自白するに至ったものであるが、すでに当審証人渡辺忠治、同早瀬四郎の供述により明らかなように、同被告人は、本件の捜査線上に浮かんだ他の多数の者と同様に、本件犯行日を挟む前後の行動を取調べる含みをもって、右窃盗の被疑事実につき逮捕されたのであって、それも些細な事件のみを取上げたものではなく、当時窃盗余罪(それは現に原判示第1の10回におよぶ各事実として有罪と認定されている)につき嫌疑もあり、これら余罪に関する取調を考慮しても前記ズボン等の窃盗の被疑事実につき身柄を拘束して置く必要があったのであり、所論主張のように、現実には本件強盗殺人事件の犯人として取調べるためでありながら、名目を前記窃盗事件に借り、同事件の逮捕状により逮捕し、かつ勾留されたものであるとは認められない。ただ、前記捜査線上に浮かんだ多数の者のうち、他の犯罪の嫌疑により逮捕され、併せて本件当時の行動につき追求を受けた他の数名と異なるところは、被告人桜井昌司はその間に本件犯行を自白したということであり、同被告人が別件による拘束中に新たな犯行を自白しても、それをもって直ちに違法な自白というわけにはいかない。

そして、同月19日には強盗殺人につき逮捕状が発布され、同月23日にそれが執行されていて、令状請求までには自白の信用性の検討等に多少の日時を要するとしても、逮捕状の執行はややおそきに過ぎるきらいはあるが、それまでの間に作成された被告人桜井昌司の司法警察員に対する供述調書6通のうち、冒頭自白の同月15日付のもの1通を除くと、直接犯行につき供述しているのは同月18日付(30項ある分)のもの1通のみで、他は前後の模様につき述べたものであり、必ずしも窃盗による勾留期間を利用して強盗殺人事件を捜査しようとの捜査当局の意図を窺わしめるものはなく、却って同月25日、強盗殺人事件について勾留された後、その期間内に窃盗余罪につき富田刑事による供述調書が作成されていることも認められる。

かような状況を総合してみると、本件の場合、所論主張のように、供述調書が違法な手続きにより作成され、その証拠能力を排除しなければならないほどの重大な手続的かしがあったとは認められないのであって、所論のようにいわゆる不法な別件逮捕が行われたと結論することはできない。

(5) その余の、所論が疑問であると主張する点

1 犯行日時 (1)

 警察は鑑定書に死後経過時間として、昭和42年8月30日午後5時1分現在、約45時間内外とされているのを正確に計算して、犯行日時を同月28日午後8時半ころを基準として被告人らおよび証人に供述させているが、犯行は同日午後12時ころないし翌29日午前1時ころに行われた可能性もあり、その方が前後の事情にも符合する、との主張について

(1) 本件被害者の死体鑑定書に死後経過時間として所論のとおりの記録のあること、その時間というのは、鑑定書のその旨の記載からいっても、また、ことがらの性質からいっても、概略の時間であると認めるべきことは、所論のとおりである。しかしながら、前記8月30日午後5時1分から正確に45時間遡れば、死亡時刻は同月28日午後8時1分となり、他方、原判決認定の殺害時刻は午後9時ころであるし、犯行時刻は、警察官による被告人両名や他の関係者の取調から判明してきたものであって、所論のように警察が前記死後経過時間から正確に逆算して犯行時刻を定め、関係者の供述をこれに合わせたとの主張は、これを認めるに足る客観的な根拠がない。

(2) 前記死後経過時間のみからみれば、犯行が所論主張のように夜中に行われた可能性は抽象的には考えられるであろうが、その方が前後の事情に符合するとの主張を裏付けるような具体的資料は後記2のように何ら存在しない。

2 犯行日時 (2)

 被害者方の周囲に人家のあること、犯行現場で床が抜け、ガラス戸が外れてガラスが割れていること、被害者が寝静まってから犯人は便所の窓から侵入したと思われること等からも、深夜の犯行と思われる、との主張について

(1) 司法警察員作成の昭和42年9月22日付検証調書(525丁以下)によると、被害者方建物の周囲には、東方を除く三方にそれぞれ人家は存するが、密接した家は一軒もなく(隣の家屋との間には、南は12メートルの空地等、西は幅4.9メートルの道路、北は幅3メートルの道路を距てている)、付近に鉄工所もあり、また被害者方建物は老朽で床の落ちた部分の床下木材等も、太く堅牢なものとは認められず、また、床が一度に急激に落ちたのか、徐徐に落ちたのかも不明であり、ガラス戸のガラスも、4枚が1度にではなく3回に割れた(後記4参照)と推測されるのであるから、いずれも、それ程大きな物音がしたにちがいないものとは考えられず、人の起きている時刻であったにせよ、周囲の人が気付いていないからといって、さして不思議とするには足りない。

なお、前記証人渡辺昭一が、帰途被害者方前を通過した際、物音としては、にわとりが絞められるような声を1度聞いただけであっても、前記Uの(1)で説示したとおり、原判決は同人が帰途被害者方前を通過した時刻にすべての犯行等(殺害後死体の顔に敷布団をかぶせたり、毛布を持って行ったり、金を捜したりし、さらに脱出前にガラス2枚を倒したりしている)が行われたと認定しているわけではないし、また、同人が右のような物音のしたときに通り合わせたものかどうかも明らかでないのであるから、これをおかしいというわけにはいかない。

(2) 所論のように便所窓が侵入口であるというのは、これまた抽象的な可能性はあっても、弁護人の推測のみによるものであって(前記検証調書の記載によっても最終的には決定できない)、かつそのことから本件を被害者が寝てからの犯行であると直ちに判定するわけにもいかない。

なお、論旨中、玄関等の開いていたのは、それが逃げ口であるとの趣旨の記載があるが、前記検証の結果によると、僅かに開いていたのは勝手口であって、玄関口は閉鎖され、人の出入した形跡はない。

 右(1)(2)で考察したとおり、本件が深夜に行われたものという所論主張を認めるに足る何らの証拠資料も存在しない。

便所窓

 犯行後、逃走を急ぐ犯人は出にくい便所の窓から出る筈はなく、また便所の窓から出ることが犯行のいんぺいにならず、窓は高さ1.6ないし1.7メートルあり、窓下は暗く、古材等で入るには足場があるが、飛降りるには足場が悪く、不可能に近いし、桟の下端の釘が折れているのは、犯人が外からはずした証拠である、との主張について

(1) 前記司法警察員の検証調書によると、犯人の出入口と見られるのは便所の窓と勝手口であるが、いずれが入口でいずれが出口であるかは必ずしも明らかでない(尤も、便所の窓枠に擦った跡のないこと、屋内に土足の跡の発見された形跡のないこと等からすれば、勝手口が入口で便所は出口であった可能性の方が強いといえよう)。

窓の桟は、上方1本、下方2本の釘で打付けてあるから、外から引張っても、内側から押しても、上が先に外れるのは当然であり、上が外れれば桟は下へ曲げられるのも当然であって、下の釘が折れているからといって、所論主張のように、外から引張って桟を外したものと決めてしまうことはできない。

(2) 被告人桜井昌司の司法警察員に対する昭和42年10月15日付供述調書によれば、同人は身長159センチメートルで身も軽い(被告人の兄桜井賢司が本件当時居住していた東京都中野区野方所在光明荘アパートを原審裁判所が検証した際の検証調書記載によると、桜井賢司はその際、同アパート2階の室から隣アパートの2階へ、かねて捜査官はそれを不可能視していたのに「渡って見せており、被告人桜井昌司もそのアリバイ主張の一部として、同じ所を渡って盗みに行った」と主張している)から、たとい窓下が暗く、高さが167センチメートルあって、その下に多少の障害物があっても飛降りることは不可能とは認められない。

また被告人桜井昌司の自白している、誰かが入ったようにしなくちゃならないと思ってした(同被告人の司法警察員に対する昭和42年10月31日付供述調書、6項あるもの)便所窓口の偽装工作は、現に弁護人から同所侵入口説が出るほど、侵入したことを装うのに役立っているわけであって、たとい犯人にある程度逃走を急ぐ気持があったとしても、被告人桜井昌司の自白に含まれたかような説明および同人に同所から飛降りて脱出した旨の供述が合理性を欠くものとは考えられない。

ガラス戸

 警察は被告人らが故意にガラス戸を外したように自白させているが、周囲の人が寝静まらず、通行人もある時刻に被告人らが故意に音を立てる筈がなく、犯行を晦ますのに役立つことでもないし、早く逃げたい被告人らとしては不自然なことであり、警察が自白調書を現実に符合させたものである、との主張について

(1) 前記司法警察員の検証調書によると、被害者方八畳間と四畳間境のガラス戸2枚がともに四畳間側に外れていて、そのうち、東寄のガラス戸の8枚のガラス中最上段2枚は、ガラス戸が倒れる前に割れて真下に落ち、下から2枚目のガラス1枚は、おそらくは倒れた際、下にあった扇風機に当って割れ、また西寄のガラス戸は倒れたというよりも外されて、四畳間のミシンに立掛けて置かれ、多分その際と思われるが、8枚のガラス中、最上段の1枚が割れて落ちている状況にある(なお、当審に至り第4回公判において提出された昭和42年11月30日付司法警察員の捜査報告書参照)。

(2) この点につき、被告人桜井昌司が捜査段階で最終的に説明するところは、まず相被告人杉山が外側(東寄)のガラス戸の下を蹴ったら大きな音がしたので、ガラスが割れたように思った、自分は内側(西寄)のガラス戸を外したが、その時(八畳間の)被害者にかけた布団が邪魔になった、自分は外したガラス戸を(八畳間の)隣の室の柱かどこかに横にして立掛けたが、急いでいたので、何かにぶっつけたかどうか記憶ない、その時には杉山は外側のガラス戸を未だ外ずしてなく、自分が便所へ入ってから、ガラス戸のあたりで大きな音がしたという趣旨であり(同被告人の検察官に対する昭和42年12月22日付供述調書)、同被告人には、その以前にも同趣旨の供述があるし(同じく同年12月19日付、および12月21日付、12項あるもの)、相被告人杉山卓男にもこれとほぼ符合する供述が見られる(同被告人の同年12月23日付、検察官に対する供述調書)。

(3) これらの説明によれば、被告人らの意図は単にガラス戸を外して、他の者の犯行のように見せかけようとしたものであって、ガラス戸のガラスを割ることまで予め意識していたとは認められず、従って所論主張のように、故意にかような騒音を立てたものではない。また、かような方法が犯行を晦ますのにどの程度有効かは別問題として、被告人らが急いでいたにせよ、さような考を持ったこと自体は異とするに足らず、かようなことがらから、所論主張のように被告人らの所為としては不自然であるとか、同人らの自白を、現場に符合させるための警察の術策によるものであるという結論を導き出せるものでもない。

5 被害者の体格、体力

 本件犯人は被害者を小児の如く扱える強力無双の者でなければならず、被告人らの力ではかようなことはできないし、床が落ちる筈もない、との主張について

(1) 前記司法警察員の検証調書によれば、被害者は肥満体とは推測されるが、身長わずか154センチメートル程度で、大兵というには程遠く、年令も60才を超えており、他方、被告人杉山卓男は身長180センチメートルの健康体の、被告人桜井昌司は前記3の(2)のとおり身長はやや小柄(159センチメートル)ながら敏捷、年令はともに20才を超えたばかりの血気盛りということであれば、寧ろ双方の体力には格段の差があったのであって、所論主張のように被告人両名ではなし得ない犯行であるなどとは認められない。

所論引用の鑑定書中に「体格、体力的に相当な相違(大人と小児等)を有しなければなし得ないものと推測される」とあるのは犯人と被害者が1対1であることを前提としての結論と認められるのであって、右判断と抵触するものではない。また、前記司法警察員作成の検証調書および鑑定書に現れている被害者の受傷状況と、被告人両名の捜査官に対する犯行についての供述との間に矛盾するものが認められるわけでもない。

(2) 本件被害者方家屋が老朽しており、かつ、犯行のあったと見られる八畳間の床の抜けた部分の床下木材が太く堅牢なものであったと認められないことは前記2の(1)で言及したとおりであるから、被害者と被告人らの合計重量が一個所にかかり、しかも暴れた場合、これら床下木材の一部が折れ、床が落ちたとすることは別に不条理な判断とは認められない。

6 金の必要性

 被告人両名ともに、当時進退に窮するほど金には困っておらず、相被告人杉山卓男には多額の預金があり、被告人桜井昌司には親戚、兄弟もあるし、窃盗癖があって、いつでも金ができるから、殺人までして金を得るような動機がない、との主張について

 しかしながら、原判示第1および第2の各犯罪として認定されているように、本件犯行の日とされている昭和42年8月28日の前後にわたり、被告人桜井昌司は窃盗、相被告人杉山卓男は恐喝により金品を得ている有様であり、また両名とも当時競輪に相当額の金員を費消していたと窺われる状況にあるから、両被告人ともに、他に金員の調達先があったとしても、それだけの理由で本件犯行に走ったことを否定する理由にはならない。それに、両被告人の自白するところでは、最初、金を借りようとの相談のもとに被害者方を訪れたものであって、当初から殺してまで金をとろうとの考えで計画的に本件犯行に出たものとはされていないのであるから、所論の非難は相当とは言えない。

7 盗んだ金の使途等

 盗んだ金の使途は競輪というだけでその立証がなく、高利貸は手許に現金を置かないものであるから被告人らが原判示のように金を盗んだというのは事実ではなく、もし偶然に当夜金があったとすれば、被害者はそれを押入床下の隠し場所に隠していたはずであり、結局犯人は別にいる、との主張について

(1) 被告人らの自白した盗金の使途は、殆んどが取手競輪であるため、ことの性質上、その直接の裏付立証は困難であるが、これはやむを得ぬところであり(該当する昭和42年8月29日の取手競輪のレース内容等については、原審第30回公判において、証人久野恒雄の取調が行われている)その故に警察の捜査およびこれらに基く原判決の本件犯行の認定が所論主張のように誤っていると非難するのは相当でない。

(2) 前記司法警察員による検証の際、被害者方玄関板間にあった2個の金庫中の1個のなかからなお1万円札1枚(他に郵便貯金通帳1冊、常陽銀行布川支店普通預金通帳1冊)が発見されている事実もあるから、たとい被害者が高利貸であったにせよ、高利貸は現金を持たぬものであるとの所論主張は、必ずしも絶対的なものとして受け容れるわけにはいかない。

(3) 被害者方八畳間押入床下に金の隠し場所と思われる箱が右検証の際に発見され、それが空であったことは、所論主張のとおりであるが、当夜それに現金が収納されていて、そこから現金が奪われたと推測できるような痕跡は何も発見されていない。

(4) 従って所論主張のように、これらの事実から、被告人らが金をとったという自白は事実と思えないとか、犯人は別にいるとかの結論をひきだすわけにはいかない。

8 渡辺昭一が帰途に見た人物

 原審証人渡辺昭一が帰途(被害者方より100メートル余り手前の)紀州屋酒店の前で被害者方前に人影を見て車を止めて一服し、その後被害者方前に至るまでの時間はせいぜい10分間くらいで、それはその間にその人間が被害者方に入り、被害者が悲鳴をあげるまでの時間としては短か過ぎるから、本件犯行はこの時刻に行なわれたものではない、との主張について

(1) 所論主張のように右時間が10分間くらいかどうかは原審証人渡辺昭一の供述からは明らかでなく、また、すでに前記Uの(1)の判断として説示したように、原判決は、右渡辺昭一が帰途に見た人影が本件の犯人であるとか、ちょうど渡辺昭一が前記のように通行している時間内に、被告人らが被害者宅に入り、被害者を殺害してしまったとか認定したわけではないし、また、同人のいうにわとりを絞殺するような声(論旨のいうような「悲鳴」とは供述していない)が被害者が殺された時の声であると認めたわけでもない。

なお、同人は単車に乗って進行していたのであるから、歩行者と同様に物音を聞くことができたわけでもないのである。所論は、原判決の認定を正確に把握しないで独自の前提に立つ議論であって、到底採用することはできない。

(2) 従って、この証人が帰途に見た人影は、本件の犯人であるかどうかは不明であるし、犯行が所論主張のように、原判示午後9時前後に行われたものではないとの結論を導き出すことはできない。

9 借用証

 被害者は高利貸であるのに、現場から借金証文が1枚も発見されず、被告人らがこれを持出した形跡もないのは、真犯人が別にいて、自分の分も含めて借用証全部を持出したからであり、従って、被告人らは犯人ではない、との主張について

 しかしながら、被害者がかつて他人に金を貸していたことは判明しているが、本件被害当時もそうであったのか、およびそうであったとしてその総金額、口数等がどうであったかは一切明らかでない(従って、所論主張のように、本件当時も音に聞えた高利貸であり、取立も厳しかったと認めるだけの資料は見当らない)。

また、前記司法警察員の検証調書によると、被害者方八畳の間の、積重ねられたロッカー下側のものの中から、枚数は記載されていないが、貸金証書、領収書等の発見されていることが明らかであるから、所論は前提を欠くものといわなければならない。

(なお、両弁護人の「最終弁論要旨」中には、昭和47年2月9日付、茨城県取手警察署長の回答書に、被告人桜井昌司が同42年12月8日には留置場から出た旨の記載がないのに、同人の同日付司法警察官に対する供述調書があるのは、調べの日と調書の日付がでたらめである証拠であるとの主張があるが、当審第20回公判において証拠として取調べた同48年4月24日付取手警察署長回答書によると、同42年12月8日は午前10時30分から午後0時まで、および午後1時から午後4時までの間早瀬警部補による取調のため留置場出入の記録があり − なお弁護人引用の同47年2月9日付同署長の回答書によっても、その番号 91 92の記載は、88 89 90の時刻と比照すると、12月8日のことに関するもので、ただ「12、8」の記載を写作成の際、脱落したものと認められる −、 右主張は論拠を欠くものというほかなく、また同被告人が昭和42年11月13日水戸地方裁判所土浦支部に土浦拘置所から引致された際、水戸地方検察庁土浦支部にも同行されても別に不思議はなく、それが同拘置所の記録に載せられていないからといって、そのために所論のように取調の日ないし調書の日付がでたらめということはできない。)

 結局のところ、所論にかんがみて原審記録を詳細に調査し、さらに当審における数次にわたる事実取調の結果を参酌し、検討してみても、原判決には、所論主張のような法令違反、審理不尽、事実誤認はなく、量刑不当の主張は原判示第3の強盗殺人の事実につき無罪であることを前提とするものであるから、これを容れる余地も存しない。論旨はいずれも理由がない。

 

 被告人杉山卓男の弁護人の控訴趣意第1は、序論として、原判決認定事実の要旨、事件関係者の本件結果についての予測、控訴趣意第2以下の所論の前提となるような、本件の特徴と題する各事項等を述べているに過ぎず、これに対し特に判断すべき必要はないと認められるので、第2以下の各論旨に対し判断を示すこととする。

 同控訴趣意第2の事実誤認の論旨について

 所論は、要するところ、原判示第3の強盗殺人の事実について、同被告人の自白は変遷が多く、相被告人桜井昌司の供述とくい違うところや、すでに判明している事実と矛盾するところもあり、また、同人には犯行当時の信用するに足るアリバイもあって、アリバイ主張に反する証拠は信用できず、結局右自白は虚偽のものと認むべきであるのに、原判決が右自白を採用して被告人を有罪としたのは、判決に影響をおよぼすことの明らかな事実の誤認である、というのである。

 しかしながら、原判示第3の事実は、原判決の掲げる証拠により十分に証明されている。

T、そこで、所論が、右証拠中、被告人らの捜査官に対する各供述調書記載が相互に矛盾し、または客観的事実と矛盾すると主張する各点について、順次検討してみる。

(1)犯行現場に至る経路に関する被告人両名の各供述の矛盾について

(すなわち、1回目の借金申込の経路は、相被告人桜井昌司の供述調書には「往きは表通、帰りは裏通」と書いてあるのに対し、被告人杉山卓男の供述調書には「往きも帰りも表通」と書いてあり、また、2回目の借金申込を相談した場所については、相被告人桜井昌司の供述調書には「土手の下におりて川原をブラブラ歩きながら」とあるのに、被告人杉山卓男の供述調書には「土手の上でバス停の付近」とくいちがいがある、との所論について)

 被告人両名が、原判示の昭和42年8月28日夕刻、利根川に架けられた原判示栄橋の東袂付近で、最初に被害者玉村象天から借金をする相談をしてから、ともに右被害者方に赴き、相被告人桜井昌司が被害者に借金の交渉をして断られ、再びともに栄橋東袂付近まで戻ってくるまでの道順について、その捜査官に対する各供述調書の記載内容を見ると、いずれも首尾一貫して、相被告人桜井昌司は、往路は横町通りを通って被害者宅の方へ左折(論旨のいう表通を経由)して行き、帰路は渡辺和夫宅および麦丸屋前(論旨のいう裏通)を通って栄橋の方へ戻った、と述べているのに対し、被告人杉山卓男は、往路は相被告人桜井昌司のいうところと同じであるが、帰路は往路と同じ道を通った、と述べていることは、所論主張のとおりである。

しかし、さらに進んで検討してみると、本件犯行にさらに接着した第2回目(すなわち、犯行直前および直後)にも、被告人両名は栄橋東袂付近と被害者方との間を往復しているのであるが、その経路に関しては両被告人ともに一貫して論旨のいう裏通を通った旨を述べていて、両者の間に供述のくいちがいはない。これによってみると、1回目の帰路については、被告人両名のうちいずれか1名の記憶違いにより供述のくいちがいを生じているが、犯行に接着する2回目の経路については、往復とも両名の供述が一致しているということになる。

 次に、前記のように1回目に被害者方に金を借りに行く前の相談は栄橋を渡った東側の袂付近で行われており、断わられてまた栄橋付近まで戻った後の論旨のいう2回目の相談の場所は、相被告人桜井昌司の供述調書においては、土手を降りて川原を往復しながら話がされた趣旨に記載され、他方被告人桜井卓男の供述調書の場合は、それが栄橋の東の付近とされていることは、おおむね所論主張のとおりである。

しかし、相被告人桜井昌司の供述中にも、土手に立っていて、暗がりの中で約10分くらい話をして、土手を降り、川原の方へ行った旨の部分(昭和42年10月24日付司法警察員に対する供述調書)がある反面、被告人杉山卓男の供述中には、その話をした場所として、栄橋袂のバス停付近広場をぶらぶらしていたのであるから、土手の下へも降りたかも知れないとの部分(同日付、司法警察員に対する供述調書)があって、双方はその内容に実質的に大した差異があるものとは認められない。

 結局のところ、所論の指摘する右2点についての両者の相違は、その程度、内容、重要性等から判断して、被告人両名の捜査機関に対する本件犯行の各自白の信用性に影響を与えるほど重大なものということはできない。

(2)侵入口に関する被告人両名の各供述と客観的状況の不一致について

(すなわち、被告人両名の捜査機関に対する各供述調書によれば、いずれも、「勝手口石段に上り、西側ガラス戸を東側に開けて、今晩は、といったら、被害者が八畳間と四畳間の境の西側ガラス戸を東に開け顔を出したのが見えた」となっているが、二つ重ね茶だんすおよび冷蔵庫の西側壁にさえぎられて、右のように勝手口西側ガラス戸のところから八畳間西側ガラス戸のところを見ることは客観的に不可能である、との所論について)

 前記司法警察員作成の昭和42年9月22日付検証調書(昭和42年8月30日および同月31日に実施されたもの)の記載殊にその添付現場見取図第6および関連する写真第8、9、20、43、44、45等によると、被害者玉村象天方勝手口(幅約1.72メートル)は、被害者方建物の南側にあって、その東寄りの部分に位置し(西寄りの部分には、平常使用されていないとみられる玄関がある)、横引きのガラス戸が2枚あって、その下端(上り框)の高さは地上から約56センチメートル、その手前には地上から高さ29センチメートルの踏石が置かれており、次に、勝手口の内側は、東西約2.7メートル、南北(奥行)約1.24メートルの板敷の間となっており、その左端(西側)には前記西寄り部分玄関土間との境をなす壁があり、右勝手板間の北側(奥)には、、右勝手板間の西壁の北端を中心にして、勝手板間と玄関土間の北側に左右へ二畳ずつの広さに畳を敷いたいわゆる長四畳の間があり、右四畳間の北側西半分はさらにその北側にある八畳間と接していて、その境に2枚引のガラス戸があり、なお、前記勝手板間には、前記西壁を背にして勝手口に接し東向きに正面幅90センチメートル、奥行43センチメートル、高さ181センチメートルの二つ重ね茶だんすが置かれ、これと並んでその北側には同じく西壁を背にして、正面幅49センチメートル、奥行45センチメートル、高さ90センチメートルの冷蔵庫が置かれていて、冷蔵庫は若干四畳間の方へはみ出していることが認められる。

そして、所論主張のように、勝手口の踏石の上に立ち、2枚のガラス戸の西側(向って左側)の1枚を右側へ全開した場合でも、前記四畳の間と八畳の間の2枚のガラス戸の西側の1枚を八畳間側から東へ開けた人物を、踏石の上に立ったままの姿勢で見ることは、前記勝手板間の西壁および茶だんすに遮られてまず不可能である(ただし、本控訴趣意書の引用する同書添付図面1は、縮尺の関係その他に不正確なものがあって、これを右論拠とすることはできない)。しかしながら、勝手口ガラス戸の東側のものを西に開ければ、前記人物は容易に見ることができるものと認められる。

 この点につき、被告人らが2回目に被害者方をおとずれ、勝手口から順次被害者方に侵入したとされている時点に関する被告人両名の捜査官に対する各供述を検討してみると、被告人杉山卓男(同人は、2回目のときも、相被告人桜井昌司がまず被害者と話すことになり、その間、表で待っていたことになっていて、自らは勝手口ガラス戸を開けていない)は、昭和42年10月22日付司法警察員に対する供述調書中に、昌司が勝手口ガラス戸に手をかけたら右側だったかにあき、と不確実な供述(その際の被害者の位置は被告人杉山卓男には分かっていない)をしているのが記載されているのみで、その後の同人の供述調書においては、相被告人桜井昌司が、勝手口2枚のガラス戸のうち、左右いずれの側のを開けたかにつき、言及するところがない。

これに反し、相被告人桜井昌司は、最初の自白をした同年10月15日付司法警察員に対する供述調書以降、同年10月18日付、同月24日付、同月31日付(15項あるもの)の各司法警察員に対するもの、同年12月19日付検察官に対するもの等、いずれも勝手口のガラス戸左側を開けたとの供述を続け、所論主張の同年12月22日付検察官に対する供述調書に至って、右側を開けたように思出した、といささかあやふやな供述の変更をしている。

 ところで、前記司法警察員作成の検証調書によると、被害者方勝手口のガラス戸は、検証時に、西側(左側)ガラス戸はわずかながら閉めのこしがあり、かつ西側のガラス戸は2枚のうち外付の戸であって、それも外側の戸に付けられたスプリング付外締錠が右側框にある関係から、外側の戸は常に左側に閉められていたものと窺われ、また表側からガラス戸を開けるには、特に他の障害がない限り、まず外側のものを動かすのが通常であるから、本件の場合、途中の供述変更にかかわらず、前記のような相被告人桜井昌司の当初の供述の方が真相に合致している蓋然性が大きいと考えられる。

 さらに進んで検討してみると、なるほど踏石の上に立ったままの姿勢では、勝手口西側のガラス戸を右(東側)に開けても、八畳間の方から、四畳間との境の西側ガラス戸を開けても、八畳間の方から、四畳間との境の西側ガラス戸を開けた人物を認め得ないことは、先にで言及したとおりであるが、上体を右前の方に屈めて、奥の方を覗きこめば(昭和42年10月18日付相被告人桜井昌司の司法警察員に対する供述調書参照)、茶だんすの奥の冷蔵庫は高さわずかに90センチメートルに過ぎず、その上を通して、八畳間の方の人物を認めることができないわけではなく、まして、相被告人桜井昌司はすぐに靴を脱いで勝手板間に上っているのであるから(同年10月15日付、同被告人の司法警察員に対する供述調書)、八畳間から顔を出した被害者を認めることは容易であり、かような状況姿勢等を説明するのに同被告人の供述調書の記載内容に多少不十分なものがあったとしても、被告人の供述は不可能なことを述べているものとして、その供述を虚偽であるとする所論主張にたやすく同調するわけにはいかない。

(3)死体を持上げようとしたかについて

(すなわち、被告人両名が死体を持上げたり、運ぼうとしたかどうかにつき、供述に変遷があるが、両名は「気味悪い、恐い」と感じたのか、どうか、との点について)

 被告人杉山卓男の司法警察員に対する昭和42年10月24日付供述調書第6項中には、私が肩から頭の方を持ち、昌司が腰から足のあたりを持って奥の方へ横向きにころがし、昌司が毛布を持って被害者が最初倒れた所へ敷こうとしたが、あわてていて平らに敷けないまま、同じように私が肩のあたり、昌司が足の方を持ち、顔が表の方を向くようにして(元の方へ)ころがし、その後、二人で敷布団を持ち、被害者の体の上にかぶせたが、死んだ被害者の顔を見るのが気味悪く、頭の毛だけ出るようにして、顔のところは全部かぶせてしまった、との趣旨の供述があることは、所論主張のとおりで、同被告人は同年10月29日付同様調書中にも同趣旨のことを簡単に繰返している。

 相被告人桜井昌司の司法警察員に対する供述調書中、この点に関しては、同年10月24日付のものにおいて、被害者の死体に二人で布団等を掛けたと述べ、同年10月31日付のもの(15項あるもの)においては、杉山が肩のあたりを、私が両膝のあたりに手をかけ死体を布団の上に持っていこうとしたが持上らなかったのでころがしたと供述し、また同年11月3日付のものにもほぼ同趣旨の供述の各記載がある。

 次に、検察官に対する供述をみると、相被告人桜井昌司の同年12月19日付のものにおいては、二人で死体を布団の上にのせるため持上げようとしたのに上らなかったが、動かしたことは本当であるとの趣旨の記載があるのに対し、被告人杉山卓男の同年12月13日付(第2回)のものの記載によると、自分が死体を持上げて運ぼうとしたことはなく、自分が昌司に毛布を投げたあと、昌司が一人で死体を動かしていたものである、と主張するようにも窺われる供述がある。

 右1ないし3に掲げた各供述調書の内容を通観すると、最後に掲げた被告人杉山卓男の検察官に対する供述調書(すでに一旦自白をひるがえした後の再自白の段階における供述であるが、右経過にかんがみ当時なお少しでも自己の有利に導きたいとの気持が皆無であったものとは保し難く、右に掲げた他の各供述調書と比照し、たやすく措信し難い)を除き、被告人両名で死体を持上げることはできなかったが、これをころがし或いは動かしたとの点においては、ほぼ一致しているのであり、また、被告人両名の死体に対する恐怖、嫌悪の情については、に掲げた被告人杉山卓男の供述調書があるほかは必ずしも明らかではないが、被告人両名が右の如く死体にふれたからといって必ずしも右恐怖嫌悪の情がなかったものと断定すべき筋合ではないから、右死体の取扱いに関する被告人両名の各供述内容を検討しても本件犯行に関する各自白が虚偽であるとの結論を導き出すようなものはない。

(4)強取した金品およびその処分について

(すなわち、相被告人桜井昌司の捜査段階における各供述によれば、同人が自らとったという金員および被告人杉山卓男から貰ったという金員に関する供述が変化し、それを翌日取手競輪で費消したという金額もそのとったという金額に応じて変化しているし、被害者の古い白色布製の三折財布についての供述も最初は被告人杉山卓男が、中途では相被告人桜井昌司がとったこととされ、最後に両被告人とも知らないこととなっており、結局これらは捜査官の教えたことである、との所論について)

 原審記録中の相被告人桜井昌司の司法警察員に対する各供述調書の記載によると、同被告人が自らとったという金員および犯行後被告人杉山卓男から貰った金員は(これについての、論旨の引用は必ずしも正確ではない)、それぞれ、

(1) 昭和42年10月15日付 千円札1枚貰っただけ

(2) 同月18日付(30項あるもの) ロッカーから1万円札6枚とった

(3) 同月20日付 とったのは1万円札6枚、貰ったのは千円札1枚

(4) 同月24日付 とったのはロッカーから千円札7枚、貰ったのは1万円札3枚と千円札1枚

(5) 同月27日付(12項あるもの) とったのは7,000円、貰ったのは31,000円

(6) 同月29日付 ロッカーから7,000円とった

(7) 同月30日付 とったのは7,000円、貰ったのは千円札10枚束3と1万円札1枚、後で数えたら千円札31枚あった

(8) 同月31日付(15項あるもの) 白い財布の約3,000円もとった

(9) 同年11月3日付 ロッカーからとったのは千円札7枚、貰ったのは千円札束3つと1万円札1枚で、千円札は31枚あった

となっており、また、相被告人桜井昌司の検察官に対する各供述調書によると、

(10) 同年12月19日付 ロッカーからとったのは千円札7枚、貰ったのは1万円札3枚と千円札10枚

(11) 同月25日付 自分がとったのは7,000円

と、かなりの変化を見せている。しかしながら、被告人杉山卓男は、すくなくとも金額に関しては、自分が押入の中あるいは畳の下からとったのは約10万円であると述べていて(昭和42年10月17日付、同月24日付、同月26日付、司法警察員に対する各供述調書、同月25日付検察官の弁解録取書、同年12月13日付第1回の検察官に対する供述調書)、終始変わるところはないし、相被告人桜井昌司に分けた金についても、千円札10枚束3束と1万円札1枚の計4万円であると一貫した額を述べている(被告人杉山卓男の司法警察員に対する同年10月26日、同月30日付、検察官に対する同年12月13日付第1回の各供述調書)のである。

そして前述のように供述内容の浮動する相被告人桜井昌司でさえ、自己がロッカーから千円札7枚をとったことを一旦認めた後は(そして犯行を認めていた期間中は)、これを維持していることも明らかである(前記相被告人桜井昌司の供述調書(4)(5)(6)(7)(9)(10)(11))。

これらを通観すると、相被告人桜井昌司がロッカーから現金約7,000円を、被告人杉山卓男が押入の中から約10万円を、それぞれ取り、右10万円の内約4万円を被告人杉山から同桜井に渡したものであることは、ほぼ動かし難いところというべく、その旨の各供述は原判示第3の強取の事実を認定するための自白として、十分に信用できるものと考えられる。

 論旨主張の古い白布製三折財布というのは、相被告人桜井昌司の各供述調書によると、当初は、被害者を殺害して栄橋際まで引上げて来たとき、被告人杉山卓男がとってきたものとして相被告人桜井昌司に見せ、その中に千円札2枚、百円札2、3枚、百円硬貨7、8枚が入っていたものというもので(前記相被告人桜井昌司の供述調書(1)(2)(4)(5)(7))、それが途中、相被告人桜井昌司自身が被害者のズボンポケットから取ったことに変わり(同(8)(9))、最後に、二人ともそのような財布をとっていないことに落着いた(同(11))ことは所論主張のとおりである。

これに反し、被告人杉山卓男はその供述調書において、自分のとった黒色二折財布のことを述べるのみで、白色三折財布を自分がとったかどうかにも相被告人桜井昌司がそれを持っていたのを見たことがあるかどうかにも触れるところは全然ない。

これらによると、古い白色の布製財布に関する被告人両名の各供述は、どの部分を信用してよいか捉えどころがないが、右財布またはその在中金については原判決も犯行の対象として認定していないところであるし、なお、右財布に関する供述が変遷しあるいは喰い違っているからといって、前記1の末段で述べた各自白の信用性まで否定すべきことにはならない。

 相被告人桜井昌司が、昭和42年8月28日夜の本件犯行により得たとされている金を翌日の取手競輪において車券を買って費消したと供述調書中に述べているその金額は、やはり高低があり、19,000円ぐらい(前記同被告人の供述調書(3))、37,000円(昭和42年10月27日付、司法警察員に対する供述調書、10項あるもの)、7,000円ないし7,600円(前記の(7))、48,500円ぐらい(同(9))、48,000円ぐらい(同年12月8日付、司法警察員に対する供述調書)となっていて、自分が6万円とったと自供していたころには車券を19,000円ぐらい買ったと述べ、自分は7,000円とって、共犯者から31,000円もらったと、前より少ない入手金額を述べているころには、逆に37,500円くらい負けたというのであるから、取調官が入手金額の増加に応じて多い車券費消金額を教えたというわけにもいかない。

なお、入手金額に応じて車券購入額のふえた旨の供述は、前記の白布三折財布を自分がとったと供述を変更した際の供述調書(前記の(8))に、財布の中の百円硬貨も車券を買うのに使ったと述べている場合のみのようである。証拠上明らかなように、当時しばしば競輪場に行き車券を買っていた右相被告人が本件の翌日に車券を買った金額を正確に記憶しないことは寧ろ当然のことであり、したがってその点に関する供述が右に見たとおり変遷しているからといって、これまた、前記の末段の各自白の信用性を否定すべき根拠とはなし難ない。

(5)便所の窓について

(すなわち、本件現場建物の便所の窓から相被告人桜井昌司が出られるかどうか、および便所窓枠を擦った形跡がないのに同被告人がこの窓から逃走したというのは客観的事実とは矛盾する、との所論について)

 前記司法警察員作成の検証調書によれば、本件現場の便所の窓は、東面していて、内部から見ると、床上95センチメートルの腰板および幅4センチメートルの框の上にあり、その幅81センチメートル、高さは36センチメートル、ガラス戸2枚は右側(南側)に寄せられ、開口部の木の桟は2本共外されていたことが明らかである。

そしてすでに相被告人桜井昌司の弁護人の主張に対する判断中(Uの(5)の3の(2))に示したように、小柄で身の軽い右相被告人がこの窓から外へ出ることにさしたる困難はなかったものとみとめられる(現に、当審証人渡辺忠治の供述によれば、茨城県警察本部矢野倉鑑識課員は、この窓から出てみたとのことである)。

 右検証調書によれば、窓枠を擦った形跡の認められないことは所論主張のとおりであるが、同所に埃−雨や風によって容易に消失することはいう迄もない−がたまっていた等、擦った跡の残り易い状態にあった形跡も存しない(写真30号参照)ので、擦った形跡がないからといって、所論のように、相被告人桜井昌司がここから外へ出たということと、客観的事実が矛盾するということはできない。

(6)前記四畳の間と八畳の間のガラス戸は、1枚外したのか、2枚外したのか、の点について

 前記司法警察員作成の検証調書によれと、四畳の間と八畳の間の境のガラス戸2枚中、東側の1枚は、その8枚あるガラスの最上段の2枚が割れて四畳側の真下に落ちた後、四畳側に倒れて、その下になった扇風機に当り、上から3段目東寄り(四畳間から見て右側)のガラス戸1枚が割れて落ちており、もう1枚の西側のガラス戸は外されて四畳の間の西寄りにあるミシンに立てかけられたかたちになっていて、最上段のガラス中、1枚が割れてその付近に落ちているという状況にある(なお、これらガラス戸を敷居にはめこんで現状に復したと認められるばあいの状態は、当審第4回公判において提出された司法警察員の昭和42年11月30日付捜査報告書にも明らかである)。

 この点に関する被告人杉山卓男の供述に、最終的には(被害者を殺害後)、被告人両名でガラス戸を外ずそうとして、東側の1枚がなかなか外ずれないので、自分が足で蹴とばしたら、上のガラスが2枚割れて落ちたが、その間、昌司はもう1枚のガラス戸を外ずして横に立てかけて便所の方へ行き、自分はガラス戸から手をはなしたら、ガラス戸は倒れて大きな音がしたとの趣旨になっており(被告人杉山卓男の検察官に対する昭和42年12月22日付供述調書)、それに先立っても、ほぼ同趣旨の供述があるし(同年12月13日付第2回の同様調書)、相被告人桜井昌司にも、ほぼこれに照応する供述が存する。(検察官に対する同年12月19日付および同月21日付−12項あるもの−各供述調書)

 ところで、前記司法警察員の昭和42年11月30日付捜査報告書によれば、右八畳の間と四畳の間との間の東側ガラス戸の上框の西寄りの端が割れていることが明らかであるが、これは右の各供述に現れている被告人杉山卓男がガラス戸を蹴った際に生じた可能性が十分に考えられる。

次に、右捜査報告書によると、ガラス戸は通常のはめ方に従って、東側のものを四畳側に、西側のものを八畳側にはめ込んで原状に復しており、その状態では、東側ガラス戸が立っている限り、西側ガラス戸を外ずすには、一旦八畳側八畳間側外ずさなければならないわけであって、右の被告人杉山の供述に現れているように、東側のガラス戸が倒れる前に相被告人桜井昌司がもう1枚の西側ガラス戸を外ずして四畳の間の西寄りに横にするには、相当な手間がかかることとなる。

しかしながら、この家屋においては、前記司法警察員の検証調書中のそれぞれ、「左側へ閉めた外側の戸」との記載および写真第9号にも明らかにされているように、家屋南側の玄関口および勝手口の引違いガラス戸のはめ方は、ともに通常のはめ方とは逆になっている(この点については同調書添付見取図6号の記載は誤っており、本控訴趣意書添付図面1も同様である)。

本件屋内には、押入に襖等なく、間仕切に引違い戸を使用したところもないので、これらの状態と比較するに由ないのであるが、もし、この四畳の間と八畳の間との間のガラス戸も、玄関口ないし勝手口と同様な戸の入れ方であったとすれば、東側のものは八畳間側に、西側のものは四畳間側にはめられていたことになり、その場合は、西側のガラス戸は、東側のが倒れる前に、たやすく四畳間側へ外ずすことができるわけである。

いずれにしても、右ガラス戸2枚に関する被告人らの前記供述と矛盾する客観的状況はなく、結局、問題のガラス戸のうち1枚は相被告人桜井昌司が取外ずし、1枚は被告人杉山が蹴ったあと倒れたものと認められるので、この点を検討しても、被告人らの各自白が虚偽であることを窺わしめるに足るものはない。

(7)便所窓下の明るさ等について

(すなわち、相被告人桜井昌司が裸足で飛び出し、被告人杉山卓男の持って来たという靴を探出すことができるほど、現場便所の窓下は明るかったか、との点について)

 当審において、日没時刻が本件当日と同じとされる昭和46年8月28日になされた検証の結果を記載した同年9月30日付検証調書によると、当時の被害者方家屋はすでに取払われ、あらたな家が建築された後ではあるが、午後8時25分に、当時の便所の窓下付近と認められるあたりの地上では、物体の存在自体も識別できない程度の暗さであったことが指摘されていて、犯行当時もほぼ同様であったと推測される。

 しかし、相被告人桜井昌司の検察官に対する供述調書(昭和42年12月19日付)には、同人が杉山に裏に靴を廻してくれ、といって、便所の窓の桟を外ずしたころ、外から、ここだからとか杉山の声がしたので、窓から足の方から出て靴を見付け、との趣旨の記載があり、それによれば必ずしも靴が見えたというわけではなく(もっとも、前記司法警察員による検証調書によると、検証時には、便所の窓下からほぼ南方へ7ないし8メートル距てたところにある、母屋とは別棟の被害者方風呂場と流場との中間、地上1.85メートルの高さに30ワットの裸電球が点灯しており、本件犯行時にも同一状態にあったと推測されるので、そうであるとすれば窓下を直射する状況ではなくても、多少の明るさはあったものと認められ、辛うじて靴が見えたということも考えられるし、そうでないとしても、靴は手探りでも発見でき、触れてみると、爪先方向なども判る)、従って、便所窓下が真暗とはいっても、必ずしもそのためにこの点に関する被告人らの右供述が疑わしいといえるわけではない。

(8)相被告人桜井昌司が犯行後、玄関のところで聞いたごうんという音に関する疑問について

 相被告人桜井昌司は、犯行直後、逃げる際、被害者方玄関前あたりを通るとき、ごうんという音を聞いた旨の当初の供述(同被告人の司法警察員に対する昭和42年10月15日付、同月18日付各供述調書−但し後者は30項あるもの−)を、その後翻して、その音は、四畳間と八畳間の境のガラス戸を自分が外ずした後、自分が便所へ入ったとき聞いたのであると述べているところ(同被告人の検察官に対する昭和42年12月21日付供述調書、但し12項あるもの)、その音は、前記ガラス戸の東側の1枚が倒れるときそのガラスが割れた音と考えることができるので、同人の右の音に関する供述に疑問があるわけではなく(因みに被告人杉山卓男は、前記(6)のとおり、昌司はもう1枚のガラス戸を外ずして横に立てかけて便所の方へ行き、自分はガラス戸から手をはなしたら、ガラス戸は倒れて大きな音がした旨の供述をしている)、従って、この点からみても、被告人らの自白の信用性を覆すに足るものはない。

(9)車寿司の前や、栄橋の袂の土手等は、紙幣の種類が見分けられる程に明るいかどうか、について

 前記の当裁判所の検証調書によれば

(イ) 車寿司(被告人らが第1回目に被害者方に赴いた際に歩いたという前記表通り≪横町通≫の途中栄橋東端から下流の方へ100メートル余り進んだところから左へ、すなわち、被告人らが犯行後通ったとされている裏通りへ別れる丁字路の、栄橋方面から来て左手前角にある店)の前は、街灯および店内の照明により、地表においても紙幣、貨幣とも識別可能であり、

(ロ) 同所から南西の利根川左岸堤防上の地表の場合は、栄橋より上流(栄橋より下流と異なり堤防が道路となっている部分)の自動車前照灯が当るとき以外は、前記の識別は不能であり、

(ハ) 栄橋から約50メートル下流の利根川左岸河原地表においては識別不可能に近く、栄橋東端の蛍光灯光線が当たるようにすれば、紙幣は辛うじて識別可能である。

と認められる。

 そして、被告人両名が、それぞれとったという現金を相手に見せたこと等に関する相被告人桜井昌司の検察官に対する供述調書においても、同じく被告人杉山卓男の捜査官に対する供述調書においても、最終的に前記(イ)(ロ)(ハ)の諸事実と矛盾、対立する供述は見当たらないので、これらの点からみても、被告人らの自白の信用性を疑わしめるに足りない。

(10)犯行現場において発見された眼鏡は誰のもので、いつ落ちたのか、という点について

 被告人杉山卓男の司法警察官に対する昭和42年11月2日付供述調書によれば、現場で相被告人桜井昌司が被害者を殴ったとき被害者の眼鏡が飛んだが、証拠品の眼鏡はそれだと思うとの供述調書があり、他に標記のの点につき、これと矛盾、背反するような証拠は見当らないので、これまた、被告人らの自白の信用性を疑わしめるに足りない。

(11)以上を総合すれば、

 所論が自白を検討した結果として指摘する各項目中

(1) 捜査官にあらかじめ判明している事項についてのみ被告人らの供述が一貫しているとの所論は、例えば被告人杉山卓男がとったという金額、同被告人が相被告人桜井昌司に分け与えた金額等、本件においては捜査官にあらかじめ分りようのない事項についても前記(4)で示したとおり一貫した自白のあることからみて、これを容れがたいし、

(2) 勝手口のガラス戸(侵入口)および便所の窓に関する自白にも、前述のとおり所論主張のような客観的事実と明確に矛盾するようなものは見当らず、

(3) 被告人両名の自白に多少の変遷があり、殊に相被告人桜井昌司の方にはそれが多く見られるが、捜査官がその間の調整を試みるようなことがあったとしても、所論主張のように相互の供述と一致する供述をするよう、あるいは捜査官のすでに知っている事実に符合するよう、不当に誘導、強制したような事実はなかったものと認められ(例えば、すでに司法警察員による検証の際、被害者方八畳間東側押入床下にある金の隠し場所と推測されるものが発見されているのに、被告人杉山卓男はついに一度も、そこから金をとったとの供述をし、あるいはさせられていないし、同被告人は、昭和42年10月17日の最初の自白のときから相被告人桜井昌司が犯行後便所の窓から出たことを述べているのに、右被告人がそのことを言出したのは、はるかに後であること等からも言えることである)、

 その他、所論に基いて被告人杉山卓男の自白を検討しても、自白が最終的に虚偽であるとの結論に至るようなものを見出すことができず、寧ろ十分にその真実性を認めることができ、

 同被告の自白は、暴力行為等処罰に関する法律行為違反事件による逮捕の翌日、しかも比較的短時間の取調に対しなされたものであり、それに任意性が認められる事情については、原審において証人として取調べられた各担当捜査官(後記U(3)に掲げる証人久保木輝雄ら)の供述等により明白にされており、当審における事実取調のによっても、この結論に変るところはない。

 

U、次に、被告人杉山卓男は昭和42年8月28日の事件当日は犯行現場に行ったことがなく、終日東京都中野区野方周辺にいたアリバイがある、との所論主張について、検討してみる。

(1)所論主張によれば、事件当日における同被告人の行動は、その前夜は、東京都中野区野方5丁目35番4号所在アパート光明荘の2階の相被告人桜井昌司の兄、桜井賢司の当時の居室に友人河原崎敏とともに泊り、翌28日朝10時頃3人で起き、桜井賢司が河原崎に対して入墨をしてやるのを午後3時ころまで見て、そのあと、二人が外出してから、自分も午後5時ころ出かけて近所のふろ屋とパチンコ屋に寄り、アパートへもどり、洗濯をして、午後7時すぎ、またでかけ、薬師東映(中野区上高田3丁目39番10号所在)で映画を見て、それが午後10時少し前に終わったので、右アパートに戻った。11時少し前ころ、相被告人桜井昌司が、賢司の勤務先バー「じゅん」で飲んだうえやってきて、同人は午前0時近く、隣のアパートに窓越しに忍込み、魚の缶詰1個を盗んできた。その晩は両被告人とも兄の室に泊った、というのである。

(2)そして、右のアリバイに関して所論の掲げる被告人杉山卓男の供述は、以下に掲げるないしのとおりである。

 検察官に対する昭和42年11月13日付供述調書に、昭和42年8月28日は朝から賢司が河原崎に入墨をしてやり、昼過ぎに完成したと思う、昼食後、賢司は2、3時ころ勤めに出かけ、河原崎も出かけ、自分は誰もいなくなってから洗濯し、4時ころふろ屋へ行き、次にパチンコ屋で6時ころまで遊び(ここで一旦アパートに帰ったとの所論主張の点は、この調書に現れていない)、それから薬師東映で「クレージーの黄金作戦」と北島三郎出演のやくざものほか1本を見たが、途中8時か、8時半ころ、一旦、たばこ買いに外へ出た、終わったのは10時近く、アパートに帰ったのは10時半ころで、11時から11時半ころの間に昌司が酔って帰ってきて、確かにその日のことと思うが、昌司はパンツ一つになって、並びのアパートの向いの窓に渡り、魚の缶詰2個盗んできた、との記載があり、

 検察官に対する同年11月17日付供述調書では、前掲調書に対する訂正補充として、パチンコ店から一旦アパートに帰り、部屋の片付等に3、40分を費やし、その間、丸井の集金人という男が賢司を尋ねて来たこと、昌司が帰ってきてから、新井薬師で映画を見たことは話したが、題やすじは言わず、自分は新宿では映画を見たことがないこと、昌司が並びのアパートへ盗みにいったのは、2日程前に自分がその室にりんごのあるのを見ていたので、昌司にとってこいと言ったからであること等が付加えられ、

 昭和45年6月29日原審第31回公判において提出されたノートブック記載の被告人杉山卓男の上申書(記録3、546丁、控訴趣意書に引用の「3、613丁の上申書」といのは、自白に至る経過を記載したもので、犯行日とされている日の前後の行動は書いていないので、上記の誤記と認める)によると、前記8月28日午後3時ころ入墨が終り、あとの二人は出かけ、自分は5時ころふろ屋へ、ついでにパチンコ屋に行き、戻って洗濯をしてから薬師東映へ行き、途中で一旦たばこ買いに表へ出たとき雨が降っていた、最後の映画は「クレージーの黄金作戦」で、終わって出たときは雨が上がっていた、もう1本は、はっきりしないが、夏木陽介主演の「青春でつっぱしれ」とかいうラグビーものだったと思う、10時半か11時ころアパートに帰り、その後、昌司が帰ってきて、そのあとで昌司は向いのアパートで魚の缶詰を盗んできた、との趣旨になっており、

 原審第1回、第16回ないし第22回および第30回(なお、当審第1回)の各公判においてもそれぞれ、ほぼ同趣旨のアリバイを述べていることが、右各公判調書の記載によって認められる。

(3)右のアリバイに関する各供述の信憑性について

 所論は、被告人杉山卓男の前記のようなアリバイに関する各供述について、映画終了時間および入墨終了時間の相違等、2、3の矛盾はあっても、なお信用し得るものとしている。

 しかし、相被告人桜井昌司の検察官に対する昭和42年11月13日供述調書には、当夜兄のアパートに帰って来たとき、杉山は新宿で映画を見てきて、話していた内容は、自分の記憶では何か洋画のようであったとか、杉山が向いのアパートの姉さんが今日バナナを買ったのを見たと言った等の供述記載があり、被告人杉山卓男の前記検察官に対する同日付供述調書における供述記載と若干くいちがっている。

 また、前記入墨の件は、被告人杉山卓男の逮捕の翌日である昭和42年10月17日付司法警察員に対する最初の自白調書にすでに記載されている(但し、その時刻は「午後2時ころまで」となっている)ので、所論主張のように取調官が逮捕直後これを黙殺していたというのは当らないし、同じく映画の件については、同人の自白の供述調書や原審第12回および第23回公判調書に記載されている証人久保木輝雄、同大木伝、同吉田賢治および同森井喜六(なお、久保木証人については当審第10回公判調書)の各取調状況に関する証言等を仔細に検討しても、取調の当初、同被告人がこれを主張したのに取調官が黙殺したものである、との所論主張を裏付けるようなものは見当たらない。

 なお、前記(2)に掲げた被告人杉山卓男の検察官に対する昭和42年11月13日供述調書作成当時は、同被告人のための弁護人選任は未だなく(同年11月27日に至り、はじめて暴行等被告事件につき選任)、また当時同被告人は接見禁止中であったことは、ともに所論主張のとおりであるが、右接見禁止は強盗殺人被疑事件についてであったため、右13日限りで勾留延長期間満了となり、同事件についてはその際起訴されなかった結果、右接見禁止も同日限りで失効し(ただし、強盗殺人事件が起訴された同年12月28日に再び接見禁止の決定がされている)、従って、前記(2)に掲げた同月17日付調書作成の際は接見禁止中ではない。

それに、被告人両名は、ともに事件後1月以上を経てはじめて逮捕されているのみならず、被告人両名が、同年11月6日、別別の警察の留置場からともに土浦拘置支所に移監された2日くらい後には、他の在監者を通じて両被告人相互の間に連絡がとられ(昭和42年12月13日付被告人杉山卓男の検察官に対する供述調書第2回)、その後に前記(2)1、2の2通の検察官調書が作成されていることは明らかであるから、右調書作成までにアリバイ工作のできる余地はないとの所論をたやすく容認するわけにはいかない。

 ところで、被告人杉山卓男の、犯行のあったという昭和42年8月28日は、午後7時過ぎに薬師東映に出かけ午後10時少し前まで(すなわち犯行時刻の時間帯のころには)、映画「黄金作戦」等を見ていた、その間、8時か8時半ころに一旦外へ出たとき、雨が降っていた旨の前記供述の内容につき、さらに検討してみると、原審記録中の、

(1) 証人塚原和雄(薬師東映支配人3、376丁以下)に対する尋問調書の記載によれば、同映画館では、

昭和42年8月16日から22日まで

 「侠客道」「広野の棺桶」「若社長レインボー作戦」

同年8月23日から29日まで

 「黄金作戦」「青春は俺のものだ」「マグマ大使」

同年8月30日から9月5日まで

 「悪名一代」「続関東兄弟」「青春でつっ走れ」

 がそれぞれ上映されていて、3本の上映にほぼ4時間を要し、予告編も上映され、終了はおおむね午後9時50分ないし9時55分となっていたことが認められる。

(2) 当時の夜間の降雨については、取手警察署長からの照会に対する東京管区気象台長の昭和42年8月18日から同月30日までの気象状況回答書(1、975丁以下)に示されていて(尤も観測場所は東京都千代田区の同気象台技術部技術課であって、中野区におけるものではない)、8月28日午後6時以降についてみると、降雨時刻は、

 時  分     時  分

18・08 −− 19・01

19・08 −− 19・30

19・54 −− 19・57

20・15

21・19

となっているが、同日に近接する他の日の分の状況につき、同様に午後6時以降の降雨があった分のみを調べてみても、

8月20日 18・01 −− 18・12

      19・45 −− 20・20

      21・18 −− 21・40

      21・48 −− 22・25

8月21日 19・07 −− 19・14

      20・40 −− 20・59

      21・03 −− 21・30

      ( 後  略 )

8月23日 18・21 −− 18・30

      20・59 −− 21・03

8月26日 18・23

      19・29 −− 19・30

      20・23 −− 21・01

      21・03 −− 21・05

      21・07 −− 21・16

      ( 後  略 )

となっており、それも晴天であった8月24日を除き、8月20日以降、30日に至るまで、殆んど連日、曇一時雨または曇時時雨で、降雨量は、26日の22.0ミリメートル、21、22両日の9.0および7.0ミリメートルを除き、終日降雨量0.0ないし2.0ミリメートル程度の、似たような小雨模様の天候である。

(3) 被告人杉山卓男が当時見たと供述する映画の題名についての、捜査官に対する供述(前掲(2))および原審第31回公判で提出された同被告人の上申書の内容(前掲(2))には、「黄金作戦」の他の1本に関しくいちがいがあり、また前記証人塚原和雄の供述するところとも、全面的に一致するわけではない。

(4) 同被告人の原審各公判廷ににおけるこれらの点に関係する供述をみると、その趣旨は、

 第1回公判調書。・・・(8月28日には)午後7時ころから薬師東映に行き、最後の10時半ころまでいた、

 第18回公判調書。・・・(8月28日には)午後7時過ぎに映画館(薬師東映)へ行ったが、その時は雨は降っていない、そのときは、戦争物をやっていた、30分か1時間して一旦外へ出たら雨だった、また戻ったら「クレージーの黄金作戦」をやっていたが、もう1本の名は覚えていない、この映画館はそのときが2度目である、8月30日には、1時近くに野方映画館へ行って「男涙の破門状」と早撃ち映画を見た、

 第20回公判調書。・・・(8月28日以前にも)桜井賢司のアパートには27日も行っていたし、26日、25日の朝にもいた。24日も23日もいた。前に(薬師東映に)行ったのは23日で「侠客道」というのをやっていたと思う、

 第21回公判調書。・・・ 前回に、8月23日に映画館へ行ったというのは、22日の誤りである、

 第27回公判調書。・・・ 8月30日に行ったのは西武座で、見たのは「男涙の破門状」「早撃犬」である、

 第30回公判調書。・・・(西武座支配人、坂本嵩の、8月30日には同映画館では「男涙の破門状」「早撃犬」は上映していないとの証言を聞いた後)、右題名の2本を見たというのは自分の勘違いかも知れない。(同証人のいうように)「雷門の決闘」「北海遊侠伝」を見た、という風に、まことにあいまいなものがある。

(5) 同被告人が、8月28日夜、一旦映画館の外へ出た際に雨が降っていたと供述しているのは、前記に(2)に記載された同日の20時15分のものに符合するとの所論主張と思われるが、前記東京管区気象台長の回答によれば、右降雨は継続したものではなく、前記観測地点での、その時刻だけのものであって、その故に、同被告人が当夜、前記映画館で映画を見ていたことを的確に立証できる程の事実とは認められない(因みに、同被告人の供述は映画館に入ったという午後7時過頃の天候を考慮すると、却って右回答による同月26日の降雨状況とよりよく符合している)。

むしろ、原審弁護人の照会による気象庁予報部長名義の回答書(1、865丁以下)によれば、同被告人が当時右映画館に入ったとき雨は降っていないとの趣旨を述べているのは、いささか疑わしいものといわなければならない。

(6) それに、同被告人は、検察官に対する昭和42年12月14日供述調書(第6回)によれば、8月28日に映画を見たというのは、本当は別の日であったとの趣旨の供述もしているし、また、8月28日の前後の他の日にも桜井賢司のアパートに来ていて、映画館へ行く機会は多く、また、当時の数日にわたる天候が大体は小雨の断続する状態であることを知っていた状況にあったものと認められる。

(7) 以上の諸事実からすれば、同被告人のアリバイに関する供述が所論主張のように被告人の本件犯行を否定しさることのできるほど信用性の高いものとはいえない。

 次に所論が同被告人の供述するアリバイの信用性に関する補強的な証拠の一として主張する原審証人河原崎敏の供述は、原審第11回公判調書の記載によると、同人は桜井賢司のアパートへ2泊して、昭和42年8月27、28日の2日がかりで桜井賢司に入墨をして貰って、午後4時ころでき上ったが、そのとき杉山もいたと思う、28日は休暇をとった、と一応述べているものの、検察官からの関連事項についての発問に対するその答えは、わかりません、というのが大部分であり、さらに裁判官の質問に対しては、入墨をしたのは土曜日と日曜日だと思う、休暇(勤先の国際電信電話会社から)をとったのは土曜日だ(そうであるとすれば、入墨をしたのは26、27両日となる)と思うと答えていて、入墨をしていた日は不明確である。

他方被告人杉山卓男のアリバイに関する供述によれば、入墨終了は、前記証人河原崎敏の午後4時ころという供述にかかわらず、午後3時ころというのであるが、同被告人が捜査官に対し本件犯行を自白している際の供述も、同日桜井賢司のアパートを出て我孫子方面へでかけたのはおおむね午後3時ごろとなっているのであるから、右河原崎敏の証言には全般的にあいまいな点があり、その証言が直ちに同被告人が本件犯行におよんでいないということを裏付ける効果を持つものとは認められない。

 同じく同被告人が供述するアリバイを支えているという原審証人桜井賢司(相被告人桜井昌司の兄)の供述は、原審第10回公判調書の記載によれば、自分のアパートで、昭和42年8月28日にも河原崎に入墨をしてやり、終わったのは午後3時ころであり、それから杉山、河原崎、私の3人でふろ屋へ行った、その晩、昌司が10時過ぎに(自分の勤めている)店へ来たと思う、警察で調べられてから、河原崎と二人で8月28日前後のことを考え直し、考え抜いた結果を今日の法廷で述べたと陳述しているが、検察官の問に対しては、店の営業時間は夜12時までで、8月28日に昌司が来てから閉店まで30分くらいかと思う、昌司は店に15分か20分くらいいたと述べ、さらに弁護人の問に対し、お客が11時に帰り、その後11時半ころまでお客が来ないときは店を早くしまうことがあるとは答えているが、8月28日当夜は早く店仕舞したとの供述はない。そうであるとすれば、被告人杉山卓男のアリバイ供述中の相被告人桜井昌司が当夜11時前にアパートにやってきたとの部分とはくいちがうのであって、必ずしも被告人杉山卓男のアリバイ主張を裏付けるものとはいえない。

さらに、次の第11回公判において刑事訴訟法第321条第1項第2号により証拠として採用された同証人(桜井賢司)の検察官に対する昭和42年11月17日付供述調書の記載によると、同人は8月28日は午後3時ころまで入墨をしていたと述べているほか、弟の昌司はその晩、閉店近いころであるから11時半ころと思うが一人で店に来たとの趣旨の、むしろ被告人両名が犯行を自白していた当時の、犯行後、中野区野方に戻ったという時刻に近い時刻に、相被告人桜井昌司が自分の店に来たことを認める供述がある。従って、右桜井賢司の述べるところも、被告人杉山卓男の本件犯行を否定し去るだけの効果をもつものとは認められない。

(4)アリバイの供述に対する捜査官および原審裁判所の態度に関する所論について

 捜査官が当初から、被告人らが本件の犯人であるとの予断をもって捜査をすすめ、そのためにアリバイに対しては、とおり一遍の捜査しかしていないとの主張について

 所論主張の、相被告人桜井昌司が昭和42年8月28日夜「桜井賢司のアパート2階居室窓から、隣の建物の2階窓に渡って、室内に侵入した」との点につき、右アパートに実況見分に赴いた警察官久保木文夫は、後に原審証人として、「ちょっと神業じゃないとできないような状況に感じました」と述べている(第22階公判調書、なお、所論引用の丁数は2、006が正確)。その際は、相被告人桜井昌司も、その兄賢司も立会っていないし、誰も2階の窓から窓へ渡ってみようとした形跡はないのであるが、窓の外の手摺から手摺まででも154センチメートルもある双方の2階の窓(原審裁判所の受命裁判官による検証調書2、535以下)を、常人では渡れないと警察官が判断しても、これをそれ程誤った判断であると非難するわけにはいかない。

前記受命裁判官による検証の際には、最後に、立会っていた桜井賢司の方が渡って見せているが、これは桜井兄弟が、常人よりは身が軽く、敏捷であることを示しているものである。これらの事実をもって、捜査官がアリバイを立たせないため、ことさらにいいかげんな捜査をしているとか、アリバイに対する捜査がとおり一遍であるとか結論することはできない。

 それに、そもそも、相被告人桜井昌司がこのようにして隣の建物の一室に忍込み、魚の缶詰1個を盗んできたということは、何ら被害者からの裏付証拠のないことがらであるし、また、これは前記8月28日の午後12時近くに行われたという被告人らの供述であるから、同人らが、本件犯行を行なった後、右時刻ころまでには前記アパートに来ている趣旨の自白をしている本件の場合、右各供述はなんら、右犯行を否定すべきいわゆるアリバイとしての効果を有するものではない。

 裁判所が予断をもって尋問しているとの主張について

(1) 右予断による尋問の例として所論中に掲げられている最初のものは、原審第17回公判において、被告人杉山卓男がそのアリバイとして供述する薬師東映において映画を見ていた終りの時刻を午後10時であると供述したので、原審第1回公判の際、同被告人がそれを午後10時半と述べていたこことのくいちがいを、裁判長から追求されたものであり、

(2) 同じく2番目の例として掲げられているものは、原審第29回公判において、被告人杉山卓男は、本件犯行日であるという8月28日当日に隣のアパートの2階の女の人が果物を買ってきたのを見たが、何の果物であったかは忘れた旨述べているのに、他方、これよりさき、同被告人は前記検察官に対する昭和42年11月17日付供述調書(前記(2)のアリバイに関する供述を記載したもの)においては、自分が2日前にその室にりんごのあるのを見ていたので、昌司にとってこいと言ったと述べているし、2階の窓越しに隣のアパートへ忍込んだという相被告人桜井昌司は、前記検察官に対する同年11月13日付供述調書(前記(3)のアリバイに関する供述を記載したもの)においては、杉山が向いのアパートの姉さんが今日バナナを買ったのを見たと言った旨述べているので、これらの間のくいちがいを問いただそうとして裁判長が尋問したものと認められ、

(3) かような場合に、裁判官が真相を明らかにしようとして供述者に質問することは寧ろ当然であり、質問者によりその発問の仕方に緩急の相違があり、時によっては供述者をゆさぶってみるような内容の反問等を試みることもあり得るのであって、これが一概に予断と偏見をもってする質問に当るものとは認め難く、本件記録を検討しても、右例示の(1)(2)の場合を含めて、所論主張のように裁判所が予断と偏見をあらわにしているようなところは見受られない。

(5)アリバイ主張と矛盾する証言について

(すなわち、本件犯行日である昭和42年8月28日に現場である布川付近またはその周辺方面で被告人杉山卓男を見たという原審証人高橋敏雄、同海老原昇平、同伊藤廸稔、同角田七郎、同渡辺昭一の5名の各証言の信用性は薄く、また当夜、現場家屋付近で人のいるのを見掛けたという原審証人小貫俊明、同沢部くにの各証言も信用性が薄いとの所論について)

 所論が指摘する前記5証人の各供述内容は、ことの性質上、被告人両名に嫌疑がかけられた後、すなわち犯行後、4、50日を経てから以降に、改めてその記憶を喚起されたものと推測されること(捜査官においてこれらの者達が事件に関し何らかの知識をもっていることを知った日や警察官に対するその供述調書が作成された日等は記録上必ずしも明らかでなく、このうち渡辺昭一については警察官に対する供述調書は作成されていない)、および被告人杉山卓男は犯行日とされている8月28日の前後にわたっても、再再、本件現場である布川またはその周辺に行っていることは、おおむね所論主張のとおりであると認められ、これらの各証言の信用性を判断するにあたり考慮すべき事柄に属するといえよう。

しかしながら、前記5名は、その各供述内容から判断して、その多くが、当該本人から直接あるいは間接に申出のない限り、取調官には判明する筈のない証人達であるから、たといこのような申出による捜査官の質問が時に執拗にわたることがあったとしても、直ちに、その供述を、頭から誘導に基く信用度の極めて弱いものとして排斥し去るわけにはいかない。

また、前記5証人の各供述の信用性につき、原判決がその(訴訟関係人の主張に対する判断)2の(1)の中で、「被告人杉山卓男を布川付近またはその周辺(尤も高橋敏雄については国鉄我孫子駅)で見かけた」旨の証言は、証人にそれは事故の翌日であるとの記憶があるため「昭和42年8月28日のことであるとの記憶が信用できる」との趣旨を説示していることは、所論主張のとおりであるが、前記5名の中、渡辺昭一を除く4名の証人達は、論旨のいうように単に事故があった翌日として同被告人を見かけた日を特定しているわけではなく、右8月28日の前日の事故というのは、東京鉄道管理局長の回答(1、10丁)によれば、昭和42年8月27日19時14分常磐線我孫子柏間で脱線事故があって、上下線とも不通となり、翌8月28日12時13分から下り線がそれぞれ復旧したというものであって、右両名の証人中、高橋敏雄、伊藤廸稔、角田七郎は、いずれも右8月28日の朝の出勤に際しては、常磐線を経由して東京方面への通勤路線を事故のため利用できなかったというのであるから、各その体験との関連で右8月28日に被告人杉山卓男を見たことを記憶しているしいうのは、十分に納得できるところであり、同じく海老原昇平は、常磐線我孫子駅から分岐する成田線布佐駅に勤務する駅員であるから、その立場上、同人が右の如く午前中ダイヤの混乱があり正午過ぎに正常に復した同日の午後7時すぎころ、同駅の外にあるベンチに腰かけている被告人杉山卓男を見かけた、という記憶を有することもまた首肯できると認められ、またわたなべ昭一は当日の印象に残る体験と当夜に見たテレビ番組との関係等で右8月28日のことを記憶しているのであってこれも首肯するに足りるので、これらを信用した原判決の前記判断が誤っているということはできない。

なお、所論は、原審第5回公判調書中証人小貫俊明の供述記載として「(警察に)そのような感じかと言われたので、そうだといったのです」との部分があり、同公判調書中沢部くにの供述記載として「警察の人から、何度も(被害者方の前に人が)いたんではないかと言われた」との部分があることをあげて、取調警察官が、予断に満ちた、強制的、誘導的取調をしたものと主張するが、右小貫証人の供述記載中には「(被害者方のところで二人を見たというのは)警察で責められて言ったのではない」との趣旨の部分もあるし、同じく沢部証人の供述として、上記の言葉に続いて、「入口のどぶ板のあたりに人がいたような気がするんです」との記載部分があるのであって、両証人ともに警察官から誘導されたがために供述したということについては寧ろ否定的であり、それに、そもそも、両証人ともに、当時被害者方付近で二人または一人の人物を見た旨証言するに止り、そこにいたのが被告人両名ないし、その中の一人であったとの趣旨は一言も述べていないのであるから、両証人の各供述を所論のように信用性が薄いと非難するのは当らない。

また、事件後8月余を経た原審第4回公判(昭和43年5月2日)において伊藤廸稔が、さらに1月余を経た原審第6回公判(同年6月6日)において角田七郎が、それぞれ証人として供述しているところ、右両名が前記事故の翌日被告人らを栄橋付近で見かけたとの趣旨を述べながら、その月日を特定できなかったことは、所論主張のとおりであるが、右両人が、さきに右公判の前年12月、検察官の取調に対して、それは8月28日であるとの趣旨の供述をしながら、右取調後4月余ないし5月余を経た右公判廷において右のように正確な年月日をはっきり言えなかったとしても、特に異とするに足りず、所論主張のように、検察官がその取調に際し無理に8月28日に被告人らを見かけた旨の供述をとった疑いが濃厚であるといえるわけでもない。

 次に所論は、前記証人高橋敏雄、伊藤廸稔、同角田七郎、同海老原昇平の原審公判廷における8月28日に被告人らを我孫子、栄橋付近、布佐駅付近等で見かけたとの趣旨の各供述に関し、

(1) 高橋敏雄のものは8月31日、

(2) 伊藤廸稔、角田七郎のものは9月1日、

(3) 海老原昇平のものは8月25日、

のことを、それぞれ日を誤って述べたものと主張するが、すでに相被告人桜井昌司の弁護人の控訴趣意に対し説示したところ(判断中のT、およびU(2))により明らかにされているように、これらを証拠として採用した原判決の判断に誤りは認められない。

そして、右伊藤廸稔、角田七郎の両名は布佐駅下車後、栄橋に至る間、終始被告人杉山卓男と同伴して歩いていたと認められるわけではないのであるから、栄橋付近で同被告人を見た旨の右両名の各証言と、同被告人が布佐駅前ベンチに腰かけていたのを見た旨の海老原昇平の証言との間に、所論主張のようなくいちがいがあるわけではなく、また、原審裁判所で昭和43年3月25日に行なった検証調書(768丁以下)および添付写真(4および5)に徴しても、布佐駅の駅長室にいた右海老原証人が駅前ベンチに腰掛けていた被告人杉山卓男の顔(同証人の供述によれば横顔と思われる)を見ることは、可能であったと認められるのであって、それができたかどうか疑問であるとの所論主張に与することはできない。

 尤も、前記各証人中、渡辺昭一の原審公判における供述(原審第13回公判調書)にはある程度の混乱が見られ、それは同証人の当審における供述(第7回および第9回の各公判調書)においても多かれ少なかれ同様な状態である。しかしながら、右の混乱は主として同証人が帰途に現場付近を通りかかった際の事柄につき見られるのであって、その前の往路に現場付近で両被告人を見た旨の供述が信用できるものであることは、すでに相被告人桜井昌司の弁護人の控訴趣意に対し詳細に答えたとおり(前述U(1))である。

所論主張の、当時時速30キロメートルで走る単車にのっていた同証人が相被告人桜井昌司の顔を見たときの同人との距離2メートルを走る時間0.24秒では、その識別は不可能であるとの点については、この時間に、知っている顔を、殊に相手の位置が移動しない場合には、認識するに十分であると認められるので、採用しない。

また、同証人の供述が単なる勘違いだけでなく、記憶に基かない作出した証言であるとの所論も、その根拠を見出しがたく、これを容認するわけにはいかない。

 所論中、原審証人小貫俊明、同沢部くにの各供述を、警察官により誘導されたものに基く信用性の薄いものであるとする主張の容認できないことは、前述のとおりであるが、両証人とも、その供述の内容は、ただ、当時現場付近に人がいるのを見た、あるいは人のいる気配がしたとの趣旨であって、その人を特定しているわけではなく、被告人杉山卓男を以前から知っているという小貫俊明の場合も、現場付近で見た二人の顔は判らないというのであり、その中の一人が被告人杉山卓男であるともないとも言っていないのであるから、所論主張のようにあながちそれを同被告人であることを否定した趣旨と解するわけにはいかない。

V、以上説示したとおり、被告人杉山卓男の自白は任意に真実を述べたものと認められ、そのアリバイも成立しないから、結局原判示第3の事実についての原判決の認定は相当というべく、さらに当審における事実取調の結果を検討しても右結論を変更すべきものはないので、原判決には所論主張のような事実の誤認は存しない。論旨は理由がない。

 

 被告人杉山卓男の弁護人の控訴趣意中第3の訴訟手続きの法令違反を主張する論旨について

 所論は、同被告人は、昭和42年10月16日暴力行為等処罰に関する法律違反の被疑事件につき逮捕されたうえ、同月17日勾留状の執行をうけ、引続き身柄を拘束されたが、同月23日原判示第3の強盗殺人の被疑事実につき改めて逮捕状を執行されるまでの間継続して強盗殺人の事実につき取調を受け、前記17日のほか、同月21日以降にも自白調書が作成されているのであるから、当初の逮捕は、別件である強盗殺人事件の取調のためなされたもので、その後の捜査とともに違法であり、それにより得られた自白も証拠とすることができないものであるのに、原判決が右自白調書を証拠として採用、これにより被告人を有罪と認めたのは、判決に影響をおよぼすことの明らかな訴訟手続きの法令違反である、というのである。

T、そこで、所論に徴し記録を検討してみると、被告人杉山卓男が(相被告人桜井昌司の本件犯行自白の翌日である)昭和42年10月16日、暴力行為等処罰に関する法律違反の被疑事実(外2名の者と共謀のうえ、他人に共同暴行を加えた事実)についての同年9月30日付逮捕状により逮捕され、右事件は身柄付検察官送致となり、翌10月17日拘留状を執行されて代用監獄としての水海道警察署留置場に身柄を拘置されて取調を受けているうち、早くも右拘留状執行の当日に本件強盗殺人の犯行を自白するに至ったことが明らかであるが、すでに当審証人渡辺忠治、同久保木輝雄の各供述により明らかなように、捜査当局は、被告人杉山卓男に対しては、本件強盗殺人事件の捜査線上に浮んだ多数の者と同様に、本件犯行日(昭和42年8月28日夜)を挟んだ前後の数日間における行動を取調べ何らか右捜査の手掛りとなる事実を聞出す含み(従って、未だ同被告人を右強盗殺人の犯人として自白させる目的にしぼられていたわけではない)をもって、前記暴力行為等処罰に関する法律違反事件につき逮捕状の発布を得ていたものであり、それも些細な事件のみを取上げて逮捕状の発布を得たというわけのものではない。

すなわち、当時、同被告人には、右令状発布にかかる被疑事実と同種または恐喝罪等の余罪に関する嫌疑もあり、それは原判示第2の各事実として有罪と認定されたものであって、その捜査にも日時を要する情況にあったのであるから、所論主張のように現実には本件強盗殺人事件の犯人として取調べることが主たる目的でありながら、名を取るに足りない別件の逮捕状にかりて、その逮捕が行われたものとは認められない。

それに、前記9月30日付逮捕状の請求時は別として、被告人杉山卓男を右逮捕状により逮捕した前記10月16日当時は、すでに相被告人桜井昌司が本件強盗殺人事件を自白し、共犯者として被告人杉山卓男の名を挙げているのであって、それは被告人杉山卓男につき本件強盗殺人事件の逮捕状を請求するのに十分な資料であったと認められる場合でもあるから、前記暴力行為等処罰に関する法律違反の被疑事実についての逮捕状の執行が、十分な証拠資料のない強盗殺人事件による逮捕を回避するための別件逮捕である、との非難もまたあたらないところである。

そして、前記のように同被告人が10月17日本件強盗殺人事件の被疑事実を自白した後、同事件についての逮捕状が(相被告人桜井昌司に対するものと同様)同月19日に発布され、同月23日に執行されている(同時に、それまでの暴力行為等処罰に関する法律違反事件についての勾留については身柄釈放)。尤も、この逮捕状執行はややおそきに過ぎるきらいはあるが、さりとて、逮捕または勾留中に別件犯行を自白した場合、別件であるという理由のみによって、その自白が違法、無効なものとされるべきいわれはなく、また本件の場合、前記10月17日の最初の自白以後強盗殺人事件の逮捕状執行までの間に作成されたとみられる被告人杉山卓男の司法警察員に対する同月21日付および同月22日付各供述調書(その取調警察官はさきの10月17日付自白調書の際とは交替している)には、同被告人の経歴、境遇、前記8月28日より以前の行動および8月28日当日の現場に到達するまでの行動等が記載されていて、直接犯行に関する供述は含まれておらず、この面から観ても、必ずしも捜査当局が当初の逮捕、勾留期間を強盗殺人事件の取調に流用しようという意図であったものとは認められない。

U、以上のような諸点を総合してみると、本件の場合、所論主張のように、被告人杉山卓男の各供述調書が違法に作成され、これを証拠とすることが許されないとするような不法な別件逮捕が行われたものとは認められず、所論にかんがみて原審記録を検討し、当審における事実取調の結果を考慮に加えても、右と結論を異にするには至らない。

なお、所論のうち、被告人杉山卓男に対し、強盗殺人の被疑事実による勾留のなされた昭和42年10月25日に同時に発された同被告人に対する接見禁止命令は、孤立した状態の中で強要された自白を維持させる意図に出たものである、と非難する部分があるが、右命令は証拠いん滅のおそれ等があるとして適法に出されたものであり、かつ前記控訴趣意第2の事実誤認の論旨に対する判断中T(11)で述べたとおり同被告人の自白には任意性が認められ、捜査官により強要された結果のものであるとはいえないので、かような非難も相当ではない。

V、結局本件における被告人杉山卓男の自白は違法な捜査に基き得られたものではなく、従って、原判決がこれを証拠として採用し、同被告人を有罪と認定する資料とした(ただし、原判決の証拠として引用する自白調書は、検察官に対するもののみである)のは、適法かつ相当であって、原判決にはこの点に関し所論主張のような訴訟手続の法令違反は存しない。論旨は理由がない。

 

 被告人杉山卓男の控訴趣意は、原判示第3の強盗殺人の事実に関し、犯行当日とされている昭和42年8月28日をはさんで、同年8月25日から9月3日に至る毎日の被告人の動静を詳細に記述し、8月28日は東京都中野区野方の光明荘アパート内桜井賢司(相被告人桜井昌司の兄)方で起きてから、午後3時ころまで同アパート内で賢司が河原崎敏に入墨をしてやるのを見たのち、付近のふろ屋、パチンコ店、映画館等に行ったのみで、またアパートに帰り、その付近を離れていないので、布川(茨城県北相馬郡利根町の犯行現場)方面へは行っておらず、自分を本件当日、現場付近またはその方面で見かけたという伊藤廸稔、角田七郎、高橋敏雄、海老原昇平、渡辺昭一、小貫俊明の証言内容は、でたらめ、ないし日についての勘ちがいがあって信用できず、自分の警察官および検察官に対する自白は、有形、無形の拷問、利益誘導による虚偽の自白であって、自分は無罪であるから、有罪と認定した原判決には事実の誤認があるというのである。

 そこで検討してみると、

T、まず、事件当日である昭和42年8月28日における同被告人の行動、すなわちアリバイに関する所論ならびに原審公判廷における伊藤廸稔、角田七郎、高橋敏雄、海老原昇平、渡辺昭一、小貫俊明各証人の供述内容およびその信用性に関する所論は、同被告人の弁護人の控訴趣意中第2の事実誤認の主張のうち右各事項に関する部分と実質的に同旨と認められるが、これに対する当裁判所の判断は、右弁護人の主張に対する判断中、これらに対応する部分と同一である。

U、所論は、さらに進んで、同被告人が本件犯行を自白するに至った経過を説明し、それは取調警察官が、

 1 桜井昌司の名前のある調書を見せて、昌司がお前とやったと言っている

 2 桜井昌司は、杉山は8月中旬までしかアパートに一緒にいないと言っている

 3 入墨したら(被告人のいうように)直ぐふろへは入れない(前日の27日にも、入墨をして貰っていた河原崎敏と桜井賢司と3人で、ふろへ行ったことを主張したのに対し?)

 4 人を殺しても、謝まったら軽くすみ、否認したら死刑になった例がある、

などと言ったので、昌司が自分を引ずりこんだと思って、やけになって自白し、被害者の口の中のパンツや、足をしばってあったワイシャツ、タオル等も教えられたとおりに言い、地図等はヒントで書き、調書は教わったとおりにして貰い、テープも言われたとおりに話した、また、一度否認した後に、検事に自白したのも、精神的に参ってしまったからである、自分には母の遺産もあり、強盗殺人をしてまで金をとる必要はなかった旨、誘導、強制による自白を主張し、その任意性、信用性をともに否定するものである。

しかし、

(1)  昭和42年10月17日に被告人杉山卓男の最初の自白調書をとったという警察官久保木輝雄は、原審証人として(第22回公判調書記載)、同被告人は同月16日暴力行為等処罰に関する法律違反罪により逮捕されたので、右事実につき取調べ、翌17日身柄を竜ヶ崎の検察庁へ送り、水海道署へ勾留になって午後3時過ぎに戻って来たので、30分くらい休ませたのち、強盗殺人の事件に関して調べたところ、30分くらいで自供した、その際、同人は、自分はその事件を知らないなどとは言わず、また、こちらから、自供の前には、桜井昌司が捕まっているとか、桜井昌司が杉山と一緒にやったと言っているとは告げていないし、桜井昌司の調書写を見せたことはない、映画の話は忘れたが、友達が入墨をした話は本人から聞いた、杉山が竜ヶ崎の裁判官から何かかわいがられたという話を聞き、やったことは素直にやった、やらないことは、無理にやったという必要はないと、さとすように話したことはあるが、白状しろというようなことは言わぬ桜井昌司の兄賢司が「杉山は8月中頃まで自分のアパートにいたが、その後は知らない」と言っていると被告人杉山卓男に言ったことはないし、謝らなければ死刑になるとか、やったと言わなければいつまでも調べるとか、現場付近でお前を見た人が2、3人いるとか、有形無形の証拠があるなとどとも言ったことはない、同被告人は、預金をしたとか、下したとかはしゃべったが、強盗までしなくとも親の金があるという言葉は聞いていない、大きな声で調べたこともない、人を殺し、否認して死刑になった例とか、謝って懲役5年ですんだ、また執行猶予になったのもある、というようなことは言わない調書は桜井のいうとおり書いてくれといわれた覚えはない、現場地図は本人のいうとおり書かせた、被害者の口中のパンツというのを教えたことはない、と述べ、所論の主張する取調に対する非難をすべて否定している。そして、同人の当審証人(第10回公判)として述べるところも、これらの点につき、実質的な差異はない。

(2)   次に、久保木輝雄の後を引継いで被告人杉山卓男の取調にあたり、同被告人の昭和42年10月21日以降の各供述調書を作成した警察官森井喜六の原審証人としての供述(第23回公判調書記載)も、自白をテープに吹込むため特に調書を読んで聞かせたようなことはないというものである。

(3)   右両警察官による同被告人の取調に立会っていた警察官大木伝の原審証人としての供述(第22回公判調書記載)も、前記両証人の述べるところと実質的には概ね同一で、食い違うところはない。

(4)   被告人杉山卓男が土浦拘置支所に一旦移監され(相被告人桜井昌司もともに)それまでの自白を翻した後に被告人らを取調べ、再び自白を得た、検察官吉田賢治の原審証人としての供述(第22回公判調書記載)も、被害者をワイシャツやタオルで縛ってあったことを被告人に教えたことはない等、前記主張とはそぐわないものである。

(5)  他方、取調の結果得られた被告人らの各供述調書の内容からも(被告人杉山卓男の弁護人の控訴趣意中前記事実誤認の主張に対する判断T(11)参照)、捜査官の取調にあたって、所論の主張するような威迫ないし強制、あるいは欺罔ないし誘導というような不法、不当な方法が用いられた痕跡はない。

(6)   本被告人は、本件の犯行日とされている昭和42年8月28日に近接しても、原判示第2の7、8記載の如く恐喝を行っているし、そのころ競輪にも相当な金額を費消していたことが十分に窺われるので、当時母の遺産はあったにせよ、他人から金をとる必要はなかったとの所論も、たやすく受け容れるわけにいかない。

V、以上説示したとおり、結局のところ、同被告人の所論主張を裏付けるものがなく、かつ、原審記録上も、当審における事実取調の結果からも、被告人の自白調書の任意性、信用性に疑を抱かせるものは発見できないのであるから、これを根拠として原判決の事実誤認を主張する論旨は理由がない

 

 以上の次第であって、論旨はいずれも理由がないから、刑事訴訟法第396条により本件各控訴を棄却することとし、未決勾留日数の算入につき刑法第21条を適用し、当審における訴訟費用は刑事訴訟法第181条第1項本文、第182条により被告人らに連帯して負担させることとして、本文のとおり判決する。

   公判出席検察官  検事 辰巳信夫、山口裕之、植村英満、沖永裕

 昭和48年12月20日

   東京高等裁判所第12刑事部

            裁判長判事   吉  田   信  孝

               判事   大   平     要

               判事   粕  谷   俊  治

 

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